第十回 撤退命令
皇都の庖国大使館に外務省から庖国担当部長大藪庄一が呼ばれ、訪れていた。呼ばれた理由に関しては知らされていなかった、だがこれまで得ている情報からろくでもないことであろう事は容易に推測出来た。だが大藪はその推測が外れていることを祈っていた。
大使館に呼ばれ、大使から手渡された文章は大藪を困惑させた。要約すると以下の通りになる。
「庖共和国は外国に略奪された領土を奪還するためにありとあらゆる手段をとる」
外交で摩擦が生じるのは致し方ないことではあり、それによって様々な争いが発生することはあるが、これは皇国に対して何をどうするかが具体的に何も書かれていなかった。外交文書としては全く意味不明である。
大藪は確認した。
「大使、これは一体どういうことなのですか?」
「そんなことはどうでも良い、速やかにこれを総理に届けたまえ」
大使は突き放すように返した、それは命令口調だった。
大藪は大使から受け取った文書を手に外務省に戻り、外務大臣沢森重光に届ける。沢森大臣は首をかしげた。
「なんだこの文書は、意味不明というかどうとでも受け取れるぞ! 翻訳の間違いでは無いのか?」
「いえ、どう訳してもこれ以外にはありません。大使にも確認いたしました」
「こんな文書を総理に見せるわけにはいかん、早急に大使に再確認しろ」
大藪は悌二郎とのやりとりを思い出した。
「大臣、もしかしたらわざとなのかもしれません」
「わざと? 何のために?」
「時間稼ぎです」
「何の時間を稼ぐというのだ?」
「先制攻撃のための時間です。これが宣戦布告文書なら、今私たちが混乱しているこの時間は向こうを利することになります」
「宣戦布告だと? 何を馬鹿な! 宣戦布告は駐在大使が駐在国政府に出向いて行うのが慣例だ。いち担当外務官僚を呼びつけて行うようなモノじゃあ無い」
「慣例ではありますが、国際法で取り決められているわけではありません。庖国が慣例を無視し、この混乱を時間稼ぎに利用すると言う事は充分考えられます」
「……!」
森重外務大臣は凍り付いた。
森重外務大臣はこの文書を首相官邸に届け、徳山重三郎首相に見せた。臨時閣議が開かれ国防総省長官西條孝太郎大将から庖国艦隊の動向が報告された。
「それならこれは明らかに宣戦布告ではないか?」
何人かの閣僚からそのような意見が相次いだ。だが明確な宣戦布告の文言は無い。これが内閣での混乱をきたす事になった。
文書が手渡されてから既に1時間が経過しようとしていた。喧々ガクガクの議論をし、各省庁と連絡、情報収集し、さらにの後、与党内部で話し合いが行われ、内閣が国防作戦令を発令するのはさらに2時間ほど後のことである。
鹿児島半島南西約15キロ 天照
「3号機発艦、庖国艦隊の監視を2号機と交代、本艦に帰さずに佐世保へ向かわせて。3号機は燃料残量をみて同様に佐世保へ」
悌二郎は時計を見て2号機の燃料残量を計算し、指示を出す。佐世保に向かわせるのは回収する余裕は無さそうだという判断である。
「前方水平線上に煙多数!」
二号機発艦から1時間後、天照の監視員が庖国艦隊の煙突から立ち上る黒煙を視認した。
艦橋の悌二郎、次美、大野航海長が一斉に双眼鏡で確認する。
「いよいよですな」
大野航海長が言う。
「総員配置」
悌二郎が総員配置を発令し、非番中の者も全員がそれぞれの配置につく。艦の総力戦態勢である。
「総員配置よし!」
10分後、次美が総員配置の完了を悌二郎に報告する。悌二郎が艦内放送のマイクを手にする。
「全員そのままで聞いて下さい」
一言置いて悌二郎が続ける。
「現在本艦は鹿児島へ侵略しようとしている庖国艦隊に接近中です。庖国艦隊は戦艦1,巡洋艦4,駆逐艦15,揚陸艦3、輸送船20の大艦隊です。正直に言って本艦1隻でまともにやり合っても生還出来る可能性は極めて低いと言わざるを得ません。でも皆の全力をもってすれば侵略の意図をくじくことは充分可能であると信じます」
ほんの少し躊躇して悌二郎は続けた。
「皆の命をかけます、済みません」
