23. 不浄の地
二刻半が過ぎた頃、風神は地図と眼前に広がる森を見比べながら唸り声を上げていた。森の周囲は高い壁で覆われており、その壁の一角に設けられた入口設備周辺には警備員らしき者が数名控えている。
「あの森が例の自然保護区で間違いない、と思う」
木界への来訪頻度は同行者よりも高い風神が、自信のない様子で告げる。すると渾神は腕を組み、どういう心境かぷくぷくと何度も頬を膨らませた。
「領地の大半が木に覆われた木界に於いて『特別に設けられた』自然保護区、ねえ」
「少なくとも壁面には〈術〉や〈祭具〉は仕掛けられていない様に見えるわね」
「悪巧みに気付かれないよう、敢えて警備を薄くしているのかもしれない。取り敢えず入ってみましょうか」
違法行為に前向きな渾神を見て、風神は思わず相手の衣服を軽く引っ張った。風神の考えを察した渾神は、不満気な顔をしつつも足を止めて振り返る。風神は一瞬言葉を詰まらせたが、やがて上擦った声で尋ねた。
「ねえ、もしイスターシャが事件の黒幕なのだとしたら、私達がここに来た時点で此方の目的も知られてしまったんじゃないかしら?」
「その可能性は十分にあるわね。でも、この場所は木界の中心部からはかなり距離がある。今から命令を出しても、足の遅い《木》の種族が到着するまで、まだ時間に余裕がある筈よ。だから、急いで調査を終わらせましょう」
やや早口で渾神がそう答えると、風神も納得して彼女の衣服から手を離した。
「分かったわ。内部の探索と索敵は任せて」
「一応、イスターシャが無罪だった場合を考えて、派手な行動は控えてね。此方がおかしな嫌疑を掛けられない様に」
「善処する」
風神は森を睨み付け、両手を胸の位置まで掲げる。一拍置いて、腕の周囲に微風が発生した。風は森を囲っている壁を越え、内部を隈なく撫でて行く。暫くして風神は眉を落とし、腕を下ろした。
「やっぱり死んでる木と生きてる木は違うのかしら?」
「見付からなかった?」
「ご免なさい。でも、精気の状態が特徴的な場所は幾つか見付けたわ。例の香木は『特殊な環境に適応した』って話が出てたでしょ」
渾神は腕を解き、小首を傾げる。
「まあ、兎も角道案内の方は任せたわ」
「はい、任されました」
風神は力みつつも渾神に微笑み掛けた。
◇◇◇
神族である彼女達にとっては、非神族の警備員の目を誤魔化して壁の内部へ侵入することなど造作もなかった。鬱蒼とした木々の合間を女神達は汗を拭いながら歩いた。熱帯地方でもないのに高温多湿で、木漏れ日が少なく辺りは暗い。渾神の頭の中に「密林」という言葉が浮かぶが、その言葉から受ける印象とも周囲の光景は少々異なっている気がした。
やがて、女神達の鼻に腐臭が届くようになり、足音が湿り気を含み始める。それから間もなく、彼女等は臭いの基へと辿り着いた。
眼前にあるのは黒く濁った沼だ。水の色は見る角度を変えると緑にも紫にも見える。また、周辺の土の色はまだらで、空気中には時折紫色の靄が浮かんでいた。言うまでもなく鼻を突く激臭も健在だが、それがなくとも生体へ悪影響があると断言出来る環境であった。
「成程、確かに『紫沼』だわ」
渾神は手で鼻と口を覆い、周囲の木々を確認する。種類はほぼ一つだけだ。その葉が大きく丸い形状をしているお陰で、毒々しい色をした葉脈がよく見えた。汚染されている、と一目で分かった。
片や風神は領巾で顔の下半分を覆い、しゃがみ込んで水面を覗き込む。水とは言っても、粘度の高いそれは最早泥の塊だ。故に中の様子は殆ど確認出来なかった。
正確な答えが返って来ないとは知りつつも、風神は水面を見詰めたまま渾神に尋ねた。
「原因はどちらかしら。木? 水?」
「さあねえ。土や空気って可能性もあるけど……。どちらにせよ、ここの土や水を吸収した植物に毒性がないとはとても思えないわ。香木屋の店主が言葉を濁していたのも事件の犯人だからではなく、有害な素材であることを隠したかっただけなのかもしれないわね。否、ある意味犯人か。まあ、流石に致命的な問題を緩和させる処置は行っているのでしょうけども」
