ヒーローになりたかった少年
――そうして、彼は願ったのだ。
素質があったということだろうか。
彼のヒーローが示した「お前が誰かを救いこの世の理不尽を叩きのめしたいと願うなら、必要な物は武力じゃねえ。ここにある物だ」という言葉に従い、彼は武術を修めることを諦めた。
諦めた彼が伸ばすことを選んだのは、勉学の道。より細かくは数学の道であった。
「……しっかし、ちびすけ。お前莫迦だろ? 相当な莫迦だろ?」
あの事故から十年が経って、彼が高校生になっても彼のヒーローからの呼び名は相変わらず『ちびすけ』であった。
そのヒーローが、一枚の紙を手にとってうんざりした顔を彼に見せていた。
紙にあるのは数式の羅列。
「オレにゃちんぷんかんぷんだぞ? ちびすけ、お前、なんでこれ解けるんだ?」
なんでと聞かれても、と彼は曖昧に困った顔を見せた。
「んで、世界中からちびすけみたいな莫迦が集まんのか。数学オリンピックってな」
武術にはあれほど苦戦した彼だが、この道には素質があったということだろうか、彼は知る人ぞ知る数学少年となっていた。
将来を嘱望され、いずれは歴史に名を残す大発見をするのではとの声を集める彼だが――
「さすがに、僕みたいにヒーローになりたい莫迦はそんなに居ないと思いますよ」
――その根底はまったく変わっていなかった。
「ま、せいぜい大暴れしてこい。応援くらいはしててやるよ」
ヒーローに見送られ、彼は大荷物を抱えて意気揚々と国を出て、会場に向かう途中で、
「は、ぐっ……!?」
暴漢に襲われている少年を助けようとして、ナイフの一突きであっさりと返り討ちにあった。
彼を脅かそうと暴漢が出した刃渡り二十センチもないポケットナイフは、しかし彼が怯えずに前に進んだせいで目測を謝った。
彼の腹に刺さったナイフは、傷付けてはならない大きな血管を引き破り、彼はその場にただ伏した。
ただ、襲われかけていた少年に逃げる間を与えることだけはできた。
「はは、は……必要な物は、武力じゃ、ないって……げほっ……言われてたのに、な……」
これからだったのに。
彼がその能力を活かしてより多くの人のヒーローとなるのはこれからだったのに、その道は絶たれようとしていた。
「後で、笑わな……ごほっ……くちゃ、いけない、のに……」
救われた少年、ケガをした彼が「気にしなくていいよ」と笑いかけて、少年の不安を払拭して始めて『ヒーロー』なのだ。彼は本物のヒーローにそうしてもらったからこそ、ねじれずに育つことができた。
ゆえに、彼はここで死んではならなかった。死んで、少年の心の重りになっては『ヒーロー』ではないから。
けれども彼は、治安も医療体制も不十分なこの国で、救急車を呼ぶための電話番号すら知らない。
「あの人みたいに……なりたかったなぁ……」
何も要らないから、もう一度チャンスが欲しかった。
腕力も権力も財力も才能すらも、何ひとつないところからで構わないから、チャンスが欲しかった。
彼はそう望み、本当にそれだけを望み、手を虚空へと伸ばして――そのまま帰らぬ人となった。
享年、十六歳。異国の地で、見知らぬ少年を助けてこの世を去った、ただただ恩人に憧れていた彼の名は――
彼、いや、今の彼女の名は――リンゴ・ジュース。
腕力も権力も財力も才能すらもないところから、ヒーローになることを欲したその大切な記憶すら失って、それでもなお抗う道を選んだ不老魔術師少女の名である。




