第4話 終わりを待っている
1
北側にある神社しか有名な場所がない、都会の中では田舎に位置する町。
「というか、なぜ居るの?」
「レンさんがいいって言ったよ」
「いえ、待って? レンさん? レンジェ・ソアレスのこと?」
薄い色素の三つ編みの男。
彼はレンジェ・ソアレスという名前だったと、記憶から引き出す。
社内の人間なんて調べればすぐにわかる。
シヨウは頭を抱える。いつの間に。なぜ。
「それじゃあ俺は北の神社見てくるよ。あそこ、繁盛期しか行ったことがないんだ。あ、最近話題になった名物があるから買ってくるよ。餅を餡子で包んでいる狂気の一品とかで、美味しそうだよねえ」
「ところで、あなたは私の練習相手になってくれないの?」
ジイドは呆けた顔をしていた。つまりいつもと変わらない。
「ええ、何言ってんの」
笑って露骨に目を逸らす。
自然に振る舞えばもっと楽に躱せるのに、彼は正直だった。
「俺はですね、勉強が好きなんです」
「あ、そう・・・」
その感覚はノス・フォールンとして正しい。
シヨウはそれ以上はやめた。
ジイドと別れ、道を進む。最近出来た区画は民家が密集しているが、
昔からあると思われる区画は敷地が広い。
庭には小さな鳥居や祠があったり、墓があったりするのがこの町の特徴だ。
居住区から離れると畑や水田が広がっている。
シヨウが向かった家は、庭は広いが住居は小さかった。
洗濯物が干されていた。
木の扉を開くと中から小柄な人物が現れる。
「じじい、久しぶりです。お元気そうで何よりです」
「師匠と呼べ。お前も変わらんな」
小柄で、でも貫禄を思わせる空気を纏う彼は、
顔の前面を覆う仮面をしている。
すごいですね。どうして笑っているのを選んだのですか。前、見えているのですか。
あまつさえ、結わえている紐に手を伸ばす仕草まで
ジイドならし兼ねない、と想像する。もちろん躱されるところまで。
シヨウの剣は譲り受けたもので、宝の持ち腐れだということで当時、
道場みたいなものを開いていた彼に教えてもらっていた。
「して、今日は何用だ? 随分久しぶりだな。」
「有給消化。せっかくだしぶらりと来てみました。相変わらず」
「相変わらずの田舎具合か?」
「空気が澄んでる」
「でも、お前の故郷とは比べ物にはならないだろう」
「そりゃあ、まあ」
彼女は苦笑して話を打ち切った。
こことは比べる自体が意味を成さないほどに、あそこは澄んでいた。
「稽古の相手をして頂けませんか。この頃本当に鈍ってしまって。相手がいないから、尚更」
「稽古か、いいだろう。昼飯にするところだったからその後にするか。では裏から何か採ってこよう」
「あ、手伝います」
「お前は切るしか巧くないだろうが。向こうで踊るか雑草でもむしっていろ」
仕方なく、彼女は外に出ることにした。
小さな敷地いっぱいに建てられた小さな家の前にその人物はいた。
シヨウは声をかける。
「あなたがホシ?」
「あんた誰?」
「私は、少し前まであなたのお祖父さんのところに通っていた生徒です。あなたの話が訊きたくて来ました。どこか知らない記憶を持っているって聞いたけど、本当?」
正確にはひい祖父さんなんだけど、
と付け足したあとホシ少年は続けた。
「またその話? 誰も信じないしもう飽きたんだけど。誰の差し金?」
「個人的に気になったから来たの。人伝に聞いた話なんてあてにならないから。あなたはその記憶をどう思っているの?」
「どうって、別に。だからどうしたって言われても」
「そう。それが正しい。あなたはあなた。ねえ、どんな風景が見えるの?」
「空が青っていうより碧色。でもいつも黄色い薄い雲で覆われていて、晴れている日でもなんか薄暗い。もう文化が出尽くされてて、何もかもどこかで見た気がするんだ。だからなんか皆疲れてて元気ない」
「あなたはそれをどんな気持ちで見ていた?」
「それは・・・よく覚えてない。覚えてないって言い方、変だけど」
「ふうん」
「ねえ、教えた代わりに訊きたいんだけど」
何、と顔を向けると躊躇うように続けた。
「ユーメディカって知ってる?」
「もちろん知ってる」
「触ったことある?」
「あるよ」
「ここらへんてさ、どこにも無いんだ。一度も見たことない」
「嫌う人は多いし別に珍しくないんでない? でも、種なら持ってる」懐から出して掌に乗せる。「待って。手に傷とかない?」
「ないよ。いいじゃん、種なんだし」
「よくない。子供ならちょっとした傷でも発芽する恐れがある」
「これ頂戴。一個だけでいいから」
「ごめんなさい。この町が、大人が禁止していることを外部の私が干渉することは出来ない。でも花なら隣街の境目の河川敷に咲いていたと思う。今はあるかわからないけど。見に行く?」
少しの間を空けて少年は首を振る。シヨウは立ち上がる。
「面白い話をありがとう。じゃあさようなら」
道を歩く。天気がいいが、誰一人いない。
道場への帰り道、小さな小売店の前で井戸端会議を見かける。
そこに知った顔があった。常連になっていたその店の者だ。
さすが、あちらは顔を覚えていたらしく、
シヨウに笑いかける。でも、周りの連中の顔が気になった。
「どうしたの? 誰が来たって?」
「それが、あの」ややあって、話し始めた。「お祖父さまのお姉さんの、あちらの子供に連なる人らしいの」
「そう言ってるの? 何をしに来たの、今更」
「一言謝りたいって。だから会わせてくださいって言ってるらしい」
「へえ」
「どうする? お祖父さまに知らせる?」
「いやあ・・・だって、ねえ?」
シヨウは輪を離れた。まだ陽は高い。
道場に戻ると彼は台所にいた。手際が良い。
「じじい。ちょっと訊きたいことが、というよりもう聞いていると思うけど。あちらに連なる人が来ているそうじゃない」
「らしいな。お前は会ったのか」
「いえ、聞いただけ。どうするの? 謝罪を受けるの?」
「あちらがそうまでして謝りたいのなら、私も鬼ではない、やりたいようにやらせるよ。ま、こちらが許すかどうかは別だがな」
仮面で見えないが声は笑っている。
「お、そうだ。この前ヨーギが来たぞ」
「へえ、ヨーギが・・・ってヨーギ? あの、ヨーギ?」
「そのヨーギだろう。いやな、10日も経っていないか・・・ふらりとやって来て道を訊かれたよ」
「そ、それで?」
「それだけだ。話を訊いてまたどこかへ行ってしまったらしい。それきりだ」
「どうしてわかったの?」
「見ればわかる」
昼飯が出来るまで、まだ少しかかるとのことなので外に出る。
「レヴィネクス、さっきの話どう思った?」
「どうとは」
