07. 地上人
深夜、火界南西部――。
「うーん、どうしたものか」
アミュを発見した火の川の近くへと戻って来た渾神は、漸く鍛冶の種族の集落を探し出す。シャンセの気配もそこにあった。火人族の王城で周辺の地図を貰っていたが、記載された位置から移動していた為、余り役には立たなかった。
少し離れた場所から〈千里眼〉で中の様子を窺って、渾神は首を傾げた。今は平時であるにも拘らず、この辺境の里では真夜中でも物々しい装いの戦士達が闊歩している。初めはシャンセを警戒してのことかと納得しかけたが、軍備の様子を見るに彼が来てから急いで取り寄せたものとは考え難かった。また、当のシャンセが比較的良好な環境で過ごしていたので、この里は以前から戦の準備を行っており、戦力増強の一環として彼を迎え入れたのだと渾神は推測を立てた。
不可解なのはシャンセの動きである。
(脱出の為の下準備を行っている最中なのか、それとも何か別の考えがあるのか)
少なくとも渾神の見る限りにおいては、シャンセが行動を起こした様子がない。此方の神気にも気付いているだろうに反応もしない。渾神は彼の心中を推し量ろうとした。彼女に対する敵対行動かとも考えた。だが、やがて判断材料となる情報が足りないとの結論に至った。
「本当は直にでも連れ出したい所だけど、下手に動いて予想だにしない事故が発生しては困る。少し様子を見ましょうか」
渾神は腕を組んで眠った振りをしているシャンセから視線を遠ざけた。
◇◇◇
同じ頃、アミュは布や家具に染み付いて消し切ることの出来なかった香の臭いに鼻を刺激され、浅い眠りから目を覚ました。徐に上半身を起こして目を擦りながら周囲の様子を窺う。そこで傍らに居るべき者が存在しないことに気が付いた。
「渾神様?」
隣の寝台で横になっている筈の渾神の姿がないのだ。つい数日前に来たばかりの不慣れな場所に一人で取り残されたことを知り、アミュは青褪めた。今、火人族に裏切られたら、彼女には身を守る術がない。
焦燥感に襲われたアミュは渾神を探そうと寝所の扉を開けた。しかし、問題が生じる。扉の外には見張りの兵士が立っていたのだ。二人の兵士は即座に反応し、用向きを尋ねてきた。止む無く彼女は渾神の所在について尋ねる。兵士達は渾神が部屋から抜け出たことに全く気付いていなかった。
慌てて寝所を確認した兵士達は、アミュの言葉が事実であることを知って一層動揺する。そんな彼等に、アミュは「渾神を探したい」と申し出た。脱走が失敗に終わって監視も付くだろうが、兎にも角にもこの場所で一人で居たくない、早く信用出来る者と合流したいという思いが強かったのだ。兵士達は対応に困るといった表情で互いの顔を見合わせたが、やがて上官の承認を得て――護衛と言う名の監視役を付けるという形ではあるものの――アミュの希望を聞き入れてくれたのであった。
王城内部の廊下は規則的に設置された照明のお陰で何処も明るかったが、夜という時間帯であったので影もやや濃かった。だが、不思議と不気味さは感じられない。この城が持った異国情緒故であろうとアミュは漠然と思った。
凝った作りの調度品の間を少女は知り合ったばかりの兵士と共に速足で進む。両者の間に会話はない。彼女から話しかければ相手は答えてくれるのかもしれないが、必要性を感じなかったのでそうしなかった。
暫くして広間と思わしき開けた場所に出る。これまでとは違って家具類は少なく、壁一面に陶板画が飾られている。その内の一枚の前に、宝石のない金色の装飾品と細やかな金糸の刺繍が施された深紅の衣装を纏っていた女性が、背後に数名の侍女を伴って立っていた。
(女王様だ。何してるんだろ?)
