28. 誘惑
五日後――。
「ご来訪頂き恐悦至極に存じます。火界第一関所長官ハバスに御座います」
「ええ、覚えているわ。久し振りね、ハバス。出迎えご苦労様」
正午より一刻程前、火界中央部に設けられた関所に天軍の精鋭数名を従えた日神カンディアが現れた。来訪の目的は砂神ブレスリトの身柄の引き取りである。火界と天界を繋ぐ〈関門〉の前で立ち止まった《日》の《顕現》神は、天翔ける太陽如く四方を見渡して神気を探る。然る後に予想外の存在を発見し、彼女は形の整った朱色の眉をぴくりと動かした。
(アエタが来ているのか。ヴァルガヴェリーテが居るのは予想通りとして、他の二柱は――)
そこまで考えて、ふと違和感に気付く。渾神の気配が近過ぎるのだ。意図的に神気の放出を抑えているらしく、うっかり騙され掛けたが、相手は日神の直ぐ側にいた。彼女は視界を自身の周囲に戻し、首を動かした。間を置かず、数歩先の柱の陰から衣の端が覗いているのを見付けて動きを止める。すると、相手も日神に気付かれたのを知った様で、何故か片手のみをにゅるりと伸ばした。
「うん?」
渾神の行動の意味が分からず、日神は首を傾げた。周辺にいる火界の官吏達も疎らに動揺の声を漏らして後退りする。
ややあって、柱の陰から伸びた白い手は上下運動を始めた。一見して手招きと分かるが、位置の都合で日神の方を向いていない。そのずれが一連の行動を少しばかり滑稽に見せていた。実際、直後に発せられた渾神の言葉も冗談めかしていた。
「ちょいと、そこのお姉さん。こっちへ寄っといでよ。良い話があるよ。寄っといで」
明らかに小馬鹿にした態度に苛立ちを覚え、日神は相手を懲らしめてやりたい気分になった。彼女は利き手を肩の高さに掲げ、掌に小鳥の卵程度の大きさの透明な球体を出現させる。次にそれを柱の横辺りへ向かって投げた。軽快な音を立てて床石へぶつかった球体は、跳ね返った瞬間に目を焼く様な閃光を放つ。同時に「うわ、眩しっ!」と言う声が響いて、両目を抑えた渾神が転がり出てきた。
日神は靴音を威圧的に鳴らして渾神へと歩み寄る。そして、腰に手を当てて彼女を見下ろした。
「そっちから姿を見せるなんて、良い度胸してるじゃないの」
片や渾神は床に寝そべったまま文句を付ける。
「本当に大事な話なんだって。暴力はんたーい!」
「信じられるものですか」
日神の目付きが塵を見る時と同じになった所で、様子を窺っていたハバスが躊躇いがちに「あの……」と声を掛けた。顔色は悪い。一番見られたくない悪事を見られてしまったという反応だ。日神は深々と溜息を吐いて、こう返した。
「弁明はペレナイカにしてもらうわ。貴方達については、今この場では断罪しない。その権限もないしね。ただし、後々までは保証出来ないわよ。分かるわね?」
「勿論で御座います。寛大な御処置、痛み入ります」
火界の官吏を代表したものであろう返事を聞いた日神は頷き、徐に上半身を起こした渾神へと視線を戻す。そうして相手に逃走する気配がないのを確認すると、彼女は顔の向きを変えないままハバスに告げた。
「悪いのだけれど、砂神を連行する前にまずこの女を事情聴取させてもらうわ。一室用意して頂戴」
だが真っ先に応じたのは、火界の住人ではなく渾神だった。
「部屋なら既に私が用意しているわ。付いて来て」
「罠?」
「そんな分かり易いことはしないわよ。後は頼める?」