「前世の記憶とやらを持つ少年」
「どうもしないが・・・なぜ訊く?」
「あら、あなたにしては歯切れが悪い言い方」
なんだか久しぶりに相談した感覚を抱く。
「それにしても。はあ。どうして私が来たときにこんな・・・本当に運がない」
水田を見渡せる民家の密集している端まで来る。
民家を避けて、樹が面白くねじ曲がる樹があり、
ここが待ち合わせ場所だ。遠くの建物をすべて排除し山を配置すれば、
ここからの風景は実はシヨウの実家から見える風景に似ている。
ほどなく到着した彼に別件を言う。
「ジードはどう思う?」
「さすがシヨウのお師匠さまって感じだけど、いいんでない? 詳しく知らないからなんとも言えないけど。それでお互い気が済むのなら」
「変なことを訊くけど、ジードは生き続ける理由はある?」
「あんまり・・・考えたこともないけど」
「そう。普通はね。死んでいないこの状態を維持したい、すら考えない」
話す順番を考える。
この頃は具体的に考えないと考えられなくなっている。
「私も、聞いた話だからよくはわからない」さりげなく周りを確認する。「師匠にはお姉さんがいたらしいのね。彼女は望まない妊娠をして、子供を産んだのだけど色々・・・結局、亡くなったそうよ。そしてその子供を育てたのが師匠で、出来たのがここらへん、アオの村って呼ばれる所。結構親戚だらけみたい。外部から人を迎え入れては結構大きくなったらしい」
「それの何がいけない? そう訊くってことは、嫌な予感しかしないんですけど」
「いいね」シヨウは満足する。「師匠は、絶対に許さない。もうそれで生き続けているといってもいい。昔経験したとんでもない理不尽な感情を維持出来る人は少ない。歳をとってからは特に。それに向ける体力や時間を考えると、自分を折ったほうが早い。でも、人間は恐らく精神的にフリークスになれる。ノスフェラトゥは維持し続けることが出来る」
一息ついてまた続ける。ジイドは聞いている。
「私には到底無理。師匠のお面の下なんて見なくてもわかるけど、あれは若すぎる。あれが本物」
数軒先の道場を思い出す。
敷地の裏に畑があった。野菜が植わっている。
「師匠は絶対に許さない。その人をきっと消す」
「じゃあ」ジイドが動こうとする。シヨウは動かない。
「私が興味があるのは」ジイドがゆっくりこちらを向く。「未練が無くなったら、維持し続けるものがなくなったら、ノスフェラトゥはどうなるか」
野菜の種類は色々あって、1年目という畑ではなかった。
「でも私はね、ジード。止めたいと思ってる」
彼の顔の変化を、見なくてもわかった。
早足で歩きだしたシヨウに彼が横に追い付く。
「あ、すごい。珍しく意見が一致したね。初めてじゃない?」
「凄いは余計です。だから言いたくなかった。でも、今のは私の勝手な考えであって、本当のところは知らない。訊くのはもちろん無駄だし、今動いているのもきっと無駄に終わる」
道場に戻ると敷地の入り口に人がいる。
シヨウの師匠と別の人間達。
嫌な予感がしたが、シヨウの想像とは違った。
「フリークスが?」
「最近はこの辺りにも出てきているぞ」
「見てきます」
「俺も行く」
「あなたは来なくていい。どうせこちらの要らない苦労が増える」
仮面の下から発せられた短く笑う声を、
聞こえないふりをして敷地外に出た。それでもついてくる。
「ではこれを持ってて。護身用」
「え、でも」
目の前に差し出された鞘ごとの剣を見て、それでも触れない。
「何も持っていないよりはましでしょう」
「シヨウが危なくない? これを渡したら何も」
「まだこちらがあるから大丈夫」
明らかに中途半端な長さの剣。二本一対の剣の片方だけ。
けれど、こちらを他人に貸すことは絶対に有り得ない。
「それに、これってあの」声が若干小さくなる。「魔剣でしょ」
「は?」
もう一度彼を見る。どうやら聞き間違いではないようだった。
「魔剣?」
「だって皆言ってたし」
「私が、魔剣とかいう大層なものを持っているとでも?」
「光が見えた」
「光。光が、見えたの?」
「さっきもそれと話してたよね?」
他人にはそう見えるのか、と面白く思う。
「レヴィネクス」
光の塊だと言われた彼は現れる。
シヨウには、人間の形に見えている。
髪が白に近いせいか、淡く光を放っているようにも見える。
「彼は何者でもない。私は勝手に、まだ人間に生まれたことがない魂だと思っている」
彼は、他に存在を明かされてもいつもと変わりなく佇んでいる。
「どう? 唐突でしょ」
ジイドにどんな感情が湧いているのか、見た目ではわからない。
「うん。シヨウが到底言いそうにもない。でもだからこそ本当か。本物は、信じる人も信じない人の前にも現れる」
シヨウは満足する。この頭脳に出会えたことを感謝する。
町の北側へ向かう。神社へ続く並木道。樹が多いので既に暗い。
この樹の花は白に近いので、咲く時期は夜に映えるだろう。
そんな想像をするが人間もいなければフリークスもいなかった。
「陽が暮れる。もう戻ったほうがいいよ」
「ほら、ついてきて無駄だったでしょう」
「そんなことないよ。普段はこんなに静かなんだね」
さすが都会の人間は違う、と関心する。
こんな北の田舎まで行動範囲に含まれるのは、シヨウにはちょっと想像出来ない。
「あ、なんか出来るみたいだね」
掲示されている工事要項を、ジイドはさらっと見て通り過ぎた。
大きな建物が出来るようだった。
周辺をよく見ると普通の民家の門や玄関先にのぼりがある。
建設反対の内容だ。
「やっても無駄でしょう。それで工事が中止になった事例を聞いたことがない」
「結果的に無駄だったとしても、こんな考えを持っている者もいる、ということを世間へ知らしめなければならない。というより、何もやらないのは完全に可能性を放棄している。世間に知らせたことによって、もしかしたら何か変わるのではないか・・・もほんの少しだけ期待している行為だと思う。想像だけど」
「想像ですか」
「うん。想像です」
その周辺を通り過ぎて、比較的広い道に出る。二人は横に並んだ。
「ジードはヨーギって信じる?」
「精霊の次は伝説の生き物の話? 信じるというか・・・実際、二百年前に存在した記録が残っているわけだし。なんでいきなりそんな話?」
どこから説明したものか考えていたがジードは続ける。
