第四十九話
二時限目の授業はA班、B班入れ替わりでウエイトトレーニングだ。
竜也は元の世界にあるマシンジムに似た造りのトレーニング器具の前で一通り説明を受けていた。使い方はなんとなくだが分かっていた。呼吸方法も理解した。
しかし、ウエイトの説明が無いのが気になる。ウエイトに書かれている重さの数字も意味不明だった。
一通り取り扱いの説明を受け、実際にベンチプレスなるものをやってみる事になった。
指示通りに竜也は、恐る恐るベンチ台に仰向けに寝転がる。頭上にあるバーを肩幅より少し広めにしっかりと握る。
そのバーの両端にウエイトが乗っているのだが、三桁の訳の分からない数字が表示されていて、いったいどれくらいの重さの物なのか見当が付かなかった。
このウエイトが鉄でできていると仮定して重さを想定してみると、優に数百kgはあるように見える。こんな物を無闇に持ち上げて胸の上にでも落した日には、肋骨は確実にへし折れるだろうと思われた。
「心配しなくても安全装置が付いていますから、胸の上に落としたバーベルの重量で怪我をする心配はありません」
そのような不安の表情が出ていたのだろう、ロベリアが安心させるように説明してくれる。それでも数百kgもありそうなプレートの総重量に怖気付く。
「このウエイトの重さって何kgくらいあるの?」
「重さは分かりません」
ロベリアの返答に竜也は眼を剥く。重さの単位がkgで良かったのかと少し不安に思っていたのだが、それどころでは無くなってしまった。
「分かりませんって……。じゃあ、皆はどうやってウエイトの重量を決めているの?」
「自動でその個人に合った重さに勝手に調整してくれます」
さすがは魔法の発達した世界と言うべきなのだろうか……。竜也は取り敢えず納得する事にする。
「個人情報なので大きな声では言えませんが、タツヤ殿の場合ウエイトに表示されている数字は785ではありませんか?」
竜也は、ウエイトに書かれている数字に視線を向ける。確かに785と表示されていた。ロベリアの言いようでは、この数字は自分にしか見えていないみたいだ。たぶん個々人によって見える数字は違うのだろうと予測する。
「その通りだけど、この数字はなに?」
「タツヤ殿のSTRの数値です。お忘れなのですか?」
ロベリアは、呆れたというように溜め息を吐く。自分の体力すら7600台だという事くらいしか覚えていなかったのに、一つ一つのパラメーターの数値等は一つも覚えてはいなかった。
とりあえず最適な重量だという事を信じて、見た目は数百kgもありそうなバーベルを持ち上げる。両足を踏ん張り安定を図る。ただし腰をあまり反らせすぎないように心掛ける。その状態でゆっくりとバーベルを胸の上に下ろす。胸の筋肉を意識しながらゆっくりと持ち上げる。呼吸は持ち上げる時にゆっくりと吐き出す感じだ。
一回の動作で既にジンワリと腕の筋肉が熱くなっていた。この動作を十回も繰り返さなければならないのだ。
それでもなんとか十回の動作を終えて、バーベルを所定のフックに置いて起き上がる。重量は見た目に反して、ちゃんと今の筋力でなんとか十回が持ち上がる位の重さに調整されていた。
しかし、もう十回できるかというと微妙な所だった。この状態で魔法による回復は見込めないので、限界が来て途中で胸の上に落としてから回復という事になるだろう。落とした時点で重量が無くなってくれるのかという疑問が頭を過る。
「では、もう一セット行ってみましょう」
ロベリアの要請に、竜也は再びベンチ台に寝転がる。ゆっくりと呼吸を整えてバーベルを持ち上げる。腕がぶるぶると震えていて、とてもじゃないが十回は無理のようだった。
とりあえず一回、なんとか持ち上げる。二回目、さらに腕はきつくなり全身に思いっきり力を入れすぎて、腰を浮かせすぎてしまう。そんな状態で三回、四回と続けて五回目でとうとう力尽きてバーベルを胸の上に落としてしまった。
