20. 旅支度
謁見室を出た渾神は、その足でシャンセが泊まる客室を訪れた。
「シャンセ、ちょっと聞きたいことがあるのだけど、今大丈夫かしら?」
暇潰しの為に提供された本を読んでいたシャンセは渾神を見て微かに眉を動かしたが、数日内の彼女の来訪を予測していたので、前回の様な反抗的な態度を見せることなく静かに本を置いた。続いて、机の上で手を組んで彼は尋ねる。
「鍛冶の種族絡みですか? それとも香木?」
「香木の方よ。アエタが調査の為に木界へ乗り込むって言ってるんだけど、彼女だけじゃ心配だから私も付き添おうと思ってるの。勿論、お忍びなんだけどね。で、聞きたいのが貴方が作った〈人形殻〉についてなんだけど――」
「話が飛び過ぎて思考が追い付かないのですが。情報を頭の中で整理するので少し待って下さい」
「待てない。説明する。私が木界へ潜入するに当たって、問題点が二つあるの。一つは、高位神が侵入すれば、幾ら気配を隠そうとしても木界の主である木神イスターシャには必ずばれるということ。しかも、一方は邪神認定されてるからね。警戒するなって方が無理でしょう。もう一つは、私がアミュの側から離れるとその隙を狙って殺神や魔神があの子を襲いかねないってこと。だから、私はこうやって――」
渾神の肉体が突如半透明に変わり、ややあって横に伸び、二つに分かれる。分裂後、夫々の個体が元の渾神と同じ姿を形作ると、彼女等の肉体は元の不透明なものに戻った。そして、二体となった渾神の内の片方が話を続けた。
「肉体と神力を《光》側の《元素》に近い塊とそれ以外に分けて、《光》寄りの分体は外見を変える〈神術〉を使わずに〈人形殻〉を被って木界へ送り――」
次にもう一方の渾神が語り出す。
「《光》から遠い分体を火界に残して、魔神や殺神の攻撃に備えようと思ったの。この方法だったら、ある程度は誤魔化せるかなと」
シャンセは眉間に皴を寄せた。唯でさえ面倒な邪神が更に一体増えたのだから。だが、彼は自身の表情について別の問題が原因である様に振る舞った。
「徹底していらっしゃる。香木の調査結果は余り芳しくなかったらしい」
「芳しくない所じゃないわよ。洗脳用に品種改良された植物の可能性が出て来たんだから。しかも、木界出身の前火侍まで絡んでる、と」
「もうこの問題は放置して、早急に火界から脱出した方が良いのではないですか?」
夜色の瞳が監視役が配置されていない窓へと向く。彼の表情に躊躇の色はない。きっと面倒な他所事に巻き込まれたと思っているに違いない。鍛冶の種族の件も合わせれば、立て続けに二度の飛び火である。渾神は苦笑した。
「神族の王に仕える天人族にあるまじき発言ね。地界が不穏な上に火界と木界が戦争になったら《光》側世界はほぼ総崩れになるわよ」
「災厄の神がよく仰る」
「『災厄の神』じゃなく『変革の神』ですう。皆が私の試練を乗り越えられなかっただけですう。まあ、その問題は一先ず置いておいてよ。貴方に確認したかったのは、〈人形殻〉の仕様についてなんだけど、あれって〈神眼〉や〈千里眼〉による透視は防げるの?」
「流石に〈神術〉相手は無理ですよ。特に高位神であらせられる木神様が相手なら、確実に中身は丸見えになります」
「改造による対応は?」
シャンセは折り曲げた指を顎に当て、視線を落とす。短い時間考えて、彼はこう返答した。
「可能です。しかし材料や環境、時間等の問題から、今それを実現するのは難しいとお考え下さい」
「そっかー、まあそうよねえ。良い案だと思ったんだけど……」
渾神は深々と溜息を吐き、天井を見上げる。短い間、沈黙が落ちた。しかし、その間も彼女とシャンセは各々良案を模索しており、やがてシャンセの方がある提案をした。
「いっそ神であることは隠さず、別の神に偽装するのはどうです? 例えば昇神や下位神ならば、風神様に随伴する神として納得してもらえるのでは。風神様については元より木界への出入りが多いと伺っておりますので、木界の住人に疑われる可能性も低いでしょうし」