「大体、彼らは星が生み出した傑作の生き物なだけであって、実際には我々、その他には何の影響もない。飽かない精神かつ完全記憶に近い頭脳の場合が多い。つまり普通の人間とそれほど変わりない。確認されるのは毎回色々な人種、性別も生まれも様々。というか被らなすぎる。繰り返しの実験で、人間の可能性をあれこれ見ているような気もする。ノス・フォールンのヨーギもいたかもしれない。レヴィに似ているかと思ったけどちょっと違うか。最近趣味で調べただけなんだけどね」
シヨウの顔を覗き込んで言う。
「このままじゃ次は幽霊か神の存在を訊かれかねないなー」
「それはないけど。うーん。最近この近辺に来たって聞いた」
「へえ・・・それはそれは、光栄なことだね」
「そういうのってどこで調べているの?」
「学校の図書館。あそこは一般の人でも結構普通に出入り出来るよ」
道場の近くまで来て、抱いていた疑問を口にする。
「さっきの話だけど。年の節目とか、そんな繁盛期にあそこに行ったことがあるの? すごい人でしょ、どうしてそんな・・・」
振り向くと誰もいなかった。
「ジード?」
引き返す。角を曲がる。けれど彼の姿は見えない。
そこまで複雑でもない道なので道場へ戻る選択をする。
道場へ続く道に男がいる。観察するに、道場へ用事があるように見えた。
そして、明らかにこの町の人間でないとわかる。彼は。
「どちら様? 何か、ご用ですか」
「僕は・・・。あの、あちらの家の方ですか」
「違いますけど、知っています」
「今行けば、あの方に会えますか?」
彼女は迷って、お節介することに決めた。
「単刀直入に申し上げると、あなたは帰ったほうがいい」
彼が何か言う前に言葉で遮る。
「もうすぐ陽も暮れますし」
「決心して今日は参りました。私は他の家の者にも託されました。私一人ではない。今帰ってしまったら、他の家の者の決心も無駄に終わってしまう」
「いいえ? でも、あなたは帰ったほうがいい。そんな感情、さっさと殺してしまって、時間を自分の為に使ったほうがいいですよ」
「結局は・・・自分がすっきりしたいのです。許してもらえなかったけれど、やれることはやった。これを手放さなければ前には進めない気がするのです」
「その人、もう七十くらいのお爺さんなのでしょう。もう忘れているかもしれない。楽観的ですけど、許しているかもしれない。年月と老いはそうさせます。せっかく幸せに暮らしているのに思い出させてはいけない。そうでしょう?」
目線が行ったり来たりし、しばらくして帰って行く。
遠くからジイドが歩いて来るのが見えた。
「どこ行っていたの。一瞬フリークスに連れて行かれたのかと思ったんだけど」
「一瞬だけ?」
「そう」そして付け加える。「大丈夫?」
「何が?」
いつもと変わらない調子で返してくるのでそれ以上はやめる。
「はあ。ちょっとシヨウ、もう夕方近いんだけど。帰るんだよね」
「帰ります」
「これ食べてる時間ないし。あああ・・・」
「さっき、例の、それらしい人に会ったよ」
「えっ どこ? どうした?」
「帰った。説得したらなんとか」
「シヨウが説得? 怪しいなあ。本当に納得してたの? 説得されたように見せかけてどこかに隠れているんでない?」
「なんですって?」
ジイドの方を向くと彼はもう走り出していた。
結局、道場まで走り切ってしまい、息切れしながら報告する。
「フリークスは見当たりませんでした。でも、気を付けてください。何かあったら呼んでくださいね」
「ほっほ、儂を誰だと思っている。ま、その時は呼ぶよ。駆け付けたときはもう遅いかもしれないが」
暗くなってしまった部屋に、扉を叩く音がする。
彼は立ち上がり、扉を開けた。見知らぬ男が立っている。
「すみません。私は・・・」
彼を見て、息を呑む。
次の言葉を探している男を素早く観察する。
この町の者ではない。ほとんど把握している。
「どこの誰だか存じませんが」
「コウゲンさん、ですよね。どうしても謝りたくて、参りました」
「帰ってもらえますかな」
「迷惑なのは重々承知です。でも」
向き直り、姿勢を正し、頭を下げた。
「すみませんでした。本人ではないし、もう起こってしまったことですし、許してもらえるとも思っていません。でも、すみませんでした」
夕方だが、外はまだ多少明るい。
鳥の声も時折聴こえる。
「来なければ良かったものを」
静止し長い時間下げていた頭を男は上げる。
目の前の仮面が、嗤っていた。
2
支社には電話がある。
カンウタが付いていて、後日、給与支払いのとき精算される。
シヨウは記憶を引き出し、その番号に掛ける。
一音、二音、三音。呼び出し音が聞こえる。が、出ない。
五音過ぎたら緊張しなくなる。
十音以降は惰性。
受話器を置き、彼女は思い出す。
「はあ。駄目だなあお前は、昔から本当」
その言葉は、特に内側から飽きるほどに聴こえてくる。
でも、さすがに外側から言われると堪えるものがあった。
「他人に相談されるか? されたことがあったか? はあ。そりゃ、お前に相談しても何も得られんからな。時間の無駄だ。助言を与えようなどと高尚なことは考えんで良いからせめて、得られるものがあったと思わせるくらいにはならんか」
シヨウはこのくらい毒のあるほうが好ましく思う。
無害な人間は何の影響も及ぼさない。
「師匠は生まれ変わりを信じる?」
「また変な話を始めおる。ホシのことか。どうせ大きくなったら忘れるし、そんなことせんでも、人間は生きていながら生まれ変われるであろう」
シヨウは耳を疑う。
「子供と一緒に過ごすとそれがよくわかる。最初からの成長を、疑似体験できる。それは生まれ変わりに等しい」
「すごい。それは男性でも感じることなのね。女だけかと思っていた」
「そんな境地に入っているのならさっさと作れよ。意外と面白いぞ」
「子供が子供を作ってどうするんです」
「それでも女性は親になれる」
「そりゃ、私だって産めば育てます」
「お前のそれはどうも、産んでしまった責任で育てます、にしか聞こえない」
「親ばかになれると思うけど」
「自分の絶対の味方だからな。血をすべて抜いても、関係は変わらない」
コウゲンは溜息を吐く。
「お前のそれが酷いと言っている。変わろうと願わざるおえない状況になったことがないのだな。まあ仕方ないといえば仕方ないが。まったく。社会での対応だけはいっぱしに成長しおって、肝心な人間的の部分が酷い。人間と交流しているか? 友達は? 同期とか」
「いないこともないけど・・・」
歯切れの悪いシヨウに何かを察したのか、
コウゲンは師匠らしく付け加えた。
「ちゃんと人間関係を作っておけ。精神的な支えになる、とかいうものではなくて、他人と交流することによって己を成長させろと言っているのだ。一人での立ち振る舞いはもう充分身に着いただろう。手紙ではなく、会ったほうが良い」
