第5話(最終話) 他人の為に動くのもまた、自分の為
1
「もう、ここから飛び降りちゃえば?」
「そうだよ。それがいいよ」
山の上の農道。そこからの眺めが好きだった。背後には溜め池があり、落差を利用して、山下の畑や水田に水を流すのだ。その大きな装置が道から見下ろせる。田舎の物のせいか、大人でも落ちたらただでは済まない、というレベルを超えた大きさである。
両脇から二人に背中を押される。もちろん本気ではない。自分から落ちてもらわなくては困る。もちろんこれも本気ではない。落ちたら慌てるし大人を呼んで助けるだろう。そして、落ちるわけがないとわかっているからこその本気の言葉。たしか十歳くらい。この年齢の残酷さ。同級生の女の子。その二人はとても可愛く、勉強もやれば出来て(やり方が悪かった)、話も巧く、クラスで上位の人物だった。
他人の死とは別に、自分に降りかかる死を初めて感じたのはきっとこの時。覚えているだけでももっと酷いことをされたし、忘れてしまったものもあるだろう。でも、あの時死ねば良かったと思う時、最初にこれに行き当たるのだ。
そしてこれを忘れないようにしている自分がいる。経緯や場面や要所は忘れてしまった。でも、あの高さ、遥か下に見える水面、どこまで深いかわからない恐怖。そして、落ちたら楽になるだろう、この人達に一生背負わせようとした優越感にも似た感情。
それらを定期的に思い出し、忘れないようにしている。
平日でも人のいる小さな図書館で、シヨウは本を開いたまま。
目の前の情報の束はとっくにただの記号となっていた。
戻すのが面倒くさい、と山積みになった本を見て思う。調べれば調べるだけ、可能性が無くなって行った。方法があるとは最初から思っていない。可能性自体が、無い。調べずにはいられなかっただけだ。
もはや常連になっていた図書館をあとにする。勤務後に来るにはやはり時間が無さ過ぎた。総合的に、今日もぼんやり本を読んでいただけに近かった。
この数日で溜まった疲労で体が重い。頭もうまく動いていない。
一日だけ犠牲にして早く就寝すれば立て直せるのに、それが出来なかった。
何も考えたくない。動きたくない。部屋から出たくない。
しかし彼女にそんな裕福な資格はなく、
あの日以前と変わりない、出勤する日々。
出勤してしまえば業務を行う。行える。
どうすれば効率良く出来るか考えたりもする。
自室に戻ると襲いかかる名前の付かない衝動。
自分は何をしているのだ。
仕事ごときに貴重な時間を使っている。あんな無駄な作業。
けれど、頭の隅では考えていた。
常に考えている。
オウカは昔からなんでもすんなり出来た。ちゃんと努力をしていたのだろうけど、
それを抜きにしても追い付けないものがあった。
生まれながらに持っているものの差のように思えた。
フリークスがオウカの脳を乗っ取って10年。
剣の技術はどうなっているか、想像が付かなかった。
オウカ自身は剣の技術は無い。けれど、彼の天性のセンスや色々なものを駆使して自分のものにしていれば、油断してはならない技量だとすぐに想像出来る。企業をすり抜けていられるのもそのおかげだろう。
正攻法では恐らく無理だ。
でも、人間を襲っているということを考えれば解決策は見付かるかもしれない。彼女はそこに糸口があるように思えて、それを辿ろうとしていた。
少し離れた植え込みから咳込んだ声が聞こえたと思ったら、見慣れた人物が現れる。地面に膝も掌もつけて、四つん這いも辛そうだ。葉にまみれ、それ以外の汚れも見受けられた。
「ジード、どうしたの」
「あ・・・」
「なんとなくじゃなく今度こそ「久しぶり」ね」
「ああ、うん・・・」
「大丈夫? じゃなさそうだけど」
「大丈夫・・・」
俯いていた顔が上がる。
「シヨウは入院したことある?」
「あるよ」
「どんな怪我?」
「実は・・・剣では大きな怪我をしたことがない。小さなものは常にしているけど」
「それは、いつ?」
「いつって、こちらに来てすぐ。笑うところだけど、行き倒れていたのね。放っておけばいいものを・・・世の中は善意で溢れている。それに、もうよくは覚えていない。というかその怪我、入院するほど酷いの?」
「ううん。大丈夫」
彼は少しだけ微笑んだ。
「丁度良かった。もう色々聞いていると思うけど・・・ジード、それを返してもらっていい?」
彼がゆっくり動く。剣のことだと気が付いたらしい。
ずっと手に持っていたそれから視線を離し、顔を上げる。
「それは、オウカを・・・」
彼の口からその名前が出て一瞬怯む。が、この程度なら隠せた。
ジイドから離れてゆっくり歩き出す。石のベンチの向こう側に回る。
彼は立ち上がり、目に付く汚れを払っていた。
シヨウは観察するようによく見ていたが、彼はこちらを見ない。
「レンさんから色々・・・聞いてる」
「へえ」
悪態も吐く気がしない。
「シヨウは、どうするのかって気になっていたから」
「そう」
彼が何かを期待してシヨウを見る。
けれど、きっとそれには応えることは出来ないだろう。
今までもその場合が多かった。
「人間の生活に影響を及ぼすフリークスは、運が無いけど、駆除されてもしょうがない」
「それがオウカでも?」
