18. 追究
火神宮殿内部に設けられた貴人用宿舎は、現在四室が埋まっている。一室は神族専用の建物にあり、渾神とアミュが使用している。残りの三室は隣接する別の建物で、シャンセ達に貸し出されていた。今、火界に滞在している賓客は外交官を除いては彼等しかおらず、宿舎の部屋は全て空いていた為、渾神の従者の扱いとなっているシャンセ達も皆個室を使わせてもらえたのである。
その日、渾神が訪れたのは非神族用の宿舎の一室――シャンセの客室であった。彼女は渾侍であるアミュも監視役の侍女も伴わず単身で現れた。
「シャンセ、今良い?」
渾神は事前の確認なく入室し、悪怯れずにそう尋ねた。不躾な態度にシャンセは少しむっとした表情になったが、敬語を使って従者然と振る舞おうとする。宮殿の住人に盗み聞きされている可能性があったからだ。彼等に悪印象を与えないよう、〈守秘陣〉を含む各種〈術〉は使わないことにしていた。共に余計な面倒事を増やさない為の措置である。
だが、頭では受け入れるべきと分かっていても肉体が拒絶してしまう相手はいるもので、彼の試みは失敗に終わった。
「……何か?」
「そんな嫌そうな顔しないでよ。ちょっと、ペレナイカから宿賃代わりに頼まれた仕事があってね。貴方にも協力してもらいたいの」
シャンセは眉をぴくりと動かす。敬語を使いながらも、声音は険のあるものへと変わる。
「そのご質問にお答えする前に、私から渾神様に一つお尋ねしたいことが御座います。ご返答次第では以降の協力は致しかねますので、予めご承知おき下さい」
「ちょっと、今更何? 私を良く思っていないのは知ってるけど、仲間割れしてる状況じゃないって分からない?」
「お前は私の味方か?」
「何ですって?」
不快感に耐えかねたのか、盗聴の恐れがあるのも忘れてシャンセの口調は乱暴になる。
「渾神よ、お前は自身を永獄送りにしたアイシアを恨んでいるな。そして以前、アイシアの元婚約者である私に対しても嫌悪感を匂わせる発言をしていた。にも拘らず、可愛がっているアミュの側に私がいる件について未だ言及がない。私を利用するつもりでいるのは明らかだが、それは何時まで? 具体的にどういった理由で私は許容され、どの程度まで我が身を削ることを強いられる? 身の安全を保障しない猛獣に餌をくれてやる程、私は愚かではない。そうする位なら、多少の怪我は覚悟しても餌を与えず、相手が衰弱死するのを待つに決まっているだろう」
「成程、身の程を弁えない無礼な言い様だけど、今迄の私達の関係を考えれば尤もな意見ね。でも、そこは曖昧にしておいた方が貴方の為じゃないかしら? 現状では良い方にも悪い方にも動く可能性があるものが、口に出して確定させることによって逃げ道を塞がれてしまうかもしれないのだから」
「その詭弁に従って破滅した者が大勢いるというのにか?」
「救われた子だっている筈だけどね。まあ、今回に関しては私の側に沈黙する理由は全くないし、真意を打ち明けなければ協力しないというのであれば話すけれども。貴方を見逃す理由は単純。自陣の戦力が足りないからよ。最近だと、天界と魔神と冥神を相手にしなければならなくなったでしょう。手が足りないのよ。猫の手も借りたいくらい。だから、利害が一致していて、尚且つ偶々近くにいる貴方をまず受け入れると決めたの。個人的な感情を横に置いてもね。って言うか、逆にこっちが聞きたいんだけどね、貴方が何処まで力を貸してくれるのかって。貴方は私の――いいえ、アミュの味方になってくれるの?」
すると、シャンセは溜息を吐いた。
「そのつもりはない。あれは飽くまで唯の駒だ。利用価値がなくなるか、足手纏いになった時点で切り捨てる」
「はっきり言うわね。足元を見られているのかしら、私?」