渾神がハバスに尋ねると、彼は物問いたげに日神を見詰める。すると、日神は深々と溜息を吐きつつも「それで構わない」と言い、ハバスは渾神の方へ向き直って「畏まりました」と答えた。途端、渾神は満面の笑顔になる。そして、日神の背中を押しながら〈関門〉のある部屋を出た。天軍兵も黙したまま付き従い、室内には困惑の表情を浮かべた火界の住人だけが残された。
◇◇◇
渾神が手配していた部屋へ到着すると、日神は部屋の中央にある長椅子に腰を下ろし、腕と脚を組んだ。椅子の正面には応接机とその向こう側に同じ大きさの椅子があり、渾神は向かい側の椅子に座る。室内には火精の侍女が二人待機していたが、女神達が着席したのを確認して、机上に置かれた資料を避ける形で茶器を置いた。それから程なくして侍女達は渾神の命により退室し、日神は漸く口を開いた。
「で、今回は何をしたの? 外に居る魔神達も貴女が連れて来たのかしら?」
不躾な問いに渾神は苦笑する。
「魔神は勝手に付いて来たのよ。狙われてるの。だから、匿ってもらう代わりにペレナイカの抱えてた問題の解決を手助けをしたって訳」
「鍛冶の種族の件には全く関与していないと?」
「同行者が巻き込まれただけで、原因とはなっていない筈よ。それより、そろそろこっちの話も聞いてもらいたいのだけど」
「今は私が質問する番」
「聞いてよお」
渾神が眉尻を落とすと、日神は忌々しげに舌打ちをして「邪神の讒言なんて」と呟いた。余程渾神のことが信用ならないのだろう。にも拘らず、彼女を尋問――つまりは多少なりとも言葉を聞く意思は持っている。常に天帝の側にあって数々の修羅場を超えて来た女神であるから、見過ごしてはならない異常が潜んでいるのを直感的に見抜いたのかもしれない。
渾神は机上に置いていた紙の束を手に取り、日神へと差し出した。
「事実確認は後でペレナイカかアエタにでもすれば良いわ。資料も持って来たから、まずは見て」
不信感を内包した無表情を曝け出したまま日神は暫く動かなかったが、やがて眼前にある書類を受け取り目を通し始めた。
全ての書類を確認し、最後に〈封音器〉で記録された音声を聞き終えると、日神は壺を机上に戻して溜息を吐いた。
「これ、本当なの?」
「ほんとほんと。流石の私もびっくりしちゃった」
気疲れした日神とは対称的に、渾神は嬉しそうに語る。他者の不幸を前にしても陽気に振る舞う姿は、正に邪神と呼ぶに相応しい。彼女の短所の一つだ。日神は溜息を吐き、再び腕と脚を組んだ。
「成程、状況は把握したわ。けれど、何でその報告を貴女がするのよ。ペレナイカは? アエタは?」
「ペレナイカは強化版イスターシャとやり合って、消耗し切ってお休み中。アエタはペレナイカに付きっ切り。よって、私が気を利かせて貴女に報告してあげたのです。えっへん! どう見ても、急いで対処した方が良い案件だからね」
「だったらペレナイカの眷族にでもやらせなさいよ。敵対している相手の前に堂々と現れて……。正気の沙汰じゃないわ」
日神の余りにつれない態度に、渾神は態とらしく頬を膨らませた。
「ひっどーい。敵視し過ぎ。私、普段から悪事なんて殆ど働いてないでしょ」
その言葉を聞いて、日神は遂に激高した。
「嘘仰い! 神戦の折に、貴女が天帝様に行った所業を忘れたとは言わせないわよ!」
「考えがあってやったことなのに……」
渾神は叱られた子犬の様に意気消沈し、何気なく机上に積まれた書類へと目を向ける。日神も釣られて同じ物を見た。
「兎も角この件は貴女も言った通り、ちゃんとペレナイカ達にも話を聞いた後で上に報告させてもらうわ。どう? 満足?」
日神がそう尋ねると、渾神は淡白な口調と表情で「とっても満足」と返し、顔を上げた。そして、続け様に言う。