「あれは、違う」
「だって、オウカは君の・・・」
「それでも、やって良いことと悪いことがある」
「でも。まだ、オウカとしての意識が残っていたら・・・」
すぐ目の前の低木に手を突っ込み、構わず力を込めて横に払った。
面識のあるレンジェやベリルとはわけが違う。
その名を。
「だから? どうしたというの」
口にするな。
「ノス・フォールンが頭脳をどうにかされるのがどういうことか。よくわかっているでしょう」
意外としっかりした枝で、手が痛む。
「私はやるよ」
彼はすぐに何かを言いかけ、でもやめて、俯いた。
首を横に数度軽く振ってから続けた。
「やめたほうがいい。絶対、後悔する」
「何をしても後悔は少なからず生まれる。そうでなければ人類はここまで進化していない」
「そんな話じゃない」
ここは実は、セリエの自殺した場所とそう離れていない。
「では、どうすればいい? そんなに言うなら、あなたには何かいい方法があるんでしょう?」
こんな堂々巡りの愚問。もう何十回何百回と1人でやった問答を、
生身の人間とやりたくもない。でも彼女は口に出した。
息を吸って彼は言った。
「何もしなくていい。これは、シヨウの所為じゃない。君がそこまで考え抜かなくても苦しまなくてもいい。あとは会社に任せていいと思う」
ゆっくり、自分の思考に入る。
セリエは自分のあの言葉で決心したのだと、突然思い当たる。
ジイドは正しい。これが普通。でもそれが選択出来ない。
出来ないほど守りたいものがあるといえば聞こえはいいが、それはやはり自分の為だった。復讐も今の行動も、自分がやりたいからやっている。それだけ。死んだ人はそれを望んでいないという常套句も関係ない。オウカが望んでいようがいまいが、自分の選択は変わらなかっただろう。
それを選択できればどれほど楽かも、わかる。けれどそれを選ぶのを、誰よりも自分が拒否する。それをしてしまうと、自分の体を殺したくなるほどに。
「シヨウはもっと頼っていい。それくらい、もう皆はシヨウのことが好きだよ。知ってた?」
「でも、事態は何も変わらない」
「心の支えにはなれると言ってるんだ」
何か言わなければ。息が苦しい気がする。
彼に向かって掌を向ける。
「はあ。ごめん、ごめんなさい」
シヨウは歩き出す。レンジェのように。
そうしないとうまく頭が動いてくれないような気がするのだ。
「ごめんなさい。熱くなっていた。そのことは、本当に、私自身のことで、自分一人でどうにかしたいの。こればっかりは」
温度を感じない石のテーブルに手を付ける。頭を冷やすように考えていた。
時間が少しだけ経過する。
「わかった。それでこそ、君らしい」
顔を上げるとジイドはもう辞去しようとしていた。
「剣は今すぐ必要?」
「いえ、そんなことは・・・」
「ありがとう。じゃあ今度」
彼はさっさと歩いて行ってしまった。
先程払った手を見る。痛みは感じるが傷は無い。
確か、何かを考えていたがもう思い出せなかった。
2
仕事で比較的大きなミスを起こしてしまった。今思えば馬鹿な選択だとよくわかるのに、肝心の選択した時の精神状態を思い出せない。思い出せないくらい普通に選択してしまったのだろう、と振り返る。
後始末はもちろん上司だ。部下のシヨウが直接謝る、という場面は実は少ない。自分のミスを他人に謝ってもらう、処理してもらう。これがたまらなく耐えられない。今後の改善を考える。人間はある意味機械よりも精度が高い。気を付ければ一生誤らない。全く凄いシステム。
今日も無意味な作業に1日の大半を費やし、ようやく終わる。
ノス・フォールンは寿命が短い。それ故、1日、1年をとても大事にする。若い頃から自分の将来を考えていて、それを叶える為に努力をする。努力の方法や配分すら計画する。生き急ぐ若い時期、子供が大きくなったところで寿命がくる。
ノス・フォールン以外の人類は、彼等の倍以上生きるのが最近では普通だという事実に愕然とする。この年齢までの経験でもう充分とさえ思っている。勿論、生きていればやりたいことが次々と湧いてくるだろう。でもそれだけでは駄目だ。
終わった後のことを考える。
このままでは文字通り、生き詰まるのが目に見えていた。
あれから幾度か図書館へ足を運んだ。だが選択肢が無い、ということの証明に終わった。
もう図書館へは寄り付かなくなる。
残されたのは想定どおりの闇。シヨウの心は暗く静かに落ち着いていった。
僅かな希望に縋ったら絶望に突き落とされる。絶望に居なくては。
最悪の想定だけを考えろ。
決行の日は明日に迫った。
この星は彗星の尾に今夜から本格的に入るらしい。あちこちで話題になっていた。今回はあまり流れないと専らの噂。大流星雨から十数年。あの感動をもう一度、と切望する人はとても多い。一生で一回だからこそ良いのではないかと思っているが誰も賛同しない。数回言って諦めた。
明日の場所に何度か赴いた。そこまで遠くない。どうしてその地なのかは色々調べた結果なのだろう。そしてその情報がシヨウに普通に入ってくる。お客様窓口に悪態を吐きに行こうかと思ったほどだ。
民家の支店で電話を終えると、リアが入ってくる。扉を押さえていたベリルも続いて入ってきた。
