第十七話
竜也は朝というには遅く、昼というには早い中途半端な時刻に眼を覚ました。気怠げに、のろのろと上半身を起こす。
ここ最近は、ずっと図書室に籠りっきりなので身体がだるい。元気よく跳ね起きをする気力も沸いてこない。
のろのろとベッドから這い出ると、大きく伸びをする。首を回し、手首を回し、腰を捻る。屈伸をして、アキレス腱を伸ばすと、枕元に立て掛けてある青銅の剣を手に取る。
そのまま頭上に振り上げると天井に当たってしまうので、横一文字に持ち頭上に振り上げる。そのまま身体を後ろに反らし、剣の重さでバランスを崩して踏鞴を踏む。
完全に身体がなまっている。運動不足を解消する為、今日は地下迷宮に行く事にする。どうせ地下迷宮で感じた違和感を、解明しに行かなくてはならないと思っていた所なのだ。
ベッドの上に剣を放り投げると、頬をピシャリと張り気合を入れる。もう一度、斬られたら血が出る事、痛みがある事、死んだら経験値数パーセントを失って何処ぞの神殿で復活するという事は、絶対にあり得ないと強く肝に銘じる。
昨日の放課後に、エレーナに用意してもらった寝間着の短衣から、皮の服に着替える。
ブランチは昨日の夕食の残りのシチューとステーキが山のように残っていた。
その山のような料理を見やり、溜め息を吐く。
昨日エレーナと別れた後、夕刻まで図書室に籠っていたのだが、図書室が閉まる直前にジュリアから夕食の差し入れをもらったのだ。ここ二日ほどは、三食のほとんどを彼女に食べさせてもらっている様なものだった。
その代わりと言っては何だが、彼女には旧世界の文字、要するに日本語の漢字を教えているのだ。
有り難くシチューを頂きながら談笑している時だった。そこにエレーナがやって来たのだ。彼女もまた夕食を用意してきていた。
三人の顔が一瞬で凍り付く。竜也は、浮気現場を見咎められたかのように慌てふためいた。
気まずい雰囲気の中、三人で夕食を囲んで食べた。
喉に食べ物が通らず、竜也はいつもの半分の量も食べられなかった。
『タツヤの主人は自分なのだから、これからは食事など一切の世話は私がする』と言い張るエレーナと『旧世界の文字を教えてもらっているお礼に』と譲らない二人の板挟みにあい、竜也はオロオロと慌てふためいていた。
ハーレム状態を楽しめるような余裕は、微塵も存在しなかった。
ジュリアは、どんな事をしても旧世界の文字の解読の為に、放課後から下校時間までのわずかな時間だけでも竜也と過ごしたいと考えている様だった。
エレーナの心は、やっかみや嫉妬に支配されていて、竜也の誠意ある訓諭にも耳を傾ける事は無かった。
その時のエレーナの心境を読み取った竜也は、いつも優等生として、全生徒のお手本として振る舞っているエレーナの苦悩と心の闇に触れたような気がした。
竜也は、溜め息を吐きながらステーキとシチューを公平に食べた。十五年間も彼女が居なかった竜也には、このような修羅場的状況に、どのように対処したら良いのか全く思い付かなかった。
ブランチが終わると、ベッドに放り投げていた青銅の剣を腰に佩く。
陰鬱な気持ちを振り払うように再び頬を張る。大きく深呼吸した後、瞑目する。一切の邪念を振り払うと明鏡止水の境地を呼び覚ます。
エレーナに教えてもらった精神制御の方法だ。しばらくして心が落ち着いてきた所で眼を開け、宿直室を出る。中途半端な時間帯という事で廊下に人影は無かった。
ジュリアにもらった水晶時計をチラリと見てみる。あと少しで一時限目が終わりそうだった。
保健室、図書室を通り越して階段を下りていく。地下迷宮につながる螺旋階段を下り切ると竜也は立ち止まった。
