3.リンゴさん、描かれる
私の目の前にニコニコした顔がある。
「ニル」
「何かしら、リンゴ♪」
私の本当にすぐ前にニコニコした顔がある。
「ニルしか見えません」
「奇遇ですわね。わたくしもリンゴしか目に入りませんわ♪」
とってもとっても近くて、もうちょっと何かあればキスでもしてしまいそうです。
「私はニルの後ろにある草花を見たいのですが」
「草花よりわたくしをご覧になって♪」
うん、ダメだこれ。はっきり言おう。
「ニル邪魔ぁああああ!」
「リンゴはわたくしだけ見ていればいいんですわぁああああ!」
んぎゅー、と抱き着くニルを引き剥がして、ようやく視界が開ける。
「はいはい、離れた離れた。スケッチできないでしょうが」
「いーやーでーすーのぉー!」
なおもじたばたするニルを片手であしらいながら、私は画板を用意しスケッチを始めた。
時の流れは早いもの。気が付けば入学から二ヶ月が経過していた。
じわじわと春から夏へと変わる気温の上昇の中、梅雨のないこちらの気候では今が一番過ごしやすい時期である。
そんな陽気の中、不満気な顔をしたニルが「わたくしは怒っています」アピールをしていた。
「う゛ーですわー……」
「ニルもいいから描きなよ。授業終わっちゃうよ?」
「リンゴが冷たいですの……」
しょげたニルがしぶしぶ自分の画板を取り出した。
『学園』から少し離れた『薬草園』で本草学の授業である。
本草学とは、薬効のある動植鉱物についての学問だ。
薬剤師や医者を志すなれば在学期間すべてを使っても足りないので『学園』の授業で教えるのはさわりだけなのだが、そこはそれ。この『学園』には将来いざというとき前線に立たねばならない人間がうじゃうじゃ居る。彼らが現地調達できる薬を学ぶことがこの授業の第一義というわけだ。
まあ、そんな事情はまるっきり無視して、
「姫さん、さっさと描かねえと時間ねぇぞ?」
「あら、もうこのような……こんな時間ですの!? ま、間に合うかしら……?」
私が居るからという理由で授業を選んだポチやらニルも居る。
「やあ、ポチはもう終わったのかい?」
「うっす、リンゴさん。ばっちりっすよ!」
「そのように言っておいて、ポチさんも全然進んでないのではなくて?」
あわあわ、とニルは急いで薬草のスケッチを始めながら、口ではツンとして目では仲間が欲しそうにポチを見る。
「あいにく、僕はもう終わったぜ」
ニヤリと得意気に口角を上げたポチは、画板ごと私とニルの前に絵を置いた。
「――な、なんですのこれはっ!?」
そこには、色艶どころか葉脈の一筋に至るまで写真と見紛うほど精緻に描かれた薬草があった。
「ポチ、絵も上手なんだよねぇ」
「じょ、上手というレベルですの? 王族お抱えの絵師でもここまでのものはなかなか……」
「へえ、ポチって大したものなんだ」
ふむ。芸術の素養のない私にはそのあたりのことはわからないけれど、第三王女であるニルがそうと言うのならポチは本当に大したものなのだろう。
「どうっすか! 題して『なんか体にいいらしい薬草がすげぇきれい』!」
「お莫迦だけど」
「ですわね」
「あ、あれ? 今、僕、褒められる流れじゃないんすか?」
得点したらすかさず減点しにかかる。そんないつもどおりのポチである。
「はっ……! ぽ、ポチさん。ものは相談なのですけれど」
「ん? 姫さん、何だ?」
「――リンゴの絵を描いてもらえないかしら?」
「肖像権侵害ー!」
この国、そういう概念がないけれどちょっと叫んだ。
「リンゴさんの絵かー。でもなぁ、リンゴさん嫌がってるみてぇだし」
おお、よく言ったよポチ。
「ポチさん。昼食のデザートにアップルパイはいかがですの?」
「描く」
うわ。アップルパイに負けた。
「まあまあ、リンゴさん、いいじゃないっすか。僕が描かなくったって、姫さんが欲しいと思えば簡単に手に入れられるもんっすよ」
「んー……まあ、確かに」
それならば、私を知りもしない人に描かれるよりはポチの方が良い。私をどう描くかも多少興味があるし。
「アップルパイーのパイパイパイーっとぉ♪」
……まあ、上機嫌にざくざくざかざか手を動かすポチには何か不満はあるけれど。後でしばこう。
「うっし、できたっすよ」
と、そうこうしているうちに、ポチが筆を置いた。
「どれどれ」
「楽しみですわー♪」
ばくにゅう
「……ポチ」
「どうっすか! この完璧な造形!」
「死ぬがいい」
「なんで!?」
もうぽちとかいきるかちないよね。うんそうだしぬべきだ。しななきゃ。しんだらきっとぽちもすこしはおばかが。わたしがんばる。きもちわるいけど。おえー。
「ちょ、ちょちょ、姫さん! 姫さんならわかるよな、この『リンゴさん改』の魅力が!」
「えっ、あっ、え、ええと……」
見入っていたニルが、頬を染めたまま視線をあっちこっちにやる。
「にぃるぅ~?」
「い、いえいえいえいえ、わ、わたくし思ってないですわよ!? 想像上の産物でもこんなリンゴもいいななんてこれっぽっちも思ってないですわよ!?」
「え、姫さん、違うぞ。それ、前にリンゴさんが魔法でおっぱいでっかくしたときのを思い出して描いたんだぜ?」
「現実であったんですの!? いつどこで何をどうしたら見られましたの!?」
「にぃーるぅー?」
「はっ!」
はっじゃないよ、はっじゃ。
くそぅ。おっぱい星人はポチだけだと思ったのに身近にもうひとり居たよ。どうしよう。
「とりあえず、ポチは後で来世に送るとして――」
「来世に!?」
「――そろそろ授業が終わるんだけど、ニルは描けたの?」
「あっ」
「おら、小僧どもー。授業はそこまでだー。できててもできてなくてもオレに絵ぇ提出しろー」
と、いつぞやの阿呆教師の号令がかかる。
「あああああっ!」
「もちろん、白紙だったやつには単位なんてやらねぇーし、次の授業から出席させてやらねーからなー」
「ああああああああああっ!」
「あん? 貴族がどうした。こちとら、貴族のボンが集まる『学園』の教師長様よ! オレがダメと言やぁ、王族だろうとダメに決まってらぁ!」
「あああああああああああああああああっ!」
えらい勢いでニルが追い詰められていく。
「り、リンゴぉ……」
泣きそうな顔しないの。
「あー……しかたないなぁ、もう」
まあ、あの阿呆教師ならどうにかできるだろう、と私は腕をぐるりと回して歩き始めた。
「にしても、『薬草園』なぁ……」
「あら? ポチさん、何か不満が?」
「いや、なんてーかぁ……変なもんだなって思ってな」
「そうかしら? 多少なりとも自然が残っていて、人が住めるよう整備されていた分だけ開発も楽だったと聞いていましてよ?」
「んー、そりゃ『薬草園』作るのにちょうど良かったってのはわかんだけどよ、すっきりしねぇ。だってよぉ――」
「――ここって、元は廃村だろ?」
爆乳リンゴさんと最後に出てきた教師長は、それぞれ『とりあえず保留にしました』の番外編で登場しました。
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