「シヨウ、ごめんね。何にも知らなくて」
そう言って腕を抱くのだ。シヨウは首を横に振る。
「だって、本当・・・辛いよね。大丈夫? 本当に、大丈夫?」
今度は頷いてみせる。他人の事柄を自分のことのように思うことが出来る精神。
眩しい。仕組みと形成を知りたかった。
「リアこそ、進路とか勉強とか大変なのにわざわざ来てくれたんだ。ありがとう」
「何か出来ることあったら言ってね! もう、どうして何にも出来ないんだろう」
リアの背中に触れる。暖かかった。
そんな2人をベリルは見つめていた。彼と目が合うが、言葉は出てこない。
深刻でもないし憐れんでもいない。
いつもと変わりない。それはなんとなく救いだった。
零れるとはいかないものの、涙で目が潤んでいるリアを送り届けた帰り道。まだ早いがろうそくに火を点け、2人は農道を歩いていた。彼はもちろん発光していない、という考えが過ぎって笑ってしまう。
「先生って、どこに住んでいるんですか」
その笑いをごまかすために何か言わなければと思った結果がこれだ。
疑問に思っていたと言えばそうだが。
「知りたい?」
「教えてくれないのなら、別にいいですけど」
「君んとこの会社の、来賓用?」
「そんな所あったんだ・・・。そういえば以前、遠い所から来たって仰ってましたけど、どの辺りですか」
「実はこの世界ではない。見えないけど隣合っている双子の世界があって、そこからやって来たんだよ」
「へえ・・・それは本当に遠い」
「信じてないだろう」
「信じますよ。だって、嘘を吐く理由が無いもの。先生は他者からの評価を全く気にしていないでしょう? 見栄を張る必要がない。したがって、嘘を吐く理由が無い」
彼の反応を見ると、そこまで外れていないように見えたので安心する。
「あ、ノス・フォールンと同じって・・・。ノスは先生の世界から来たってこと? それって凄い発見じゃ」
「彼等は、知らない。ここで初めて見た」
「なるほど。つまり更に別の世界があるってこと・・・」
「へえ、そうなんだ?」
「・・・・・・」
もうすぐ街に着くというところでベリルが口を開く。
「そうそう。シヨウに言っておきたいことがあったんだ」
「はい」
真面目な話だろうと向き直るが、彼は平時と変わらない。
「でも今度にする」
「え、えー。なんでですか」
「なぜって・・・。戻って来たら言うよ。ほら。明日の楽しみが出来た」
「内容による・・・」
訝しんでいると彼は譲歩した。
「今言ってしまうと嬉しくって太刀筋が鈍るかもしれない」
「鈍りません」
さあどうかな、と独り言のように言って帰って行った。
やれる。
というより、やらなくてはならない。
「他の人には殺させない」
どんな手を使ってでも。
ろうそくの火を消して走る。
特に待ち合わせてはいなかった。けれど足は迷わず進んだ。
石のベンチに彼はすでに居た。シヨウが反応するより、彼が先に振り向いた。
まだ声を張り上げないといけない距離なので速度を上げる。
息を切らし隣に座る。いつもと違う位置も面白いとなんとなく思ったのだ。
「はい。じゃあこれ」
剣がテーブルの上に丁寧に置かれる。何か懐かしいそれを見つめる。
「帰ろう。日が暮れるよ」
「え、ああ、うん」
彼が歩き出したのでシヨウは急いで腰に差し、後を追う。
方向は彼女の支店の方だった。
「一人で帰れるからいいよ。もう限界でしょう」
「大丈夫」
いつもならこれ以上言うが、今日はやめた。
それ以降、特に会話も無く支社が近づく。彼の隣に並んでいない。
会話が無くて息苦しいのは初めてかもしれなかった。
坂道の途中の民家の近くだった。高い位置の庭から道路へ黄色い花が垂れ下がり、
道行く人の頭上に降り注いでいる。
この敷地をどうすれば美しく見せることが出来るかわかっていた。
「シヨウは生きていて良かったと思うことはある?」
「実は基本的に無い」
彼女は正直に答える。
「そう思うのは、そう思うような出来事に遭ったときだけ。だから時々は思う。時々というのが良いと思うけど。でも今すぐ死んでもいいとも思っている。死んでいない状態が続いているだけに聞こえるけど、それは合っている」
「シヨウは前言ってた、生き続ける理由はある?」
ジイドは足を止める。
「明日が終わっても、シヨウは生きる? 具体的に言うと明後日もその次もだけど」
彼女も足を止めた。
「ええ、生きるよ。そのつもり。もっとも、事故とか無ければの話・・・」
言っている途中で見た彼の表情で、言葉が止まる。
「そっか。ならいいんだ」
疑問に思って、訊こうか脳が迷っている内に彼のほうから言葉が出てくる。
「帰る。ごめんね。じゃあ、また」
ジイドが見えなくなるまでそこに立ち止まっていた。
ふいに声がかかってその主の方を向く。声の出所は、久々な腰の重さからだ。
「訊きたいことがあった。どうして存在を明かした?」
「近頃では・・・私の頭脳だけではもう物足りないかなと思っていたから。ノスの脳と話すのは久しぶりでしょう。やはり楽しいね」
オウカには敵わないかな、と心の中で付け足してみる。
「別にこれが別れってわけじゃない。また今度話せるよ」
「最後になる場合もある」
