04. 殉教志願
火界の赤い空が紺色に染まる。直に夜が来るのだ。
《顕現》世界を遍く照らす太陽の居所たる天は、全ての世界の上方に位置している。故に日の光もまた《闇》側に属する世界を除いた全ての場所に届くのである。火界も例外ではない。そして、太陽があり昼があるということは夜もまた存在する。他の《顕現》世界よりもやや赤味を帯びた夜が。
「此度の天界の動き、どう思う?」
主不在の火神宮殿にて火精の王ワルシカは、卓の向こうに座る火人族の女王ヴリエ・ペレナディアにそう尋ねた。ヴリエは空になった杯を弄びながら、暗い表情で答えた。
「今はまだ何とも。一番考えられるのは火侍の件じゃが、彼の地位が空いていた期間は長い。前回の侍神選定からも程々に年数は経っている。それを今この時期にというのは……」
「そう、その『時期』だよ。どうやら、地界の方で一悶着あったらしい。そして、事件の収束の為に天帝御自らが彼方へ御降臨遊ばしたのだそうだ」
ヴリエは思わず顔を上げた。両者は短い間黙したまま視線を交差させていたが、やがて彼女の方から会話を再開した。
「その話が真実であれば、拙い事態じゃの。念の為、戦の準備をしておく必要があるか」
「火神様は何方の陣営に入られるおつもりなのだろうな」
「それは……」
ふと、八年前の出来事がヴリエの脳裏に浮かんだ。侍神選定の前祝いたる神宴を終えて火神と共にこの宮殿へ帰還した時に聞いた、火神と取引があったことを匂わせた或る女神の声には、思い出しただけで寒気を覚える。
「少なくとも天界ではないとは思う。かと言って、地界側に勝算がある様には見えぬ。何れにせよ更なる情報収集が必要となろうな。地界が此方の戦力を当てにしているのであれば、とんでもない話じゃ」
「尤もだ。儂も風精に近い同朋達に声を掛けておこう。しかし、大丈夫か?」
「何がじゃ?」
「人族の繁栄を推進された天帝様がお倒れになれば、火神様は間違いなく火人族を排除なさるだろう。あの御方は《火》の眷族全てを疎んじておられるが、自然に湧き出た我等火精よりも其方等向ける恨みの方が一層強い」
「ワルシカ」
ヴリエは苦笑して、何気なしに空の杯を見下ろした。既に飲み干された器の中にあるのは、酒ではなく茶の名残だ。つまりは彼女は全くの素面だった。
「人族は他者を、殊に神族をお支えする為に生み出された存在じゃ。我等火人族は火神様と火界の安寧こそが至上。あの御方の愛情を我武者羅に求めた時もあったが、前回の侍神選定以降の肩透かしで妾はもう心が折れてしもうた。地上人族の子供ですら侍神位を獲得出来ておるというのにな。今は火神様が心の底から火人族は必要ないと仰るならば受け入れるべき、と思うておる。悲しい話じゃがの」
「『必要ない』ということはあるまい。お前達は充分に――」
ワルシカはヴリエを窘めようとするが、彼の口元に当てられたヴリエの細い指がそれを止めた。
「妾にその評価を下す資格はない。知っておるじゃろう?」
彼女の言葉が含んだ裏の意味を察し、ワルシカは押し黙る。両者共に暫く無言の状態が続いたが、やがて彼は深々と溜息を吐いた。
「お前達自身がそれで良いと言うのなら、外野の儂は口出ししない」
「助かるよ。話が抉れずに済む」
「寂しくなるなあ」
「気が早いぞ。まだ滅ぶと決まった訳では無かろうが」
「それはそうだが――」
言いかけた所で、ワルシカは目を見開き立ち上がった。ヴリエも同時に立ち上がる。そうして、二人とも同じ場所を睨み付けた。視線の先にある衝立の向こうからは強く禍々しい神気が放たれている。ワルシカにとっては数千年の昔、ヴリエにとってはつい八年前に感じた神気だ。
「この気配はまさか……」
「お取込み中のところ、御免なさいね。ペレナイカは御在宅?」
神気の主は悪びれず衝立の脇から姿を現す。
「渾神、様」
ヴリエは掠れた声で途切れ途切れにその女神の名を呼んだ。
一方、ヴリエよりやや渾神に近い位置に居たワルシカは、少しの間だけ惚けていたものの直に舌打ちをして傍らに置いていた武器へと手を伸ばす。しかしその瞬間、彼の手が陽炎の様に揺らいだ。渾神の〈神術〉である。
「貴方の利き手は封じさせてもらうわよ」
渾神はくすりと笑って片目を瞑った後、諭す様な口調でこう言った。
「余り騒ぎ立てないでね。私はここへ悪さをしに来た訳じゃないの。人を呼ぶのは、まず私の話を聞いてからにして頂戴」
利き手が使えたとしても神族が相手では負ける公算が大きいというのに、それすらも封じられては成す術がない。ワルシカは歯軋りをした。
またヴリエの方はと言うと、戦の参加経験はあるもののワルシカとは違って前線に出た経験がない為か、彼等の遣り取りをただ呆然と眺めていることしか出来ずにいた。抑えようとしても耐え切れず、身体が小刻みに震えている。彼女は自身の無力さと臆病さを恥じたが、それでも種族の長としての務めを果たさんと、恐る恐る口を開いた。
「渾神様はどの様な御用件で此方に?」
「一応、ペレナイカに話を通しておこうと思ってね。火人数名がこの子にちょっかいを掛けてきたから、懲らしめてやるつもりでいるの」
言葉の途中で渾神の姿が揺らぎ、二つに分かれる。一方は再び渾神の形に、もう一方は子供の姿に変化した。姿を現すや否や渾神の後ろに隠れた少女の顔を見て、ヴリエはぎょっとした。
(渾侍まで!)
