16. 死者の残り香
地界から侵入した間諜達の取り調べを一通り済ませ、彼等から聞き出した情報の裏付け調査を眷族に命じた火神ペレナディアは、それより暫く経過した某日に渾神ヴァルガヴェリーテが宿泊している部屋を訪れた。時間は正午頃。渾神はアミュと共に昼食を採っている最中だった。そこで漸く火神は今が食事時であることを思い出した。
「ご免なさい。時間帯が悪かったわね。すっかり忘れていたわ」
「大丈夫よ。気にしていないわ。でも、あんまり根を詰め過ぎないでね。状況が状況だから気持ちは分かるけれども。それで、何かあったの?」
「ええ、まあちょっと……。ヴァルガヴェリーテ、申し訳ないんだけど食事が終わってから私の部屋まで来てくれない? 話があるの」
「今からでもいいわよ。内容が気になるから。ご免ね、アミュ。少しお留守番していて頂戴」
渾神は腰を上げながら、アミュの背中に触れる。その瞬間、アミュは小さな身体をびくりと震わせたが、直に落ち着いた様子で渾神を見上げて「分かりました」と返事をした。渾神は従順な侍神に微笑みと頷きで応え、火神と共に部屋を離れた。
火神の居室へと到着し、人払いが済んだ後、渾神は自身を招いた部屋の主人より先に口を開いた。
「思っていたより早かったわね。もう少し時間に余裕があると見越していたのだけれど」
「何の話よ?」
「私を利用しようと思って滞在を許可したのでしょう。何を頼みたいの? 今の情勢を鑑みると、やっぱり内乱が関係しているのかしら」
「まあ、当たらずとも遠からずと言うか……。まだ確定じゃないんだけど、もしかしたら頼みごとをするかもしれないから、事前に声を掛けておこうかと思ってね。急ぐ用事じゃないの。食事を中断してまで付いてこなくても良かったのよ」
火神はそう言って眉尻を下げた。はっきりしない態度で、躊躇している様にも見える。渾神は焦れったく思い、少し探りを入れてみることにした。
「私に頼む位だから、結構深刻な用件なのかしら?」
「ううん、まだちょっと何とも言えなくて。ただ、今は内乱の後始末に人員を割いているから、手が足りないのよね」
だが、渾神は火神の言葉をそのままには受け取らなかった。火神は居室へ入った折に眷族達を退けている。彼等には話の内容を知られたくないと考えているのだ。ならば、渾神に話を持ち掛けたのも人手不足が理由ではあるまい。
「状況が何も分からないから可能かどうかの判断も私には出来ないのだけど、もし可能なら先に概要だけでも聞かせてもらえない? 一応、此方も心の準備というものがあるから」
渾神の催促を受けても火神は暫く悩んでいたが、渾神の憂慮は尤もであったので、やがて観念して語り始めた。
「今回の件、地界が関与していたという話はしたと思うのだけど、具体的には新造の〈祭具〉を反乱を計画していた鍛冶の種族へ秘密裏に流していたらしいの。でも、ヴリエ達が反乱を察知したことに気付き、慌てて回収しに来た。で、運悪く私と鉢合わせて彼等は捕らえられた訳なのだけど――」
「尋問の相手はその時捕らえた子達?」
「そう、砂神ブレスリトと奴の部下達」
「……思ったより上の方が出てきたわね」
「その様子だと、シャンセからは何も聞いてないみたいね」
「聞く前に部屋分けされて、ばらばらになっちゃったからね。常に見張りが張り付いてるから、外出し辛いし」
渾神は自身が置かれている環境に対する苦情を匂わせてみるが、相手は疲れ切った様子で一向に伝わっていない。火神は深々と溜息を吐いて「本当に何をやってるんだか」と地界の住人達への愚痴を呟いた。
「それで話の続きだけど、連中の所持品の中からちょっと変わった物が見付かったの。奴等は兵器を無償で与えていた訳ではなく、取引した上で渡していたみたいなのだけど、鍛冶の種族側から対価として受け取った品の中にこれがあったらしいわ」
火神は戸棚から細かい細工の入った箱を取り出し、机の上に置く。蓋を開くと箱よりも更に複雑な意匠の彫刻が施された木製の円盤が姿を現した。円盤の上部には紐が通されており、何処かに提げて使用する装飾品であると推測出来た。
「これは腰飾り、かしら。古い物の様だけど、細工の細かい良い品ね」
「因みに推定木界産。貴人向けね」
「根拠は?」
「似た物があるのよ。意匠も昔木界で流行ってたものだし。勿論、偽装の恐れもあるけどね」
うっすらと炎を宿した瞳が箱を捕らえる。《火》の《顕現》たる女神は箱の淵を何度も優しく撫でた。
「一応交流はあるけれど、基本的に《木》は《火》に対して圧倒的に弱いから、火界の住人が木界へ行くことはあっても、逆は珍しいの。来たいとも思わないんですって。だから、火界で木界に属する存在と言えば、ほぼ全員が同じ者に思い至るのよ」
