15. 再会
シャンセ達を伴って久方振りに自宅である宮殿へと帰還した火神ペレナイカは、待ち受けていた者の姿を見て渋面を作った。
「あはっ、おかえり」
対して喜色満面の渾神ヴァルガヴェリーテは、両手を大きく広げて帰還した一行を出迎える。火神は思わず両手で顔を覆った。そうして暫く考え込んだ後に、傍らにいる火人族の女王ヴリエ・ペレナディアの方へと顔を向けた。
「これは一体どういうことなのかしら?」
渾神の背後には火人族の女官二人が控えている。女官達の顔には困惑の色が出ていたが、渾神に対する敵意や戦意は見られない。恐らくは彼女と敵対しないよう指示を受け、且つ自然とその状態になれるだけの時間が経過したのだと火神は推察したが、まず女官達の主人であるヴリエが渾神を追い返さなかった理由が分からない。故に、火神はヴリエに問うたのだ。
けれども、ヴリエが答える前に渾神が口を開いて遮った。
「あら、私の件で火界から連絡を貰って飛んで帰って来たのだと思っていたのだけれど、たまたまだったのね。まあ、良いわ。兎も角、お邪魔してます。随分と長く留守にしていたみたいね。流石に彼とも仲直り出来たでしょう。出来たわよね?」
「喧しいわ! ……成程、貴方の聞きたかったのってこの件ね」
火神はふと過去のシャンセの発言を思い出して彼に確認する。すると、彼は眉尻を下げて答えた。
「はい。お手数をお掛けして誠に申し訳御座いません」
「私は何もやってないんだけど……。シャンセ、余りこの女には関わらない方が良いわよ。今迄散々振り回されて来たでしょう? 貴方には荷が重いと思うの」
否、シャンセだけではない。火神自身にとっても荷が重い。唯でさえ天界に目を付けられて立場が危うくなっているのに、渾神が現在火神宮殿に滞在している件が明るみに出れば、益々言い逃れが出来なくなる。尤も、原因は火神自身の過去の言動にあるのだが。
渾神も相手の焦心には気付いているであろうに、顔色や声には深刻さが表れていなかった。
「ちょっと、余計なことを言わないでよね! おかえり、シャンセ。会いたかったわ」
「私は顔も見たくありませんでしたが。それで、アミュは何処です?」
腹に一物がありそうな渾神を真正面から受け止めず、シャンセはアミュを探して視線を彷徨わせる。彼女さえ押さえておけば、渾神の動きはある程度制御出来ると踏んだのだ。彼の企みは渾神には気付かれていたが、その考えにも利用価値があると判断されて咎められはしなかった。
「こっちこっち、案内するね」
無法者の女神は浮き浮きとして持ち主に断りもなく宮殿内を徘徊しようとする。火神は子供にする様に渾神を叱り付けた。
「こらっ、勝手に歩き回るんじゃない! ヴリエ、先程の質問に答えて頂戴。貴女が渾神の滞在を許可したの?」
「然様に御座います。我々では渾神様が火神様の敵であるか否かを判断致しかねましたので。私の責任に於いて、一時我が城にご滞在頂きました。どうか、罰は私めに」
真っ直ぐに火神を見返すヴリエの目に躊躇の色はなかった。処罰される覚悟は既に出来ていたという様子だ。どうしてそこまで、と考えて火神はヴリエの言葉を頭の中で反芻し、やがて答えに至る。
「そうか、侍神選定の時の……。これは私の失態ね。下の者に聞かせるべき会話ではなかった」
「その様なことは!」
ヴリエは慌てて否定するが、火神からは憂慮の気配が消えない。折り曲げた指を口元へ当て、火神は再び思案を始める。
(ワルシカが寄越した書簡、反乱の件ではなく渾神についての報告だったのね。下手を打ったわ。間違いなくこれについても天帝に知られてしまった)
火神の与り知らなかった犯行だが、間違いなく火人族のみが責任を取って終わる話ではない。かと言って、火神には罰を受ける気は毛頭ないから、最悪の場合は天界との戦争になるだろう。ならば、火人族は貴重な戦力だ。当分の間は滅ぼせない。内乱の件で難癖を付けて処罰することも出来ない。こうして今度もまた彼等は運を味方に付けて生き残るのだ。忌々しい限りである。