何年も前の記憶なので曖昧な部分はあるが、侍神選定の際に開かれた神宴の会場で見掛けた姿と概ね同じである様に思える。そして、渾神の心情と目的も理解する。神族の王すらも上回る高位の神に向かって、ヴリエは必死な思いで命乞いをした。
「濡れ衣です! 我等は渾侍様の居場所など――」
「ああ、さっきの言葉は正確ではなかったわね。正確には火人族の……恐らくは中央に属さない種族がこの子を仲間と共に元居た場所から攫ったのよ。この子だけは何とか逃げ出せたけど、連れの方はまだ彼等に捕らわれている筈よ」
「どういう、ことです?」
意表を突かれてヴリエは勢いを失う。みっともなく口を開けっ放しにしている姿を見て、渾神は思わず苦笑いした。邪神と呼ばれる彼女の怒りが余程恐ろしかったらしい。
「私もまだ全容を把握していなくて正確な説明は出来ないのだけれど、まずこの子はつい先程まで地上界に居てね、突然側にいた旅の仲間ごと火界へ引き摺り込まれたの。出現先は火界南西の山岳地帯。中心部からは結構離れた場所で、近くに火の川が流れていたわね。それで、この子は到着して直に仲間達と離れ離れになってしまって。私はこの子に付きっ切りだったから、彼方がどうなったのかは分からないけど、後で確認しに行こうと思っているわ。あの辺りには何があるの?」
「確か複数の街と少数種族の集落がある筈ですが……。地上界より来られたということは、お連れ様は地上人なので御座いますか? 然らば、火界の環境下ではもう……」
言い辛そうにしながらも、ヴリエは自らの予測を語った。渾神の言い振りから察するに、彼女にとって「旅の仲間」の優先度は恐らく然程高くはない。であれば、真実を伝えても彼女が暴れ出す様なことはないだろう。寧ろ、後出しになるとより心証が悪くなってしまうに違いない。
だが、渾神は首を横に振って否定した。
「いいえ、シャンセよ」
「え?」
「シャンセ・ローウェン・ヌッツィーリナ、黒天人族の元王子の。面識はあるでしょ? 後、おまけで光精が二人」
「なっ、はあっ!?」
「シャンセ殿が火界に?」
ヴリエのみならず側で聞いていたワルシカも慌てる。シャンセ・ローウェン・ヌッツィーリナは天人大戦の元凶たる大罪人だ。約二千年前に終身刑に処されたが八年前に脱獄し、指名手配されていた。逃走後、どういう目的でか火界にも一度だけ訪れており、火界における国軍たる火軍と度々衝突した。その厄介者がまた火界へ戻って来ているのだという。
「ヴリエ、ヴリエ! これは不味いぞ。早急に火神様にお伝えせねば。否、それより先に渾神様にはまず火界より御退去頂かないと……」
「戦わないの?」
「その判断を我々だけで行うのは危険だから、申し上げておるのです!」
「そりゃ、まあそうだ」
シャンセは強い。祖に近い天人が持つ高い戦闘能力に加えて、強力な〈祭具〉を生み出す力があるからだ。仮に彼が今一人でいたとしても、万全を期して火軍を動かさなければならない。そして、火軍を動かすには火神の許可が必要となる。前回火軍を動かせたのも、外出先に居る火神と何とか連絡が取れて、彼女に命令を貰えたからだ。加えてシャンセは黒天人族の元王族でもある為、天界との政治的な交渉を行うことになるだろう。どうあっても、火界の主である火神に動いてもらわねばならない訳だ。
しかしながら、ヴリエは目の前の問題の方が気になった。シャンセ対策で頭が一杯になっているワルシカとは違って、彼女は政の話が出てきて逆に少し頭が冷えたのだ。
「渾神様は何故に火神宮殿へお越しになったので御座いますか? 渾侍様まで伴われて。『渾侍様に無体を働いた火人を火界内で処罰する前に、礼儀として主神たる火神様に話を通しておく』というお話ですが、渾神様の御立場ならば必要がないと存じまする。御本心は別の所にお在りなのでは?」