「それなら可能なの?」
「風神様の血液を少量頂ければ。簡単には落ちないよう、別の薬剤と混ぜて〈人形殻〉の内部全体に塗布し、《風》の神気を纏わせるのです。そうすれば木神様も違和感を抱かれず、望遠機能は使用されても透視までは行われないのではないかと。〈千里眼〉は意識しないと出力調整が出来ず、連動して神力の消費量も増減するという話ですから、不要であれば通常は高出力での使用を避ける方向に動く筈です。仮に透視を使われたとしても、素材に木神様と同格の神の御身体の一部を含んでおりますので、ある程度視覚を阻害出来るでしょう」
「その作業に掛かる時間はどれくらい?」
「素材と〈祭具〉製作用の乾燥機があれば二、三日で」
腕を組み唸った後、渾神は机の隅に腕を伸ばす。そして、そこに置かれていた紙束と筆記具をシャンセの前に移動させた。
「了解。必要な物を紙に書き出して。調達してくるから」
「承知しました。ですが、大丈夫ですか? 神力の分割は個々の分体の能力が弱化することも意味しますよ」
「木界については、どの道地の利は相手方にある。戦闘になりそうだったら、直様撤退するわ。火界で事が起こったら、貴方達にも協力してもらうことになると思う。いざという時はアミュの救出と脱出最優先で。一応、私に何かあった時の為に火神宮殿の間取りとあの子の居る場所を描いて渡しておくわね」
シャンセが首肯し命じられた仕事をする横で、渾神は部屋の隅に置かれていた椅子の許に行き、机の前まで持って来る。次に紙と筆記具の一部を貰い、紙面に線を引き始めた。
◇◇◇
「ご免なさい。そういう訳でこの部屋の警備を増やしてもらうことにしたの。落ち着かないかもしれないけれど、少しの間だけ我慢して頂戴」
シャンセの部屋から自分の滞在する客室に戻ると、渾神はアミュに軽く事情を説明した。心配性のアミュを不安にさせる可能性のある部分は省いた。申し訳なさそうに詫びる渾神に、アミュはやはり怯えている様な反応を見せたが、立場的にも状況的にも相手を止める筋合いがない。よって、彼女は素直に「分かりました」と返した。
アミュの様子を見て渾神の方も不安気な顔にはなったものの、部屋の扉へと視線を送り立ち上がる。
「じゃあ、私は準備があるから行くわね。今夜には戻って来られると思う。本当にご免なさい」
「いいえ、大丈夫です。行ってらっしゃいませ」
その遣り取りを最後に、彼女達は離れ離れになった。
物音一つしない部屋で一人になると、アミュは暗い顔をして俯いた。
(「邪神」と罵られても、渾神様はあの人達を守るんだね。放っておけばいいのに)
アミュが同じ立場であったなら、迷わずそうしただろう。しかし、その判断が間違いであるとも自覚していて――。
(でも、それはきっと駄目なんだよね。あの方は神様だから。私だけを守ってくれる存在じゃない)
ふと、嘗ての魔神の言を思い出す。
――彼等が犯したのは「無能の罪」だ。
リョリョオ山付近の上空で、罪人達の終の棲家を見下ろして放たれた言葉だ。それはアミュにも振り掛かる内容であった。
(それが世界の法律なら、私も何時か罰を受けるのかな。だって、こんなにも何もかもが出来ていない)
アミュは膝の上に置いていた小さな手を握り締めた。次に、魔神の別の発言が脳裏に浮かぶ。
――「世界に貢献できない無能なる者は確かに消えるべきだが、全ての存在は多かれ少なかれ例外なく世界に影響を及ぼしている。故に、実質完全な無能者など存在しない」と言うのが天帝達の方便だった。
過去にアミュを理不尽な理由で投獄した神の話だ。その主張だけを聞けば、真っ当な考え方の持ち主である様に思える。だからこそ、大勢の信任を得ているのだろう。しかし彼は、何だかんだ言い訳しながらも一貫してアミュを助けてくれているシャンセとも敵対関係にあった。
(なら、シャンセさんは? あの人は天帝様と対立している。と言うことは、やっぱり無能な者は死ぬべきと考えているの? 悪い人ではあるのだろうけれど、そこまでの人なの?)
