第九節「GW」
あの和解劇から数日後、燐は対抗戦前と変わらない学園生活を送っていた。とはいえ先日の一件以来クラスの大部分と打ち解け燐に対し遠慮がちだった生徒も積極的に話しかけてくるようになった。燐もそれにはとても満足しており文字通り充実した学園生活を送っている。対抗戦のような刺激的なイベントも楽しいが取り立てることのない日常も燐には大事なのだと彼自身感じている。
「ということで獅童はあとで職員しつこい」
それは帰りのHRでのことである。
「え、なんですか」
「聞いてなかったのか前にも言っただろう」
「すいませんなんのことだか」
桐生は大きく息を吐いた。彼の顔には誰が見てもわかるように面倒臭いという文字が書かれていた。そんな桐生の代わりにレベッカが話し始める。
「次のGWにね1年を対象に課外活動があるの。それで前回の対抗戦参加選手の中から特に成績の良かった何人かが資格を得るんだけど」
そこまで聞いて全容がわかってきた。
「シドウもリズベットも頑張ったからねうちのクラスからもふたりのうちどちらかに参加してもらうことになるんだけど」
そこで桐生が話を引き継ぐ。
「で、だ。この間その話をしてだな。お前は聞いてなかったようだが」
じろりと睨めつけられる燐。
「うちのクラスの枠はひとつだ。だから行けるのはお前かリズベットのどっちか、先にリズベットに意思確認をしたらおまえに譲ってやっていいっていうからだな」
リズの席に目をやる。リズは振り向きはにかむ。
「おまえに決まったわけだが、研修は外部の施設で行われるよって参加するに至って申込書を書かなきゃならんのだ。だからあとで職員室に来い」
話し終えると再びため息をつく桐生。
「すいませんでした」
平謝りをする燐。その後指示通り職員室に向かい参加申込書に記入そして提出今年のGWは課外活動の特別研修を燐は受けることになった。この時点では詳しい内容を聞かされていない。桐生が説明をめんどくさがったからだ。レベッカからも行けばわかるとだけ言われていた。
そしてすぐさまGWはやってきた。長期休暇をフルに使った研修ということで。授業を終えたその日のうちに学園を出ることになった燐は前日からまとめていた荷物を取りに戻り学園所有のバスが置いてある駐車スペースへ向かった。
学園所有というだけあってなかなか大きくこじゃれた外装のバスである。燐自身これからどこへ向かうかは知らないがそれでもどこか遠足気分で弾んだ気分でいた。運転手に荷物を預けて車内に乗り込むともうすでに大部分の生徒が座席についていた。中もなかなか広く間取りをとっていて内装も豪華だと改めて感心する。前方の空いた座席は教職員のスペースだろうがまだ教師は来ていない様子。奥へと進み空席を探すとふと見知った顔を見つけた。
「ここいいか」
「お好きにどうぞ」
気のない返事を流し座席に腰を下ろす燐。隣に座った黒髪の少女は文庫本片手に読書中のようだ。
「それ小説か、そういうのも読むんだ。専門書とか勉強ばっかのイメージがあったけど」
「皇睦海」
「え?」
すると少女は本に栞をはさんで本をたたむと燐を見つめる。
「対抗戦楽しませてもらったわ。思ったよりは」
その言葉で合点がいった。
「あの言葉覚えていてくれたんだ」
彼女の律儀な性格が愛らしく思えて燐は笑いを浮かべた。
「なにかおかしい?」
「いや、いいやつなのかなって」
「いわれたことないわそんなこと」
顔を背け彼女睦海は窓に視線を向けてしまう。そこで燐の頭に疑問が浮かんだ。
「あれ?でもなんで?ここにいるってことは皇さんも研修参加するの?」
「疑問符が多いわね。じゃないとこのバスに乗っている説明がつかないでしょ」
「そうなんだけど、皇さん対抗戦出場してなかったよね」
「例の彼が編入しちゃってほかに誰もいないから押し付けられたのよ」
「でもディックと一緒に出てた・・・」
「その彼が興味ないって言うんだもの。私も行って損はないと思ったから引き受けたのよ」
「へえ、そうなんだ」
「あなたおかしな顔をしているわよ」
言葉の通り燐の顔はなぜか少し緩んでいた。