確証はなかったので、ヴリエは鎌を掛けた。渾神も彼女の思惑に気付きはしたが、気分を害している様子は見せなかった。
「んー、まあ話を通しておきたかったって言うのも本心なんだけどね。貴女の指摘も一部は当たっているわ。可能ならこの子をペレナイカに保護してもらって、私自身はシャンセの救出に向かいたかったの。でも、主が不在で交渉も出来ないんじゃね……」
「では、渾侍様の保護とシャンセ殿の捜索は我々火人族が承ります。どうぞ渾侍様と御一緒に我が城へお移り下さいませ。御部屋をご用意させて頂きます」
「ヴリエ!」
ワルシカは叫び、渾神は意外にも真顔になる。狡猾な女神はヴリエを値踏みする様にじっと見詰めた。
「良いの? 火界にとって重い決断になるわよ」
「責任は火人族が負いまする。他の者には関係のない話で御座います。ワルシカも良いな。今日ここで起こった出来事は忘れよ」
「止めるべきだ。どう考えても、お前達が処罰されるだけでは済まない」
「ワルシカ、聞き分けよ!」
ヴリエはそう怒鳴り付けた後、ワルシカに近寄り、彼の耳元で囁いた。神の耳には声を潜めても無駄かもしれないが、他の種族の聞き耳は〈術〉でも使用されてない限りは防ぐことが可能だろう。
「前回の侍神選定の折、火神様が渾神と内通しておられたのを確認した。火神様は渾神を利用しようとしておるのやもしれぬ。ならば、無下に追い払うという選択も我等には出来ぬ」
「……!」
ワルシカは息を呑み、まじまじとヴリエの顔を見る。彼の顔には分かり易く恐怖と悲嘆の感情が浮き出ていた。
「大丈夫だ。火神様にも火精達にも手出しはさせぬ。何人たりとも」
「ヴリエ、お前……」
友人であり同僚でもある男が言葉を失っているのを捨て置き、彼女は渾神の方へと振り返った。
「話は付きました。どうぞ火人族の王城へお越し下さいませ。詳しいお話はそれから」
「貴女の覚悟を称えましょう。そして、感謝します。アミュ、いらっしゃい」
渾神は珍しく真面目な表情で心からの謝辞を述べた後、漸く自分の背中に引っ付くアミュを見た。臆病な少女は何も言わない。震えてはいないが《火》の種族の王達を凝視していた。
「大丈夫、心配しないで。ペレナイカはもう貴女に危害を加えたりしない。仮にそうなったとしても、今度は必ず私が貴女を守るわ」
「いいえ、それもあるのですが……」
言い難そうにアミュは下を向く。
「どうしたの?」
「その、お香、でしょうか? 臭いがちょっと……。大したことではないのです、けれ、ど」
自分の守り神に求められて本音を語ってはみたものの、やはり後ろめたく感じたのか、元々小さかった声は更にか細くなっていった。今迄の話題に全く関係がなく、敵となるかもしれない自分達に恐れをなしている訳でもなく、全く別の問題について考えていたらしい少女に虚を突かれたヴリエは、困惑が混じった笑みを浮かべた。
(豪胆と言うべきか、純粋と言うべきか)
最終的にヴリエがアミュに下した評価は――実際には地上人族に於ける大人の年齢であると知りつつも――「無知で無邪気な子供」というものだった。とは言え、彼女は高位神の侍神だ。丁重に扱わねばなるまい。
「苦手でいらっしゃるのならば、ご用意させて頂く御部屋の周辺では控えさせましょう」
「申し訳ありません。有難うございます」
アミュはか細い声で礼を言った。
それから暫くヴリエと渾神は会話を続けていたが、やがてワルシカに挨拶をして、アミュを伴い部屋から出て行った。後には彼一人が残された。
「ヴリエ……」
確と閉じているのであろう扉を隠す衝立を呆然と見詰めながら、ワルシカは破滅へ向かわんとする友人の名を呟く。だが、そこで彼は我に返った。
(否、断じて否! その破滅は何としても阻止しなければならない。絶対に許してはならない!)
彼は拳を握り締めて叫んだ。
「誰か参れ! 天界に御座す火神様へ信書を送る」
そうして、ワルシカもまた力強く扉を開き退室した。