バーベルの重量は、その時点で既に軽くなっていて懸念していたような事にはならなかった。指一本でも持ち上げられそうな重さになったバーベルを定位置のフックに引っ掛けて起き上がる。
「いま筋肉が悲鳴を上げている箇所は、どの部分です?」
ロベリアに問われて身体の彼方此方を確認していく。
「やっぱり腕かな?」
腕は飽和状態という感じで焼けつくような痛みがある。その腕をさすりながら答える。
「それは胸の筋肉を意識してウエイトを持ち上げていないからです。腕で持ち上げるのではなく胸で持ち上げるように意識して下さい」
竜也は両隣で同じようにベンチプレスを行っている他の皆を見やる。腕立て伏せの時にも思ったのだが、胸に落としてその反動を利用してバーベルを持ち上げているのだ。
これは反則では無いのか? という視線をロベリアに向ける。
「最初の説明では胸の筋肉を意識しながら、ゆっくり持ち上げるって聞いたと思うんだけど、皆のやり方をみていたら胸にバーベルを落として、胸の弾力を利用して持ち上げてない?」
竜也は両隣で行われている方法を交互に見やり、これが正しい方法なのかと問い掛ける。
「確かに胸に落として、その反動を使う方法は反則です。これではちゃんと筋肉が付きません」
ロベリアも両隣で行われている方法を見やり溜め息を吐く。
「皆さんは、楽をなさっているだけです。正規の方法でちゃんとトレーニングをしているのはエレーナさん位なものです」
今、おもいっきり悪意が込められていたように感じたのは、竜也だけではない様だった。周りの数人が必死で笑いを噛み殺している。エレーナの場合、胸の弾力を利用しようにも胸が無いのだから利用できないだけなのだ。
竜也はサーキットトレーニングで、ちょうど腕立て伏せをしているエレーナに視線を向ける。皆が胸の弾力を利用して楽をしている中、一人真面目に腕立て伏せをしているエレーナを憐憫の眼差しで見やる。
—— 何を話しているのか、ちゃんと聞こえてるんですからね! 後で覚えてらっしゃい!
エレーナの怒りの思念が脳内に響き渡る。竜也の背筋に冷たい汗が流れ落ちる。他の曜日の二十五パーセント増しだ。
「その代わり胸が大きいと、スクワット等がしんどくなります。胸の重量は馬鹿に出来ないのです。これはエレーナさんには分かってもらえないでしょう」
これは完全に喧嘩を売っているレベルだ。エレーナの思念からは、グツグツと煮立っている怒りの波動が感じられる。竜也は、もう怖くてエレーナの方を見る事が出来なかった。
「タツヤ殿も小さいので、スクワットは楽で良いですよね」
竜也は、思わず股間を押さえてしまう。
「胸の話です。アレの話ではありません」
ロベリアも、多少顔を赤くしながら言い訳をする。
「ロベリアさん、ちょっと生徒指導室まで行きましょうか……」
いつの間にやらサバティーがロベリアの背後に立っていた。コメカミに青筋が浮きそうな様子で笑っている。何やら相当恐ろしい様相になっていた。
「今のは本当にアレの話をした訳では無いのです」
「その前にもエレーナさんに対して、大変失礼な言動を取っていましたよね?」
「あれは、その……」
ロベリアは相当慌てている様だった。
「事実をそのまま言っているだけで、嘘を言ったり間違った事を言ったりしているのではありません」
それからも何やら言い訳をしていたが、結局強制的に生徒指導室に連れていかれてしまった。
「エレーナさんを敵視し過ぎて墓穴を掘りましたね」
ジェレミーが、苦笑いを浮かべながら話しかけて来た。
「間違って無い事、イコール正しい事では無いですからね。ロベリアさんには良い薬です。それよりもトレーニングの続きを再開しましょう」
