26. 彼女の罪
渾界での滞在時間は僅かであった。極彩色のうねりの横を通り過ぎると、渾神達は火界へと帰還していた。到着地点は火界の北端だ。暫く乱れた息を整えてから、風神は握っていた壺を耳に当てる。
「ちゃんと録音出来てる?」
僅かに疲労の残った顔をした渾神が尋ねると、風神は壺を耳から離し「聞いてみて」と言って差し出した。壺を受け取った渾神は、それを耳に当てて目を閉じる。すると、薄い壁の内側で渾神達と木神との会話音声が反響しながら再生されているのが確認出来た。
「うん、大丈夫そうね。私の声も入っちゃってるけど、取り敢えず証拠としては使えるでしょう」
風神は頷いたが、ややあって表情を曇らせた。予想していたとは言え、所属陣営の内部分裂が確定してしまったのだから無理もない。地神の件もあるから、天帝の足元は当分荒れるだろう。
ともあれ今直ぐ確かめたいことがあり、渾神は冷気を宿した目を風神へと向けた。
「落ち込んでいる所悪いんだけど、私、貴女にも聞きたいことがあるのよ」
「何?」
表情の硬さにそぐわず、渾神の口調は場違いと思える程に軽い。風神は「こんな時に」と言わんばかりに眉を寄せる。だが、渾神は構わず続けた。
「貴女、オイロセと面識があったと言っていたわよね。貴女から見て、彼は神族の支配が可能な程の力を持っている様に見えた? 純粋な力量の話ね」
「そうは見えなかったわね」
「うん、多分貴女の見解は正しい。イスターシャの証言とも合致しているしね。恋郷の補助があっても、彼はペレナイカを含む火界の神々を支配出来ない。でも、だとしたら一つ不可解な点があるの。どうしてペレナイカはオイロセに魅了され続けたのか? 眷族の方は兎も角、恋郷なり紫沼木なりでペレナイカを洗脳出来るのはイスターシャだけ。そして、幾ら〈神術〉であっても《顕現》世界の境界を跨いで行使するのは困難。〈関門〉みたいな抜け道もあるけど、基本的には間に渾界を挟んでるからね。まず私が気付くでしょう。けれど、少なくともイスターシャ絡みでそんな珍事に遭遇した記憶は私にはない」
「それは――」
風神が返す言葉を先読みして、渾神は話を続けた。相手に主導権を握らせなかった。
「純粋にペレナイカの恋情が理由って? 本当にそうかしら。そこで、貴女に二つ目の質問。ペレナイカの側に居たのは真実オイロセだったのか?」
「どういうこと?」
「ペレナイカに〈神術〉を行使するには、イスターシャはペレナイカの近くにいなければならない。身を潜めていたか、誰かに化けていたか。で、一番怪しいのはオイロセよ。彼女は〈神術〉でオイロセの姿に変化していたの。もしかしたらオイロセという木精は実は存在していなくて、見目の良い男に扮したイスターシャの分体がそう名乗って、ペレナイカの傍らに侍っていたのかもしれないわね。まあ、それだと先程の彼女の発言を一部否定することになるのだけれども」
すると、風神は首を横に振った。
「いいえ、オイロセは確実に存在していたわ。私が保証する。責任ある立場にあったから公の場での活動も多くて、目撃者は数え切れない程なのよ。そんな偽装をしていたなら、仮に私が気付かなかったとしても他の誰かが声を上げた筈よ。だから、彼はイスターシャではない」
「周囲にペレナイカ以外の者がいなかった時については、分からないのでしょう?」
「……まあね」
間を置いて発せられた言葉を聞いて、渾神の目付きが変わった。
「否定しなかったわね。取り繕うのも耐え難い位、彼等が気に入らなかった?」
「何のことやら」
「では、三つ目の質問。時間もないから単刀直入に言うわ。貴女、やっぱり初めから今回の件の真相を全部把握していたでしょう」
「どうしてそうなるのよ」
「今迄の貴女の言動や入手した情報を総括した上での判断だけど、理由はもう一つあるかな。《風》という《元素》は、ただ『風』だけを示す物ではなく『空気』をも含んでいる。そして、空気は大概の場所に存在している。当然、木界にも」
返事はなかった。風神の顔には困惑が表れていたが、胸の内が表情の通りであるかは定かではない。故に、相手の反応を求めて渾神は追い打ちを掛ける。