「ごめん、クラスでの皇さんを想像しちゃって」
「別段今と変わらないわよ」
「うん、そんな気がする」
「なにそれ」
燐の言葉の意味がいまいちわからない睦海はそんな表情を浮かべる。
「近くに日本人少ないからかな。おかしいなここ日本なのに。おれ皇さんとおしゃべりするの好きみたい」
そういって今度は燐が窓の外に視線を向ける。そんな会話をしていると運転手が点呼確認をはじめた。
「それではこれより出発します。道中何度か休憩を挟みますので・・・」
そこでようやく気づく。いまだ教師らしき人物は誰も乗りこんでいないことに。
「引率いないのか?」
燐が疑問を口にする。
「そうなんじゃない」
睦海は再び本を開き読みふけっていた。引率がいないことに疑問を持つ燐にお構いなしでバスは発車した。道中多少賑やかなものの決して騒がしいというほどではない、この学園の生徒は比較的物静かな人間が多いようだ。しばらく走っていると後部座席から声がかかる。
「君、スメラギさんだよね学年次席の。代表挨拶よかったよ。言いづらい名前だから覚えてて。それから君は」
目を細めて燐を見つめる。
「Bクラスの代表の子か。いやあ、Aクラスの彼との試合はなかなか白熱したね」
突然の挨拶に戸惑う凛とそれとは対称的に静かに活字を目で追う睦海。愛想のない隣人を気にかけながらも切り返す。
「名前聞かせてもらってもいいかな」
「ああそうだね。僕の名前はザック、Gクラスに在籍してる。知らないかな?これでも一応この間の恥ずかしくも優勝者なんだけど」
「そうなんだ。それはすごいな。俺試合のあとはずっと医務室で寝てたから」
「そうらしいね、正直君たちのおかげで決勝は盛り上がりに欠けてしまってね」
「悪いことしたのかなそれは」
「いやいや君たちが凄すぎたんだよ。新入生の試合じゃなかったねあれは」
「過剰な物言いだな。こっちは必死だっただけなのに」
「だとしてもね、だから僕は名ばかりのウィナーなんだ」
とりとめのない会話をしばらく交わした後ザックは自分の席へと帰っていった。一人心地を付いていると隣人が気になった。彼女は未だに物語に埋没したままだ。
「そんなにその本面白い?」
「面倒なだけ」
「面倒ってザックのこと?」
「わからないな。凄いって言ってくれてる相手だよ」
「わたしは誰かに認められたいわけじゃない自分を認めてあげたいだけだから」
数時間休憩を挟みながら走り続けたバスはようやく目的地へとたどり着いた。バスを降りた燐たちは眼前にそびえ立つ長大なビルを見上げる。
「ここって」
「ここはGIC社の日本本社のようね」
「GICってAWのハードウェアからソフトウェアまで開発してるっていう海外の大企業だっけ」
「説明ご苦労様、そうよ。それでここがあなたたちの研修場所」
燐たちの会話に割り込むように離れたところから声がする。そちらへ振り向くと燐たちの乗ってきたバスと同様のバスから流れてくる人影がみえた。バスの向こうには大型のトレーラーも数台止まっている。人並みの先頭を歩く女性が声の主のようだ。
「あなたたちが今回参加するなんとか学園の学生さんね」
この女性以外は学生服のようなものをまとっている。つまりこの女性は教員かなにかなのだおろう。
「はい。えと、僕ら何も聞いてきてないんですが」
「それなら問題ないわあなたたちの面倒は私が見ることになっているから。私はドイツにあるどいつ学園で教師をやっているユーディット・エーベルよ。よろしくね」
「よろしくお願いします。それでなんで俺たちGICに来たんですか」
「ここで研修を行うからよ、なんとかとどいつの合同でね。うちとそっちは姉妹提携してるからね」
「AWの企業で研修って一体何を」
「それはおいおい分かるはまずは荷物を持ってついてきて」
ユーディットの後を追うように燐たち学生たちは荷物片手に歩き出した。正面ゲートをくぐると大勢の警備員が並ぶ中スーツを着た男性が立っている。
「こちら今回お世話になる日本支社の後藤さんみんなあいさつして」
「みなさんようこそ日本支社で統括の仕事をしている後藤です、それではみなさんまずはこれを」