「その感じ、ひょっとしてワルシカからの手紙を天界に置きっぱなしにしてきちゃった? あらあ、逃げ道がなくなったわね。どうする? オルデリヒドと組む?」
思い悩む火神の顔を覗き込んで渾神は笑う。他者の不幸を面白がる彼女は、紛うことなき邪神であった。
「知っていたの? 地界が火界に介入していたこと」
火神は渾神を睨み付けた。ところが、相手は動じない。ただ、作り笑顔に少しだけ真剣さが混ざった様な表情になった。
「そうなの? ああ、今回の反乱ってそういう……。でも、その件については私は知らなかったし関与もしていないわよ。ただ、先日オルデリヒドがポルトリテシモと揉めた現場に居合わせてね。近々、何か動きがあるかもしれない」
「揉めてるのは何時ものことじゃない」
「いやあ、今回は本当に駄目かも。オルデリヒドがもう精神的に限界って感じだったもの」
肩を竦め面倒臭そうに言うものの、渾神の様子に重苦しさは余りない。しかし、それは彼女が修羅場慣れしているからであって、状況が芳しい訳では決してなかった。火神は一層暗い声で「そう」と返す。その返事は渾神にとって及第点ではなかった様で、彼女は意地悪く踏み込んだ質問をした。
「で、貴女は何方の陣営に入るの?」
「今は様子見ね。内乱の後始末もあるし、他の正神――水神、風神、木神の動きも見たい」
答え辛い問いの筈だが、火神は怯まず語る。彼女は現体制の頂点たる天帝や天界に味方をするとは断言しなかった。余りに包み隠さないので、渾神はつい苦笑してしまった。
「成程ね。まあ、良いんじゃない? 反乱への関与を知るまでは、オルデリヒドに付くのは避けろと助言するつもりだったのだけれど、彼の周囲は意外と冷静みたいだから」
「それがなければ、負けるのは地界側だと?」
「ちょっと普通の状態じゃなかったのよ。あれで勝てる訳がないわ」
「俄には信じられないわね、貴女の信用度が低過ぎて」
「まっ、失礼。本当よ。て言うか、本当のことを話す代わりにお願いがあって」
「何よ?」
嫌な予感を覚えつつも火神は敢えて尋ねてみた。
「匿って」
渾神は猫撫で声で強請った。彼女の厚かましさに嫌悪感を覚え、火神は即座にこう返した。
「即刻火界からの退去を命じる」
「酷くない? 前回の侍神選定では一緒に悪さをした程の仲じゃないの」
「勘弁してよ。正にその件が一因で私は今、天界に目を付けられてるのよ。危うい立場なの。追い打ちを掛けないでよ」
「否々、天界には私の所在は既に知られているでしょう。手遅れよ。とっとと腹を決めなさい」
「あんたね……」
余りにも身勝手な物言いである。火神は蟀谷を押さえ、深々と溜息を吐いた。雲行きが怪しいと気付いた渾神は、言い方が不味かったと反省する。浅慮や奔放さが目立つ火神に対する侮りが、ぞんざいな態度として表れてしまったのかもしれない。
「ご免、言い過ぎた。一応天界への言い訳を用意してあげると、私達、《闇》側の神に狙われてるのよ。具体的には魔神とザクラメフィの傘下の『殺神』とかいう若い神に」
「また、問題を起こして――」
「ちゃんと私の話を最後まで聞いてよ。今回は此方から手を出してはいないからね。それで話の続きだけど、『狙われてる』と言っても危害を加えようとしているのは殺神の方だけで、魔神は逆にシャンセやあの子――私の侍神を自分の陣営に取り込みたがっているみたいなのよね。特にアミュに関しては、火界に来てからもちょっかい掛けられてるし」
「問題児が問題児を呼び寄せたよ……。本当に勘弁して」
「だから、聞いてってば!」
渾神は声を荒らげる。表面上は理知的なこの女神にしては珍しい振る舞いだ。そうなった要因は不都合な方向へ傾きつつある状況への焦りもあるが、彼女の言葉を頭ごなしに拒絶する火神への苛立ちと憤りが大きい。とは言え、火神は渾神の言い分を全く理解していない訳でもなかった。
「《闇》側の勢力が分裂してるって? まあ、彼方も過去には色々あったから、有り得ない話ではないけどね。要するに貴女は『渾神一派を利用して《闇》側の動向を探っていた』という口実を使えと言いたいのね」
適当にあしらわれていたのではないと知り、沸騰しかけていた渾神の頭が一気に冷える。相手が聞く耳を持っているならば、まだ説得の余地はある。