そこで風神は考え込み、ややあってこう呟いた。
「『研究所』……。何処のかしら?」
渾神は呆れ顔を風神へと向けた。
「乗り込む気? 現時点で場所が分かっているなら、対策される前に動いた方が良いとは思うけど、そうでないなら一旦引いた方が賢明じゃないかしら。木界は相手方にとって動き易い土地の筈。滞在時間を増やす程、此方は不利になるわ」
「分かってる。だから今、私が把握してる施設を思い出してる所」
「そう。なら、貴女が考えてる間に私は物証を確保しておくわね。紫沼木の一部と、一応沼の水と周辺の土も必要かしら」
そう言いながら、渾神は小刀と白い紙を取り出す。続いて刃物の方を木の幹へ当て、下に向かって動かした。一般的な樹木の物よりも柔らかな樹皮が剥がれ、直ぐ下で構えていた紙の上に落ちる。その時だった。
「ぎゃっ!」
短い悲鳴が響き、女神達は反射的に声が聞こえた方向――彼女達の頭上を見た。黒々とした木の繁みの中、まず最初に見えたのは幾つもの眼光である。やがて、それらの目は子供の頭部に張り付いているのだと気付いた。木の幹と似た色をした子供が何人も太い枝の上に座っているのだ。体重を感じさせない彼等は、まるで木々に自然と浮かんだ瘤の様でもあった。実際、彼等は樹木の一部なのだろう。「木精」――女神達が受けた第一印象と彼等の正体はほぼ一致していた。
「ああ、あ、あああっ!」
「うぎっ、ぐううっ」
「あああああっ!」
幼い姿をした木精達は次々に叫んだ。涙を流し、女神達を見下ろし、恨みがましい視線を送る。風神は思わず息を呑み、渾神は眉間に皴を寄せた。
「貴方達はここで生まれた子? 降りてきて頂戴。話が聞きたいの」
渾神がそう尋ねると、木精達は一斉に黙り込む。一様に無表情になる。その異様さに渾神もまた言葉を詰まらせるが、気を取り直して穏やかに語り掛けた。
「大丈夫よ。私達は貴方達に危害を加えないわ。だから、安心して」
だが、彼女の試みは無駄に終わる。
「――あ、あっ! ああっ、ひぎゃあっ!」
「ふぐあっ、あああ……」
再度騒々しく暴れ出した彼等に対し、今度は風神の方が動揺を見せつつ呼び掛けた。
「この木を傷付けたことを怒っているの? ご免なさい。悪気はなかったの」
けれども、彼等はやはり聞く耳を持たない。
「あああああああああ――!!」
一層大きな声が響くと共に、周囲の木々が枝を揺らし異臭を放ち始めた。沼のものとも件の香木のものとも異なる激臭である。
「ぐっ、きっつ……」
比較的鼻の良い風神は反射的に息を止め、渾神は畏怖に近い感情を抱いて周囲に視線を送った。
「成程、こうして臭いが生成される訳だ」
冷静さを装い、渾神は呟く。これ等の木々――恐らくは紫沼木の臭気と木精達の感情の起伏は連動している。感情の高ぶりによって精気が強まり、変質する前から香木であったのだろう紫沼木の性質をより鮮明にしてしまっているのだ。
つまりはこの場において木精達を刺激する言動は危険ということである。なるべく避けなければならない。風神は少しばかり間を置いてから口を開いた。
「木精、よね。媒体となった木と感覚が繋がっているのかしら?」
「可能性が全くないとは言い切れないけど稀有な現象だし、同種の媒体を持つ精霊でも個体差はある筈だから、全員が同じ状態になるとは考え難いわね」
「地上部分が違って見えるだけで、地下では繋がってるとか」
しかし、渾神は懐疑的な態度を取る。
「そういう種類の木には見えないけど。多分、彼等の思い込みじゃないかしら。『自分が怪我をさせられた』って」
「そう、なの……?」
明らかに正常な精神の持ち主ではない。風神は答え合わせを求める様に木精達を再び見上げたが、当然返事はなかった。