ヴリエ・ペレナディアはアミュを見付けると一瞬驚いた顔をしたが、直に朗らかな笑顔を作った。
「おお、渾侍様。この様な遅い時間にどうなされました?」
人と話すことに慣れていないアミュは、反射的に視線を下げてヴリエに尋ねた。
「目が覚めたら渾神様がいらっしゃらなくて……。あの、どちらに行かれたか御存じありませんか?」
「申し訳御座いませぬ、私は何も。お探し致しましょうか?」
取り繕ってはいるものの、渾神の不在を知ったヴリエの目には焦りの色が浮かんでいる。寝所を守っていた兵士達と同じだ。如何に渾神が災厄の女神として恐れられているかを示す態度である。恐らくは返答内容に関係なく、ヴリエは城中の人間に渾神を探すよう命じるであろう。事ここに至って、漸くアミュの中に自省する気持ちが湧いてきた。騒ぎを大きくし過ぎてしてしまった、渾神の背中を刺す行いをした、と。もしかしたら、渾神に悪気はなかったのかもしれないのに。
(きっと朝には帰って来るよね)
アミュはそう自分に言い聞かせて、一先ずヴリエの警戒心を解くことを優先した。
「いいえ、多分大丈夫だと思います。遠出されるなら、私に何か言い残していかれると思いますので。きっと城の中を散歩していらっしゃるのでしょう。こちらこそご心配をお掛けして申し訳ありませんでした」
そうして、アミュは視線をヴリエが見ていた肖像画へと向ける。美しく整えられた赤い結い髪と、髪色と同系色の上品な衣装が特徴的な若い女性の絵であった。
「綺麗な方ですね」
渾侍の身分であっても主神とは違ってアミュは嘘や謀に慣れていない。彼女の行動にヴリエの意識を渾神の不在から反らす意図あることを隠し切れない。案の定、ヴリエは相手の真意に気付いて困り顔を見せたが、肖像画へと視線を戻すと自然と穏やかな笑みが零れた。
「娘です。嘗ては火侍も務めておりました。同じ侍神の方にそう言って頂けると、きっとこの子も喜ぶでしょう」
「今は違うのですか?」
「もう随分と昔に地神様の御目に止まり、火侍を辞して地界へ嫁いで行きました。ですが彼方の環境が合わず、徐々に身体を悪くしていった様です。それでも何とか地神様との間に御子を儲けることが叶ったのですが、産後に容体が急変して今度は冥界へ送り出すことになりました」
「ご免なさい! 私、余計なことを……」
「宜しゅう御座いますよ。本当に長い年月が経って、私も忘れ掛けておりました。貴女様がいらっしゃって、漸く思い出せた位なので御座います」
暫く両者とも無言で肖像画を見詰めた。背後で控えている使用人達は暗い表情をして顔を伏せている。重苦しい空気だ。しかし、不謹慎にもその空気は気まずさではなく、異邦を訪れた時に感じる新鮮味や疎外感をアミュに与えていた。会話している相手は目の前に居るのに、相手の話を聞く自分の心は何処か遠い所にある。火界は本当に不思議な場所だと彼女は思った。
やがて、ヴリエが口を開いた。
「時に、渾侍様は地上人族の御出身であられるとか。地上界では人族の成り立ちはどの様に伝えられているのでしょう。差し支えなければ、お教え頂けないでしょうか?」
「はい。でも、多分間違った知識だと思いますよ」
「構いませぬ。今の地上人族の状況を知りたいのです」
「分かりました。では――」
ヴリエの考えが見えず困惑しつつも、アミュは生まれ育った村の年寄り達から伝え聞いた「人間」の歴史を話した。地上界には複数系統の創世神話が存在するが、彼女が語るのは聖都サンデルカから広まった地上人族の間で最も良く知られたものだ。