「うーん、でも結婚して、子供がいたり仕事が忙しかったりでなかなか会えないですよ」
「近くには誰も?」
「いないことも、ないですけど・・・」
会社を辞めてしまった元同期が2人、結構近くに住んでいる。
こちらから連絡すれば反応してくれる。
懐かしい話に盛り上がる。
けれど何回かやりとりしてそれで終わり。会える気がしなかった。
「他には?」
「元同期で、会えない距離ではないけど、すごく遠いですよ。遊びたいねえとやりとりしますけど、看護職の勉強をしていて忙しいですし」
「それで良いではないか。距離は関係ない。会いたいか、会いたくないか。そちらではないか?」
いつもの支社だった。その日は休みで特に用事もなかった。
「呼び出して悪かったな」
「いえ。先日の、前世の記憶の少年の報告はしましたけど」
シヨウの反応を受けて、目の前の2人は見合わせる。
「ほら、やっぱり覚えてないだろ」
レンジェがそう言うと黒ずくめの方が笑った。
こちらはリーンという名前。
いつもの笑顔と少し違うように見えたのは苦笑だったのかもしれない。
「というわけで奢れよ。さて話というのはだな」
「その前に、あなたの話をしておかなくてはいけないと思いますけど?」
「はあ、もうどうでもいいし」
リーンが一際良い笑顔をすると、レンジェは説明を渋々始めた。
「もう覚えていないだろうけど、俺もあの村出身だ。あの、山の麓の村。フリークスに喰われた村」
彼は喋りながら歩き出す。ゆっくり。
「遠くの大きな街に続く長い長い道。山から降りてくるその道に沿って出来た村だったな」
思い当たり、何かが背中を這い上がる。奇妙な動機がしている。
「無理もない。何歳だったっけな。とにかく、引っ越したからな。ちなみに親の都合だ、要らない先入観を付けられても困る」
シヨウの反応を、目を細めて見て続ける。
「そこで何があった? いや、大体把握出来てる」
「では、何も訊くことは、ないのでは?」
やっと出た声は掠れていた。
「まともに覚えていて、話が出来て、生き残っているのがなかなか居ないんだ」
レンジェは口端を上げる。「若いやつばかりやられたからな」
「あなたが何を見たのか、知っているのか。私も知りたいのです」
リーンが一歩出て言った。重く顔を動かす。
2人は全身で返事を待っている。
「何も知りません」膝の上に乗せた手が濡れている。「子供だったし、ご存じの通り、家は村の端にありましたし」
「では、良いことを教えよう」レンジェは再び歩き始める。「フリークスはなぜ若い頭脳ばかり狙ったのか」
若い。頭脳ばかり。それだけでも初耳だったが彼は更に続ける。
「そもそも、フリークスが人間の頭脳を欲しがる、というのが異常だ。答えは簡単。そいつは、人工のフリークス。あの山の中の研究所で造られた」
「え?」
世界のどこかの話だと思ったが違ったようだ。
木々の向こうの白い建物を、脳が勝手に記憶から引き出す。
子供は近づかない。あの場所。
あそこで。
フリークスが?
「もちろん、今は閉鎖されてるし研究自体も凍結されたんだっけか」
リーンと顔を見合わせている。
「で、ここまでは前振りだ。つまりは俺の趣味? 本題はここから」
レンジェが明るく言い放った。リーンは微動だにしない。
「お前、村外れの林の向こうに住んでた奴と仲良かったよな。黒髪の男。名前は、忘れた」
「老化って本当、罪ですよね」
「おい違う。知らない、聞いてないだけだ」
「それは忘れたとは言いませんよ」
リーンは呆れて頭を振っている。彼が続けた。
「その方の行方を知りたいのですよ。どこに行くとか聞きませんでした? 覚えていませんよねえ。時間の経過は本当、罪です。恐ろしい」
「お前が言うと頭にくるな・・・」
混乱していても記憶は引き出せた。
当時よく話したことなので容易に思い出せる。
「いえ、わかりません。いなくなっていたことにある日気が付いた、ということは覚えています。最後に見掛けた日もよく覚えていませんでした。毎日会いに行っていたわけではなかったし・・・」
「ま、そうだよな。お前はオウカとべったりだったし」
思った以上にその名前に強く反応した。
簡単に吐き出せるレンジェを、直視出来なかった。
「俺は結構覚えているけどな。お前のこともぼんやり」
それでもレンジェのことは思い出せない。
彼は年上だ。下の学年は、オウカが居たので多少知っていた。
上の学年の者とは、交流がほとんどなく当時でもわからなかった。
窓の外は雲がほとんどなく、とても晴れている。
その所為で室内はとても暗い。
眩しすぎて、シヨウはこういう日に外に出るのを憂鬱とさえ思ってしまう。
晴れている日のほうが死にたくなる。
3
いわゆる、逃げてきたというやつだ。
「神ってなんだと思う?」
問われた2人はどう答えたものか、目で話し合っていた。
ノス・フォールン同士ではない。これがこの2人の、
いつもの姿勢だと気付くにはそう時間はかからなかった。
「何もしてくれない、姿も見えない。それはいないのと同じ」
「個人に何かをしてくれるとか、感情がある時点でどうかしていると思うけど」
「いると思う者にだけ存在する、とても曖昧な存在」
「この星そのもの。ここに住んでいる者は、絶対に逆らえないから・・・」
言っている途中で、2人からの視線に気付く。
耐えられないのか、後半は消え入る声になってしまう。
「いいね、それ。考え付かなかった」
もう1人が笑顔で応えると、伝染したように笑顔になり、2人は笑い合う。
この村に来てまだそんなに経っていないが、
この2人は近所に住んでいるということでよく話した。
主に学校が終わってから暗くなるまで。
この年齢の子供は本当に頭が良い。成長途中が一番良いといえる。
色々、あらゆる方面の話をした。その所為で「先生」と呼ばれた。
これにはちょっと笑えた。でも、その称号を受けているから間違いではない。
「お願い! 先生助けて」
暗い金髪の子が走って助けを求めてきた。
「どうしよう。死んじゃう」
「どうしたの?」
室内の鉢植えが萎びていたのに気が付いて、見ている最中だった。
何かに夢中になるとその他を切り捨ててしまう癖。
切り捨てるというより存在を忘れてしまう。
困っているが、夢中になるとその癖すら忘れてしまう。
「お、お願い、とにかく来て! こっち!!」
少し離れた林に、明るい金髪のほうがいた。
もう1つ、地面に横たわる物体も見えた。一見して、鹿だと思ったが違う。
「大丈夫? どうしたの?」
暗い金髪の子が駆け寄って服を掴み、