机の上に置かれていた火神の手が拳の形を作る。しかし、彼女の神気は微かに熱を増しただけで、勢いは穏やかであった。手元にある木製品が燃えて消えないよう、意識して抑えているのだ。それを可能とするだけの冷静さが、火神にはまだ残っていた。
「先代火侍オイロセ。否、もう先々代か。確か元木精だったわね。貴女の恋人の一人でもあったようだけど」
渾神は先回りしてその名を言った。すると、火神の神気が少しだけ勢いを失う。
「そうよ。とっくの昔に冥界へ行ってしまったけどね」
「要するに、貴女はこの腰飾りが鍛冶の種族を焚き付ける為にオイロセから下賜された物かもしれないと考えているのね。流石にこじ付けじゃない? 数は少ないけど火界と関わる《木》の種族は他にもいるし、間に他種族を挟んだ取引なら割と頻繁に行われているでしょう。第一、彼が生きていた時期と鍛冶の種族が反乱を企てた時期が離れ過ぎているもの」
「私も概ね同意見ではあるのだけどね……」
火神は再び溜息を吐く。彼女らしからぬ弱気な態度だ。この件に関して相当に精神を消耗したらしい。
目を伏せ首を傾けた渾神は、短く唸った後に火神の方へと視線を戻す。
「成程、ブレスリトが言ったのね。その不確かな情報を根拠として、彼は今回の反乱の黒幕は地界ではなく木界だと主張した訳だ」
「『木界が黒幕』とまでは言わなかったけどね。ただ、オイロセと私の眷族達は上手くいってなかったから、『彼は火界内に自分の支持勢力を作りたがっていたのではないか』とかほざきやがったのよ。十中八九、天界寄りの勢力を分断させる為の虚言だとは思うのだけど、一応もしもの時のことも考えておかないと」
「あのイスターシャが、そんな陰湿で大胆な行動を取るとは思えないのだけれど」
木界の主――木神イスターシャは、良く言えば穏やかで優しい、悪く言えば気弱で受け身な性格だ。不満に思うことがあっても、状況の変化によって自分が害されるのを恐れて中々対策を打たない。ましてや攻撃的な行動を取ることは滅多にない。例外は命に関わる場合であるが、そういった状況でさえ殆ど動かない。要は極度の怖がりなのだ。植物の根源である《木》の性質の一部を体現しているとも言えよう。故に渾神は、動機はあれども木神は権謀術数には向かないと考えていた。
火神は頷く。
「私も同じ見解よ。本当は別の経路でブレスリトの手元に流れ着いたのかもしれない。否、そもそも木界とは何の関係もない品の可能性だってある。でも、疑惑が出てきた以上は調査せざるを得ないわ。問題はその役を誰に委ねるか。オイロセと敵対していた眷族達に任せたら、彼等に利する方向にしか持って行かないだろうし、私や傘下の神々は同陣営の上層部という立場上都合が悪いのと仕事が増え過ぎて動けないし、外部の出身で火侍だったスティンリアはもう居ないし、天界に任せたら大事になるし」
木神とは理由は異なるが、火神もまた権謀術数に向かない女神であった。《火》の持つ力の側面を体現した彼女は、大概の問題を力と勢いで解決する傾向がある。頭を使うのが苦手なのだ。そんな彼女が必要に駆られて考え過ぎて、袋小路に嵌っていた。良くない方向へ進んでいるのは、傍から見ても明らかだった。
「良いの? 私に任すの、怖くない?」
今の状態で巻き込まれては堪らないと、流石の渾神も止めに入る。すると火神は俄かに目を見開き、落ち着きを取り戻した。
「貴女と言うか、シャンセに頼みたいのよ。アイシアの方は仕事で度々顔を合わせる機会もあったのだけれど、婚約者の方は余り関わりがなかったからね。貴女に間に入ってほしいの。天人大戦のあれやこれやで仲良くしてたんでしょ。どういう仲かは知らないけど」
「あらま、そんな噂が流れちゃってるの?」
渾神は目を丸くする。しかし、口振りは軽かったので本当にその事実を知らなかったのかは不明であった。だから、火神も軽く流した。
「知らなかった? 兎も角、宿代と食事代分くらいは働いて頂戴。それとも、物品で払う?」
「分かったわよ。ただ、木界――『木』ね……」
「どうしたのよ?」
渾神は腕を組み考え込む。何時になく真剣な顔だ。視線の先にあるのは、机上の腰飾りである。
小声で唸った後、彼女は腰飾りへと手を伸ばした。
「ちょっと借りるわよ。それと、一緒に露台に来て。外の方が空気が良いだろうから」
「どいういうこと?」
「分からないなら、黙って付いて来なさい」
腕を引っ張り強引に連れて行こうとする渾神に対し、火神は「ええ……」と不満の声を漏らす。だが、強く抵抗はしなかった。何時になく険しい相手の表情を見て、只ならぬ状況であることを直感的に感じ取ったのだ。
◇◇◇