「あと、私からポルトリテシモに伝言があるのだけれど」
「実際に伝えるかは分からないけど、一応聞くだけは聞いておきましょうか。何?」
警戒心を露わにして日神が尋ねる。すると渾神はにやりと笑い、声を潜めずこう告げた。
「オルデリヒドを討つなら、今が好機よ」
「何ですって?」
日神は一瞬固まり、直後に瞠目して周囲を見回す。火精の侍女は去ったが、室内にはまだ天軍兵が残っていた。加えて予想通り渾神の言葉は彼等の耳にも届いており、皆僅かに動揺の表情を見せていた。彼等は何れ渾神の提言に価値があると気付くだろう。そうなれば、間違いなく実現せんと動き出す。日神は舌打ちをして渾神を睨んだ。けれども、相手は動じず話を続ける。
「火神ペレナイカは重体な上に諸々の事後処理もしなければならなくて身動きが取れない。木神イスターシャの状態はまだ確認が取れてはいないものの、何れにせよ紫沼木の件で恐らくは当分謹慎。風神アエタは、元よりポルトリテシモ寄り。一柱だけ何を考えてるのか不明な奴がいるけど、正神六柱の内ポルトリテシモ自身も含めた四柱が、目下確実にオルデリヒドから離れている。つまり――」
「貴女、オルデリヒドの味方じゃなかったの?」
非難を含んだ問いを受けて、渾神は苦笑し肩を竦めた。
「何とかしてあげたかったんだけどね。もう駄目かも」
軽さはあるが薄らと哀愁も感じられる様子に、日神はやや気勢を削がれた。
「天帝様も近い話をされていたわね。今の彼、そんなに酷いの?」
「何か物凄く追い詰められている風ではあったわね。自分で自分を追い込んでしまっていると言うか、要は彼の思い込みなんだけれども。多分、これを乗り越えられたら一皮剥けるとは思うのよ。でも、完全に明後日の方向へ行っちゃってるしね。あの様子だと、もう無理なんだろうなって」
「彼が道を踏み外した原因は貴女じゃないの?」
「何でもかんでも私の所為にしないでよ。確かにちょっと助言はしたけど、それだけじゃあ、ああはならなかったって。魔神が余計な横槍を入れたのが悪い」
「どうだか」
意図的か無意識か、渾神は魔神が地界へ干渉したことを匂わせた。それが事実ならば、状況はより深刻だ。渾神は悪賢いが愉快犯の気がある。しかし、魔神に遊びはない。正真正銘、悪意による攻撃に違いない。
俯き黙り込む日神を見て渾神は小さく笑い、机上の資料を整理し始める。そろそろ話を終えるつもりなのだろう。
「可笑しい。そんな深刻な顔しないでよ。本当は貴女も好機だと思っているのでしょう? ポルトリテシモの敵は絶対許さないって考えなんだし。まあ、上手く報告しておいて頂戴な」
「邪推は止めてくれる? まったく、貴女はどれだけ他者を軽んじれば気が済むのやら。でも、先程の甘言も含めて天帝様には全てをお話ししておくわ。明らかに貴女が何か企んでいる様子だから、報告せざるを得なくなったというのが本音だけど。ついでに、貴女がここに居たこともお伝えするからね。後で覚えてなさいよ!」
「はいは――」
悪態を吐き掛けて、渾神の動きが突如止まった。間を置かず、顔から笑みが消える。目が見開かれる。けれども、何時も姦しい彼女が一言も発しない。異様だった。彼女らしくない。日神は不審に思って「ヴァルガヴェリーテ?」と声を掛けた。
次の瞬間、渾神は〈神術〉で窓を開いて外に飛び出した。事情の説明は一切なかった。取り残された者達は騒めく。
「ちょっと、何処へ行くのよ!」
日神は慌てて窓へと駆け寄った。渾神の姿を探すも見当たらない。
「何なのよ、もう……」