ここからガラリと雰囲気が変わっている。皮膚の表面がチリチリと泡立つような感覚にブルリと武者震いが起こる。やはり恐怖は拭い切れてはいない。
竜也は、入口のすぐ横にある部屋に視線を向ける。その部屋に掲げられているプレートを見上げる。フラクトゥールのような文字は読む事が出来ない。
前回はこの部屋を無視したのだが、今回はこの部屋も調査してみる事にする。
部屋の扉は引き戸で、鍵も掛かってなさそうだった。
中世ヨーロッパ建築としては、引き戸は珍しい。学院の全ての扉が開き戸なのだ。
この中は特別な何かがあるのかもしれない。竜也は、左右を見回し用心しながら扉に近付くと、そっと扉を引き開いた。数センチ開けると中の様子を窺う。なんの気配も感じ取れない事を確かめると、ゆっくりと扉を開け中に入る。
後ろ手に扉を閉め、中の様子を探る。中は教室の広さ程の部屋だった。奥にもさらに部屋があるらしく正面に扉が見て取れる。右手の壁一面に、蜂の巣のような六角形の穴が開いている。好奇心から、その穴を調べてみる事にする。
ハニカム構造のボックスの中には、綺麗に折りたたまれた布のようなものが仕舞われていた。壁一面のボックスのうち、三分の一くらいの割合でその布が収まっている。
竜也は、その布を一つ取り出そうとする。手に取って見たところ、足元に何かが落ちた。その小さな布切れを拾い上げて広げてみる。
逆三角形の形をしたこれは……。
一瞬、全ての動きが静止した。魔法にでも掛けられたかのように身動き一つできない状態の中、唐突に人の気配が感じ取れた。その騒めきは徐々に此方に近付いて来る。
竜也は、慌てふためいて隠れる場所は無いか辺りを見回す。部屋の片隅に清掃用具入れのボックスを発見する。ひと一人くらいなら余裕で入れる大きさのそれに、竜也は身を忍ばせた。
その途端、部屋の中にゾロゾロと人の集団が入り込んで来た。鎧を着込んでいる者、制服である純白の長衣ではない灰色の長衣を着込んでいる者など様々だ。
竜也は、小さな通気口の穴から外の様子を窺い見る。
「ヘメロさんの幻惑魔法、かなり威力が上がりましたわね」
「サフラムさんの最近使い出した拳法って、使い魔の特殊技ですの?」
「レイラさん。コタロウちゃんを、いつまでも彼氏に引っ付けておかないで、こういう時には敵の様子を探るとかに使って下さい」
皆は、色々お喋りをしながら着替えだす。
「最近、急激に胸が育っちゃったものだから板金の胸鎧がきつくて……」
「ナターシャさん凄いですね。どうして急激に育ったのです? 何か胸を大きくする秘訣でもあるのですか?」
ナターシャは板金の胸鎧を脱ぎ捨てると、手の平を団扇がわりにヒラヒラと振って顔に風を送っていた。汗で濡れた短衣は透けて胸元に張り付いている。
竜也は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
ドリーヌが、長衣を脱ぎ捨てる。その下はピンクのベビードール姿だった。しかもシースルーで、そのメリハリのあるムチムチボディーが透けて見える。ガーターベルトとストッキングの組み合わせは、ジュリアの核弾頭を遥かに凌いでいた。
—— おおおおお……。
竜也は、次々に鎧や長衣を脱ぎ捨てていく様子をつぶさに観察していた。左手に握りしめられているモノの存在からして、着替えは全ての衣類に及ぶと思われる。もしかしたら、これまでモザイクでしか見た事の無かった秘密の花園が拝めるかもしれないという思いに、期待と興奮が高まっていく。万が一、見えてしまったらゲームの世界ではないという事も確定する。これは激アツだ!