「やっぱり話は通じそうにないわね。有害な環境に毒されて悶え苦しむ、あの木さながらの姿だわ」
そこで渾神は思い出したことがあり、首を横に振った。続いて「ご免、ちょっと訂正」という言葉を皮切りに、形が定まり切っていない自説を述べる。
「キイルは確か『香木の変質の原因は負の思念』とか何とか言っていたわね。環境は間接的な要因なのかも」
すると風神は沼を見下ろし、難しい顔をしてこう返した。
「私はこの光景を目の当たりにして、別の考えが浮かんだわ。恋郷の効能自体が、臭いが原因じゃなくあの香に宿った木精達の思念の所為だったんじゃないのかってね。勿論、臭いにも何かしらの効果はあるのでしょうけど、飽くまでおまけと言うか副産物で、肝となっているのは実は彼等の攻撃性である様に思えるのよ」
これは重大な意味を持つ差異だ。呪詛を得意とする勢力は、紫沼木の近似種を使う者達よりも多い。もし風神の唱える説が正解ならば、恋郷を火界にばら撒いた犯人が闇神ユリスラの信奉者ではない可能性も高くなってくる。結果、黒幕の特定が今迄よりも難しくなってしまう訳で、渾神は頭を抱えたくなった。だが、一理ある推測ではあった。
「後付けではない、という話だけど?」
「正確には『手を加えられた結果ではない』よ。勘違いしてたけど、〈術〉や〈祭具〉によって外側から足された形跡がないって意味だったんじゃない? 彼等、やっぱり媒体と繋がっているのよ。そして、思いが強過ぎて一部が媒体の内側に焼き付いてしまった。疑似的な魂体として成立した訳ね」
「その辺りの分野については私も専門ではないから、肯定も否定も出来ないんだけれども……。ああ、もうややこしいわね。結論は持ち越し! 先にちゃんと調べてもらいましょう」
「ええ……がっかり」
風神は渾神のことを「自分よりも遥かに頭が良く、疑問には即座に返答出来る神」と認識していたので、当てが外れて露骨に失望を表す。渾神は思わず引き攣った笑顔を浮かべた。
「仕方ないでしょう。私を何だと思ってるのよ」
「推測位は教えてくれても……」
「あのねえ、今の段階では推測すら立てられないって言ってるの。その気もないのに事実誤認させる様な発言はしたくないのよ、危ないから」
「大丈夫よ、事実と混同はしない。だから、ね」
渾神は深い溜息を吐く。面倒ではあるが、風神が不安を拭いたくてしつこく食い下がっているのは分かっている。また、下らない押し問答で時間を消費したくない。故に、渾神は渋々ながらも相手の要望に答えてやることにした。
「まあ、彼等が本当に媒体の性質を変える能力を有しているのだとしたら、媒体以外のものにも影響を及ぼしてもおかしくないとは思うけどね。ただ、やっぱり相手が神族となると弱いというか、もう一手間掛けないと」
「そこで『研究所』か……」
ラゼブゼラの言葉を思い出し、風神はより深刻な表情になる。逆に渾神は然程悲観的な様子は見せなかった。木界に対する立ち位置の差であろう。
渾神は何気なく小刀を見詰めた。
「研究者が度々来ているなら、彼等に気付かなかった、なんてことはちょっと考え難いわよね。あんなにも人目も憚らず騒ぎまくってるんだから。と言うことはよ。木界の住人は今の状況を知った上で放置してるのよ。多分、利用もしているのでしょうね」
「惨いわね。会話出来ないとは言え、相手は同胞でしょうに。そうまでして《火》の種族を打ち負かしたいのかしら?」
「言わずともがな、でしょう。……ああ、そうか。成程ね」
また唐突に気付いたことがあり、渾神は苦笑しながら項垂れる。風神が訝しげに「何?」と尋ねると、渾神は苦笑顔を維持したまま返答した。
「オイロセよ。彼も今頭の上にいる子達と同じ状況で生まれたのだとして、余りに性質が違い過ぎると思ってね。彼には最低でも侍神候補に上がって来られるだけの理性と知性があった。その差はどうして生まれたのか。そもそも、彼は一体どうやって自然保護区の外に出たのか。木登りは出来るみたいだから越えようと思えば越えられるのでしょうけど、少なくともあの木精達に保護区外周を囲う壁の所まで移動し、且つその壁を越えようとする意志が、自然に芽生えてくるとは思えない。管理者側も対策は取ってるだろうし。だから――」