まず、人間は天帝によって生み出されたと伝えられている。数人の男女が創られ、神々からの祝福を受けた後に地上の楽園を与えられたと。地上以外に人間はおらず、天人の存在は知られているものの、彼等は人ではなく精霊に近い扱いであった。神々や天人は地上の住人の幸福と繁栄を望んでおり、度々大地に降り立っては助言や恩恵を与えてきた。――という風に地上界以外で伝わる歴史とは異なる点を強調して話した。
「それが地上人族の知る『歴史』で御座いますか」
「はい。でも、これは間違った内容なのですよね。シャンセさんに教えてもらいました。私達を創ったのは地神様で、創り主や他の種族に疎んじられて地界の辺境に追いやられたのだと」
「シャンセ殿は随分と酷なことをなさる……」
ヴリエは表情を曇らせた。アミュも釣られて下を向く。今度こそ本当に気まずい沈黙が場を覆ったが、その時間は長くは続かなかった。
「我等火人族にとっては、『明日は我が身』なのかもしれませぬな」
「え?」
「人族は神族に奉仕する召使として生み出されました。それ故に、我々には生来その職務に相応しい能力が与えられております。ですが、数が多いと必然的に不具合――つまりは規格に合わぬ者や神意に添わぬ者も増してゆくもの。地上人族はその一例で御座いました。彼等は幾度となく自分勝手に振舞って詰らぬ事件を起こし、やがて少なくない数の犠牲者を出し、それらの報いとして地上界へと追放されたので御座います」
ヴリエは肖像画の中にいる娘に手を伸ばした。指の先から伝わってくる質感は生物の肌のものではなく、体温は冷たい。
「火人族は如何なのでありましょうな。我が娘が退いて以降、火侍位を頂いた火人はおりませぬ。我々は火神様を失望させてばかり。何れは地上人族と同じ道を辿るのではと……」
掠れた声音を聞きながら、アミュは嘗てシャンセに教わった知識を呼び起こした。
(確か火神様と火人族は仲が悪いんだっけ)
アミュはヴリエの表情を窺った。すると、予想に反して彼女の表情は再び貴婦人の笑顔へと戻っていた。
「申し訳御座いませぬ。不快な話を致しました。何であれ地上人族には希望が――貴女様がいらっしゃる。復権の日は近いのやもしれませぬな」
世辞のつもりか、極端に大きな話をした。アミュは思わず「私はそんな……」と呟いて俯く。ヴリエは彼女の消極的な姿勢を謙虚で好ましいと思った様で、それからもアミュを持ち上げる発言を続けた。「今迄自分の周りには存在しなかった気質の人物」とも言っていたので、彼女に対して好奇心が湧いたのかもしれない。そんなヴリエの勢いに圧倒されて、アミュも火人族の臣下達も先程見せられた女王の弱気はすっかり忘れてしまった。
◇◇◇
これはアミュが永獄の星の館に滞在していた時の話。
彼女の郷里に伝わる人類創造神話を聞いたシャンセは、教材を箱に仕舞いながらこう言った。
「成程、当世の地上人族にはそんな風に伝わっているのだね。天人大戦が始まる少し前、私が地上界に居た頃から大筋は変わっていない様だ。異なる部分も少しだけあったけれど」
「そう、なんですか……」
「さてアミュ、ここから話す内容は地上人族である君にとっては受け入れ難いものであるかもしれない。でも私は君に対し、悪意があってこの話をするのではないのだということを理解しておいてほしい。君が不用意に他種族に近付かない様に、地上界の外における地上人族の立ち位置を知っておいてもらわなければならないんだ」
「はい」
「ふむ、それでは話を始めよう。君達が望んだ偽史とは大きく異なる本当の人族の歴史を」
皮肉を混じらせた口上の後にシャンセが語ったのは、次の様な話であった。