数秒後、各部署から悌二郎の元に連絡が相次いだ。
「主計科、死なばもろともです!」
「機関科、覚悟はもとより出来ております!」
「通信科、戦況を全部通信します!」
「医務科、可能な限り助けます!」
「飛行科、最後までお供します!」
「内務科、損傷は全部治して見せます!」
艦内通信が終わると艦橋の浜田砲術長と大野航海長から
「砲術科、一発たりとも無駄にはしません!」
「航海科、手足のように使って下さい!」
その言葉を聞いて悌二郎は1390名の命を一身に背負う、あらためてそのあまりの重みを全身に感じていた。天照艦長に着任してからまだ日が浅いとは言え、既に幾度もの戦闘を経験してきた。だが今度ばかりは勝ち目の薄い戦いだという事実が恐怖をつれて覆い被さってくる。顔は血の気が引いて絶望の色が浮かんできていた。さっきまでの飄々とした姿は影を潜めていた。
次美が悌二郎に一歩あゆみ寄り、優しく語りかけた。
「艦長、皆一緒です。艦長ひとりではありません」
悌二郎が振り返ると次美を始め艦橋の皆がまだ若い艦長に優しく微笑みかけていた。目を伏せた悌二郎はゆっくりと深呼吸をし、意を決して命令を出す。
「第1戦速、針路090」
もう悌二郎の顔からは絶望の色は消えていた。
枕崎市沖約10㎞
「船影を視認!」
見張員が叫ぶ、測距儀で距離を確認する。
「距離、2万3千5百!」
「40分ほどで追いつきます」
大野航海長が報告した。
「まもなく主砲の射程に入ります」
浜田砲術長が射撃開始の命令を待っていたが悌二郎はこう答えた。
「まだ砲撃はしません、その前にやっておきたいことがあります。庖国艦隊に文字通り突入します」
「体当たりでもする気ですか?!」
次美が目を丸くした。
「いやいや、輸送船に乗っているのが庖国兵なのかを確認して記録しておきたい。あとで庖国側が侵略の意図をしらばっくれてもこっちが国際世論を味方につけられるように証拠固めをしないとね」
「危険です! 戦端が開いたら集中砲火を浴びてしまいます!」
浜田砲術長が進言したが悌二郎は押さえた。
「庖国艦隊は同士討ちの恐れがあるから、そうおいそれとは撃てません。そしてこっちが撃たない限り、向こうも撃ってこないはずです、まだ宣戦布告していませんからね。それから」
一旦言葉を切った。
「それから?」
「どう戦おうとこっちが1隻である以上、集中砲火を浴びることに変わりはありません。ならば打てる手立てはひとつでも多く打ちます」
広報班が持てるだけのカメラとフィルムを持って各観測所についた。できる限りの記録をとっておくためである。 通信科にはこれから起こる全てを外部に送信するように下令された。もし天照が撃沈され、一切の戦闘記録が沈んでしまっても、天照の行動記録が外部に残るようにとの考えである。
第一艦隊旗艦 戦艦長門 屋久島南方約50㎞
庖国艦隊が鹿児島湾口に近づいているとの最新情報がもたらされて参謀達が粟方提督に語気を強めて進言する。
「もはや庖国艦隊の目的は九州南部という事に疑いの余地はありません! 速やかに迎撃に向かうべきです!!」
粟方中将は口をへの字に曲げてしばらく黙っていた。次に口を開いたとき、参謀達の目が点になった。
「艦隊を佐世保に帰投させよ」
一瞬の沈黙の後参謀達が声を荒げた。
「九州南部侵略をみすみす見逃すというのですか!!?」
「天照を見殺しにするというのですか!!」
「庖国艦隊は本艦隊の半分以下の戦力、充分勝てます!!!」
「黙れ!」
粟方中将が一喝する。参謀達が硬直した。
「もはや庖国艦隊の意図をくじくのには時間切れだ。本艦隊が上陸を阻止するのは困難である。ならば来たるべき奪還作戦のために戦力を温存すること、それが自分の使命である!! 天照は出過ぎた事をして沈む、それだけのことだ」
参謀達は唇を噛んで黙っていた。粟方中将がたたみかける。
「命令を実行したまえ!」
第一艦隊は無線封鎖中なので、発光信号および旗流信号で艦隊各艦に佐世保帰投を命令し、佐世保へと針路を取った。
天照 庖国艦隊まで2㎞