そう言って後藤の後ろで控えていた数名の社員から何かしら手渡されていく学生たち。
「それはゲスト用のセキュリティパスです。機密を扱ってる場所も多いので」
入館者ゲートにパスをかざすとバーが上がって通れるようになる。次々と門をくぐっていく学生。その後一同は大きな会議室のような場所に通された。
「まずはここで今回の研修の概要を説明します」
壁に設置された大きなディスプレイの前に立った後藤はそばにある装置でモニターを操作し始めた。
「今回はみなさんのGWを活用した我が社と学園との合同プログラムになります。初日の今日はまず弊社の様々な施設を見学してもらいます」
後藤がスクリーンに映し出した画像にはGIC社のさまざまな研究施設が写っている。
「翌日からは本社の裏手にある演習場で実技演習と研究棟での座学のカリキュラムになります」
つづいて演習場の映像も映された。そこには広大な演習施設と隣接する工場がある。演習場の周りは森林地帯で覆われている。
「なにか質問はありますか」
一度話を区切ると後藤はモニターの電源を落とす。暗くなっていた室内に明かりが灯る。どこからか声が上がった。
「自分たちの宿泊場所は?」
「本社の施設の一つに来客用の宿泊施設も用意されています。こういう機会は近年何度かあるのでそのために用意されました。施設の出入りにはいろいろと制約はありますがそちらはユーディット先生の指示に従ってください。ほかに何か」
「座学ということですがそれはユーディット先生が?」
ユーディットが壇上に歩み出る。
「心配しないでそっちの方は私ではなく客員を招くことになっているは海外で活躍されてる優秀な方よ。明日こちらに見えるはずだからそれまで楽しみにしててね」
「質問がないようなら早速施設見学に参りましょう。荷物はこちらでお預かりしてみなさんの部屋に運び込んでおきますね」
その後施設見学が始まった。支社ビル内部の見学かと思いきやビルを一旦出たあと専用のバスに乗り込む面々。このバスで敷地内を行き来するようだ。これから向かうのは第3研究棟と呼ばれるところだ。再びバスに乗り込んだ燐たち。走り出したバスの車窓から望む景色に声を漏らす。いくつもの建物を繋ぐ広大な敷地。背の高い建物や幅広な工場が敷地内にいくつも見える。遠くに見える演習場には本格的な設備も設置されている。研究棟に到着するとそこにもセキュリティゲートが設置されている。それを通過して内部へ入っていく。
「ここでは主にソフトウェア開発を行っています。海外からの優秀な研究者を集めて。現行のシステムの改良から違った特徴を持つ新規OSの開発までその規模は実に幅広くやっています」
「そんなにOSの種類が必要なんですか」
「AWの活動目的に最適化されたOSを用いた方がより効率的に本体を動かすことができますからね。それはこれからいろんな実践を重ねることで実感していくと思います」
研究室内では研究者たちが専門的な言葉を用いていろいろと議論している姿も目に入る。他にも何台ものコンピュータに向かって作業している人の姿も。
「次は工場の方を案内しましょう」
先と同じくバスに乗って工場に移動する。
「こちらでは本体の整備を行っています。弊社製のAWの国内シェアは42%、海外では28%です。それらのうち国内の機体はこちらに運び込まれ整備されます」
後藤の説明を聞きながら工場内に歩みを進めると整備士たちがいくつものAWを解体している姿が目に入る。すると
「あれあの機体は」
ひとつの期待の前で足を止める燐。
「どうかしたの?」
終始隣で歩いていた睦海が声をかける。
「いや、ちょっと気になってね。気にしないでいこう。置いてかれちゃう」
再びふたりは歩き出す。
その後もいくつかの施設を見学したあと今日の宿舎へと向かった。
「ユーディット先生、これは」
部屋割りが済んだあと困惑した面持ちで燐はユーディットをみつめる。
「大丈夫、大丈夫。私のモットーはジェンダーフリー、男女隔て無く愛することだから」
自然と脱力する体に燐は頭を持ち上げることさえ面倒に感じる。