深い溜息が窓辺から響いた。
◇◇◇
渾神が日神との会談を切り上げる少し前、アミュは火神宮殿の宿舎にいた。渾神の片割れは既に側にはいない。一つの身体に戻って以降、彼女は多忙を言い訳にアミュの前には中々姿を現さなかった。たまに戻って来ても、僅かな時間しか留まらない。故に、彼女のもう片方が戻って来たら言うつもりであった話をアミュはずっと言えないままでいた。
(渾神様、まだ帰ってこない……。何時になったら、私の話を聞いてくれるんだろう)
焦燥は募るばかりで、もしかしたら避けられているのではないか、と勘繰って怒りさえ湧いて来る。実際には火神や風神の仕事の一部を請け負っていたので、本当に手が離せない状態なのだが、力不足故に大役から遠ざけられているアミュにはそれが分からない。よって、彼女は理不尽に放置されていると思い込み、屈辱を覚えて膝に置いた拳を握り締めた。
不意に窓が風で揺れ、その音と共に聞き慣れた声が響いた。
「アミュ」
渾神のものである。聞こえたのは、窓ではなく扉の方からだ。アミュは顔を上げ「渾神様?」と呟くも、返事はなかった。扉を開け、室内に入って来る気配もない。空耳かとも思ったが、アミュは念の為に再度呼び掛けた。
「あの……」
すると、今度は返事があった。
「外へ出て来て」
やはり、空耳ではなかったらしい。アミュは素直に「はい」と答え、立ち上がって扉へ向かった。そして恐る恐る扉を開け、外の様子を見て息を呑む。
(これは……)
扉の向こう側にいる見張りの兵士達が、何故か床に座り込んで居眠りをしていた。
(気絶してる? これは渾神様がやったの?)
アミュはしゃがみ込んで彼等を覗き込もうとする。そこで、彼女の道草を邪魔する様にまた声が響いた。
「こっちよ」
「あ……」
渾神は未だ姿を見せない。声だけだ。そして、その声は何本か先の柱の陰から聞こえた気がした。丁度、横道が伸びている場所だ。アミュは呆気に取られたが、やがて彼女なりに今の状況について推測する。扉の周辺には誰もおらず、且つ兵士達の異常に関して渾神が言及しないということは、彼等を眠らせたのは恐らく渾神なのだろう。そして、アミュを伴い火神宮殿を脱出するつもりでいる。
(やっぱり、火界の人達は敵になったんだ)
嘗て天界で見た野蛮な女神の影が、アミュの脳裏に浮かぶ。全身が恐怖で震えた。しかし、彼女を脅かさんとするのが恐ろしい敵であるからこそ、ここで立ち止まってはいられない。
(早く逃げないと)
意を決してアミュは歩み出した。足音を潜ませ丁字路まで進むも、既に渾神の姿は周囲にはない。横道の先はまた丁字路になっていて、彼女が何方へ進んだのか、或いは途中に並ぶ部屋へ入ったか、現時点では分からなかった。
アミュが戸惑っていると、次の丁字路から声がする。
「こっちよ。こっちこっち」
そう言いながら、声は左手の道の先へと遠ざかって行く。
「あっ、待って下さい」
アミュは慌てて声の主を追った。以後、似た遣り取りを何度か繰り返した。
不慣れな者にとっては迷路に等しい建物の中を渾神の声を頼りに歩き続ける。アミュは胸に圧迫感を覚えて呼吸を乱した。平坦な床の上を少しばかり歩いた程度で渾侍の役割を十全に熟せるよう作られた肉体が疲労を訴えることはないが、中に入っている魂体は脆弱な地上人のそれに過ぎない。つまり、この体調不良は精神が起因であった。
(誰も居ない……)
再び分岐点へと遣って来たアミュは、やはり渾神の姿を見付けられず失望する。本当にこの建物から抜け出せるのだろうか、実は揶揄われているだけなのではないか、と悩みもした。だが、直後に渾神より発せられた言葉がアミュに希望を与える。