「そうならないように努力する、ということに縛られるのも楽しいって、最近発見しました」
「それは精神的に老化している傾向にある、特に独身者の思考だ。洗練されすぎると物足りなくなる。時間が無くても、頭脳が暇を持て余してしまう」
「あー・・・うん。面白いけど、何の影響?」
「お前は影響を受けているといっていい。そもそも」
「ちょっと待って。私が? 影響されている?」
意識を、背中へ。もう遥か遠くにいるノス・フォールンに向ける。
「それは面白い見解だと言える。へえ、どういう風にそう見えるの?」
「笑うようになった」
歩みが止まる。
もちろん笑っている。でも社会でのそれは相手を安心させる為であって、
彼はそういう意味で言ったのではないのはわかっている。言い合いするまでもない。
自分よりも他者のほうが見えているものがある。
これはきっとそれだったら良いとシヨウは思った。
3
ベリルの言葉を思い出す。
「戻れるならあの頃を選ぶよ」
それは、とても光栄だった。
綺麗な場所だった。
田植えされたばかりの稲穂のさざめき。
雨の日だけに出現する畑の中の大きな水溜まり。
肺に染み渡る空気。星が、見上げなくても見える。
けれど。
シヨウは違う。
不思議と戻りたいと思わない。
多分、あの年齢は自分の力で世界を変えられないからだろうと、
彼女は随分昔に帰結していた。
夕方の気配が漂ってきた空を見上げる。
星はまだ見えない。これはまだ明るい。シヨウは普段から結構見上げている。
けれど、こんな田舎でも星はよく見えない。片隅だが所詮、都会だ。
数人の気配がする。シヨウは走り出した。追走している。
赤い花の文様が付いた衣装を纏う集団。仮面をしている者もいる。
最初の一手でわかる。明らかに威嚇ではない。こちらの命を奪うものだった。
山の上のいわゆる高級な住宅地だった。庭の飾り方や住居が山の下とは明らかに違う。道が比較的広い。庭や玄関先は色々な飾りがあった。
頂上を目指していたが横の道へ逸れる。幸いにも平坦な道だった。もう人目や騒音を気にしてはいられない。距離が狭まりつつあった。比較的広い公園を見付け、垣根を越えて飛び込む。丸い遊具の上へ登った。追いかけてくる者達は、シヨウでも一瞬で数えられる程度しかいない。丸い遊具にぎりぎりまで居て、引き付ける。そこを高く降りて、遠くにいる飛び道具を持つ者を標的に走る。動きが鈍く、すぐに片付けることが出来た。その後は別の遊具のある所まで走り、1人1人相手にする。
途中、闇色の衣装から見えたものに気を取られてしまったので、倒れている人間を盾にする。動揺が見てとれ、隙が生まれる。
やけに手応えのない集団だった。花の文様が描かれた闇色の衣装をめくった。しわがれた手と顔。だが動きは老人のものとは思えなかった。
声にならない声と、諦めや呆れに似た感情を息と一緒に吐いた。
この状態の人間を見たことがあった。島に配属されることが多いと聞く。
これがあの会社の、末期のノス・フォールンの処分の仕方。
彼女はユーメディカの種を取り出し、全員に埋めていった。花が咲く。どうせ、会社が後処理をするだろうし、そうでなければ近隣住民が業者を呼ぶだろう。でもこのままにしてはおけなかった。
「ごめんなさい・・・」
会社と同じ名前の花。それに葬り去られる。これはどんな運命なのだろう。
もう一度彼等を目に焼き付け、その場を去った。
光の下の人達を思い出す。
何か特別なものがある。だからあそこの出入りを許されている。
そんな人達と自分が知り合いだということが、いまだにおかしなことに思えている。
行きたい。自分もあそこへ。
10年間燻ってきたこれを手放せば行けるような気がすると彼女は思って、
ここまでやって来た。
勿論、忘れたりはしない。絶対に忘れることはない。
全部持って生きるんだ。
樹に囲まれた広場。さらに上の道の先に円形の建物がある。事前に調べたところ、山の上の民家への水道供給施設のようだった。ここは分水嶺で、昔、山の向こう側とこちら側で土地を分けた。眼下を見渡せば街が広がっている。遠くに見える山の向こうはさらに大都市だ。
「よく来たね。待っていたよ」
シヨウよりも明るい色の髪は記憶していたのと同じに見えた。
赤い眼が薄暗くなってきた闇に浮かぶ。
よく見ると広場の片隅に数人倒れている。彼女の見渡す視線に気が付き彼は説明する。
「彼等は、気にしなくていいよ。どうせ君には関係ないしね」
辺りには人の気配はもう無い。でも見られているのは確かだと更に探るが、
目の前の彼が動き出したので中断する。
「さて、もう言うことなんて無いね。それじゃあ始めようか」
彼は持っていた2本1対の剣を抜き、鞘を投げ捨てた。
もっと躊躇うものだと想像していたが、思っていたより平気で剣を向けることが出来た。
だってオウカはこんなことをしない。
最初は受けているだけ。どれくらいの間合いか、力加減か、
標準の速さや反応の速さを探る。素早いが力はあまりない。でも油断は出来ない。
相手が剣を向けてきてもそれよりも先に懐へ行ける。
躊躇なく踏み込んだ。
「姉さん」
表情が嘘のように柔らかくなった。
嘘だ。
思っていたので、一瞬遅くなった。