苦笑混じりに漏れ出た言葉にシャンセは応じなかったが、表情から微かに緊張感が抜けたのを見て、渾神は彼が何かしらの結論を得たことを察した。だが、彼が話の内容を脳内でどう処理したのかは不明だ。もしかしたら、想定していた通りの答えが返って来て、無駄な労力を費やす羽目になったと思っているのかもしれない。しかし、渾神の方はこの会話を「全くの無駄という訳でもなく、寧ろ協調の為に必要な儀式であった」と評価した。
「それで、火神様の頼み事とは何です? 鍛冶の種族関連ですか?」
口調を再び丁寧なものに戻し、シャンセは渾神に尋ねる。顔は相変わらずの渋面だ。如何なる仕事であれ、この女神が関わるのだから碌な内容ではあるまい。彼は渾神を頼らざるを得ない程に追い詰められた火神の精神状態を憂慮した。
「当たらずとも遠からずといったところかしら。取り敢えず、これを見て。鍛冶の種族の里から見付かった物よ」
渾神は指に引っ掛けていた小さな巾着袋を開いて、もう一方の手の上で逆さにした。すると、彼女の掌に小さな木片が零れ落ちる。シャンセはその木片を見て尋ねた。
「何ですか、これは?」
「香木よ。成分等については、火人族の研究者が調べてくれている所なのだけれどね。まずは匂いを嗅いでみてくれる?」
「それは……」
シャンセが本能的に警戒を強めたのを感じ取るが、渾神は普段の様に笑いはしない。苛立ちや余裕のなさが滲み出ていた。
「何も企んでないわよ。面倒な子ね。時間が惜しいから、早くして頂戴」
今度はシャンセの方が苛立ちを覚えたが、問答無用といった態度の渾神から変事の気配を感じ取り、促されるがままに香木を受け取る。次に彼は香木を摘まんで鼻に近付け、大きく息を吸い込み、そして味わう様に瞼を閉じた。
間を置いてシャンセは目を開き、天井を見る。暫く考え込んだ後、彼はこう呟いた。
「ああ、そうか。そういう……」
「何か分かった?」
渾神が尋ねると、シャンセは再び香木に目を向ける。
「この香り、確かに鍛冶の種族の里と火神宮殿の両方で嗅いだ覚えがあります。恥ずかしながら、今になって漸く気付きました。つまりは火界の中央に内通者がいるということなのですね」
だが、渾神は首を横に振った。
「私は全く別の推測をしているわ。兎も角、貴方はこの香木の臭いを認識出来たのね」
「はい、仰る通りなのですが……認識出来ない者も存在すると?」
「ええ、ペレナイカと彼女の傘下の神族、火精と火人族の一部がね。だから、他の種族はどうなのかと思って、貴方にも協力してもらったの。因みに、私とアミュはこの臭いを嗅ぎ取れました。光精達にはまだ試してもらっていないけど、後で彼等の部屋も訪ねるつもり」
「《火》の種族――取り分け特定の者のみが認識できない匂い、ですか」
シャンセは口元に手を当て、やや俯き加減になる。彼の豊富な知識の中から類似する例を探し出さんとする。そうした様子の彼を支援しようと、渾神は追加情報を提示した。
「厳密には火神宮殿や眷族の王城勤めの者だけが認識出来なくて、これらの場所に立ち寄る機会のない平民には認識出来たのよね。あと、捕縛された鍛冶の種族の残党は実験への協力を拒否したから結果は不明、と。今の所、分かっているのはこれ位だけど、恐らく同じ種類の香木、或いはそれを原料とした練香や香料等を多用した者が臭いを認識出来なくなってるんじゃないかしら。ただ、不思議なことに臭いが分からなくなった後もこの香木を使い続けてるのよねえ、彼等は」
「ぶっ!」
思わず素っ頓狂な声を上げ、シャンセは香木を床へ叩き付ける。直後、彼は渾神を睨み付けた。
「中毒性のある物を私に嗅がせたのか!」
表面上の敬意は再び吹き飛んだ。最早取り繕っている場合ではない。悪意なく味方にすら害をなす彼女はやはり邪神以外の何者でもない、とシャンセは再認識する。
「ごめんごめん。私が何度か嗅いでも問題なかったから、一回位なら大丈夫なのかなーと思って」
渾神は苦笑した。一応、悪行を自覚する機能は有している様だ。けれども、シャンセの怒りは治まらない。