ジェレミーの視線の要請に、ドリーヌは竜也の腕に回復の魔法を掛ける。
「最初は『胸の筋肉を意識してバーベルを持ち上げる』と言われても良く分からないと思いますが、私的見解では胸を寄せて上げるといった事を意識してバーベルを持ち上げると、効果が出ると思います」
「胸を寄せて上げる……」
竜也はジェレミーのおっぱいを凝視する。
—— 寄せて上げる……。
ジェレミーのおっぱいを、両手で寄せて上げるイメージを思い描く。
さすがのジェレミーも、両手で胸をかき抱くようにして隠す。
「タツヤ殿! もう少し節度をもって下さい。あまりに放恣過ぎます。それと、寄せて上げるのは自分の胸の筋肉であって、私の胸ではありません!」
竜也は聞いていなかった。目前で両手をお椀型に形作り、仮想のおっぱいを持ち上げるような仕草をする。
「こうかな?」
横合いに居るドリーヌに真顔で尋ねる。ドリーヌは、いったい何が『こう』なのか訳が分からなかった。
「たぶん違うと思います」
さすがに、ぎこちない笑顔になる。エレーナは、こんな男と思念でいつも楽しそうに会話をしているが、いったいどんな事柄を話しているのだろうと興味が湧いてきた。この男に引き込まれている嫌いはあるのだが、よもや二人でエッチな話をしている訳ではあるまい。
竜也は、いまだに何やらブツブツと呟きながら首を捻っていた。
「やっぱり、こうかな?」
今度はジェレミーに尋ねる。お椀型に形作った両手をジェレミーのおっぱいの輪郭に合わせる。
「何がしたいのか意味が分かりません! それよりトレーニングを再開しますよ!」
竜也は、渋々といった感じでベンチ台に寝転がる。しかし、いまだにブツブツと何やら呟いていた。
「変なこと聞くけど、おっぱいって筋肉じゃなくて脂肪だよね?」
「そうです」
ジェレミーは、冷やかに答える。
「その……、エッチな気持ちじゃなくて、純粋に探究心からお願いするんだけど、おっぱいを触らせては……くれないよねぇ」
ジェレミーの更に冷やかになった視線を受けて、途中で断念する。
「私なら構いませんよ」
横合いに居るドリーヌが、突拍子も無い事を言いだした。竜也は自分の耳を疑うように聞き返してしまう。
「ただし、条件があります。私の教える格闘訓練で、私に勝てるようになる事です」
ドリーヌの申し出に、手放しで喜ぶかと思われた竜也であったが、以外にも慎重に条件を値踏みしていた。
「ドリーヌの格闘術の実力って、この学年で何番位の強さなの?」
「学年三位の実力です」
「エレーナより強いよね」
ドリーヌが頷くのを見て、竜也は更に思案に耽る。エレーナの実力は大体把握している。圧倒的な反射神経とスピードは、現在の自分がどう逆立ちしても勝てる見込みは無いのだ。その上を行くとなると、これは不可能に近いように思える。目の前にニンジンをぶら下げて、やる気を出させようとしているとしか思えない。
「ちなみに、上位二人とエレーナの順位は?」
「魔力を使わずに純粋に格闘術だけの強さで見るなら、一番はプリューマさんでしょう」
竜也はプリューマという名に聞き覚えが無かった。竜也の訝しげな表情を見て、その事に気付いたジェレミーは忍び笑いを漏らす。
「ちなみにプリューマさんは、この学院で一番胸が大きいのですよ」
竜也は衝撃のあまり固まってしまった。おっぱい鑑定三級の名に懸けて、この学院で一番大きなおっぱいはロベリアだ。
しかし、視界に映るジェレミーの後ろで、アームカールなる器具で上腕二頭筋を鍛えている女性が嫌でも眼に入る。
腕の太さは、通常の女性の三倍は軽くある。気持ち悪い程に発達した広背筋は見事な逆三角形を作り出していた。荒縄を捩ったような全身の筋肉に血管が網目のように浮き出ている様子は、世紀末漫画に出て来る登場人物を思わせた。