ぶるぶると震えて明るい金髪の子の顔を見ている。
「心配かけてすみません。大丈夫です」
「これは?」
「さあ?」
暗い金髪の子を撫でながらさらりと返してくる。
「さ、さっき、突然走って来たと思ったら馬乗りになって」
「でももう死期だったみたい。すぐ死んでしまったよ」
「先生、どこに行ってもこんな感じだったの?」
「どうだろう・・・あと何年かすれば珍しくなくなると思う。だからどこに居ても同じかもしれない」
当時はフリークスの存在は知られていても、目撃数は多くなかった。
その研究にはまだ疎かったため、それ以上は言及しなかった。
まさかあそこで実験していたことも知らなかった。
ある日、明るい金髪の子が一人で来た。それは結構珍しいことだった。
「あまり、あの子に近づかないでくださいね?」
「なぜ、そんなことを言うのかな」
「わざわざ一人で来たんです。察してください。具体的に言うと、外の世界の話をあまりするなって類です。この村は色々縛られていて窮屈ですから」
「出て行ってしまうと?」
頷かないのを肯定とみなす。
「別にいいと思うけど? 今知らなくとも、きっと知るからね。それが早いか遅いか。あ、そうか」
そう言って気が付く。ゆっくり、目を合わせる。
運命だとは思わない。
きっとこれは、仕組まれている。
「なるほど。君自身の都合というわけ」
やはり肯定も否定もしない。
でもこれは明らかに肯定だとわかる。
そうか、見付けてしまったのか。
強いノス・フォールンである以外に、彼は失敗作となった。
彼は長生き出来ないだろう。
今思えばもったいないことをしたと思うが、
もう過ぎたことはしょうがない。2人のその後を見ることなく、
他に興味が出来た関係であの村を出てしまった。
それから2年経たない内にあの村は終わった。知ったのは更に数年後。
痕跡も生存者も調べるのが面倒になる程度には過ぎていた。
でも1つだけ、明確にわかっていたことがある。
彼は死んだ。
4
いつもの木陰の石のベンチだった。
「この程度の規律を守れないのか、この程度だから守らないのか。レヴィネクスに訊かれたことがあったけど、どちらだろう。階段の左右とか、昔だったら信号無視とか小さな違反ね。やはり、場合による、かな」
「どちらかというと許されるか許されないかじゃないかな。他者への影響が小規模だったら守らない場合もある、みたいな。そうはいっても違反は違反なんだけど。そのレヴィだけど、シヨウには人間に見えてたんだ」
「ん?」
「お師匠さまに似ている。まだ個がないから、人の見たいように見えるらしい。なんだろう、何か接点があって似ているように見ているのかな。訊けば剣は師匠に貰ったものではないらしいし?」
彼はいつもの通り笑顔だ。「第一印象の話ね。話しにくいって言ったら頭を突かれて、シヨウと同じく見えるっぽくなりました」
「は? 何をしているの?」
ふいにジイドが真顔になる。
「シヨウ、レヴィが何か言ってる」
白い塊がぼんやりと現れる。やっと処理が追い付いて事態が把握出来た。
「何をしてくれているの!?」
「まあまあ落ち着いて。俺が勝手に」
「ノス・フォールンは黙っていてください」
「えぁ・・・」
「シヨウ。あいつが、近くに来ている」
迷う仕草をし、彼は続けた。
「ヨーギと呼ばれる存在だ。シヨウも会ったことがある・・・裏の林の向こうに住んでいた、黒髪の男。そいつが、今危険だ」
レヴィネクスの何者でもない目が見ている。
「ど・・・」
「どうしてそれがわかる?」
「星が騒いでいる。とにかく、向かってくれ」
やはり処理が追い付かない。声が出ないで迷っていると、
目の前に剣が差し出され、思考から抜け出す。
「シヨウ、行かないと」
「行く? なぜ、私が?」
彼はまっすぐ見ている。
「なんでそこで迷うかな」彼は笑って続けた。「だって頼られているのに。それには応えないと」
彼は思い付いたという顔になる。
「では、貸しにしといてやるって自己暗示でもいい。自分には意味のないことでも、他者には価値がある。それに関わる。そうやって、他人の世界と関係を結ぶんだ」
多分、酷い顔をしていたのだろう。
「俺は、行かないよ」
静かに言ってシヨウの手に渡す。
それを、突き返した。
「わかった。行きます。でも、これはいい。まだ持っていて」
返事を待たずシヨウは駆け出す。
レヴィネクスが示した先は大きな樹があった。
葉が沢山舞っている。落葉の季節でもないのに、地面に積もるほどだ。
「レンジェ・ソアレス、何をしているの」
彼は剣を持っている。
追い詰められ、大樹の下に座り込む人影がある。
剣の反射でよく見えない。でも、髪が黒い。
黒は珍しい。リーンではない。彼はきっと近くに潜んでいる。
「こいつが、お前の言っていた「先生」で間違いないな?」
シヨウはその人物から目が離せない。確認したい。でも。
記憶が引き出される。駆け巡る。
その中には彼女自身も忘れていた記憶もあった。
彼女の動揺とは裏腹に、大樹の下の彼は顔を上げる。
土と落ち葉で汚れている。
あちらが何か反応したように見えた。
でも視線が合う前に、レンジェの剣が間に入り、阻まれる。
「捕まえたぞ。ヨーギ」
シヨウは戻る。とても体が重い。
「どうだった? 本当にヨーギだった?」
「私にはわからない」
「さっきから本物だと言っているだろう」
「存在するという記録があったとしても見たことはないし、記録自体が虚偽かもしれない。そもそも、死んだ人間の魂が見えるとか後光が差して見えるとか、周りの空気が澄んでいるとか普通有り得ない。魔女の噂とどっこいどっこい」
「どっこいどっこい」
「来いと言われた。なんか挨拶しておけということみたい」
「へえ。すごいね」
「行かなければならない」
「シヨウにしては珍しく乗り気じゃないね。会いたくはない?」
「会ってはみたい」
けれど、対峙したときの自分の精神状態を想像出来ない。
なぜ想像しなければならないのかわからないが、
しなくては落ち着かない。そして結局、想像がつかなかった。
場所はシヨウの会社。あの辺りを統括しているもっと大きな支社だ。
「というかなぜあなたもついて来ていいって言われるのだか・・・あいつもあいつだけど。どれだけ仲良くなっているの」
「そんなに仲良くないよ。そう見える? 全然だよ」
ジイドは否定の手を振る。
それでも、今までの彼の言動を思い出し、眩しく思う。
一体どうして。どうやって。
どうすれば。
どうしようもなく逃げ出したい衝動に駆られる。なんだ、この状況は。
なぜ自分からこんな状況に飛び込まないといけない?