「神族と人族とでは身体の作りが違うのだぞ! しかも、高位神である火神さえも汚染しているのだろう、その危険薬物は!」
「大丈夫だって。気にし過ぎよ。ともあれ、シャンセ」
渾神は唐突に真顔になった。それを見たシャンセも俄かに頭が冷える。努めて落ち着いた声で、彼は渾神の言葉に応じた。
「何ですか?」
「何時でも逃げられる準備はしておきなさい」
何も起こらなかった時のことを考えてか、渾神は自身の想定の詳細を語らなかった。しかしながら、此方に被害が及ぶ事態を見越しているのはシャンセにも伝わる。そして、彼女の危惧はシャンセから見ても正しく思えた。故に、彼は「承知しました」と答えた。
返事を聞いた渾神は物言わず頷く。然る後に別れの挨拶をし、彼女は部屋を去って行った。
◇◇◇
シャンセの部屋から神族専用区画へ戻る途中、渾神は中庭を鑑賞しながら歩いた。その空間は火の粉を纏った朱色の葉と黒色の幹を持つ木々に三方を囲われており、地面には金色の砂利が敷き詰められ、見上げる程に大きな赤色の群晶が中央に置かれている。実に《火》の《顕現》世界に相応しい美景だ。きっと焼物の種族が造園したのだろう。
渾神が暫し心を奪われていると、不意に神気を帯びた微風が彼女の肌を撫でた。風上の方へ振り向くと、少しばかり離れた場所に風神アエタが立っていた。
「あらアエタ、隠れていなくても良いの? 私や火界の住人の監視役を務めているのでしょう。貴女の仕事に支障が出るのではなくて?」
渾神が声を掛けると、風神は彼女へ近付いてくる。風で乱れた髪を軽く整えながら、風神は渾神の問いに答えた。
「まあ、そろそろ頃合いかなって。で、そっちの進捗は?」
風神の平然とした態度に苦笑しながら、渾神もまた素直に返答する。
「成分やら何やらについては、まだ分析結果待ち。今の段階で分かっているのは、火界の中央に居る者が種族を問わずあの香木の匂いを認識出来てないっぽいってこと位かしらね。後は所在が判明している香木の回収とか、入手経路の調査とか、色々提案しておいたわ」
「ペレナイカや彼女の眷族達は貴女の提案を受け入れてくれそう?」
「何とかね。彼方も件の香木の怪しさに気付いて内心不安に思っているみたいだったから」
「そうなんだ」
風神は政庁のある区画を見た。その奥には火神の住まいと、現在は彼女の身辺の世話をする臣のみが暮らす後宮が隠れている。
「どうする? ポルトリテシモに報告する?」
口の端を釣り上げて渾神は尋ねた。嫌味である。真っ当な返事は期待していない。
「何れはそうせざるを得なくなるでしょうね。問題は何時それを行うかで」
風神は「直近では」是とも否とも解釈出来る返しをした。渾神の顔から笑みが消える。
「今は時節ではないと思っているのね?」
「分かってる癖に。私を試してるの? 相変わらずなのね」
眩し気に遠くを見詰めていた風神が、そう言って振り向く。彼女の口元は微笑を形作っていたが、眉間には皺が寄っていた。怒りをぶつけたいが、状況が許さないから我慢しているといった表情である。だが、他者から敵意を向けられることに慣れている渾神は、然程意に介さなかった。
「気を悪くしたなら謝るわ。私の癖なのよ。確かに木界――と言うか、イスターシャが絡んでるなら不用意に動けないわよね。大事になってしまうもの。まあ、彼女はこういった事件を引き起こすような性格じゃないから、大方部下が勝手にやったんでしょうけど、それでも確たる証拠が欲しい所だわ」
「ねえ、ヴァルガヴェリーテ」
「なあに」
「貴女はペレナイカの味方?」
その問い掛けと共に送られたのは、射る様な眼差しだった。けれども、其処に悪意の色はない。超越者たる神族に相応しい高圧的な態度である。渾神は一瞬言葉を詰まらせるも、次に腕を組み小さく唸る。彼女の一連の動きはどれも演技めいていたので、風神は僅かながら苛立ちを覚えた。
暫くして、渾神は小首を傾けた。