その一瞬だけで彼には充分で、左の剣が向きを変えて来る。これは防ぐことが出来た。けれど右の剣は防ぐのが遅れた。折り曲げ、太腿へは避けたがふくらはぎに掠れる。横へ転がりながら距離を取る。剣の傷は浅くても痛い。そちらにばかり神経が集中する。血液の音がうるさい。
彼が歩いてくる。相手の斬り込みを受けるだけ。今度は防戦一方だった。全然防ぐことは出来るものだったが、踵が何かにぶつかり、膝をつく。追い込まれていることに気が付く。
「言っておくけれど、私は1度も姉と呼ばれたことはないよ」
「ああ、そうなんだ。それは失礼だったね」
シヨウは懐を探る。手に当たる固い感触を感じながら、
自分に降りかかる事態を想定する。
けれど、後悔のほうが大きいと踏んだ。
足の傷を確かめる。黒い粒を1つだけ懐から出した。
少し離れたところに人間が倒れていたことに気が付く。
シヨウが気が付いたことに、彼も気が付いた。彼は語り出した。
「こんなにもいるのに、どうしてそんなに執着する? 1人2人いなくなったって大したことじゃない」
「そうね。人間は基本、目の前の自分の関わる世界しか考えない。自分の子供が人口に数えられていないとでも思える考え方しか持っていないように見える。持てる以上のものを持って、他の領域を侵食する」
シヨウの自宅の隣は、子供がいる家族が住んでいる。その家族の荷物で通路が塞がって、外の通路を回り込んで通っている。他の住民の荷物は雨ざらしになっている。
「増やしたら自分が死んで調整しようと考えないね。だからこうも増えた。最終的に自分達の首を絞めていることに気付いていないように見える」
「植物のようにはいかない。心が邪魔をする」
「子孫を作った後もいつまでも自己を持っていようとする。日夜、人口を増やす行為をやめない」
「ええ、そう」
彼は動かない。シヨウも動かない。
「価値のない人間は、いる。与えられているだけで自分は何もしない」
経験と記憶が発想を阻害する。
昔よりも明らかに頭脳が鈍くなっていることを確認する。
「消費するだけは、今の時代はごみよりも価値がないと思わない?」
「星の環境で人間はいつか滅んでしまうから放っておいてもいいでしょう? 関わるだけあなた方の時間が無駄。だからそれまで待っ・・・」
「それはいつだろう」
「・・・先すぎてわからない。でもいつか」
「それは未来を予見出来るお前達の言い分だ。我々は今を生きている」
シヨウは何も言えない。
「君は・・・こちら側だね」
「考え方はそうかもしれない。人間はどちら側の考えも発想することが出来る」
彼女は頭を振る。
「でも違う。あなたは許さない」
世界からオウカを奪った。
存在していることを許さない。
まだだ。もう少し。もっと出血しないと。
先ほど足に植えた仏葬花の種に血が染み込む。
発芽。根が筋繊維を這う。這うのがわかる。力が抜ける。吸い取られている。
まだまだ彼女の生命力のほうが上で、それ以上は成長しそうになかった。
足への突き。太腿への直撃は剣で軌道を逸らした。彼の剣の1本が樹に刺さる。それを抜かせまいと思ったが、その剣から血が滲み出した。シヨウは張り付けられ、そこから逃れるには隙が無さ過ぎた。
頭を樹に押し付けられる。
(あ、やばい・・・)
突然の暗闇に脳が思考をやめる。
疲労と多少の達成感が、抑えていたものを零れ出させる。
もう、いいかな。ここまで頑張ったし。
今死ねば、彼が他人に殺されるのを見なくて済む。
それでもいいではないかと脳の一部が言っている。
それでいいのかと別の箇所は言っている。
光を。
日向を思い出す。
皆。
目を開けると指の間から辛うじて目の前が見える。
爪を突き立てその腕を掴む。剣はもう手放していた。
今度は絶対逃がさないと己に言い聞かせる。
足で蹴る。下半身だけを逸らしほとんど躱される。でも、予想通り。その足から植物を引き抜き、足から注意を逸らして彼女へ向き直りかけていたその眼へ突き立てた。
「あ」
何が起きたのか、一瞬では理解できていないようだった。次の行動は。
葉や茎を引き抜こうと手が動く。ゆっくり。でも。
挿し木でも生える彼等は既に侵食を始めていた。
簡単に抜けると思った植物は、意外な強さで根付いていたようだった。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああ」
両手で植物を抜こうとした手を放さない。
その手が乱暴にシヨウの頭に力を入れるが、まだ放してやらない。
視界が彼の手でいっぱいになり頭蓋骨が悲鳴をあげる。頭を木に押し付けられ、かろうじて避けていた剣の刃が肉に沿って通過する感触。少し悲鳴が出るがそれより大きい彼のものに掻き消される。
「お前、よくも、よくもオオオオオ」
気配で顔が近くにあるのがわかった。手を伸ばす。彼女自身の血で、手は既に砂や土や黒い粒といった色々なものがこびり付いている。その手で彼に触れる。植物を掻き毟ったほうの眼だ。やっと気付いたようで手を振り払われる。
狭い視界からかろうじて見えるのは彼の残された赤い眼。
その色で見るな。オウカは翠色だ。
頭を押さえつける手に、より一層力が込められる。
