第三十二話
竜也が、セント・エバスティール魔法学院を出る事は初めての事だった。
この世界に来て既に十三日の日数が過ぎていた。たった二週刊程度と思うかもしれないが、ただ漠然と過ごして来た元の世界と違い、此方の世界では日々濃密に過ごしているのだ。時間の感覚が全く違っていた。
そのため非常に長い時間を、此方の世界で過ごしているような感覚に囚われていた。
元の世界の出来事など、今までハッキリ覚えていた事柄が、不意に思い出せないでいる事に愕然とさせられる事がある。その分、此方の世界の知識は増えてはいるのだが、いまだ完全に今の状況を納得して受け入れている訳ではなかった。
半信半疑だったこの世界……。この学院の外の世界を見る機会を与えられ、竜也は初めてニルヴァーナ・オンラインにログインした時の事を思い出していた。
学院が建つ小さな丘から見える景色は、ゲームで見た草原では無く盆地で地平線は見えない。遠くまで連なる山々に囲まれていて、そのふもとに小さな町がり、その周りは広大な畑が広がっている様子が見て取れた。
景色は全く違ったが、それでもゲームにログインした時に感じた、大自然の懐かしく心が落ち着く感覚は一緒だった。
竜也はチラリと腕にはめられた呪われた腕時計に視線を向ける。現在の時間は丁度十三時だ。デジタル式にアラビア数字で表示されているのだが、これをアナログ式に脳内変換する。短針を太陽の方角に向け、文字盤の十二時と短針の間が南だと推測する。
「方角は、あっちが南?」
さきほど腕時計で推測した方角で合っているか聞いてみる。
「そうです」
エレーナが端的に答える。
色々検証しないといけないが、もしかしたら元の世界での計り方が通用するかもしれなかった。
竜也は、学院のある丘から東に下った所にあるサラスナポスの町並みを見やる。
「ちなみに、この世界の方角は東西南北だよね?」
聞き方が逆になってしまったが、曜日での一件もあるので、いちおう確認してみる。
「そうです。北があっちで東はあっち。西はこっちです」
エレーナが指し示す方角は、現実世界のものと一致している。
「じゃあ、知らない場所で方角が知りたい時はどうしてるの?」
「精霊の気配で見当を付けます。例えば今日は氷曜日で氷の精霊力が優位に立っていますが、翌日の精霊の力が必ず東側に感じ取れるのです。明日が火曜日なので火の精霊力が強い方角を探すと東が分かる仕組みです」
地球と同じで、この星が丸いと考えれば理屈に合わなくなる。しかしそれを言い出したら、時間は何を基準に算出されているのか? とか疑問だらけになるのでスルーする事にする。なんといっても魔法が実在し、精霊が居る世界なのだ。
しかしこれでは、精霊と交信できない者には使えない技だ。そう思い落胆していると、ロベリアが不意に手を差し出してきた。
「手を差し出して下さい」
怪訝に思いながらも竜也は手を差し出す。ロベリアは、その手の平に見えない何かをそっと乗せるような仕草をした。
「氷の精霊です。気配を感じ取れませんか?」
竜也は手の平を、まじまじと見つめる。何も見えない。重さも感じない。訝しみながらロベリアを見やる。
「まずは見えなくても、そこに精霊が居ると思って話し掛けてみて下さい。話し掛けている内に、相手が呼応して来るようになります」
ふたたび手の平に視線をもどす。相変わらず何も見えないし、何も感じ取る事は出来なかった。
意を決して話し掛けてみる。なんの反応もない。しばらく色々と話しかけてみるものの、やはり何の反応も返って来ない。実際に居ない者を居るように振る舞っている内に、なにか自分が中二病を患っているかのような気恥ずかしい気持ちになってくる。
「雪女を出してよ。あの氷の女王様なら、色々お話してみたいな」
「あれは氷の精霊獣であって、氷の精霊ではありません」
エレーナは、竜也のにやけ顔に冷たい視線を向ける。何を想像しているのかは、心を読むまでもなく察しは付く。
「今日は氷曜日という事で、氷の支配力が強いわけですが、他の精霊達が居ない訳ではありません。すべての物、場所に精霊はいます。才能にもよりますが、じきに精霊の気配を感じ取れるようになる筈です」
ロベリアの説明は、まるで八百万の神の説明のようだ。もし元の世界で同じような事を聞けば、宗教はお断りだと聞く耳を持たなかった所だが、実際に魔法を目の当たりにしているだけに説得力はある。
仕方がないので、再び手の平に載せている氷の精霊に話しかける。学院を出て、緩やかな下り坂をおりきると、やがて小さな町並みの様子が見受けられた。
赤茶色の煉瓦を積み上げて作られたレトロ感あふれる家々は、まさに中世ヨーロッパという感じの装飾感あふれる造りだった。
大小様々な平たい石で舗装された石畳の中央道の両脇には、色々な露店が並び、そこに群がる人々で活気にあふれていた。
学院の外の世界の人々を目の当たりにして、竜也は大興奮に見舞われていた。町の様子に視線を彷徨わせ、道すがらずっと話し掛けていた氷の妖精と交互に見やり、この妖精をどうしたら良いのか尋ねてみる。