「どうかしらね。誰かが私や私の身内の敵になろうとしない限り、基本的に『渾神』という存在は万物に対して平等であるべきだと思うの。其処は他の外神達と同じ考え。ただ、私の行動の結果、不利益を被る者は確実に存在するのでしょうね。それを以て敵と断ずるかは、受け手側の問題だと思うけど」
渾神の日頃の行動と大凡整合性が取れている答えだ。違和感はない。彼女は事もなげに嘘が吐ける女神であるが、この言葉に限っては偽りの部分はないのではないかと思わせた。だが、内容については良くも悪くも風神が期待したものとは異なっていた。
「無責任ね」
風神は冷ややかに言い放つ。「散々引っ掻き回す癖に責任は取らないのか」という意味を込めて。対して、渾神はくすりと笑って肩を竦めた。
「《渾》の《顕現》神の職務を正しく遂行した結果よ。ところで、貴女こそどうなの? 今回の内輪揉め、誰に味方するつもり? 貴女の動き次第では三度目の大戦が勃発するかもしれないわね」
「無論、私が正しいと思う者の、よ。それが誰かを知る為に更なる調査が必要だわ」
そう言って、風神は片手を上げる。〈神術〉を使うつもりなのだ。恐らくは先程彼女が言った「調査」を行う為に。
「成程、《風》の《顕現》神らしい自由奔放さね。いっそ公平にも見えるわ」
渾神は風神から離れながら皮肉を吐く。胸の内では相手を嘲笑し、「言葉だけはね」と付け加えているが。
(気付いてる? 貴女がペレナイカやポルトリテシモに掛ける声と彼等以外の者に向けて放つそれとでは、込められた熱量が僅かばかり違っていることに。自由である筈の貴女は、何時しか特定の他者に捕らわれる様になった。これをどう解釈するべきなのでしょうね。貴女の本質たる《元素》に沿った変化? 或いは《元素》に背いた変化なのかしら?)
全てを無自覚で行っているのだとしたら実に哀れだと渾神は思った。
間を置かず、風神の手の周囲から風が起こる。初めの一吹きは緩やかに、直後強風となって火神宮殿全体に襲い掛かる。宮殿の住人も風神の来訪と暴挙に気付いたであろう。後から苦情を言われるに違いない。
「火神宮殿の中を調べたいなら、私が許可を貰いに行ってあげたのに」
「まどろっこしいから、事後承諾で良いわ。吹き飛ばされないよう、近くの柱にでも掴まっておきなさい」
「せっかちねえ」
そういった配慮は〈神術〉を発動させる前に行ってほしかった、と内心で愚痴を零しながら渾神は側にあった円柱に掴まる。正常な歩行を困難にする強さの風であるが、大きな石造りの柱が抜ける程ではないらしい。渾神は土が入らないよう目を瞑り、時が過ぎるのを待った。
やがて風の収まりを肌と耳で感じ、渾神は風神から促される前にゆっくりと瞼を開く。そうして、目に飛び込んできた光景に、彼女は思わず「げっ」と汚い声を上げた。
眼前に広がるのは中庭の惨状だ。庭木は折れ、砂利は四散し、群晶は根本が割れて柱が方々に傾いている。芸術家気質の焼物の種族の矜持か趣味か、天宮さえ凌ぐ程に美しく造られていた中庭の哀れな最期であった。
「これは後始末が大変だ……」
狼狽するヴリエの姿が脳裏に浮かび、渾神は顔を引き攣らせた。女神達に害を及ぼさないでおくことも出来たのだから、同じ気遣いをこの中庭に対しても行えば良かったのに、とも思った。
しかし、狡猾な神は直に気持ちを切り替える。
「で、何か役に立ちそうな物は見付かった?」
「ええ。小さい方は後から宮殿の住人に集めさせるとして、まずは大きい方から当たりましょう」
目的の場所を指差し、風神は微笑んだ。
「『大きい方』って、まさか原木?」
その問いに風神は「さあ」と返す。
「念の為、鼻を覆っておいた方が良いかもね」
言い終わるや否や、風神は合図もなく宙へ舞い上がり、先程指差した方向へ飛び去る。渾神は呆気に取られて遠ざかっていく背中を眺めていたが、程なく我に返り、慌てて後を追った。