鞴のような呼吸と共に分厚い胸板が大きく上下しているのだが、あれは大胸筋であって決しておっぱいでは無い。
竜也は首を左右に振った。前々から視界の隅には入っていたのだが、淑女の、乙女の、気品あるこの学院にバイオレンス風の女性がいる事を認めたくは無く、あえて見て見ぬ振りをして来たのだ。
「二番はロベリアさんですね」
その言葉にも竜也は眼を見張る。
「ロベリアさんは、出席ポイントが無くて成績が悪いだけで基本性能的には、この学院で並ぶ者なき強豪なのですよ。魔法は得意ではない様ですが、それでも魔力はエレーナさんをも上回っている程です」
水晶球でロベリアの体力や精神力を見た事があり、その飛びぬけた数値を目の当たりにしているだけに納得はいくのだが、やはりそこまで強いようには見えない。エレーナの方が、よっぽど強そうに見える。
「そして、エレーナさんの順位は八番か九番位です」
竜也は、今度こそ本当に驚愕に眼を見開いたまま固まってしまった。まさかエレーナが、これほど順位が下だとは思ってもみなかったのだ。
「エレーナさんは魔術の鬼才です。純粋に魔術だけの戦いなら、この学院でトップの座に君臨します。ですが魔法も剣も使えないとなれば、伯爵位の血筋の平均能力を下回る程の力しかありません」
竜也は、衝撃の事実に二の句が継げないでいた。エレーナは、絶対的強者だと思っていただけに、かなりショックだった。
「とはいえ、エレーナさんが弱い訳ではありません。練習では、ここぞという時の武器がある者の方が強いのです。
これは過去のデータ等から相手の得意技や苦手とする物など、ありとあらゆる情報を分析されて行われる情報戦となるからです。
相手の戦術に対してどう攻めてどう守れば良いかが、およそ確立されていて決定打に欠けるからです」
ジェレミーは、そこで一旦言葉を区切り、竜也の様子を見やる。
竜也はベンチ台に寝転んだまま、朧気な表情で頭上に立っているドリーヌの下乳を眺めていた。
絶対的強者と思っていた主人が、そうでなかったという事実にショックを受けているのであろうと思い、フォローを入れようとしていたジェレミーは、頬が引き攣るのを禁じ得なかった。
説明を止めようかとも思ったが、竜也は心ここに有らずという感じで、無意識に漠然と下乳を眺めているだけの様だった。
ジェレミーは、心の中で溜め息を吐いて詳説を再開する。
「一方、本当の戦闘では、欠点の少ない者が生き残り易いのです。特に初見では、敵の長所も短所も分からない場合がほとんどなので、その傾向は強まります。
偶発的な事故死が少ないのも欠点の無い者の特徴です。いくら強力無比な武器があっても倒されれば終わりです。
因って、圧倒的な動体視力と反射神経、スピードを持ち、あらゆる武器を使いこなし、そして魔法もオールマイティーに使いこなすエレーナさんは、欠点が少ない屈指の強者と言えるでしょう」
竜也は、いまだにドリーヌの下乳を眺めながら思案に耽っていた。
「皆はこれだけトレーニングをしているのに、全然筋肉質じゃないよね。ちょっとだけで良いから……、二の腕でも良いから触らせてよ」
竜也は、ジェレミーの話を全く聞いていない様だった。ジェレミーの顔が見る見る怒りの様相に変わっていく。
「タツヤ殿、トレーニングを再開しますよ!」
ジェレミーの様相に気付いた竜也は、慌ててバーベルのバーに手を伸ばした。
その様子を眺めながらドリーヌは、この男がいったい何を考えているのか、探ってやりたくて仕方なくなって来た。しかし、その行為は親友であるエレーナを裏切る行為に当たる。使命で行う行為とは訳が違うからだ。親友と男のどちらを取るかを天秤に掛けて思い悩む。
—— 味見くらいなら、エレーナも許してくれるよね?
ドリーヌは、エレーナの独占欲の強さを分かっていなかった。