人族が生み出されたのは今から凡そ九千年前のことだ。世界が《顕現》してから既に長い時間が経過していたが、未だに固まり切らず不安定な状態が続いていた。神も精霊も度重なる災厄に対応する為に、今より遥かに多くの仕事を熟さなければならなかった。そこで天神ポルトリテシモは新たな知的生命体を創り出して彼等の仕事を手伝わせ、慢性的な過労状態を解消しようと考えたのである。
まず、彼は智神ステラスフィアの協力を得て最初の人族であるルシルトスを創る。ルシルトスは試作品であったが、当時の神族の王であった光神プロトリシカは、新しく珍しいその被造物に強い興味を示し、天神と同じく我が子の様に育んできた他の正神にも人族を創るよう命じた。また、時代は下るが闇神ウリスルドマに従う数柱の神々も、正神達に倣って自らに奉仕する人族を創ったのだという。
「人族を創造した際、殆どの神が自らに近い姿を与えたのだけれど、地神オルデリヒドだけはやや違った設計理念を持っていたんだ。《地》が《鉱》――道具に加工されることの多い鉱物資源の本質たる《元素》を内包する為か、あの方は技術者気質でね。見た目より機能重視という拘りがあった。だから、地人族は本当に器用で頭も良くて種族によっては運動能力が桁外れに優秀だったりするのだけど、人族の標準的な容姿とは掛け離れていたんだ。手に載せられる程小さかったり、逆に建物よりも大きかったり、手が異常に発達していたり、獣と融合した様な姿だったりね。そして困ったことに、奇異な外見を持つ彼等に対して心無い言葉をぶつける者は少なくなかった。特に当時は全世界の主であった光神が、《元素》の性質が原因で美しいものを好み醜いものを疎んじる傾向にあったからね。まあ、そんな方でも表面上は認めざるを得ないくらいに彼等の能力は他の追随を許さなかったのだけれど。当時の世論がそういう感じだったんだ」
「そんな……」
「地神も今の君と同じ気持ちだったのだろうね。秘密裏に見た目を他の人族に寄せた地人族の研究を行っていたんだ。でもね、その種族は長らく日の目を見ることはなかった。失敗したから。彼等は他の人族と大差ない容姿を持つ代わりにあらゆる能力が極端に低く、地神は表に出すのも恥ずかしいと思ってしまったんだ」
憐憫の情を湛えた目でシャンセは窓の外を見る。彼の視線の先には暗闇以外に何もなかった。
「彼等は種族名すら与えられなかった。手酷く失敗して心が折れてしまったのか、それ以降地神は同じ設計方針の地人族は創らなかった。だが、失敗作でも我が子は我が子。多少の愛着はあったのだろうね。地神は彼等を処分しなかった。しかし先程も言った通り、他の者には絶対に見られたくない、と。じゃあどうしたかと言うと、地界の奥深くにあった地神しか知らない洞の一つを脆弱な彼等でも生きられる様に整備し、彼等の住処として宛がったんだよ。否、『閉じ込めた』と言った方が正確か。出入りを禁じて存在すら隠したんだ」
失敗作の地人族の存在が明るみに出たのは、生み出されてから数百年の歳月が経過した頃だった。好奇心旺盛な上に自分達の境遇に不満を抱いていた彼等の内の一人が、苦難の末に他種族の集落まで辿り着き、そこで事件を起こしたのだ。生まれて初めて異形の精霊を見た彼は、恐怖と嫌悪に駆られて相手に危害を加えようとした。幸か不幸か、狼藉者は難なく返り討ちにされたが、問題は被害者の精霊が《地》の種族ではなかったことである。口止めは叶わず、噂は一気に他界まで広がった。
恥を掻かされた地神は、彼等を更生させようと躍起になる。彼は暫定的に「名付ける価値もない種族」或いは「地人族の仲間とするには相応しくない種族」という意味を込めた「無名人族」という呼び名をその種族に与え、今度は他の地人族の下に付けて仕事を手伝わせた。だが、これも上手くはいかなかった。功名心が強過ぎる彼等は失敗を重ねて自尊心を傷付けられる度に歪み、やがては自分の成長を諦めて、他者を騙し貶め陥れて伸し上がろうという思考に至る。それは後に大きな悲劇を生むこととなった。