自身の考えを否定したいアミュの思いとは裏腹に、頭の中に湧いた魔神の言葉が不信感を煽る。
――シャンセは選別で生き残った側だから、君と同じ考え方はしないんじゃないかな。
信じたくはない。だが、筋は通っている。利害が一致しているから共闘しているだけで、シャンセは決してアミュの同志でも庇護者でもない。シャンセ自身がアミュの前で同じ趣旨の発言を繰り返していた。しかし、そこまで思想に違いがあるとは思わなかった。元より仲間と呼べる間柄ではないのに、裏切られた気分になった。
先日の渾神の発言も相俟って、アミュの内に絶望が涌いて来る。力ある者は非力で不幸な彼女を追い詰めるばかりで、誰も守ろうとすらしてくれない。そう思った時であった。
「君自身は誰のことも守ろうとしないのに、渾神やシャンセには君の心までも守ってもらいたいと思うのだね」
「……!」
アミュの耳元で魔神の声が響いた。彼女は驚いて振り向くが、誰もいない。室内を隈なく探しても同様であった。
「空耳?」
何時の間にか息を乱し汗を掻いていたアミュは、呟いた後に漸く落ち着きを取り戻し、元居た場所に座り込んだ。
先程の声は自分の心の内から出たものだったのだろうか。それが魔人の声を借りて表れた、と。何れにしても、アミュはその言葉を思い出して苛立った。
(仕方がないじゃないか、私には何の力もないのだから。無能の罪を否定した癖に、無能な私を責めないでよ!)
胸の内で暴言を吐いた所で、渾神の穏やかな声がアミュを諭す。
――ただ、緊急時ではなく貴女に充分な力が備わっていた場合には、今の貴女の判断は間違いなのだと知っておいてね。
渾神の言は正しい。彼女に限らず、皆が正論を言っている様に聞こえる。だが、アミュは納得出来なかった。仮定の話に意味はない。現に彼女は無力であるのに、皆、自分の都合ばかりを優先して無理難題を押し付けて来る。誰も彼女を大事にしてくれない。きっと、心の底からどうでも良いと思っているのだ。どうでも良いなら、いっそ捨て置いてくれたら被害が大きくならずに済むのに、という念を込めてアミュは深い溜息を吐いた。
(駄目。無理。やっぱり私には出来ない。力があってもきっと何も出来ないし、やりたいとも思わない。渾神様に「渾侍にはなりません」って伝えないと)
そこで、アミュは目を見開いた。
(そうだ。そもそも、私の旅は不変の呪いを解く為のものだった。渾神様にお願いして渾侍を辞めさせてもらえば終わる話じゃないか!)
青白かった頬が紅潮する。アミュは笑みを浮かべて立ち上がった。背中を押す様に新しい視点が彼女の頭に舞い降りる。彼女にとって都合が良く、正確ではない考えだ。
(ひょっとして、地神様が地上人族の祖先を隠したのは、無能の罪で処刑されるのを防ぐ為だったんじゃないの? それって結局、地上人をちゃんと守ってくれるのは生みの親である地神様だけってことなのでは? ……何だ、やっぱり皆自分に都合の良い話しか言ってないじゃないか。本当に信用出来ない。うん、早く地上人に戻って地上界に帰ろう。そして、今迄通り地神様に守ってもらおう)
胸に詰まっていた重石が取り除かれ、身体全体が軽くなった気がした。アミュは祈りを捧げる様に手を組み、目を瞑る。
「渾神様、早く帰って来て」
だが、アミュの期待も空しく渾神がその日の内に戻って来ることはなかった。翌日も「戻れない」と渾神は火人族の官吏に言伝をした。必要物資の調達が予想以上に難航しているのだそうだ。結局、渾神がアミュの許に帰還したのは、彼女の分身が木界に旅立った後であった。
◇◇◇
火界中心部郊外の上空で火神宮殿にいるアミュ達の様子を監視している者がいた。魔神シドガルドである。先程アミュが聞いた彼の声も空耳ではなく、正しく彼の仕業であった。アミュの心が自分の思惑とは異なる方向に動きつつあることを知り、彼は思わず苦笑する。