掴むが、花を成長させるための消耗で力がうまく入らない。伸ばした手が落ちる。
次の一手を考えなければとやっと思い付いた瞬間。
何かの音がし、次いで押さえていた彼の腕が奇妙に重くなる。
離れるのではなく落ちそうという感覚だったので受け止めようと、
そこでやっと目の前の状況に意識が向いた。
数度斬られたのか彼は血に塗れて足元がおぼつかない。
そこへ横薙ぎの一閃が走る。
鮮血の尾を引いて、
彼の頭は地面に落ちる。
終わった。
本当に。
終わってしまった。
体も地面に崩れ落ちる。
それを見届けて、彼はやって来た。
ノス・フォールンにはノス・フォールン。
彼等に悟られず近づけるのは同じ風景が見える脳を持つ者だけ。
「大丈夫?」
オウカ、オウカ、
オウカ。
倒れている彼を見る。
そして目の前のノス・フォールンを見る。
彼は笑っていない。
「抜くよ」
彼女を磔にしていた剣を抜く。
疲れたので跪こうと膝をつくと彼が心配そうに支え、ゆっくり座らせてくれる。
彼は幾度か迷う仕草を見せ、そして言った。
「ごめん」
どんな表情をしているのかは長い前髪で見えなかった。
4
「ああ、いたいた」
ベリルが坂を上ってくる。倒れているフリークスの体に気が付き、
そちらへゆっくり方向を変える。膝をついていたがすぐにシヨウの方へ来た。
「はあ。また無茶なことを」
「いえ、割と大丈夫です・・・」
「リアももうすぐ来ると思う。心配だから行こうって言い出したのは彼女だよ」
ベリルはシヨウの傍らにしゃがむ。彼は微笑んでいる。
「確かに。生きているね」
「なんですか」
変な問いかけに笑ってしまう。
「言おうと迷ってたことがある。多分、あれはオウカの幽霊とか魂だと思う。ここに来てからずっと・・・」
彼は一度視線を地面へ落とし、それから戻して続けた。
「ここまでを案内してくれた」
足の仏葬花がざわつく。先程と似た侵食の感覚。
けれどどんな状態か確かめるのが惜しいくらい。シヨウは走り出した。
自分の現在地はわかっているが、どこへも向かっていない。
「オウカ」
闇へ向かって声を放つ。
しかし何もいない。何も返ってこない。
死んだ人間の魂を見る能力は彼女には無い。
シヨウが走り去ってすぐに、音も無く降り立ったのは黒い忍。
フリークスの頭部を保持剤が敷き詰められた箱に丁寧に入れている。
「皆さん、ありがとうございました」
箱を胸に大切に抱えている。
「ところで。ヨーギは死んだ者が見えるって噂、本当だったんですね」
「はは。まさか。そんなの嘘に決まっているだろ」
「そうなんですか? それは残念です」
では、また・・・丁寧な言葉と笑みと共に、風のように消えて行った。
黒髪のヨーギはぽつりと言った。
「そんなもの、いくらでも持っていけばいいさ」
「今の・・・本当に道案内してくれたんですか」
問いかけてきたノス・フォールンの方を向く。
誰もいない彼の背後に向かっておもむろに指をさした。
「君の後ろに・・・」
「ぎゃー!! ってその手には乗りませんよ」
冗談に乗ったにしては鬼気迫る声を出し、背後を2度も確認している。
ベリルに何か言いたげに睨むが無視した。
その応酬も終わり、彼は黙ってしまった。
「にしても危ないね。シヨウが一歩でも前に出ていたらどうしたんだい?」
「はい・・・すみません」
また沈黙が落ちる。ベリルはそろそろ面倒くさくなってきた。
ジイドはシヨウの長剣を拾い、そして見渡す。
ほどなくして歩き出した。その先を見るとレヴィネクスが佇んでいる。
彼と数回やりとりをしていた。そして剣を鞘に納める。
「先生~ 待って~ どこ~?」
リアの声がする。彼女の姿が見えたので手を振る。すぐに走ってやってきた。
息を上げているが自分の疲労と比べたら全然元気に見える。
広場を見て、驚き、苦い顔をし、悲しみを浮かべ、
それを振り払い、ベリルに向き直る。
「シヨウは?」
「青春を謳歌しにちょっと走りに行っているよ」
「先生・・・冗談言ってる場合じゃないです」
「うん。大丈夫だよ」
「あ・・・見て! 星が」
光が落ちている。
南から北の空にかけて、広く、幾筋も軌跡を描いている。
毎年、熱心なファンも、そうでない人達にも噂される流星群だが、天体への興味は大分前に薄れていて、名前を思い出せなかった。
ここは山の上で、建物の大きさや光害も山の下ほど影響を受けない。世間で噂されている割には数が多いな、とベリルは思う。彼の育った場所とこの世界では、空や雲の色といった昼間の様子に違いがあるが夜の色はそこまで違いはない。髪を無造作に払う。一際大きな火球が雲の影で消えたあとに言った。
「さて、シヨウを迎えに行こうか。そろそろ途方に暮れてる頃だよ」
と困った顔をしてみせた。
「何してんの? 行こうよ!」
ベリルが歩き出した後ろでリアが大きな声で言っている。振り返って見ると、更に遠くでジイドが歩き出し兼ねている。そんな行動を見兼ねて、リアは彼の方に行き腕を引いてくる。ベリルは溜息が出た。
空を見上げる。星は相変わらずあちらこちらで流れ、時には大きな爆発を見せているがどれも最後には消える。オウカの話を聞いた時、シヨウに根付いていた仏葬花が見る間に項垂れていった。仏葬花と人間の体の実験の昔の記録を読んだことがあった。残酷なことほど昔の人々は興味を持ち、初期に実験し終えていた。あの分では大した処置も要らず、治ってしまうかもしれない。