「何なら連中を捕縛なり討伐なりしてしまっても良いのよ。貴女にとっては汚名返上になるし、私も助かるから」
「そんな余裕はないんですけど。って言うか、それだけの大事なら理神や〈星読〉使いの黒天人族が真っ先に気付いてポルトリテシモに報告してるでしょう。多分彼方がちゃんとした対応を考えているだろうから、私が何かやっても妨害行為としか取られないと思うわよ」
すると渾神は腕を組み、首を傾げて唸った。
「確かに報告していてもおかしくはないんだけどね。現時点で動いてる気配がないでしょう。ひょっとしたらタロスメノスが止めてるのかも、と私は考えているのよ。〈星読〉は《理》を知ることでそれに逆らう為の知識を得る力でもあるから、支障があると思った時は彼女、こっそり圧力を掛けてるのよね」
「そうなの?」
火神はシャンセの方へと振り向く。渾神もまた彼を見た。しかし、シャンセは静々と目礼するだけだった。
(返事をしろよ)
女神達は同時にそう思ったが、追及はしなかった。恐らくは無駄であろう。無回答こそが彼の回答なのだ。そして、彼は言わないと決めたら絶対に言わない人間だ。黙秘する理由は不明だが、もしかしたら理神と黒天人族との間に何かしらの取り決めがあるのかもしれない。
「それが事実なら、ちょっと腹立たしいわね」
火神は渾神の方へ向き直り、不満を漏らす。
「彼が前回火界に侵入した時に私の眷族達に指示を出したの、天界だったらしいんだけど、多分〈星読〉を使って彼の行動を予知したってことでしょう。《理》に背いた代償で火界が混沌と化すのは良くて、自分達が同じ被害を受けるのは拒絶するのね」
「天界に反逆したくなった?」
思惑通りと言わんばかりに渾神はにんまりと笑うが、火神の態度はそっけない。
「釣られないわよ」
「むうっ」
渾神は子供の様に頬を膨らませた。悪巧みを得手とする神にしてはころころとよく表情を変えるものだ、と火神は呆れるが、直ぐに演技である可能性に気付いて気を引き締める。一先ず、この取り扱いの難しい女神への対応を決めなければならない。
暫し目を閉じ考え込んだ後に、火神は再び目を開いて告げた。
「現状を鑑みれば今直ぐ貴女達を叩き出すのが最善なのかもしれないけど、天界が火界に《闇》側に関する情報を下してくれないなら、独自に情報収集をしておきたいとも思うのよね。いざ戦争になったら、私達も前線に立つことになる訳だから」
「それじゃあ――」
ぱっと表情を明るくする渾神を見て、火神は更に苦々しい顔になった。
「嬉しそうにするんじゃないわよ。不本意なんだからね。でも、仕方ない。不安要素は多いけれど、暫くは貴女達の滞在を認めます。ただし、貴女とシャンセが火界に滞在していることと《闇》側の神が追って来てる件については、後で突っ込まれると困るから天界に報告しておくわよ。それと、都合が悪くなったら直ちに天界へ送致する。上手く立ち回るのよ。私の足を引っ張らないで」
「はーい、頑張りまーす」
「心の籠ってない返事を……」
火神より向けられた言葉に、渾神は胸の内で応じる。心が籠っていない言葉を吐いたのは貴女も同じでしょう、と。
(情報収集なんて唯の方便。私の利用価値を測りかねたから、決断を留保したのよね)
つまりは火神の中に少なからず渾神へ期待する気持ちがあるということでもある。変革の神を自称する彼女への要望が。実際、侍神選定の折に火神が彼女に協力したのも、漠然とではあるが自身を取り巻く環境の変化を望んだからであった。
(私に望みを託す者は少ない。だからこそ、ちゃんと応えてあげないとね。まだ、あの時のお礼もしていなかったし)
他の者に聞かれては困るだろうと、渾神は心の中だけで宣告する。
(良いでしょう。貴女の望みを叶えます。貴女の世界に変革を。その変化が必ずしも貴女の思い描いた通りの形をしているとは限らないけど)
当事者の意思を確認しないまま決定は下された。何も知らない火神は、客人たる渾神達の為に眷族に命じる。