「こっち。もう直ぐよ」
何時の間にか俯いていたアミュは、汗が滲み始めていた顔を上げた。次に、声の聞こえた方を向く。廊下を真っ直ぐ行った先にある曲がり角ではない。もっと近く――数歩先にある扉だ。アミュは直感的にそれが外への出口だと確信し、駆け出した。そうして、彼女は勢い良く扉を開ける。次の瞬間、眩い光に目を刺激され、彼女は思わず瞼を下ろした。
暫くして、アミュはゆっくりと目を開ける。すると、正面に庭園らしき景色が広がっていた。
(外へ出た)
概ね予想通りの結果だが、心の片隅で疑っていたこともあり、アミュは意表を突かれた時と同様に扉の前で立ち尽くす。彼女を正気に戻したのは、外気の影響で若干明瞭さを欠いた渾神の声であった。
「こっちへ来て」
外に出ても、未だ渾神は姿を見せない。相変わらず声だけが存在してる。
「こっちこっち」
渾神は急かす様にまた呼び掛けた。徐々に小さくなって行くその声は、正面の中庭ではなく今迄アミュがいた建物の方から発せられている。とは言っても、恐らく「建物に戻れ」という指示ではあるまい。向かうべき場所は外壁の角の向こうだろう。アミュは相手から引き離されないよう駆け出した。
「待って下さい、渾神様!」
再び追いかけっこが始まるかと思いきや、次の曲がり角が終着点であった。
「こっちよ。こっちこっち」
幾度となく耳にした文言に誘われて飛び出した先は、赤色の葉を持つ木々の狭間だった。少し開けた空間で、周囲の建物からは死角となる場所だ。その中央には、右手に香炉を左手に大鎌を携えた女性が立っていた。
「貴女は!」
覚えのある相貌を目にして、アミュが後退りするのと同時に「こっちよ。こっちこっち」という声が響いた。眼前の女性の唇は動いていない。加えて、恐らくは渾神のものでもない。アミュはぎこちなく首を動かした。相手は背後にいた。上半身しか存在しない、木乃伊の如く乾燥し切った男性であった。アミュは短い悲鳴を上げて仰け反った。一方、彼は暫く同じ台詞を繰り返しながら所在なげに宙を漂っていたが、ふと思い付いた様に女性の許へ行き、周囲を一回廻った後に香炉の中へと吸い込まれていった。
アミュは絶句した。ややあって気付く。これは彼女を火界の住人の庇護下より誘き出す為の罠だったのだ、と。冷静に考えれば、怪しい所は多々あった。にも拘らず、どうして相手を信じてしまったのか。そう後悔した時には遅かった。
「悪く思わないでね」
香炉を上へと放り投げた女性――殺神リリャッタはそれが地面に到達する前に大鎌を振るった。
◇◇◇
同刻、非神族用宿舎の一室にシャンセ、マティアヌス、キロネの三人が集まっていた。本来は別々の部屋に軟禁されている者達であるが、改造済み〈人形殻〉の検査を口実に許可を取ったのだ。当然ではあるが、室外には見張りも控えていた。
内緒話の為の言い訳ではあるものの、検査も実際に行っている。神の肉体を〈祭具〉の素材とした事例は、皆無ではないにせよ稀だ。少しでも情報が欲しいのと、この〈祭具〉を使用することによって、マティアヌスの心身に悪影響が出ていないか診なければならない。しかしながら、幸いにも今の所は何の異常もない様で、マティアヌスは暢気に笑いながら自身の腕――否、〈人形殻〉の腕部を擦った。
「神族の透視を妨害する〈人形殻〉か。こいつは良い。何かに使えないかな」
「さあな。過度な期待はしない方が良いと思うが」