「イスターシャが語ったオイロセが襲われる直前の話――火界へ行って〈術〉なり〈神術〉なりを吹き飛ばしたのも、本当は態とだったのでしょう? 直近では、私や火界の住人を巧みに誘導して木界の計画が明るみに出るよう仕向けた」
渾神は風神に対し、暗に「此方は全てに気付いている」と示してみせた。だがやはり直ぐには返答がなく、暫くして風神は髪を掻き上げ、大きな溜息を吐いた。その後に、彼女は全身の力を抜いた。
「私がペレナイカ達を誘導する前に、貴女が恋郷の存在に気付いてしまったのだけれどね。ご免なさい。幾ら貴女が邪神認定されているからって、流石に不誠実だし公平ではなかったわ。多分、私は怖かったんだと思う」
「アエタ……」
今にも泣き出しそうな様子の風神を見て、渾神は警戒を解き、憐憫と愛情の混ざった声を漏らした。天真爛漫な性格の風神が初めて見せる顔だ。それを味方とは言い難い相手に曝け出してしまう程、彼女は苦悩し弱っていたのだ。
渾神は戸惑いの声を出す。
「まあ、気持ちは分からなくもないけどね。貴女、兄弟皆のことが好きだったし」
「イスターシャに対しては、昔から思う所があったのよ。でも、表に出さないよう抑えてたの。ユリスラ達みたいにはなりたくなくてね。危うい所は多々あるけれど、今の穏やかな関係性が壊れるのが怖かったのよ。何よりペレナイカの心が壊れてしまいそうで……。姉さん、結構脆いもの。オイロセのことも恋郷とか関係なく本当に愛していたのよ。馬鹿でしょ。だから、こっそりやるしかなかった」
「少なくともイスターシャが嫌いなのは、全然隠せてなかったわよ」
渾神が笑うと、風神も僅かに明るさを取り戻した。
「そう?」
「ええ。でもまあ、仕方ないか。貴女は何だかんだ昔から優しかったものね。堪えられなかったんでしょ」
「『優しい』はないわ。オイロセを殺したのも私なのよ。高所に出たのを見計らって、突風を起こしたの。犯行現場は木界の中だからイスターシャも気付いたのでしょうけど、後ろ暗さから言い出せなかったんでしょうね。私もそれを見越して実行に移した訳だし」
「仲直りされると困るから? ペレナイカを守ろうとしたのね」
機嫌を取る為か、肯定的な見解ばかり述べる渾神に対し、風神は「いいえ」とはっきり告げる。
「私怨もあったのよ。義憤とかじゃなく、生理的に無理だったの。本当に堪え性がなくて情けなくなる。でも――」
一度俯いた後に顔を上げ、風神は決意表明をする。
「これについては、もう我慢するべきではない。ペレナイカに真実を話すわ。きっと一生恨まれるでしょうけど」
「ペレナイカはそこまで愚かではないわよ。ああ、ところで他に共有してない情報があるなら教えてもらえる? イスターシャがこれで終わらせてくれる筈はないからね。対策を取るのに必要なの」
「ええ、ご免なさい。そうよね。危ないものね。と言っても、大した内容ではないけど」
以降の風神は素直だった。予告通りに彼女は自身の知る全ての情報を打ち明ける。渾神が新たに獲得した情報は次の通りであった。
まず最初に語られたのは、恋郷の制御に関する話だった。遠くない過去に渾神が尋ねた「風神がオイロセの臭いを覚えていない理由」については「風神に会っている間、臭いを出さないようオイロセが〈術〉を一時停止していたから」が正解だった。恋郷の臭いは神族に対して直接的な影響を及ぼさないが、臭いと〈術〉は連動しているので、〈術〉を止めると臭いもなくなるのだという。木神は風神を支配するつもりはなく、また計画を知られたくないとも思っていた。これは風神のみならず、火界の住人以外の全ての者に対しても同様だ。よって、非対象者の前ではオイロセも木神も〈術〉は使わず、相手は残り香程度しか感じなかったのだ。
「でも〈術〉を止めると火界の住人に掛けた洗脳も解けるんじゃないの? それとも直ぐには解除されない?」
そう渾神が尋ねると、風神は「ええ、それは」と続ける。渾神の指摘は概ね当たっており、〈術〉が途切れても洗脳が完全に解けるには時間が掛かるのは事実で、その間効果が徐々に薄れていっているのだそうだ。ところが、体面を気にしたのだろう。正気に戻り掛けた状態であっても、火界の住人は部外者の前ではオイロセに危害を加えなかった。そうして余所者が去った後に〈術〉を再開すれば、彼等はまたオイロセに対する敵意を忘れてしまう。故に、風神の助力を受けてオイロセが排除されるまで、大きな問題も起こらず洗脳状態が続いた訳である。