「ヴリエ、聞いての通りよ。この小憎たらしい女神と従者達は火神宮殿で引き取ります。貴女の臣民に客室の準備をさせて頂戴」
「畏まりました」
ヴリエの返事を確認して、火神は振り返る。
「ヴァルガヴェリーテ、私は仕事に戻るから、後はヴリエ達の指示に従って頂戴。好き勝手に宮殿内を彷徨くんじゃないわよ」
「態々念を押さなくても大丈夫よ。戦後処理、どうもご苦労様。張り切って行ってらっしゃいな」
「本当に大丈夫なのかしら……」
心配そうにしながらも、火神は共に帰還した武官達を引き連れて立ち去る。渾神はにこやかに手を振って、他の者は仰々しく立礼して彼女達を見送った。
その後、渾神達は火神宮殿の内部にある貴人用の宿舎へと案内された。建物の中へ入った瞬間、キロネは鼻と口を手で押さえ眉間に皺を寄せる。異変に気付いた渾神は、彼女に声を掛けた。
「どうかしたの?」
「いえ、その――」
邪神とは言え高位神であり、過去に不興を買った相手でもある渾神から唐突に話し掛けられて、キロネは動揺し思わず口籠る。だが、やがて視線を反らし、明瞭ではない言葉を返した。
「申し訳御座いません。臭いがちょっと……」
「こらっ、そういうことは思っても言うんじゃない!」
即座にマティアヌスがキロネを叱り付け、申し訳なさそうに火人達を見る。
「だって、聞かれたから!」
キロネは肩を怒らせてマティアヌスに噛み付く。以降は両者の言い争いが続くが、喧嘩の発端となった渾神は見向きもしなかった。
(やっぱり気になるか……)
不穏な予感がした渾神は、新たに提供された題材について思考し始めた。
◇◇◇
数日後、夜闇に覆われた石造りの廊下を二人の刑吏を従えた火神が歩いていた。向かう先はつい最近まで使用されていなかった神族用の牢だ。火神の手には金属製の棍棒が握られており、それがぽんぽんと規則正しく叩かれる音と疎らな靴音だけが話し声のしない静かな空間に響いていた。
如何にも不機嫌といった空気を醸し出している彼女であるが、ふと脳裏に遥か昔の光景が浮かぶ。火人族の王女にして当時の火侍でもあったベリタ・ペレナディアについて、地神オルデリヒドがある申し出をしてきた時のものだ。
『ベリタを妾妃に? 驚いた。貴方、他の神の侍神にまで手を出す程、色狂いだったかしら?』
『まさか。私は彼の者に好意を抱いたから此度の申し出を行った訳ではない。これは取引だ。お前は火人族と奴等から押し付けられた火侍を疎ましく思っているのだろう? だから、私があの娘を引き取ってやる。もしお前が望むなら、そうと分からぬ様に此方で処分してやっても構わない』
『対価は? 取引と言うからには、此方も何かを支払わなければならないのでしょう?』
『無論だ。しかし、支払い時期は今ではない。何時の日か私が戦力を必要としたら、お前が味方になる――それが取引条件だ。縦え敵が誰であったとしてもな』
『貴方……』
地神が戦力を必要とする時――それは言わずともがな天帝に反逆する時であろう。彼が長きに渡りそういった野心を抱いていることは、決して口には出さずとも誰もが知る所だ。しかしながら、勝算がある思っている者は殆どいなかった。火神もまた同じ考えだった。彼女が協力しても恐らくは難しいだろう。まず彼は上に立つ器ではないのだから。
にも拘らず、火神は地神の提案を受け入れた。少なくともその時点では、合意した振りをして後で反故にするつもりだった。されど、火神とて天帝には思う所がある。つまり、両者が手を取る可能性も全くなかった訳ではないのだ。残念ながら、今回の件で綺麗さっぱり消え去ったが。
(馬鹿兄貴)
火神は棍棒を握り締め、心の中で悪態を吐く。
(私の考えなんて、初めから分かり切っていたでしょうに。いいえ、分かっていたからこそ騙し打ちみたいな手を使ったのね。きっと警告の意味も込めて。そんなやり方で他の者が従うと本気で思っているの? 本当に要領が悪いんだから)
彼女の内にあった僅かばかりの罪悪感もこれでなくなった。他領の内乱への介入は明確な敵対行為だ。今回の件を許して地界と同盟を結ぶと、火界は地界に対して強く出れないと世間に知らしめる結果になる。つまりは火界が地界よりも下の立場であると。火界の主としてそれは絶対に認められない。彼女の個人的な心情や地神の正当性は、最早検討材料にはならないのだ。