シャンセは火界の研究施設より借り受けた検査用の〈祭具〉を箱に仕舞う。その横で、不貞腐れた顔のキロネが文句を言った。
「ちょっとお、狡くない? 何であんただけ……」
「そりゃあ、お前さんが〈人形殻〉の貸し出しを拒否した所為だろう。身から出た錆なんだよなあ」
「だってさあ……」
美しきもの以外を認めない光神の眷族にとって、醜い容姿は無比の恥辱であると共に、死に値する重罪だ。光神が去ってから長い年月が経った今でも、その価値観は変わらない。それでも永獄の囚人仲間の前なら、真の姿を晒してもキロネはまだ辛うじて耐えられた。彼等もキロネと同様に怪物へと変じ、苦しんでいるのだから。けれども、火界の住人達は違う。笑い者にされるのは耐えられない。今は遠方にいる彼女の主神とて許さないだろう。
そういった苦悩があるからこそ、渾神の要請を快諾したマティアヌスの心情がキロネには理解出来なかった。「光精としての矜持はないのか」と詰りもした。疾うの昔に怪物と成り果ててしまった身でまだ光精の真似事をするのか、と彼は呆れているのかもしれないが。
マティアヌスはキロネを睨む。
「『だってさあ』じゃない。そんな風に物欲しそうに見ていても、お前には絶対にやらないぞ」
「むう……」
キロネは短く唸った後に押し黙った。彼女は欲深い生き物だ。マティアヌスの行動を受け入れ難く思っているのに、貴重で有用な道具に心惹かれている。都合の良いことに、製作に必要な技術はある程度確立されており、尚且つ渾神の用事は既に終わっていた。要するに、長期間本体を露出させずとも新しい〈人形殻〉を手中に収められる訳だ。キロネは後ろめたさを感じつつシャンセに擦り寄った。
「ねえ、シャンセ。私の〈人形殻〉にも同じ加工を――」
だが、話の途中でシャンセは作業の手を止め、顔を上げて何故か壁の方を見詰めた。その目付きは遠方を眺める時の形をしていた。
「シャンセ?」
訝し気にするキロネをシャンセは見ない。彼の表情に変化はなく、傍からは何を考えているのかは分からない。マティアヌスもシャンセが見せた微かな異変に気付いて眉を寄せる。彼が声を掛けんとした時、シャンセは漸く口を小さく開いた。
「アミュが……」
続く言葉はなかった。光精二人は視線を交わして首を傾げ、アミュの気配を探る。然る後に、彼等は真の異状を認識した。
「ん、あれ? あの子、何処行ったのよ? まさか、また逃げた?」
次の瞬間、更なる異常事態が現れた。
「しまった!」
真っ先に気付いたのは、やはりシャンセであった。彼は咄嗟に立ち上がり、後方へ飛び退く。間を置かずマティアヌスも異変を察知し、慌てて立ち上がった。一番判断が遅かったキロネだけが座ったまま「え?」という声を漏らした。斯くなるキロネの衣をマティアヌスが掴み上げて引き寄せる。続いて、彼はシャンセへと手を伸ばした。
「シャンセ!」
しかし、間に合わなかった。シャンセが移動した先の床に四角い穴が空き、彼は穴の中に落ちた。そして残された者達が駆け寄る前に、穴を囲っていた枠の左右から厚みのある金属板が持ち上がり、中央へ向かって倒れる。マティアヌスが金属板の前に到着したのは、ぱたんという音が響くのとほぼ同時だった。動揺を宿した目が足元へ向く。シャンセを閉じ込めた物体の形状は、マティアヌスにある物を想起させた。
「〈封印門〉――否、違う。これは……」
彼の〈祭具〉の正式名称をマティアヌスは知らない。そもそも現物を見たことすらない。けれども彼は「この物体は鍛冶の種族が自分達を地上界より連れ去る際に用いた〈祭具〉と同じ姿をしているのではないか」と推察した。