次の話題は渾神の前で行っていた風神の演技についてだ。しかし、残念ながら此方は有意義な情報ではなかった。強いて感想を述べるなら、風神は演技が下手ということ位だろう。彼女としては「残り香は感じるが、記憶に残る程ではない」風を装ったつもりだったらしい。実際オイロセと会った当初、風神は彼の体臭を然程意識していなかったので、その状態を思い出し、演じてみせたのだとか。目的は風神が真相を知っていることを渾神に悟られない為であったそうだ。
最後は恋郷の副作用である嗅覚の麻痺に関する補足情報が語られた。比較的短い内容ではあったものの、話を聞いた渾神は若干の嫌悪感を覚える。どうやら、この副作用については木神もオイロセも想定していなかったらしい。理屈は不明だが、事前の検証では発生しなかった事例なのだという。とは言え、彼等も計画初期の時点ではこの問題に気付いていた。しかし、彼等は「洗脳が成功すれば、症状を意識しなくなるから」と放置したのだ。作戦失敗に繋がるかもしれないという考えや相手の健康に対する配慮は全くなかった。唯々浅慮と言うより他はない。また、我が強いが率直な性格の姉妹神達と比較して、木神の陰湿さが際立って見えた。
この様に、風神は長年抱え込んでいた秘密を奔流の如く喋り続けた。まるで、その日体験した素敵な出来事を嬉々として親に報告する幼子である。水を差さないよう、渾神は真面目に聞いている振りをしたが、内心では少し面白くも感じていた。
(本当は誰かに打ち明けたくて仕方がなかったのね。まったく、これ程までに責任や柵を嫌う子に、諜報役なんて押し付けちゃ駄目でしょう。能力的を考えれば一番の適任者なのかもしれないけど、精神的にはどう見ても向いてないもの)
けれども、渾神は「でも」と思う。
(成長したわね、アエタ。よく耐えた。それを知れただけでも、今回の事件に関わって良かったと思えるわ。良い成果だった)
渾神は風神を評価した。そうして、風神が努力に見合う未来を得られるよう願った。
◇◇◇
その後、女神達は真っ直ぐ火神宮殿へと帰還した。宮殿の主たる火神ペレナイカは謁見室におり、遣って来た二柱の女神を憂鬱な顔で出迎える。彼女への報告は風神が買って出た。周囲には眷族もいて、火神が黙したまま〈封音器〉内の音を聞いている間、小声で相談を始める。近くに立っているキイルとワルシカの声が、取り分けはっきりと女神達の耳に届いた。ヴリエは体調不良が長引き、不在だった。
「どう思われます?」
「ああ……否、ううん……」
「余りに非現実的な話ではないでしょうか。木神様や《木》の印象とは、とても結び付き難く……」
「私も同意見だ。やはり此度の事件、渾神様の謀ではないかとすら――」
そこで、渾神が威圧感のある笑顔を向けて「死にたいの?」と釘を刺した。火神の眷族達は皆同時にびくりと身体を震わせて押し黙る。しかし、ただ無言になるだけで納得はしていない様子だった。険悪な雰囲気に慌てた風神は、両者の間に割って入る。比較的火界の住人に近い立ち位置の彼女の言なら、彼等は耳を貸すかもしれないと思ったのだ。
「ヴァルガヴェリーテは本当に加担していないわ。私はずっとこの件を監視していたから、断言出来る」
「では何故、今迄真実をお教え下さらなかったのですか?」
ワルシカが不信感が表れた眼差しを風神へ向ける。すると後ろめたさが戻って来たのか、風神は目を伏せ「それは……」と言葉を詰まらせた。だが、そこで火神が耳に壺を当てたまま冷ややかに言い放った。
「黙って。まだ、理解が追い付いていないの。暫く頭の中を整理させて」
「は、はい。申し訳御座いません」
眷族達は狼狽しながら拝礼し、室内はしんと静まり返った。火神は耳元の壺へと意識を戻す。記録された音声は全て聞き終えた。故に今は、繰り返される音を再確認しつつ別のことを考える余裕もある。
(入れ替わりに全く気が付かなかった。いつ、どのオイロセがイスターシャだった?)