火神の居室に隣接している広い露台へ出た後、渾神は腰飾りの匂いを嗅ぎ始める。誰かが腰に下げていたかもしれない物の匂いをである。火神は生理的な嫌悪感を覚えて思わず仰け反った。
「えっ、何してるの?」
「見て分からない? 匂いを嗅いでるの。……微かに甘い香りがするわね。素材は香木かしら。それとも、匂いが染み付いてるだけ? ねえ、貴女も嗅いでみてよ」
そう言って渾神が腰飾りを差し出すので、火神は渋い顔になった。
「ええ……。嫌なんですけど」
「大事なことなの。文句言わない」
「何で……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、状況が理解出来ていない火神は相手の指示に従う。だが、腰飾りに鼻を近付けて息を何度も大きく吸い込んだ後に、火神は首を傾げた。
「私には分からないけど」
貴人用の装飾品や服飾小物には、渾神が言う様な香木を使用した物も確かに存在する。この腰飾りについても表面に塗装が施されていないことから、同様の品である可能性は否定出来ない。しかし、この腰飾りは完全な無臭だ。一般的な木材の香りすらしなかったのだ。
火神の返答を聞いて、今度は渾神が渋面を作った。彼女の話の続きは問い掛けから始まった。
「それ以前に貴女、自分の宮殿や眷族の城の臭いを嗅ぎ取れてる? どういった種類の香を使ってるかは知らないけど、物凄く臭いわよ。その所為で、うちの子が具合を悪くしちゃって」
すると、火神は動揺を露わにした。
「嘘っ! 嫌だ、本当に? 私の身体にも付いてる?」
「残念ながら。それで、眷族の子達には『香の臭いが苦手な者がいる』って遠回しな言い方で伝えて、私達の部屋の周辺では止めてもらう様にお願いしたのよ」
火神は顔を真っ赤にして両手で覆った。
「ああ、恥ずかしい! 皆、気付いてて黙ってたのかしら。ポルトリテシモやカンディアにも会ったのよ」
「と言うことは、やっぱり貴女自身は臭いが分からないのね」
「全ての臭いについての話ではないけどね。これに関しては全く。慣れ過ぎて麻痺しちゃったのかしら。本当に恥ずかしい……」
近年では落ち着いたが、世間で噂されている通りに恋多き女神であった頃には、火神は身嗜みにも非常に気を使っていた。化粧や香については、当時は収集癖に近い状態になっていて、保管専用の部屋まであった位だ。恐らくはそれが現在の嗅覚障害の原因であろう。度が過ぎたのだ。そう、彼女は結論付けた。
だが、渾神の考えは違っていた。
「この件、ひょっとしたらシャンセじゃなく私が動いた方が良いかもしれない。ちょっと、心配になってきたわ」
人族の力では不十分、神でなければ――。渾神の言葉に潜むものに気付いて、火神は真顔になる。
「やはり、木界の中枢が動いていると?」
「確証がないから断言は出来ないけど、私の中ではその可能性が少し高まったわね」
「どうしてそう思うのよ?」
「まだ推測の段階だし、きちんと考えが纏まってる訳でもないから言えない。下手をしたら貴女、怒り狂ってイスターシャの所にすっ飛んで行くでしょうから。責任が持てないの」
「でもさあ……」
言葉を詰まらせる火神の手から、渾神は腰飾りを奪い取る。然したる抵抗もなかったので、腰飾りは難なく細い指から抜けた。自らの手に渡ったそれを無表情で見詰めながら、渾神は淡々とした口調で尋ねる。
「『所持品の中にあった』って言ってたけど、ブレスリトから直接渡された訳じゃないのね?」
「ええ。奴の話を聞いて、押収物を改めて確認したら、証言通りにその腰飾りが出て来たの」
「貴女と奴以外でこの件を知る者は? 逮捕者でも味方側でも」
「兎に角眷族には知られたくなくて、腰飾りに関する追加の尋問は今の所行っていないから、逮捕者側の状況は分からないの。荷物も私自ら調べたのよ。だから、此方側は私と貴女だけだと思う」
「成程」
会話中も渾神は角度を変えながら腰飾りを観察する。そして存分に見た後に、彼女はそれを火神に返却した。
「ペレナイカ、外出の許可をくれない? 生活の痕跡が少しでも残っている内に現地を調べたいの」
「良いわよ。でも、監視は付けさせてもらう。頼み事をしている立場で申し訳ないのだけれど、外聞が悪いから。ああ、でもオイロセとの関係は絶対に知られない様にお願いね」
「我儘ねえ。まあ、良いわ。好きにして頂戴。ただ、人選については火神宮殿か眷族の王城務めの子を希望するわ。口が堅くて体力のある子。ちょっと手伝ってもらいたいことがあるから。あと、臭いは本当にどうにかして」
「うっ、分かったわ……」
渾神の言葉の末尾を形作る冷ややかな声から、余程酷い臭いであったのだろうと推察した火神は、再び顔を赤らめて俯いた。