「オイロセは研究目的で自然保護区から連れ出された」
「まだ断定は出来ないわよ。今の状況になる前に移住したとか、何かしらの要因で覚醒して脱走したとか、色々考えられるし。ともあれ、自然保護区の外に出た彼は保護者なり後見人なりを獲得し、教育施設に入れてもらって高等教育を受けた。更には中央の官吏や木神にまで人脈を広げ、侍神候補へと伸し上がった。出生地を離れてから侍神選定までは、精霊の官吏としてはままある道程ね。でも、兄弟達とは大きな差。私達の知らない隠し要素がなければの話だけど」
「因みに公表されている話だと『首都近隣の森で生まれて子供の頃に首都へ移住。全寮制の教育機関で学んだ後に官吏となり、木神の目に留まって侍神候補として天界へ渡った』となっているわね。そして、侍神選定の折にペレナイカが彼に惚れ込んで火侍に指名した、と」
その答えを聞いて、渾神は顔を顰める。
「それさあ、先に言ってよ。しかも、思ってたのとちょっとずれてて恥ずかしくなったじゃない。……まあ兎も角、出身地情報が嘘だった可能性があるって確認は取れたわね。つまりは出身地に関する話で知られたくない内容があるから隠していたと考えられる訳で」
渾神は小刀を握る手に力を込める。与えられた時間は有限だ。そろそろ作業を済ませて次の方針を決めなければならない。彼女は荷物を漁り、特殊な加工が施された小瓶を幾つか取り出して風神に渡した。手伝ってもらうことにしたのだ。相手の考えを察した風神は無言のまま頷き、まずはしゃがみ込んで足元の土を掬った。
必要になりそうな物を集め終わると、渾神はそれらを確認しつつ風神に尋ねる。
「で、肝心の研究所は思い出せた?」
風神は首を横に振り、肩を竦めた。
「心当たりが有り過ぎて分かりません。外壁に何処が管理してるか書いてないかしら? 若しくは近くに集落があればそこで聞くとか」
「まあ、それしかないわよね。本当に行くなら、だけど」
「勿論、行くわよ。ここまで来たら、後には引けないもの」
「なら、暫く警戒は緩めないでね。ただし、半刻以内に判明しなければ撤退。追手が迫ってきたら即撤退。良い?」
「ええ」
同意の返事をした後、風神は頭上を見る。視線の先にいるのは、神の視線を浴びても自重しない木精の子供達だ。
「あっ、ああ、あああっ!」
「うあう……」
風神は痛ましげな表情になる。だが、渾神は淡々とした口調で彼女を窘めた。憐れむ気持ちは渾神にもあったが、表には出さなかった。
「諦めて。救ってあげたくても、今はその余裕がないわ。でも、今回の事件が明るみに出れば、木界に圧力を掛けられるかもしれない」
「分かってる。何としても解決させないとね」
後ろ髪を引かれながらも、風神は踵を返した。渾神も一度沼周辺の景色を眺めた後に、風神に続いた。
足を動かしながら渾神は考える。
(恋郷――「故郷が恋しい」か。意味合い的にオイロセが名付け親だと思うのだけど……)
先程の光景が渾神の脳裏に浮かぶ。光の薄い場所、濁り切り異臭を放つ水と土と空気、苦しみ泣き叫ぶ幼子の群れ――。彼の木精達が一様に子供の姿をしているのは、大人になるまで生きられないからであろうか。
何にせよ、彼等を傷付ける研究は当分終わるまい。現時点で彼の地の環境が改善されていないのは、未だ紫沼木の品種改良や安定生産が成功していない証拠だ。否、そもそも紫沼木は特殊な環境に対応して生じた新種ではなく、その環境に耐え切れず変質しただけの既存種に過ぎない。彼等を活用せんとするならば、現状維持を続けるより他に術はないのだ。
(彼はこんな光景を求めていたの?)
渾神には全く以って受け入れ難い価値観であった。