折々のオイロセの姿が頭の中に浮かんでは消える。彼女が愛した相手は果たしてオイロセであったのか、木神であったのか。彼女のオイロセに対する愛情は本物か、偽物か。もしや、閨を共にしたのは――。そこまで思い至った途端、全身が総毛立ち、嘔吐感が込み上げてきた。
火神は顔面を片手で覆う。無理矢理気持ちを落ち着かせようとする。青褪め背を丸める姉神を案じた風神は、思わず彼女に駆け寄った。火神の意識は内側へ向き掛けていたが、肘掛けに置いていた自分の手に他者の掌の感触を感じた瞬間、現実へと引き戻される。傍らに膝を突く風神を見下ろして、火神はこう尋ねた。
「スティンリアを火侍にする話が出た時、貴女、イスターシャを呼び寄せて私と話をさせたわよね。オイロセの件でイスターシャの心証を悪くしていたから、彼と同じく相性の悪い精霊を火侍に就けることで波風が立つかもしれなくて、その対策として事前に許しを得ておく必要があった、と私は解釈していたのだけれど……本当はどういうつもりだったの?」
思っていたよりも早く感情の切り替えが出来て、火神は我が事ながら少し驚いた。全容は分からずともオイロセの裏切りを知ってから既に数日が経過していたこと、スティンリアへと気持ちが移っていたことが功を奏したのだろうか。
次第に熱が抜けていく頭へ、真に火神を思ってくれている者の声が抵抗なく入り込む。
「イスターシャへの警告よ。当時、スティンリアは既に氷神の寵愛を失っていたけれど、だからと言って彼が氷精でなくなる訳ではない。そして《氷》の上位《元素》は《水》。つまり、スティンリアは広義にはイスターシャと同格の神である水神リネルダスの眷族でもある。水を失えば、木は枯れる。イスターシャも彼を敵に回したくはないでしょう。それを彼女に認識させて、以後手出しをさせないようにするのが、あの対面の真意だったの。まあそういう訳だから、私としては天帝の眷族であるブリガンティの方が火侍になっても良かったのよね。でも、貴女はスティンリアと一緒にいたかったのでしょう?」
風神は真っ直ぐに火神を見返して答えた。陰りのない綺麗な目だ。恐らく嘘も隠し事もあるまい。火神は深く空気を吸い込んだ後、少しの間だけ息を止め、やがて長い時間を掛けて吐き出した。
「スティンリア――いいえ、火侍の空位期間が長かったのも、イスターシャに付け入る隙を与えた要因の一つなのかもしれないわね。天帝は木界の思惑を知っているのかしら?」
「さあ、どうなのでしょうね。私からは報告してないし、気付いている素振りも見せないけど」
「そう。でも、何れは報告しなければならないでしょうね」
不意に、火神の脳裏に嘗て天界を脅かしたある植物の群生が浮かぶ。「雲大葉」という名の葉野菜だ。
原初、天界には資源がなかった。現在根付いている物は殆どが後年に生み出されたか、他界から譲り受けた個体の子孫だ。雲大葉は後者の一つで、食料の領内生産を望む天界の住人の為に木神が作った新種であった。事前の説明によると、生存能力と繁殖力が非常に強いのだとか。話を聞いた彼の地の者達は、大喜びで渡された苗を雲花の大地に植え付けた。
果たして数日後、天界は緑で覆い尽くされた。その勢いは住人達の期待を悪い意味で超えていた。足場となるべき場所が尽きると、雲大葉は《雲》の《顕現》たる雲神や雲精にまで根を張り出したのだ。