ずっと視界の隅に在った白い靄。光などないのになぜか見えるそれは最初からずっと付いてまわった。人のような形をしたそれはいつも後姿で(なぜか後ろだとわかる)、どんな表情をしているかはベリルにはわからない。しかしよく見知った後姿。
彼の視線は、今はどこかへ行ってしまった彼女へといつも向いていた。
しかしそれは今、ベリルの目の前で次第に薄く小さくなっていく。
消える間際に初めてこちらを振り向き一礼した。
やはり表情は見えなかった。
どこまでも走る。まだ夜半ですらない。窓や玄関の前、庭で幾人かを見掛け、皆一様に空を見上げている。例年はどうなのかわからないが、10年前に見た流星群には程遠い規模だ。分水嶺の向こう側に出る。下り坂が続いている。住所上ではもう隣街だ。こちらはまだ行ったことの無い地域だったので引き返す。
穴を掘って怒られた秘密基地跡、
四葉より沢山の葉が生えるクローバーの場所、
猫の集まる家。なぜか色々思い出す。
空には流星。星を飲み込む巨大な彗星の中にいるのなら、
何か不思議なことが起きてもいいんじゃないかと思えた。
けれど、どこにも何もいない。ただ暗闇が広がっていた。
民家の外れの大きな2本の樹の間に敷かれた道で、足の痛みが意識を支配し、歩みを止める。見上げると、樹は闇の中、寄り添って風に吹かれていた。
故郷のあの樹と種類も違う。位置も人間が意図的に植えたもの。
あそこで見送ってもらうはずだった。村の外へ続くあの道で。
「あのね」
ほとんど口の中でつぶやく。
「一人になるのが怖かった。だからいっそ」
どこまでも自分の為。笑えてくる。
「自分から切り離したかった」
支えられていたのは自分のほう。
雰囲気も何もない。ここは人口密集地の住宅街。
涙は出ない。皆は心配しすぎている。
地表はもう光の恒星へと向きを変えている。
どこかでこの瞬間にも、次々と朝がやって来ている。
この地にももうじき。必ず。
「だからもう行くね」
言えなかった言葉。
「いってきます」
流星は朝日の中に消えていく。
反対の空はまだ闇で、しかし流星はその間際の闇の中で1番輝けるのだ。
それを見たい。皆で見たい。
不覚にもジイドの言葉が嬉しかったのだ。
そんなことでやっと他者へ意識が向く自分に本当に呆れる。
でも、誰よりも一生付き合わねばならない。
「おーい」
声のする方を探す。坂から皆が下りてくる。リアが手を振っている。
彼女は力いっぱい手を振り、応えた。
砂上の城に黒い忍は音もなく着く。
「来たか」
研究者たちは待ちきれず立ち上がる。
リーンから箱を取り上げ、開けた。
白い煙が広がり低い位置に落ちていく。透明な袋の中に広がっていたのは仏葬花の赤。根は眼球と脳を吸い尽くし終えて、跡には黒い穴が空ろに在るだけだ。こうして見ている間にも皮膚が根に食われている。数日もすれば骨だけと化し、数か月を要して骨も無くなる。
「骨だけだが良しとするか。花を切り落とせ」
「晴れているねえ。もうすぐ本格的な暑さがやってくる。北に行こうかな」
「避暑なんて、先生だけですよ、そんなこと出来るのは」
風が吹く。暑くも寒くもない。
「どう? 気分は? 体調のほうではなくて」
シヨウは少し考えた。
「先生も、手放せばわかる」
「それはどんな感じ?」
「うーん、よくわからない。根本的なものは変わっていない、これだけは言える。多分、先生は何も変わらないよ。・・・これじゃいいこと言っていないし。なんといえばいいのかな・・・」
どう言い表したものか考える。
「そういえば。ジードくん」
その名前に思考が止まる。
「あれから会った?」
「いいえ・・・」
ベリルの探る視線から逃げる方法を考える。
「先生はその・・・戻らないのですか」
「どこに?」
シヨウの目を見て、しれっと訊き返してくる。
「先生の家にです。ほら、逃げたきたって」
「そんなことも言ったねー」
「行くならお目付け役を忘れないでください」
彼の目が、それを見る。
「都合が悪くなれば、それで薙ぎ払えって?」
意地悪く笑われるが、シヨウは精神的にも助かった事があったのでなんとも言えない。
「自分にはそれがあるから、もういいというわけか」
「いえ・・・」
彼女の腰には2本1対の剣が差してある。
「話し相手がいるのは結構楽しいものです。例えば私とかリアとか、目の前にいない共通の人間の話題があると、また違う」
それにシヨウには他に一生かけて考えたい事柄が出来たので、
きっぱり言い切れるわけではないが、昔ほど頼らなくても平気な気がした。
「逃げるのは私が許しません」
「あの人達には何を言っても無駄だよ」
「でも、何もしないと絶対何も変わらない。何か言ったら何か変わるかもしれない」
「うん、変わるかもしれない。でも変わらない確率が遥かに高い」
「その時は・・・。困った時は呼んでください。どこへでも行きますから」
「いや、君には無理だし」
ベリルが剣を携える。自分の荷物の一部としたようだった。
「先生・・・また会えますか」