そんな自問自答をした。
そして呼ばれる。離れてはいるが部屋にはもちろん他に人がいる。
多分、なんらかの役職名を持っている人達。
普通の応接間の普通の椅子。彼はまだ多少汚れていたが、
腰掛ける人間でこうも違う椅子に見える。
「お・・・お久しぶりです」
挨拶の前に確認することを忘れて、慌てる。
「あ、覚えていますか。十年くらい前に、山の麓の田舎の」
「覚えているよ。シヨウ、久しぶりだね。大きくなったは失礼か」
立ち上がり、頭をなでられるが間違いに気付いたようで、
軽く手をとって彼は微笑んだ。
「まさか会えるとは思わなかった。気になっていたんだ。本当に懐かしい」
「いえ・・・」
「村のことは聞いたよ。本当、何と言ったらいいか・・・その後は想像しか出来ないけど、大変だったね。今まで頑張ったね」
言葉が出てこないでいるシヨウを置いて、脇で会話が始まった。
なぜかこの距離で声を潜めている。
「食事だって。なんか皆で食べるらしい。どこも一緒だね。面倒だけど行ってくるよ。その後また話そう」
そしてまた目の前のひそひそ話が始まる。
「名前?」
彼は考える仕草をした。
「とりあえず、ベリルで」何者も逆らえない笑顔だった。「よろしく」
あの扉の向こうでヨーギとシヨウが会っている。
レンジェは迎えに行って、お役御免だった。
外から突然大きな音が聴こえ、窓の側へ行った。
「お、降ってきたな。こんなに強く降る予報じゃなかったぞ」
「空が笑ってるんです」
横のジイドも外を見ている。
「笑ってる? 泣いてるの間違いじゃなくて?」
「それでしか星は表現出来ない、とかなんとか」
彼は室内に向き直る。彼の視線の先にリーンが現れた。
「あれ、ジードさん。こんにちは」
「どうも」
声が一段低くなってように聴こえた。
黒ずくめのリーンが楽しそうに言う。
「本当に髪も目も黒いんですね。ジードさんは話しました?」
「いいえ。そんな、恐れ多いし。というか男ばっかでむっさいんですけど」
「それはこちらも同じだ。ま、そんなの社会に出れば普通だ。仕事中にそんなこと考えないがな」
ジイドは先程から応接間をあまり見ない。最初に一瞥したきり。
「ところで、前の話はどうなった?」
「良いところばかり言われるのは詐欺っぽいですけど、そこまで悪いところしか仰らないと、今度はどうしてそんなところに居続けるのか疑問に思います」
「うーん、惰性だ」
「言い切りましたね」
「金稼ぎだ」
「建前でも違うこと言いましょうよ」
「じゃあなんと言って欲しいんだ。今時、やりがいとか己の成長とかないぞ」
「時間潰し。それより大丈夫ですか。こんなことして」
「ああ・・・。いいんじゃないか? 外部からでも仕入れることのできることしか言ってない、一応」口端を上げる。「というわけで考えておいてくれ。俺は担当しないがお前なら大丈夫だろう。男としてはそちらのほうがやりがいあるしな」
シヨウは民家を改装したいつもの小さな支社で、静かにその時を待っていた。
「シヨウ!」
突然外の扉を開け放ち、入ってくる人物がいる。
「何、その驚きは。相変わらず面白いねえ」
「いえ、だって、ヨーギ様がこんな掘立小屋にいらっしゃるなんて」
「あー、その気持ち悪い言葉は要らない。前と同じで良いよ」
「そ、そんな、ベリル様。それは、恐れ多い・・・」
「それなら二人っきりのときだけ」
「先生。何しているんですか」
「君は・・・どちら様かな? 先生と呼ばれる筋合いは、ないけど」
いつの間にか入ってきたジイドが2人の背後にいた。彼は無表情だ。
開けっ放しの扉からまた更に入ってくる。
「きゃあああ! 本当に本物? 本物のヨーギ!!!!」
「やあ初めまして、可愛い魔女の方」
リアは感極まってシヨウの腕をばんばん叩く始末である。
「知り合いだって、なんで言ってくれなかったの!」
「ごめんなさい・・・知らなくて」
「知らないとか、有り得ない! わかるじゃん。シヨウ変わってるからわからなかったんじゃない?」
そう、彼女も今は見ればわかる。彼の周りは間違いなく空気が違った。
光が当たっても変わらない黒い髪。反射する黒い眼。
空気の粒子が光っているようだ。
実際にはほこりが舞っているだけなのだが、それでさえ彼を特別に見せる。
「さて」
「どこ行くの?」
「えっと、仕事です」
「仕事! そっか。もうそんな年齢だったね。シヨウが働いている姿はなんか想像出来ない」
「そうですよ。そんな歳です」
外に出て勤務地に向かう。体が軽く小走りしてしまう。
ジイドの呼ぶ声がした。走って追いかけてくる。早足に変えて進んだ。
「今日はご機嫌だね」
「そうでもない」
でも顔が緩んでいる。自覚できる。このまま走って行けそうだった。
ジイドが突然視界の端から消えた。立ち止まって振り返る。
彼は少し後ろで突っ立っていた。
目にごみでも入ったのだろうかと一呼吸置いたが、
そうではないようだ。まだ突っ立ったまま。
微動だにしない。
「ジード?」
仕方なく引き返す。やや俯き、手を額に当てていて表情は見えない。
どこともなく触れようと手を伸ばすと、彼は動き出した。
「大丈夫。ちょっと寝てた」笑って訂正する。「嘘。寝不足で立ちくらみ。ちょっと課題が大変で」
そう言って身なりを整えている。
途中まで伸ばされた手は何も掴まず、そのまま下ろした。
「あそうだ、まだこれ借りていて良い?」
そう言って腰の剣を指す。もういつも通りの彼だった。
「うん・・・」
「良かった。レヴィには説明が大変だけど、それもまた勉強になるね。自分が物事をいかに歪に認識しているかよくわかった」
「ああ、そうそうそう。そうなの」
まだ考えることがあったが、レヴィネクスのことで自分が感じていた違和感を、
言葉に落とした表現が的確で、嬉しかった。
これもまた自分1人では味わえない感覚であった。
「だよねえ」
「ジードでもそう思うんだ」
「人をなんだと思ってる」
「そういう意味ではなくて」
「本当、ノス・フォールンには優しいね」
5
先日の謝罪から始まり、難しい話題を経て今は談笑になっていた。
「あの研究所は行ってみたい。面白い所に建てたと思ったら・・・最近の進出は会長が変わられたからなんですね」
「これからは色々なことを考えねばならないので、これもやむを得ず、なんだが。どうにかするのが下の役目とはいえ、それがまた・・・」
ヨーギを連れて来いとレンジェに呼ばれ、
ベリルと一緒に出向き、今は応接間で時間を潰している。
ここは先日訪れた大きな支社で、建物も人もさっぱりわからず居場所がない。
することもない。自分はいつまでここに居れば良いのだろう。
己の存在意義を自問自答し始めたところだった。
「やっていけるも何も、やってもらうしかない。やつを見ろ。無賃の残業をいくらでもしくさってやがる。歳をとればそうなるもんだが。今の若いのがそうなるまで五年では難しい。はあ」
「こっち見て何言っているのですか。私ですか!?」
「ある程度歳を取っていればそうかもしれない。逆に何もない人ほど帰宅が早そうな気がするなあ。自分の時間を少しでもなんとか、みたいな。でもシヨウがそうなのはまた別な気が・・・」
「ちょっと。あの、先生まで」
凭れ掛かっているレンジェの次は椅子でくつろぐベリルだった。
シヨウは2人の真ん中あたりに位置していたので縮こまるしかない。
「非効率なだけだろう。勤務後に時間がある独り者だからだらだらやる」
「シヨウは単に責任感があるだけだよね。昔からそうだった」
「そ、そんなことないですよ」
