3.リンゴさん、出会う
椎津光太郎は愚かしかったが、日本に居たときから愚かであったかといえばそうではなかった。
彼は、普通の家から普通の高校に通う普通の高校生であった。
学校の偏差値は平均より若干高く、けれども彼の成績は校中では半ばよりやや下で。
勉強に力を入れるわけでもなく、さりとて部活に打ち込むでもなく、恋愛にうつつを抜かすでもなく、幾人かの友人と冗談を言い合って過ごすのが彼の日常だった。
漫画を読むのが好きで、週刊少年漫画誌をコンビニで立ち読みするのを楽しみにしていたが、連載の全てに目を通しているわけではなく、趣味に合わないものは飛ばしていた。
彼は普通の高校生であった。
普通であることを知っていて、少年漫画の主人公のようになりたいと願いつつ、それがかなわないことも理解していて、情熱を燃やせる目的も持たず、溢れ出る才覚もないと自覚していた。
毎日を楽しく過ごしながら、一日一日と彼は笑い顔の向こうに焦りを蓄えていた。
――何者かになりたい。
――誰もが認める、誰にも代わりのできない人間になりたい。
――けれども、何をしたらいいのかわからない。
彼が何事もなく日本に居続けたのならば、そこそこの大学へ進み、そこそこの企業に就職し、それなりの仕事に忙殺される中で「ああ、そんな中二病を患っていた時期もあったな」と思い出すこともあっただろう。
それが己にすら揶揄されるべき妄想であったのか夢破れた敗残者の遠吠えであったのかは誰にもわからない。
ただ、彼が世界を渡ったのは、まだ現実と妄想に線を引く前であり斜に構えた現実主義者に落ちぶれる前であった。
彼には素養があった。
ある日、目覚めてみればそこは未開なファンタジーがごとき世界。
その手には、『チート』と呼ぶべき超常現象を自在に引き起こす能力。
幾度と無く布団の中でした妄想。寝物語に己に語った都合の良い英雄譚。
彼には、己を『主人公』であると思い込めるだけの素養があった。
そして――それを見抜き、彼が望む栄誉、名声、女、金、身分、称賛、すべてを与えた人間が居た。
『勇者』という名の数年に及ぶ甘美な甘美な夢から覚めるには、少年椎津光太郎はあまりに普通でありすぎた。
気まぐれに呼吸が乱れればそれだけで現世に還ってしまう暁の夢に、彼は自身が起きてしまわないよう息を潜め続けた。それだけの話なのである。
銃口は煙を吹いていた。
火薬を過剰に込めたのか火薬そのものが違うのか、最初にコータローがニルを撃ったときよりも明らかに太い煙であった。
コータローは床に転がっていた。
二度三度、奇妙に引きつるような動きを見せて、それっきり。
「……っ!」
床に広がる赤いものと赤くないものに、のどを焼く酸っぱさに、私は顔をしかめた。
冷静にならねばという思いとは裏腹に、心臓は痛いほどその動きを早める。
コータローが――。日本人が――。人間が――。止めようと思ってもその言葉がぐるぐると頭の中を回り続ける。
「あれ? コータローさん? コータローさーん。……コータローさん、死んじゃいました? わたし、まだ一丁しか撃ってないのに……」
アリサは意外そうに、けれども「サイコロを振ったら、続けて一の目が出た」とその程度のことのような口ぶりでコータローを語った。
「あ、もしかして、コータローさんが言っていた『日頃の行い』が良かったからでしょうか」
うんうんなるほどさすがわたし、とアリサはひとり笑顔で頷いて、構えていた火縄銃をぞんざいに捨てた。
「改めまして。リンゴ・ジュースさん、どうもありがとうございます。おかげでコータローさんを簡単に殺すことができました♪」
背筋を怖気が走った。
だが、だからといって顔には出さない。表面上は平静を装って、私は皮肉げに顔を歪めてみせる。
「私はこれでも冒険者だから、大概危なっかしい連中にも会ってきたつもりだけれど……君ほど狂ってる手合いはそうそう見ないよ」
「いえいえ、そんなそんな。わたし程度なんていくらでもいますよ」
まんざらでもない表情で、照れくさそうにアリサは笑う。
「それで、リンゴ・ジュースさん。お話は戻りますけれど、わたしの味方になってくださいませんか? 名誉も報酬も思いのままですよ」
「リンゴさんが、んな話になびくわけねぇだろ!」
叫んだのはポチだった。
「ああ、ポートランド・ド・ゲルモンドさん、安心していいですよ。要人襲撃自体はしたかったことですけれど、その成否にはあまり重きを置いていません。ですから、あなたたちは見逃せます」
「っ……が! 莫迦野郎! そうじゃねえだろ!? 今、ここで味方殺しをして……いや、味方じゃなきゃいいって意味でもなくて、ええっと……あーっと……」
「ポチ。君は下がってなさい」
「でも! 今度は!」
「今度も何度もない。二度目だろうと三度目だろうと、私は君たちを前に出すつもりはないし。そもそも私は交渉に応じる気などまったくないよ」
「きゅう……嫌われてしまいました……」
しょんぼり顔を見せるアリサ。
これが、血と脳漿と硝煙のかおりが漂う場でさえなければ可愛いとすら思っただろう。
「あ、でもでも! この国の基準でいえば、コータローさんは死刑に処されてしかたのないだけの罪を重ねてましたよ?」
「え」
と、耳朶に触れた声はポチのものかニルのものかミケのものか、私のものか。
「えっと、王国北東部のアーボが生息する森の急速な減衰とそれにともなう周辺町村の離散騒ぎの原因となるアーボを含む肉食獣の乱獲犯ですし川の汚染から収穫量が減った村落にて実験的な新農法を伝えて虫害を発生させ餓死者を出した犯人ですしそれぞれの離散者が過剰に集まったネーベル市を深刻な恐慌状態に陥れた犯人ですし挙句そのネーベル市で貴族や要人を殺害しスラム市民を扇動して一般市民に対して略奪させた犯人ですしその証拠に――」
ずらずらと並べられる重大事件の数々。
今日昨日の話ではなく五年も六年も凶行が続いていたのだという恐ろしい事実を、懇切丁寧に確実な証明とともに語っていく。
衝撃は、アリサがコータローを撃ったそのときよりもさらに大きかった。
「……というわけです。どうですか、リンゴ・ジュースさん? コータローさんがこの国でまっとうに裁判を受けたとしても死刑だったとは思いませんか? ほら、死んじゃっても手間が省けただけです。問題なしですよね♪」
今日見た一番の笑顔だった。
そして、私は――アリサを魔法で斬り付けた。
魔法を繰り返し寸に刻んだ。
圧を加えてすり潰した。
肉も骨も炎に散らし灰をもさらに焼き尽くし水にさらし凍らせた。
繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し。
何度も何度も何度も何度も。
そうして徹底してその存在を消し去って。消し去りきって。間違いないと思い込めるまで、私は魔法を唱え続けた。
「はあはあ……くっ!」
膝を突き、荒くなる息を無理矢理抑え、アリサだったものを見る。
一辺が二十センチにも満たない小さな小さな立方体。そこまでして、やっと。
それでもなお、理解が全く及ばないあの恐ろしい何かに、がくがくと震えそうになるのをこらえるのに必死だった。
ああ、ああ。
気丈に振る舞っても、結局これだ。
私という人間は、どうあっても戦うことには向いていないようで――
「――ひどいですよ、リンゴ・ジュースさん。わたしたちは同じようなものじゃないですか」
声の主は変わらぬ姿で、私の居る教室へと入ってきた。