「さあ。気が向いたら来るかもね」
彼特有のどうとでもとれる表情だった。
「君はこれから友達や仲間を作らなくてはならない。せめて、仕事の話が出来る、会社とは関係のない、外の知り合いを。シヨウに出来るかな」
「そんなこと・・・」
言い返そうとしたが遮られる。
「ほら。また生きる目的が出来た」
「その程度は目的になりません。それに、それは自分で考えます」
あの坂で見た彼の泣きそうな笑顔。
そんな感情を向けられる何かを、与えただろうか。
いつもの民家の支社で、シヨウは食べていた。
明らかに摂取過多だったが無視。現代人はほとんどがそうだ。
「シヨウ食べ過ぎー。いくら病人だからって・・・太るよ!!」
「私は、意外と浪費家です。その資格が無いからやらないだけで、もし出来るなら浪費しまくります」
「えー そうなの?」
「節制をいくら頑張っても、自分の頑張り以上に浪費する人間がいる。そういう人が見えるところ、例えば身内に居たらやる気無くならない? 何も考えていないのか丸っきり頭に存在しないのか・・・裕福だということにまだ気が付いていない。そういう人達は、やらせておけばいい。そうね、その人達の子孫がせいぜい苦しむように超浪費・・・・・・いえ、これ以上はやめましょう」
「相変わらずシヨウはシヨウのままだねえ」
そう言って目の前の席で素敵な笑顔をしている。
「すっごく、褒められていない気しかしないんだけど」
「んーこの生地おいしい! 甘すぎないしふんわりしてる~とろける~」
その姿をしばらく睨んでいたが、ものともしていないので諦める。再び食べ出す。
「は~学校どうしようかな」
菓子をつつきながらリアは言った。咀嚼しながら考えていたところ、彼女は続ける。
「ま、学校のことはシヨウはてんでだから、仕事のことを教えてね」
「うん。そう。仕事のことは、まあなんでも訊いて」
「ね、ところでさ。シヨウは長生きの秘訣って何だと思う?」
「食べ過ぎない?」
「ああん、違う。なんというか・・・一生保ち続けていられるもの」
「そんなもの無いでしょう」
「えー。未来ある若者に世界は終わっているなんて言わないでー」
「何言っているの、永遠じゃないから良いんじゃない」
「どうして?」
「放置していても維持出来るものを、大切にする?」
「えー、ちょっと待って? んー、なんか違う。何かが違うよ。もう」
彼女特有の人懐っこい笑顔で言う。
「本当、シヨウって面白いよねえ」
口に菓子を放り込んだ。
「ところで、ジードって・・・、シヨウの会社に入社したんだってね。先生に聞いた。それも、結構前に契約交わしてたみたいだし」
「時期は知らないけど・・・」
「それはそうなんだけど。私にもシヨウにも詳しく言ってないし。会いに行こうよ。そうだよ、今すぐ!」
「今すぐは無理だから・・・。仕事あるし」
「じゃあ終わったら!」
「終わったあとに、ほいほい行けるような距離じゃないよ、あそこの島は。それに部署が違いすぎる。私は外だし・・・」
「じゃあ次の休みは!?」
「次の休みは用事があるから無理」
昔の同期と会うのだ。
「・・・でも日にちを決めるのは、良い考え。来月頭にしましょう」
これを何と言えばいいのかわからない。一番当て嵌まるのは、
また話がしたい。
以前と同じとはいかない。
それなら、新しい別の関係を作ればいい。
万人へ捧げる、あの笑顔の理由を知りたい。
フリークスを調べるために街に留まっていた。その途中で聞こえた声。
泣いていたのは手折れた花だと思った。
でも違った。その声を辿った先にいたのは。
昔、病院に居たあの子に見えた。
しかし人間の記憶は曖昧で、もう確かめようはない。
「でも・・・シヨウが味方なら心強いかも」
「ふうん、そう」
あっさりと手が離れた。
頬が外気に晒され、一層、暖かかったのだとわかる。
彼女なりに元気付けてくれたのだろう。彼女の心はとても心地良い。
ノス・フォールンに慣れている。
涙を見たからではないと思う。
彼女を、血も涙も無い人間と思っていたわけではないが、驚いた。
自分の言動に後悔する。自分の大切なものなど、
他人には全く価値のないものだったりするから。
人間へ向けた刃を思い出す。光を受けて反射する。
彼女は笑っていた。気がかりなのはそれだけ。
人の心を覗き見ることはノス・フォールンには呼吸や瞬きに等しい運動。
いちいち反応していれば疲れてしまう。だから雑音として処理している。
耳で聴く音よりも心の声のほうがうるさい。
醜く卑劣で、矮小で卑屈で。
とても複雑で素直。立場や建前を簡単に凌駕する。
音声の声よりそちらのほうが好きだった。
「あいつの心を見ろ」
仲間内ですら冗談で時折飛び交う言葉を、一度たりとも言われなかった。
意外と泣き虫で、世話をするのも嫌いではなさそうで。
どんなに冷静で強くてもきっと無理だと思った。
自分と出会った後も頻繁に、ある記憶を引き出している。
樹を見上げても、流れる雲を眺めても。
そのオウカを手にかけた自分を、彼女はきっと忘れない。
許してなんて言わない。終わらせない。
触れられないことよりも怖いことがあるとわかった。
一緒に居る引き換えに、死んだ後の一生を手に入れた。
(完)