第八十一話
竜也は、なんとか敵の眼を掻い潜りながらコルネホ山脈を下山していた。ログインしてから既に三十三時間が経過していた。一睡もせず、食事もとらず、敵に遭遇する事を避けるために神経を極限まで研ぎ澄ましながら行軍してきた為、意識が朦朧としていた。
しかし、現実世界では三時間も経ってはいないのだ。これは、まやかしのしんどさだ。脳内が勝手に作り出した限界に負けてなるものか。限界を超えた先へ一歩踏み込んでこそレベルは上がるのだ、と自分を叱咤激励する。
勇者育成計画のプログラムを思い返して見る。あの殺人的なしんどさに比べたら、これ位はまだましだ。まだまだ死は遠い。仮想だったとはいえ、いちど死という物を体験しただけに、そのモノがどんな物かを知見していた。限界というものは、まだまだ先にあるのだという事が分かったのだ。
—— 此処で倒れる訳にはいかない!
竜也は、歯を食いしばりながら歩を進める。
コルネホ山脈を越えれば、あとはもう目と鼻の先にサラスナポスの町がある。
最後の力を振り絞って、ようやく到着したサラスナポスの町へ入ろうとした時だった。誰かが何かを叫んでいる……。そう思った瞬間に、辺りの様子が激変した。まるで見えている景色は一緒なのに、別の次元にでも入ってしまったかのような感覚に囚われる。
緊張した面持ちで腰に佩いている青銅の片手剣に手を掛ける。もう既に限界に達しようとしていた神経が、現状の変化に喚起されて研ぎ澄まされていく。
呼吸が落ち着き、すべての音がフェードアウトしていく。集中力が一切の下界の情報を遮断していったのだ。研ぎ澄まされた感覚は、何者かが目前に出現する様を見通していた。
目前に現れたモノを見上げて竜也は眼を剝く。黄色い体躯に黒の虎縞模様の芋虫は、ノトーリアス・モンスターのレクス・エールーカだった。
—— 何故こんな所に、こんな奴が?
考えるより先に身体が反応していた。竜也は瞬時に反転すると、脱兎のごとく逃げ出していた。エレーナ達六人で戦っても、倒すのに三日間も掛かったのだ。こんなモノに勝てる訳が無い。
最初のスタートダッシュが功をなして『R芋』との距離は結構稼げていた。このまま逃げ切れるのでは? と思っていると、見えない壁にぶち当たってしまった。
その壁の向こうに人が集まっていて、何やら叫んでいる。どうやら何かのイベント的戦闘が発生しているらしかった。
迫り来る『R芋』の側面へ咄嗟に回り込む。どうやら覚悟を決めなければならない様だった。
竜也は、慎重に間合いを計りながら剣を抜き放つ。エレーナが、いったいどういう動きをしていたのかを思い浮かべる。
エレーナとコンビを組んで『R芋』と対峙していた時は、彼女がタゲを一人で取って戦闘を繰り広げていたのだ。その様子を思い出しながら側面へ側面へ回り込む。
重心を落とし、回り込む先の足元にも注意して、まずは間合いを計る事に専念しながら牽制気味に剣を斬り払う。
戦闘を意識した瞬間に現れていた敵のHPゲージが少し削れる。正確に言うと削れた訳では無く、緑色のゲージが若干薄い緑色に変化したのだ。
HPが満タンの時のゲージの色が緑色で、少しでもダメージを受けている場合は、若干薄い緑色のゲージに変化するのだ。要するに一ミリもHPゲージは削れていないがダメージは通ったという事だった。
ちなみにHPが五十パーセントを切ると黄色に、二十五パーセントを切ると赤色に変化する事をスライム等との戦闘を見てきて知覚していた。
竜也は、その変化に一縷の希望を見い出していた。異世界の『芋』の牙は、鋼鉄をも噛み砕くほどの威力があったのに、ゲームの世界の『芋』は、木製の板に鉄で補強しただけの盾をも噛み砕けないでいた事を思い出していた。
ゲームの世界のモンスターは、異世界のモノより若干弱いのだと判断する。青銅の剣でもダメージが与えられる事に胸を撫で下ろす。しかし敵のHPゲージの下に書かれている数値を見て、驚愕に眼を見開いた。
—— 一、十、百、千、万、十万の位の……。HP129999!
竜也は愕然と、その数値を見やる。途方もない数字を眼にして意識が飛びかける。
一瞬の隙を付いて『R芋』は、ボウフラのようなクネクネダンスを炸裂させた。八メートル程もある巨体が暴れると、地響きは地震と見紛う程の振動を惹き起こす。その振動に足を取られて転倒しそうになる。
竜也は、なんとか体勢を立て直すと若干後方へ下がる。素早く此方に向きを変えた『R芋』に追い付かれないように、斜め後方へ下がりながら間合いを調節して再び側面へ回り込む。
エレーナが一人でタゲを取って戦闘をしていた方法を真似て動く。なんとか上手くいったが、手応えのある攻撃でもHPは3しか削れなかった。毎分のダメージ数値を計ってみると平均で30程だった。
—— という事は……。
余りにも途方もない数字になって来て、計算が出来なかった。一日で倒せない事は確実だった。恐らく三日は掛かると思っておいた方が良いだろう。いくら異世界の本物より弱いとはいえ、交代してくれる仲間も居ず、休憩も出来ないのでは、やがて力尽きてしまう事が予想された。
それに盾も持っていないような有様では、間合いの取り方を誤れば即死も考えられる。現状は絶望的と言えた。
それでも竜也は、諦めていなかった。敵の急激な方向転換を機敏に読み取り、クネクネダンスに慌てることなく間合いを計り、微量ながらも攻撃を加えていく。
集中力は、すべての雑念を取り去っていく。疲れたとか、しんどいとか、腹が減ったとか、絶望感などの邪念を振り払うと、無双無念の境地を呼び覚ましていた。精神制御で鍛えた効果は、見た目の少ない精神力の数値に反して絶大だった。
無我の境地では、敵の動きのすべてがスローに見えた。無駄な動作を極限まで削った動きは、まるでダンスを踊っているかの如く流麗な動きに進化していった。
いったい何時間、戦っているのかも分からなくなっていた。陽が沈み、夜が明けたような感覚がある。戦闘開始から二日経ったのか、三日経ったのかすら感知していなかった。
いつの間にやら『R芋』のHPゲージは残り僅かになっていた。途中からダメージ効率が跳ね上がり、飛躍的に削りのスピードは上がっていたのだが、竜也自身はそれに気付いていなかった。
さらに一歩踏み込んで攻撃を加える。ダメージは数値になおすと5も削れていた。その分『R芋』の攻撃が間近に迫る。ミリ単位でその突進をいなす。
—— あと一ミリ踏み込める。
そうやって更に踏み込みを深くする。大暴れのクネクネダンスが炸裂して、敵の攻撃が服に掠る。
防御力の低い皮の服では、もしも当たれば大ダメージは必須だ。しかし恐れる事なく、ミリ単位のやり取りを繰り返す。
極限の集中力は明鏡止水の境地を形成し、ゾーンと呼ばれる状態に突入させていた。