「オウカはああ見えて自由奔放だったから。そりゃ責任感も出てくる」
一瞬、脳に空間が出来る。
「苦労してた?」
「えっと・・・・・・」
その空間を言葉で埋めようとしたがうまく出てこない。
「そんなこと、なかったと思いますけど・・・」
「そうか? あれは自覚的だったからこその奔放に見えたがな」
「自覚的。そうだね、下の者はそうなる傾向が強い」
「おっと、時間だな」
レンジェが凭れた壁から背を離す。
「今日は誰と食事だっけ」
「会長の弟さん。つい最近戻られたばかりだ。地方へ飛んで不在がちだが幹部だ。会っておいて損はしないだろう」
「ああいうのって食べた気がしないんだよねえ。というわけで今度一緒に何か食べに行こう。シヨウ。どこか良いところ教えて?」
「いいですよ・・・」
「二人で」
「はい・・・いえ、皆で」
ベリルは無言で笑って、準備を始めた。
いつもの小さな支社で、リアは部外者なのだが当然のように居る。
そして会社も何も言わない。
「先生ってどこの地方の生まれなんですか?」
「ここじゃないよ。もっと遠い所」
「へえ。東かと思ったんだけど違うんですねー」
「ここは色んな人間が居るから、あまり遠くに来た感じがしないね」
「星都のお膝元ですもん。変に言うと大部分が地方の人間で構成されてる」
「そう。ここまで一点集中した首都も珍しい。だから星の首都になったのだと思うけど。でも本当に人が多い・・・」
「ね、先生って世界の色々な所を周って来たんでしょ。どういう所に行ったの? 印象に残っている所は?」
「ちょっとした山登りになっている鳥居が沢山ある神社とか、有名な歴史人の首を洗ったと言われる井戸があって、それが民家に囲まれているちょっとした敷地にあって、あそこは落ち着かなかったなあ。印象に残っていると言えばやっぱりシヨウの居た地方だね。あそこはまあ典型的な田舎で、暮らしていたのは少しの間だけだったけど。今思えば一番楽しかったかもしれない」
シヨウの全神経はそちらへ向いている。叫んでいる。
「面白かったよ。シヨウもオウカも良くしてくれたし。シヨウは意外にも背丈は今とそんなに変わらない。成長が早かった方なのかな」
「どんな子だったの? 興味ある!」
「静かな子だった。あ、だけどひん曲がり具合は変わらないかな。ほら、よく話すよね、戻れるならいつに戻りたいかって。それならあの頃を選ぶよ」
ふいにリアが声を潜める。でもこの距離で完全な内緒話は無理だ。
「ねえねえ。オウカって、誰?」
「ああ。それは、シヨウの」
素早くベリルを向くと、彼はすでにこちらを向いていた。
あらかじめわかっていないとあの余裕はない。
「わかってる。わかっているよ。シヨウが言っていないなら言わない」
傍まで来て面白く覗き込む。
「また、難しい本読むようになって」
内容はもうさっぱり入らない。
そうだ。彼は死んだ。
死んだ。
もういない。
考えないようにしていた、途中で中断した作業。
その大きさを、思い知る。
夕方前の道を3人が歩く。
「随分気に入られているみたいだね。先生に」
「まさか。面白いから、懐かしいから構っているだけ。私をいじるのもそう。全てを好きで、全てに興味がある。だから私は特別ではない」
「お二人さん、何食べたい?」
「甘い物!!」
「シヨウは何が良い?」
「えーと・・・」
「まだきのこは嫌い?」
「うーん。そこまで・・・」
「オウカも嫌いだった。もう食べることが出来るようになった? 大人になっても、無理なものは無理っていうのあるよね」
「い、いえ・・・・・・えっとまだ苦手です。昔ほどではないけど・・・」
「そうなの? 美味しいのに! シヨウかわいいなあ」
リアはシヨウから離れてくるくる歩く。
「ジードも来れば良かったのに。でも学校忙しいんじゃ仕方ないよね。私も進路そろそろ・・・。どうしようかな・・・」
「そういう話も聞くよ。就職に関してはあまり参考にならない意見しか持っていないけど」
「うーん。卒業後、どこの学校にするかというより、就職か進学か悩んでる。このまま進学しても勉強をする意味が見出せないというか。そこまで勉強して知りたいことがない・・・」
「なるほど。結論から言ってしまうと進学を勧めるよ。やりたいことがまだ見付からないなら、それを見付ける為にも尚更。しかも今の学力で入れる一番良いところへ。そうすれば将来、格上の企業も狙える。街の北の学校とかは?」
「あー・・・ジードが行ってるとこ」
「ジード?・・・・・・ああ、あのノス・フォールンか。ふうん。結構良いところだと思うよ」
「そっか。あ、先生、あそこです!」
「シヨウ?」
「はい。あ・・・」
足が止まる。明かりが灯る店の前に2人はいる。
彼女はその更に手前で止まってしまった。
なぜかと問われればわからないと答えるが、でもわかりきっている。
それを言うまで時間がかかる。覚悟が要る。
けれど言ってしまわねばどうにかなりそうだった。
それまでも仕事で、もっとずっと嫌で嫌で仕方なかったことがあったが、
それよりも辛くて苦しい。
この場から逃げたい。
それでも、店に入って食べて話してしまえば、
地獄に飛び込んでしまえば適応してしまう。
耐えることが出来てしまう。
耐え抜いた小さな達成感を得られて、満足する。
そうして後回しにしてきたのだ。
シヨウは平日休みの場合が多い。
でもそれは、大半を占める土日休みの人と予定が合わないということになる。
けれど平日の気楽さを知ってしまったら、
とてもではないが土日を休日に充てるのを躊躇ってしまう。
だから期待してはいなかった。
そんないつもの平日。彼女はいつもの民家の支社のラウンジにいた。
リアやベリルといった外部の人間が出入りしているせいか、
最近活気みたいなものを感じるようになった。
読みかけの本は読んでしまった。もっと調べたいものがあったので
離れた所にある大きな図書館に行くことにする。
丁度今日は外部の人間が新規で受付可能な曜日だ。
受付は簡単に済んでしまって中に入る。本が沢山あった。
彼女がいつも行く近所の図書館はとても小さかったのだ。
館内を一通り見て、いくつかを手にとってもみたが早々に後にする。
学校の広い敷地はどこも物珍しく、あちらこちら見てしまう。
不自然にならない程度になるべく遠回りして敷地を出た。
本は借りなかった。
お目当てを見付けることも出来なかった。
夕暮れでもう誰もいなかった。まっすぐの下り坂だった。
この辺りでは一番高い所で、学校があるせいか樹が沢山あり、
外からは山のように見える。眼下に街並み広がっている。
恐るべきことに、この一つ一つに個があり、
経過してきた時間があり、人生があるのだ。
薄い灯りがところどころに見えた。
一般家庭に安定して電気が供給されるまで、あと百年では人間が多すぎる。
「これ、返してもらうよ」
背後から声がした。
素早く振り向く。が、何かを考える間もなく体が凍りつく。
その人物が数歩下がるのが見えた。手の中に剣がある。
彼の腰にも同じ剣が差されているのを見て、
自分の腰に差していた剣が抜かれたことにようやく気が付く。
薄暗くても、幾度も確認しなくてもわかる。
わかりすぎる。
けれど、人違いではないかと一縷の望みを賭けて、
彼女は突っ立ったまま待った。
彼は。
だって。
横からの風で乱れた髪を全く気にせず彼はそこに存在した。
殺気を放っているわけでも威圧的でもなく、自然だった。
笑顔だった。全く変わらない。記憶が鮮明に蘇る。
一体、何が。
起きている?