「意味がわかりません。そっちはいいのか」
横に並び立つ睦海を伺う。彼女からの返答はない。
「だって段取りの都合で部屋が足りなくなったんだもの、文句なら半端な仕事をしたベッキーに言ってちょうだい」
「なぜそこでレベッカ先生の名前が」
「あら知らなかったの?この研修彼女と新学期前に打合せしたものなの」
「新学期前って、そういえば海外でなにかやってたとか」
「その一環ね。そのあとのそちらの選抜は彼女の担当だったから。ギリギリまで男女の頭数が分からくて困ったわ」
「あの、ほかに部屋は」
ようやく睦海が口を開いた。便乗するように燐も口を添える。
「そうですよいくらなんでも男女同室なんて」
燐たちがいま直面している問題は研修の間ふたりが同じ部屋で寝泊まりしなくてはならなくなったということだ。そもそもはAクラスから参加する予定だったディッツが突然編入することになったことその代理が対抗戦に参加していなかった睦海になったこと。さらにBクラスでもギリギリまで参加者が決まらず申し込みが押してしまったこと。それらが原因とはいえこの段階まで解決されていないのはやはり問題だろう。
「いいじゃない、研修中の思い出作りだと思えば」
「先生、俺たちここへ何しに来たんですか」
「そりゃ研修よ、私たちなんてわざわざドイツから来たんだから。けど決まったことは仕方ないでしょ、なにも全日程一緒に寝ろとは言わないから」
「その間に別の部屋を用意してくれるということでしょうか」
「ちなみに先生の部屋に皇さんを泊めるというのは」
「ああそれは無理ね。私は市内のホテルとってあるから。生徒は生徒同士仲良くね。私は私でお楽しみが待ってるし」
燐はこの時大人の身勝手さを痛感してしまった。
「皇さん、先生はこう言ってるけどどうにかしてもらおうよ」
隣の睦海に顔を向ける。同時に睦海をこちらを見つめ返してきた。そのあとユーディットに向かい直る。
「わかりました、その代わり早急に代わりの部屋を手配してくださいね」
睦海の出した答えに燐は戸惑ってしまう。安心したせいかこっそりと息を漏らすユーディット。
「よかったわ物分りがよくて、さすが優等生ねムツミ・スメラギは」
謙遜してみせる睦海。
「ほんとにいいの皇さん?俺と一緒の部屋で」
「大丈夫よ。あなたもいかがわしいことをするつもりはないのでしょう」
問いかけに答える睦海の視線は鋭く言外に妙な気を起こせばただでは済まさないと目で物語っていた。
「しないしない。うん、しない」
バツが悪そうに顔をそらす燐、本当のところは睦海の視線の鋭さにたじろいだだけだった。
そのあとようやく自分たちに割り当てられた部屋へとむかう燐と睦海。ほかの学生たちはユーディットと言い争っている間に各々の部屋へと散ってしまっていた。
部屋の前までたどり着くと先ほど渡されたカードキーで施錠を解き中へと踏み入る。真っ暗な室内ですぐさま扉脇にある照明ボタンに手を伸ばす。部屋が明るかなり部屋の全貌を確認するとまたもや戸惑ってしまう。てっきり簡易ベッドが置かれたビジネスホテルのような間取りかと思えば和畳が敷き詰められた旅館のような純和風の装いだったのである。これには睦海の顔にも少し驚きの顔が見える。
「まあ中学の卒業旅行とかってこんな部屋じゃなかった?」
「私のところはホテルだったから」
「そうなんだ。とりあえず中に入ろうか」
いつまでも入口付近に立ち尽くしている様子を見かねて燐が促す。なかに歩み入り部屋の端と端を互いに陣取ると荷を降ろし人心地つこうと隅にある座布団に手を伸ばす。睦海の分もしっかり手渡すと互いに少し距離をとって腰を下ろす。
「お茶、呑む?」
「ええ、いただくわ」
部屋には湯呑や電気ポッドも備え付けられており何から何まで本当の旅館のようである。流石にお茶菓子まではなかったが。
「あれかな、やっぱ海外の企業だから日本のものに憧れとかそういうのがあるのかな」
「そうなのかしらね」
内心の緊張を紛らわそうと会話を絶やさないよう努める燐とは対称的に表面上は穏やか口調で言葉を返す睦海。互いのよそよそしさが部屋いっぱいに広がっていた。睦海の前に湯呑を優しく置く燐。