—— もう少し、もう少し! おおおおお……お?」
既の所で、なにか白い物体が視界を遮った。誰かが竜也が隠れている清掃用具入れの上にタオルを置いたのだ。垂れ下がるタオルの一端は、見事に通気口を塞いでいた。
—— これはひどい、これならまだモザイクの方がマシだ。
竜也は心の中でぼやきながら、他に覗けるような穴は無いか、身体が動かせる範囲で確認していく。
その時だった。凄まじいばかりの怒りの思念が、竜也の脳裏に雷鳴の如く轟き渡った。
エレーナの物である事は瞬時に理解した。興奮のあまり強い思念を発してしまっていたようで、エレーナに感知されたのだろう。
竜也は顔面蒼白になった。眼と鼻の先で桃源郷のような光景が展開されているであろう事は、乙女達の嬌声から推し量れたのだが、もはやそれを楽しむ余裕は無かった。
やがて、全員が着替え終わったのかゾロゾロと部屋を出て行く。
「あらエレーナさん、まだ着替えてないのです?」
「え、ええ……」
「先に行っていますわよ」
エレーナを除く最後の一人が部屋を出て行くと、部屋の中はシーンと静まり返った。
竜也は、エレーナの激怒の思念を読み取り、首を竦めていた。
「タツヤ! 出てきなさい!」
竜也は、清掃用具入れの中から及び腰で出ていく。
「こんな所で何をしているのですか?」
エレーナは、氷のように冷たく言い放つ。
「地下迷宮の探検を……」
「ここは女子更衣室です。表のプレートにちゃんと書いてあるでしょう」
「あのフラクトゥールのような文字? あれは読めないよ」
エレーナは、竜也の眼をじっと覗き込む。どうやら本当である事を確認すると、小さく溜め息を吐く。
「とにかく返しなさい」
竜也は小首を傾げる。
「それは私のです。返しなさい」
竜也は、いまだに左手に握りしめられているモノの存在に気付く。左手を少し持ち上げて視線を落とす。まじまじと、それを凝視する。偶然にもエレーナの物を拝借していたようだ。万が一エレーナ以外の人の物を拝借してしまっていた場合、間違いなく騒動になっていたと思うと背筋がゾッとする。
「早く返しなさい!」
「そんな! 僕はまだ匂いも嗅いでないんだよ!」
エレーナが困惑気味に眉根を寄せる。何を言っているのか理解不能という表情だ。
竜也は、素早く左手を鼻先に持って行く。
どういう反射神経をしているのか、エレーナはその左手首を素早く捕まえると鼻先から遠ざけた。そのまま流れるような動作で竜也の左手を、身体を巻き込むようにして左手側の小脇に抱え込むと、両手で握り締められた指を開きにかかる。
エレーナの力は圧倒的だ。このままでは瞬く間に取り返されてしまうだろう。
竜也はエレーナの長衣の裾を掴むと、思いっきり頭上までたくし上げた。そのままスカート巾着の要領で顔に巻き付けて首を絞めにかかる。
エレーナは、巻き込んだ腕を更に巻き込みつつ足を引っ掛ける。倒れ込む竜也の上に体重を乗せて一緒に倒れ込んだ。
竜也は、潰されたカエルのような悲鳴を上げていた。
エレーナは、素早くマウントを取ると竜也の左手の指を開かせにかかる。
その時だった。急に扉の外が騒がしくなった。
二人は驚愕の表情であたふたと慌てふためく。乱闘に気を取られていた二人は、人の気配がすぐ近くまで来ている事に、まるで気付いていなかったのだ。
エレーナは、竜也を伴って清掃用具入れに逃げ込んだ。
その瞬間、入口の扉が開きゾロゾロと人が入り込んで来た。次の授業が、地下迷宮での戦闘訓練の生徒達だろうとエレーナは予想した。
二人は気配を殺して、じっと外の様子を窺う。
—— エレーナは、ここに入って来なくて良かったんじゃないの? そのまま着替えて、ここを出て行っても何も怪しまれなかった筈だよ。
—— 貴方を一人残して行ける訳ないでしょう。一人で残ったら必ず覗き見するでしょう?
—— エレーナが居たって覗き見するけどね。
竜也は、通気口へ視線を持って行く。たぶん二年生の集団と思われる女生徒達が着替えをおこなっていた。
—— おおおお、やはり此方の世界の娘達のおっぱいは凄いね。
エレーナは、物音を立てないように苦労して片腕を引き抜くと、竜也の頬をつねりながら視線を通気口から外させる。
—— 普通、この密着状態でドキドキするのは私にでしょう?