「久しぶりだね」
更に笑顔になる。
「何・・・なん・・・」
「会いたかった」
眼の色が煌めいている。
「い、生きて・・・」
「そうだよ。ああ、驚かせてしまったね」
彼はゆっくり近づいて、シヨウの手を自分の両手で包み込む。
一歩引いたがそれ以上に早く彼の手に捕らえられた。
「ほら。ちゃんと生きているでしょう」
彼女と同じくらいの大きさ。暖かい。
確かに、体温を感じた。
心臓が止まるのを見届けたわけではない。怖くて逃げたのだ。
またいつか会える。
心のどこかで期待していた。
「オウ、カ・・・・・・」
変わらない笑顔。
「そうだよ、姉さん」
ああ・・・。
大きな息を吐いた。
「はあ、うるさくてしょうがない。だから・・・」
一歩近づく。
「はい、そこまでですよ」
黒い影が彼目掛けて落ちてきた。彼は素早く後退し黒い影を躱す。
素早い2人が無言で視線を交わす。
「また会いに来るよ」
黒い人物の向こうからそう言うなり、彼は眼下の街へ飛び降りた。
下は広大な住宅街でもう薄暗い。リーンは追う姿勢を微塵も見せなかった。
大きく息を吐き、シヨウはしゃがみこんだ。
「大丈夫ですか? まさか本当に現れるとは思いませんでした」
剣を仕舞って彼女に手を差し伸べた。
その手を取って立ち上がり離さずに問う。
このタイミング。
「尾行していたの?」
「そうですよ。でなければこの絶妙な機は有り得ません」
「あなたは・・・」
何を知っているか訊いても無駄か、という考えが先行し言葉が切れる。
「こうなってしまった以上、レンジェ・ソアレスあたりから説明があるでしょう。私の口から言っていいものか、わかりかねます」
「会社が・・・やはり噛んでいる」
「噛んでいるという言い方は可笑しいです。笑ってしまう~の可笑しい、ですから。別に噛んでいませんよ。関わっていたくて突っ込んでいるのです。端的に言うと今後の利益の為です」
リーンを解放し、しばし考えていた。
「大丈夫ですか」
「わかった・・・・・・大丈夫。一人で帰れます」
そうですか、と一言言っただけで、
彼はすぐに先程の彼と同じ方向へ飛び降りる。さすがに速く、
民家の細い道に降りたと思ったら瞬く間に軒先や樹で見えなくなった。
風などもう無い。空気さえ感じられない。
坂道の下から人が来る。
全く、どこも1人になれない。田舎と同じだった。
地面にしゃがんで顔を両手で覆う。
「あああああ・・・・」
手の中にくぐもった声が響いた。
後回しにしていたツケが。
来る。
彼女は泣き崩れも倒れもしない。
自力で帰った。
フリークスが村を襲ったのは早朝。
早起きの年寄りが起きるよりも更に早い時間、シヨウは村の入り口とも言える大きな樹の前にいた。正確にはかつてあった場所にいた。樹が無くなったことにより、風は無音で強く吹き抜ける。オウカはなかなか来なかった。
ようやく彼の姿を道の遠くに確認出来た。思わず駆け出し、声の届く距離になった矢先、彼は後ろからフリークスに襲われる。
危ない、後ろ、など言う間もなかった。頭脳を侵食されるのはノス・フォールンの彼にとって死に等しい。貰ったばかりの剣は役に立たない。恐怖で近づけない。
優しい彼の口が確かに「逃げろ」と動いた。
彼女は逃げた。そのまま村には戻っていない。
「簡単に言ってしまうと、少し前から被害が出ていてな。正式に駆除の対象となった」
あれやこれな権限を使って弊社以外が手出ししないようにした、
とレンジェは説明した。
ヨーギであるベリルは早くも、飽きているという仕草を隠さない。
「それで? この書類は?」
「手出ししません・何が起きても訴えません、の書類」
シヨウは一瞥しただけ。触れもしない。
レンジェは椅子に座るシヨウの前を行ったり来たりしている。
「日程は一ヶ月、も無いか。そうそう・・・お前はその日有給になっている」
ベリルと会社をあとにする。
「何も、君が思い詰めることはない。逃げる・・・という言い方は負の印象かもしれないけど、逃げてもいいと思う」
「逃げる、ね」
「僕もその口だから」
「先生も・・・逃げてきた? 何それ。何から逃げてきたの?」
なんだか可笑しくて笑ってしまう。
「うーん。何もかもってところ。子供なんだよ。最近はそれも気にならなくなってきたから余計に酷い」
「先生でも逃げることがあるんだ」
「そう。それも笑ってしまうほど遠くへ来てしまった。かつてのノス・フォールンと同じくらいの移動距離」
「本当に遠くから来たんだ・・・」
そしてあの村へ・・・と感慨に耽そうになる思考を振り払う。
「迷って考えて、考えすぎて何もしないほうが僕にとっては嫌だったから。じゃあ逃げてしまえって」
大きな風が吹いた。
「先生は、フリークスが人間の言葉を理解出来る頭脳を持っていると思う?」
「わからない」
「では、人間の心はどこに生まれると思う?」
「心臓ではなく頭脳」
「じゃあ・・・」
「シヨウ」
心臓が一度大きく動く。
「フリークスとなったオウカがどういう状態なのか、それはわからない」
「先生・・・オウカは」
「体は生きているけど、頭脳は動いていない。文化を生み出さない。温もりがあるだけで価値があると姉の君が言うなら、それでいいのでは? 全力で止めればいい」
彼は一気に距離を詰める。
運命を告げられる。
「どんな選択をしても後悔のないように」