事態を重く見た光神プロトリシカ――当時は彼が神族の王であった――は、雲大葉の根絶を命じた。火神も除草作業に参加させられた。花を焼いている最中、彼女は笑いを堪えるのに必死だった。《木》は《火》には勝てない、自分に影響はない、そう高を括っていた。片や地神と水神は顔面蒼白だ。元凶の木神は物憂げな表情をしていたが、あれは一体如何なる心境から来るものであったのだろうか。
ともあれ雲大葉は滅せられ、事件は収束を迎えた訳だが、以降地界と水界では木界を経由した品物が領内へ入る際に厳しい審査を行う様になった。それに対しても火神はまた笑い、怯え過ぎだと馬鹿にしていた。しかし、今から思えば彼等の判断の方が正しかったのだろう。
赤黒い大地を覆いつくす青々とした草木、日の光を奪われた上に地熱まで吸われて荒廃する火界――そんな幻覚を火神は見た気がした。
(繁殖もまた《木》の特性の一部だったわね。イスターシャの無意識の願望は、敵の排除ではなく領土の拡大か)
木神イスターシャは《顕現》神だ。意図せずとも基となる《元素》の性質に引っ張られてしまうのは、同じ《顕現》神である火神も理解している。してはいるのだが――。
「あの、雑草女ーっ!!」
オイロセの面影と共に、抑え込んでいた嘔気が再度浮上した。何事にも限度はある。火神は人目も憚らず怒声を吐いた。
その直後だ。瘴気にも似た重く禍々しい神気が火神宮殿内に現れる。室内にいる全員が同時に気配のする方を向いた。常とは状態が違うが、根幹の部分には皆覚えがあった。
「これは……」
最初に口を開いたのは風神だ。次に、渾神が眉間に皺を寄せて言った。
「渾界を経由した気配がない。〈関門〉を使ったにしては、時間が短い。もしかしたら一旦《木》に入って、その《木》に直接繋がった《顕現》体を出口にして火界へ抜けたのかもしれない。回収した恋郷は今何処に?」
渾神は官吏達を見る。すると、一人が声を上擦らせて答えた。
「宮殿外の研究所に。他は全て処分した筈です!」
そこで火神は「あっ!」と声を上げた。全員の視線が彼女に集中する。思い至る節がある様子の火神を見て、渾神は相手の失敗を察した。
(オイロセの媒体か!)
同じ考えに至った火神の眷族も、襲撃者の正体が木神であると確信して動き出した。彼女の神気は徐々に執務室へと近付いている。道中、誰かしらに遭遇している筈だが止まらない。彼女に遭遇した同胞は、もしかしたら無事ではないのかもしれない。〈術〉を使用して武器を呼び寄せる者、火神を守らんと側へ行く者、逆に混乱し右往左往するだけの者――眷族達は三者三様の行動を見せた。
「壁を壊して別の道を作り、兵を呼びに行かせます」
そう言ってキイルが構えると、渾神は片手を軽く上げて彼を止めた。
「駄目。もう間に合わない」
言い終わるのと同時に、執務室の扉が乱暴に開かれた。廊下にいるのは、室内にいる全員が予想した通りの存在だ。
「少々後れを取りましたか。アエタの足の速さを侮っていましたね。追加強化を行う余裕位はあると思っていたのですが」
木神は淑女然としながらも、今迄氷の如き厳しい視線を火界の住人へと向ける。抑え切れない怒気や嫌悪感が伝わり、火神は「イスターシャ」と呼んだ切り言葉を失った。怒らなければ、戦わなければ、と思っているのに心身共に力が入らない。そんなだらしない彼女を見て、木神は一層冷気を募らせて挨拶した。
「久し振りですね、ペレナイカ。お変わりない様で」
衣擦れの音を響かせて、木神は室内に入る。噎せ返る程に強く甘い臭気が一同の鼻を突いた。