「その事件は神戦が終わり天帝ポルトリテシモの治世となって間もない頃に起こった。当時、地上界には『大地人族』と呼ばれる巨大な肉体を持つ種族が暮らしていてね。彼等の全てがその逞しい肉体に見合った力持ちで、数多くの偉業を成し遂げた英雄の種族でもあったのだけど、地界の都に住むことは出来なかった。原因は長所でもある彼等の体格だ。何せ大きい方だと山すら越える身長の者もいたからね。地界の洞窟は彼等には窮屈過ぎたんだ。多分、後先考えず思い付いた勢いだけで創ったのだろうね。本当に良くないことだよ。一応、地神も『申し訳ない』とは言っていたそうだけども」
形の良いシャンセの口から溜息が漏れる。アミュも眉を寄せた。単語も内容も、幼い彼女には理解出来ない領域へと差し掛かっていたが、地神が多くの者にとって理不尽な存在であることは感じ取れた。
「ともあれ、英雄達はその貢献度にも拘わらず地界の辺境である地上界で暮らすことを余儀なくされていた。でも、流石に彼等の境遇については地神以外の神々や眷族も気にしていて、地上界には多くの恩恵が齎された。地神とは不仲であった天帝の眷族でさえ、彼等には善意の贈り物をしていたよ。けれど、無名人族だけは違った」
シャンセの眉間に微かに皺が寄る。短い沈黙があったが、彼は再び口を開いた。
「無名人族の名無しの長は、自分達より醜い姿をした大地人族を見下していた。神々の王である天帝の領地に最も近く、且つ広大で豊穣な土地が彼等に与えられたのは、不条理なことだと思っていた。だから、彼等よりも自分達の方が有能であることを証明しようとしたんだ。まず、無名人達は地面の裏側に細工を施して陥没させ、大勢の大地人を死傷させた。その後に、あろうことか自らの行いを功績と喧伝し、地神に地上界への移住を地神に請願する。当然地神は彼等の暴挙に怒り、首謀者である長の一族と事件の実行犯を処刑したのだけれど、天帝はここぞとばかりに過去の大地人族への扱いも挙げ連ねて彼の神を公然と責め立ててね。結果、大地人族は天界へ移住することとなった。天帝の傘下へ入ったということだ。今では『天界と全ての《光》側世界の守護者』と称えられる立場だ。まあ、相応しい待遇だけどね。一方で――」
唐突に二人の視線がぶつかり合った。相手の黒い眼の中に自分の姿を見たアミュは反射的に何かを言い掛けたが、自分が何を言わんとしているのかが分からず口を閉じた。
「無名人族は空になった地上界へと放逐された。勿論、ご褒美ではないよ。英雄を欠いた地に恩恵を与える理由はない。地上界は瞬く間に衰退していった。彼等が望んだ世界は永遠に彼等の手には入らなくなった訳だ。やがて、彼等は『地上人族』と呼ばれるようになる。――これが、正しい地上人族の歴史だ」
「……」
アミュは俯き黙り込んだ。饒舌だったシャンセはそこで漸く自分の失言に気付く。だが、事実を包み隠さず伝えたことへの謝罪は行わず、相手を気遣う態度だけを見せた。
「ご免ね。疲れたね。今日の講義はここまでにしようか。食事の用意をしてくるよ」
「有難うございました……」
先程言い掛けて止めた言葉がどういった性質のものあったか、分かった気がした。世話を受ける身分であるから後ろめたいとも思ったが、アミュはこの話をしたシャンセに底意地の悪さを感じ取り、身の振り方に悩まされた。
◇◇◇
光の灯らぬ部屋でアミュは再び目を覚ます。悪い夢を見ていた気がするが、具体的な内容は覚えていない。ただ、身体のだるさだけが残っていた。