「実はタツヤ殿が最初に話しかけるよりも前に、氷の妖精は何処かへ飛び去ってしまったので、ずっと手の平には何も居ませんよ」
ロベリアの事も無げな発言に、一同はとうとう堪え切れなくなったという感じで忍び笑いを漏らす。瞬時に飛び去っていった精霊に気付く様子も見せずに、ずっと話しかけていた竜也を、皆は笑いを噛み殺して見ていたのだ。
—— ひどすぎる。これはいじめだ……。
憤然としている竜也の様子に、度が過ぎてしまった事を感じ取ったエレーナは、近くの露店からホットドックのような物を買って来て、竜也に一つ渡す。
「悪乗りが過ぎました。これで許して下さいね」
竜也はホットドックを受け取りながら、つい先程、昼食を文字通り山ほど食べたばかりなのに、まだ食べるのかと呆れ返る。エレーナの手には、特大のホットドックが四本も握られているのだ。
これだけいつも食べていて、なぜ皆は太らないのかが不思議だ。エレーナの場合は、なぜ胸に栄養が行かないのかが謎である。
その思考を読んだエレーナの隠密肘鉄が、竜也の鳩尾を襲った事に気付いた者は、誰も居なかった。
しばらく町中を進んで行くと鉄床の絵が描かれた看板が下がった店にたどり着いた。異世界に行っても鍛冶屋の象徴として一発で識別できる便利な絵だ。
一行は、その店に入って行った。
中の様子は、すぐ目前にカウンターがあり、一人のおばさんが店番として立っていた。愛想よく皆を出迎えてくれる。
竜也は物珍しそうに店内の様子を眺めた。ガラスで出来たカウンターにディスプレイされている様々な形の短剣に目が留まる。柄の部分に宝石がちりばめられた装飾用の剣らしかった。その素晴らしい出来栄えに思わず見惚れてしまう。その下に書かれた数字を一生懸命数える。
ちなみに、この世界の通貨の記号は『G』これでゴールドと呼ぶらしい。安直で覚えやすくて何よりだ。
「エレーナ。この短剣二百万Gって高いの?」
相場を全く知らない竜也は、エレーナに問い掛ける。
「タツヤが一年間、休まずに朝から晩まで働いて、やっと買えるくらいかしら……。そんな装飾品は要らないのよ」
エレーナは店の奥へ入って行く。ディスプレイされている武器以外には、壁に飾られている大剣が目に留まる。薄い水色に輝く大剣は、微かにモヤのような冷気を放っていた。素早く値段を確認して絶句する。六億Gもするのだ。ロベリアが持っている剣も、多分これくらいするのだろうと予測する。
店の奥には、鎧や盾が飾られている部屋があった。きらびやかな装飾が施された鎧は一千万G。同じ類いの盾が六百万万G。そして何故か白いパンツが八百万Gで売られていた。
更に奥の部屋へ向かう。次の部屋は、装飾がない実用一点張りの武骨な武具がずらりと並んでいた。値段も手頃……かどうかは分からないが、前の部屋の物に比べたら格段安い物が目に付く。
そこでようやく一同は足を止めた。各々が手分けして鎧を見繕いだす。
竜也も適当に、様々な鎧を見て回る。素材も鋼鉄から柔皮まで色々だ。用途別に鎧の種類や形状も変わってくるのだろうが、そこら辺を全く分かってないので、何が良いのか分からない。皆が持ってくる鎧を試着して回る。
その中で良さそうな鎧は板金の胸鎧だった。擦り傷だらけで光沢も失われていて、中古品丸出しだが、大きな損傷も無く値段も手頃だと言われた。ちなみに値段は十五万G。やはり高いのか安いのか判断が付かない。
ジェレミーが、学院から予算を十万G引き出させていて、残りの五万Gをエレーナが負担することになった。
その五万Gの出費だけでも、エレーナは心の中で涙を流していた。彼女の貯金のほぼ全額が消えてしまうからだ。しかしあまりケチる訳にはいかない。この鎧に竜也の命が掛かっているからだった。
鎧を購入して店を出る。竜也は、この世界に飛ばされた時に身に付けていた皮の服の上から板金の胸鎧を装着した。盾や剣といった類いの装備は学院からの貸与品だ。
「確かゴズの森って、最近新しく地下迷宮が発見された筈ですよね?」
エレーナは、自分の財布の中身を見ながら涙目で呟く。学院の先生達も時々ゴズの森の地下迷宮に潜っていると聞いた事がある。旧世界の遺産がまだまだ多く眠る遺跡群だ。
「目的を履き違えてはいけませんよ。私達は、タツヤ殿の訓練を兼ねてジャイアント・キャタピラーの卵の採取に行くのが目当てなのですからね」
「分かっていますけど……」
ジェレミーの苦言に、エレーナは財布を逆さに振ってみせる。小遣いがもらえるまで後一週間もあるのだ。その間、僅かな小銭では御菓子も満足に買えはしない。
まぁ、一週間のあいだ山籠もりなのだから、お金があったところで仕方がないと自分に言い聞かせる。
サラスナポスの町を一刀のもとに横截している中央通りを東に向かって歩いていくと、やがて町はずれに出る。目の前には雄大な山々の連なりが見て取れる。この山を登り尾根を稜線に沿って北へ二十キロほど移動し、西に下った所にゴズの森があるのだ。
一同は、目前にそびえるコルネホ山脈を見上げる。そして、お互い顔を見合わせて決意を新たに山へ踏み込んで行った。