竜也は、エレーナに視線を送る。そのまま視線を下げる。
二人は抱き合ったような状態で清掃用具入れに入っている。一人では余裕だった広さも二人では窮屈で身体は密着している。しかし胸に圧迫感は感じられない。
—— この状態で、おおお! 胸が当たってる! とかいうシチュエーションならともかく、この状態は本当に残念だよ。
竜也は溜め息を吐きつつ、またしても通気口に視線を持って行く。
—— おおおお、凄い。凄すぎる……。
すかさずエレーナは、竜也の頬をつねり上げながら視線を外させる。
—— まって! 今ホントに良い所なんだから!
エレーナは、竜也の抗議を無視して通気口側に自分の身体を持って行った。これで竜也が覗き見する事は出来なくなった。
ちょうど身体をずらした時、腰に何かが当たった感触があったので視線を落としてみる。それは竜也のアレだった。可愛かった筈のアレは狂暴化していた。
エレーナは戸惑いの表情でそれを見やる。想像では、あの形がそのまま大きくなるものだと思い込んでいたのだが、狂暴化したソレは明かに形を変えていた。その形を、あれこれ妄想してみる。どうも想像の範疇を超越してしまっているソレは全く架空の物体に変容していく。
ふと竜也が、此方を見ながらニヤニヤしている事に気付く。心を読まれていた事に赤面しながら狼狽える。
—— 見たい?
—— そんな事は……。
無いと言ってしまえば嘘になる。
—— エッチな気持ちじゃなくて、純粋な探究心で見たいと思っただけです。
言い訳で逃れようとする。しかし逃がしてはくれない。
—— 探求心? 好奇心の間違いでしょう? 表じゃ優等生の顔をして清楚に振る舞っているけど、本当はエッチな事に興味津々なんでしょう?
エレーナは何も言えないでいた。顔は火を噴き出しそうなほど真っ赤になっていた。
—— 僕も見てみたいな。エレーナって胸は残念だけど、その他は完璧なんだし凄く興味をそそられるよ。
エレーナは、急激にドキドキ感が高まっていく様を感じ取っていた。密着状態である事に、今更ながら恥じらいが湧いてくる。
通気口を塞いでしまった事は、間違いだったかもしれなかった。外へ向けられていた意識が全て自分に向けられている事に、エレーナは言い知れぬ快感を覚えていた。
竜也は、悪戯心で腰を少し動かす。狂暴化したソレは、エレーナを直撃した。
「あんっ!」
思わず声が漏れてしまう。腰が大仰なほど跳ね上がる。その瞬間、清掃用具入れの中に吊るされていたモップが盛大な音を立てて落下した。
女子更衣室で着替えをおこなっていた二年生の生徒達は、不審な物音に辺りを見回す。先程までお喋りをしながら楽し気に着替えをおこなっていたのだが、その喧騒が嘘のように静まり返る。互いに顔を見合わせ、清掃用具入れを怪訝そうに指差す。
勇気ある一人が、そっと清掃用具入れに近付いて行く。
エレーナと竜也は、清掃用具入れの中でパニックになっていた。思念での言い争いは、人が近付いて来るにつれ、意味不明の叫びとなり絶望となっていた。
—— ガチャ……。
清掃用具入れの扉が開かれる。二人は抱き合ったまま放心状態になっていた。
「きゃーーーーっ!」
二年生の生徒達が、一斉に悲鳴を上げる。
エレーナは、乾いた笑い声を上げていた。もはや笑いしか出て来なかった。この世の終わりだとか、地獄の業火だとか色々考えていられるだけ余裕があったのだ。もはや何も考えられず、意味不明の乾いた笑い声だけが虚無の心から発せられていた。
その様子を竜也は心配気に見やる。とうとう壊れてしまったようだ。心に忍び寄る黒い影に誘われ、エレーナの魂は奈落の底へ吸い込まれるように落ちていった。
竜也は、やりすぎてしまった事を反省し、左手に握りしめていたモノをエレーナにそっと返した。