「ありがとう」
またもや距離をとって燐も腰を落ち着ける。
「このあと食事だっけ」
「ええ、研修の為に社員食堂を使わせてもらえるみたい」
「そうなんだ。あ、宿泊施設の中に共同浴場もあるんだってね。ここまで来る途中で案内板があったよ」
「そう」
「なにからなにまで本当にすごいよね」
「そうね」
あっという間にお茶を飲み干し湯呑を卓へと置くと室内の壁掛け時計に目を向ける。
「ご飯だね、行こうか」
「ええ」
食堂で食事を済ませたあとユーデイットからあす以降の予定が説明がなされると本日は解散となった。部屋へと戻ったふたりはそそくさと仕度を済ませると共同浴場へと向かう。
「ふぅ~」
湯船に浸かるとようやく燐の心が軽くなる。今日一日の見学以上に睦海と同室とわかった後の方が燐には気まずく締め付けられる感じがしたからだ。
「けどやっぱり大きい風呂はいいなあ」
入学してから未だに燐の住まいはあの旧時代的な宿直室だ。風呂もついてはいたが湯を張って浸かるには窮屈でずっとシャワーで済ませていた。
「明日から本格的な研修か、実習ってどんなことするんだろう。座学も学校の授業とはやっぱ違うのかな」
湯で顔を拭う。壁に背を預けると湯気で霞がかった天井に視線を漂わせる。
「皇さんと同室か、なにかあるわけじゃなくても緊張するよな」
ほどほどに疲れを癒すと浴場をあとにし部屋をもどる。部屋の扉をあけると睦海はまだ戻っていないようだった。これといった娯楽のない部屋でカバンを漁り一通り翌日の仕度を済ませるとゴロンと畳に横になった。
「布団でも敷いておくか」
布団の配置にしばし頭を悩ませたが結局卓を隅に追いやり人2人分ほどの幅を空けることで落ち着いた。
「近すぎても変に遠くても意識してるみたいで嫌だしな。気になるなら自分で動かすだろう」
そして布団の上で再びゴロンと横になる。
20分後部屋の扉が開いて睦海が帰ってきた。寝転んだまま部屋に入ってくる睦海を見上げた。睦海の姿を見てしばし燐は戸惑う。
「どうかしたの」
「いや」
かわいらしいパジャマ姿。まだ乾ききっていない髪に上記した肌。燐の胸のドキドキは止まらない。
「メガネどうしたの」
「そこまで目は悪くないの。就寝前は特に必要ないから」
普段とは違うメガネをかけていない姿もまた燐の瞳には新鮮で魅力的に映る。自身のカバンまで歩み寄る睦海。睦海の通った跡から漂う鼻を刺激するかすかに甘りが更に燐を興奮させる。おそらくはシャンプーの香りではと推察する。
「布団、勝手に敷いちゃったけどよかった?好きに動かしてもらっていいから」
「ありがとう、このままで構わないわ」
座り込んだ姿勢から顔だけこちらに向ける。その顔がまた一段と艶っぽく何もしていない燐の方が恥ずかしさでいっぱいになる。その後胸の高鳴りをごまかすため何杯も茶を口にする。対する睦海は、洗面所で歯磨きをしている。沈黙が部屋を支配する中同じくあすの支度を済ませた睦海は柱に持たれて本を読んでいる。時計が10時を指した頃燐が就寝を促した。
「そうね、寝ましょうか」
メガネを外し本とともに枕元に置くと布団に潜り込む。枕元の間接照明を残し部屋の明かりを落とす。
「こっちの電気も消していいかな」
間接照明のも手を伸ばした燐。真っ暗になった部屋で秒針の微かな音だけが耳に届く。すぐには寝息は聞こえてこない。睦海に背を向けるように体を横にする。背中からでも睦海を意識してしまうこの状況がなかなかにつらい。燐の体感時間で10分ほど経ってもまだ寝付けない。向こう側の寝息も聞こえてこない。
「ひとつだけ言っておくわ」
背中の向こうから声が飛んできた。またもや鼓動が早まるのを感じる。
「私もかなり緊張しているのよ」
それっきり言葉は途絶えた。
「(寝れるか~!!)」
そのまま悶々としたまま燐の研修初日の夜は更けていく。いつのまにやら気づけば燐も夢の中眠りの中に漂っていく。
「なんでこんな、はぁ」
それは珍しく睦海が人前でため息をついた瞬間であった。そのため息は眠りの森を彷徨う燐には決して届くことはない。