(まだ夜か……)
ヴリエと話した後、彼女に促されてアミュは寝室へと戻った。そうして再度寝床に入ったのだが、今の部屋の暗さを見ると眠りについてから大して時間が経過していないことが分かる。
アミュは自分の寝台を離れ、渾神に用意された寝台の前に立った。
(渾神様、まだ帰って来てない。シャンセさん達を探しに行ったのかな)
滑らかな肌触りの掛け布団を撫でながら、アミュはふと先程渾神を探した先で出会ったヴリエの言葉を思い出した。
――何であれ地上人族には希望が――貴女様がいらっしゃる。復権の日は近いのやもしれませぬな。
きっと悪夢の原因は彼女との会話内容だろう。決して悪い人間ではない。しかし、過剰なまでに他者に期待し過ぎる嫌いがあった。火人族全体の傾向なのかは分からないが、もしアミュの思った通りであるならば火神が彼等を嫌っている理由もそういった気質にあるのかもしれない。
「そんな重荷は背負えないよ……」
両手で顔を覆い、消え入りそうな声でアミュは呟く。「地上人族の希望」などというものになってやる理由は彼女にはなかった。同族への愛着が弱いのだ。マーヤトリナやブラシネに対しては世話になったとは思っているが、彼等の為に自分の未来を縛るようなことは彼女は決してしない。相手がそれを行っても自分はやらない。アミュはそういう人間だった。ましてや、今は自分のことで手一杯の状況である。自身の負担となる言葉を聞くだけでも不愉快極まりなかった。
すると、唐突に誰かから声を掛けられた。
「少し良いかい?」
「……っ!」
驚いて両手を顔から話すと、見覚えのある容貌が彼女を覗き込んでいた。聖都サンデルカの王子の皮を被った魔神シドガルドである。
「こんな時間に済まないね。でも、渾神が不在の今しか君と話す機会がないと思ったから」
窓に掛かっている垂布がはためく音が耳に届く。そこで漸くアミュは寝室の窓が開け放たれていることに気が付いた。照明が点いていない筈なのに室内の様子や彼の顔が確認できたのは、室外の光が開いた窓から差し込んでいた為だったのだ。アミュは直ぐ様心の中で渾神を呼ぶ。口に出さずとも彼の女神なら、心の声を聞き届けて直に駆け付けてくれるような気がしたからだ。しかし、彼女の思惑を察した魔神は軽く釘を刺した。
「彼女を呼び寄せないでね。大事な話なんだ」
「一体、何を……」
アミュは相手を刺激しないよう、ゆっくりとした速度で後退りをする。魔神は苦笑したが咎めはせず、当初の目的を果たすことを優先した。
「先日私が君に言ったこと、覚えているかい? 《火》の眷族に関してだ。火人達がなかなか君の前で襤褸を出してはくれないのでね。観念して私が直接教えることにしたんだよ」
「え?」
「口で説明するより、現物を見た方が早いだろう。さあ、私の手を取って」
そう言って魔神は片手を差し出した。当然ながら、アミュは一層不審がって身を引いた。
「何もしないよ」
しかしながら、その言葉に対する返事はやはりなかった。優しく宥めてみても、アミュは彼を信じない。魔神は唸った。物知らずな少女に不信感を植え付けたのがシャンセであればまだ良いが、渾神に篭絡されたのであれば彼にとっては問題である。
「慎重過ぎるのも考えものだな。本当に必要なことなのだけれど……。仕方ない。無理矢理にでも連れていくよ」
言い終わるや否や、魔神はアミュの手首を掴んで自分の方へと引き寄せ、その小さな身体を抱き上げた。驚いたアミュの口から「きゃっ!」と短い悲鳴が漏れる。だが、魔神は彼女には意識を向けなかった。間を置かず、彼はアミュを抱えたまま勢い良く窓から外へと飛び降りた。