「これは随分と腰が重い。さて、どうしたものかな。仕掛けるなら、渾神の一方が火界を出てからだろうが……」
形の良い口から小さな溜息が漏れた。現在、火神宮殿には渾神の他にも火神や傘下の神族、風神まで滞在している。反乱発覚から大して時間は経っていないことと渾神の進言もあって、警備は平時より厳重だ。仕掛けるなら追加戦力が欲しい所であるが、それを何処で調達するか。
策を練りつつ火神宮殿の周囲を窺っていると、ふと覚えのある神気を感じて魔神は其方へと振り向いた。近くではない。〈千里眼〉を使わなければ見ることが出来ない遥か遠方――火界の境界辺りだ。
「おや、あれは」
魔神は、にやりと片方の口角を上げた。
火界の片隅で人知れず死んだ男がいた。死亡原因は不慮の事故だ。生命の火を失った彼は、火界の熱に負けて炭と化していた。彼には身内も知人も存在するが、旅先で数日内に起こった出来事を知る者は未だ誰もいない。そんな男の傍らで、一柱の女神が黙祷を捧げていた。他界から来た女神は男の遺体を門として出現した。だから、この行為には感謝の意も込められていた。
施しの時間が終わると、女神は火神宮殿を見る。そうして深々と溜息を吐き、呟いた。
「参ったわね。流石に応援を呼んだ方が良いかしら」
「やあ、久し振りだね! 困っているなら、手を貸そうか?」
「ひゃあっ!」
自分と死体以外には誰もいない筈の空間に、第三者の声が響く。女神――殺神リリャッタは思わず素っ頓狂な悲鳴を上げ、飛び退きつつ振り向いた。すると、声の主は哄笑した。
「可愛い声を上げるじゃないか。そんな調子で大丈夫かい? ここは敵地だよ」
「あ、あんた! あんた、魔神ね! それ、地上人の身体でしょ。何てことしてくれてんのよ。って言うか、こんな所で何してんのよ!?」
知り合いであるが故に、依代の内に潜む本性を一目で見抜いた殺神は、彼の肉体を指差して怒る。だが、魔神は動じなかった。
「人材確保の為の調査だよ。狙ってる相手は多分同じじゃないかな」
「貴方も渾侍を?」
途端、殺神は顔色を変えた。魔神の背景は彼女も聞いているし、《闇》側世界が内包する確執も身を以て知っている。内乱の火種――それが今、目の前にあった。けれども、魔神は将来敵となり得る彼女に対し、自分の思惑を隠さなかった。隠す程のことでもないと思っているのか、殺神を侮っているのか。ともあれ、魔神は彼女に追加情報まで与える。
「彼女とシャンセを」
殺神は「ああ……」と呻きにも似た声を漏らし、片手で顔を覆った。彼女の神気には先程とは別種の怒りが染み出していた。
ややあって殺神は顔から手を離し、魔神を真っ直ぐに見詰める。
「じゃあ、黒天人の方は譲るから渾侍は此方に寄越しなさい」
「良いのかい? 彼女は君と同じ――」
「あの娘は渾神に巻き込まれたとは言え、《理》に背いて生き永らえている。可哀想だけど、仕方がない」
「《理》、ねえ」
殺神は覚悟と悲嘆を、魔神は怒気と嫌悪感を滲ませて共に黙り込む。暫くは砂を巻き上げる風の音だけが響いていたが、やがて微かに冷気を帯びた声で魔神は喋り出した。
「まあ良い。その条件を呑もう。だが君、まさかとは思うが無策で火神宮殿に突っ込むつもりじゃないだろうね?」
「どうするかは今から考えるのよ」
ぷいっと顔を背ける殺神を見て、魔神は意図せず笑声を漏らしてしまった。神としては比較的幼い彼女だが、それ故に子供に抱くような愛おしさも涌いて来る。魔神は彼女に、同じく地上人族の出であるアミュの姿を重ねた。
「策の用意がないなら、私から一つ提案があるのだけど」
魔神は喜色満面で呼び掛ける。しかし、殺神は彼の笑顔を嘲笑と勘違いして頬を膨らませた。
「何よ?」
「ふふっ、そう急かさないで。アミュを君に譲る代わりに、君には私の実験に協力してもらいたいんだよ」
そう言うと魔神は火神宮殿へ顔を向け、続いて殺神も同様の動きをした。