考え事をしている内に、火神達は目的の場所へ到着した。〈神術〉で保護された鉄格子の向こう側にいるのは砂神ブレスリト――鍛冶の種族の反乱を支援していた地界の間諜の首魁だ。
「さて、洗い浚い吐いてもらいましょうか」
火神は壁に凭れ掛かって座る彼に冷ややかな視線を向ける。それとは逆に、彼女の赤髪は内心の怒りを表して常より燃え盛っている。
砂神は何を思ってか薄笑いを浮かべた。そして起き上がり、鉄格子の前まで来て腰を下ろした。
「まさかあんたが自ら出向いてくれるとは思わなかったよ、ペレナイカ」
「中位神とは言え地神を父に持つ貴方が相手だもの。他の者では判断に迷うでしょう。私の傘下にいる神族を送ったとしてもね」
「はは、そこまで大物扱いしてくれるとはね。でも、だったらもうちょっと過ごし易い部屋を用意してくれても良いんじゃないかな」
「調子に乗るな」
火神は棍棒の先を砂神の口に突っ込んだ。砂神は苦し気な声を上げた後、棍棒を咥えたまま床へ倒れ込む。
「貴方は私の質問に対する答えだけ話せば良いの。余分な言葉は吐くな」
「ほのほうはいだほ、はひほははへはひふへふへほーっ! (この状態だと、何も話せないんですけどーっ!)」
腹を見せた虫の様にじたばたと藻掻く姿を見てやや溜飲が下がった火神は、棍棒を引っ込めて彼の口を解放してやる。すると、砂神は激しく噎せて口から涎を垂れ流した。
「次はないわよ」
砂神の咳が治まった所で火神がそう警告したが、懲りない彼は口の端を歪めて太々しい返しをする。
「相変わらず恐ろしい女神だなあ。だが、質問の返答だけってのは困る。こっちはあんたと取引がしたいと思っているんだ」
その言葉を聞いて、火神は思わず目を見開いた。彼女の頭の中に再度旧知の神の言葉が蘇る。
――これは取引だ。
火神はしみじみと思う。
(全く違う気質に見えるのに、父親から引き継いでいるものもあるのね)
けれども、火神は間を置かず表情を冷徹な仮面へと戻す。この場において情は邪魔なだけだ。
「此方に要求が出来る立場と状況だと思っているの?」
「まあまあ、そうかっかしなさんなよ。取引と言うからには、俺達からも渡せるものがあるってことなんだ。しかし、その話し合いをするのに他の者がいると都合が悪い。人払いをしてもらえるかい?」
「この棍棒は拷問用なのだけど」
「脅すなよ。穏便にやろうぜ。さっきあんたも言った通り、俺は一応地神の息子だ。あの方は実子でもあっさりと見捨てる冷徹な神だが、体面には物凄く拘る。知ってるだろう? 戦うべき相手は他にいるのに、どうでも良い揉め事で消耗してどうするんだ」
返事はない。ただ胸元で一度、棍棒を叩く動作を彼女は行った。砂神は慌てた。
「分かった。あんたにとって都合が悪い内容だから気を利かせたつもりだったんだが、俺も我が身が可愛い。単刀直入に言うぞ。提供可能な品の一つは『――』に関わる情報だ」
「なっ……!」
砂神が口に出した名前を聞いて、火神は驚愕の声を漏らした。次に、彼女は自身の後方に立つ眷族の様子を背を向けたまま窺う。耳に届く微かな息遣いが、刑吏達の揺れ動く心を具に表していた。
よって、火神は命じる。
「貴方達は外で待機していなさい。必要になったら、私から声を掛けるわ。それから、今聞いた話は他言無用。勿論、ヴリエにもよ。分かったわね?」
「承知致しました」
刑吏達は戸惑いの色を見せながらも敬礼し、速足で去って行った。足音が聞こえなくなると、砂神は身体の力を抜き胡坐を掻く。
「ふーっ、やれやれだな。まったく、面倒な女神様だよ。ちゃんと話をするのに、これだけの手間が掛かるとはね」
火神は目から火花を出して、砂神をぎろりと睨む。
「さっきの話、本当なんでしょうね。『実は人払いをさせる為の嘘でした』とか言ったらぶん殴るわよ」
「急かすな急かすな。交渉事は誤解を生じないよう、じっくりと、な」
砂神は火神を真っ直ぐに見返し、謀を匂わせる笑みを浮かべた。




