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第2話 ウィーケスト・リンク

もう、自分には何も無いと思う。

一体、なぜ、この世に産まれたのか。

どういうつもりで人は子供を作るのか、そればかり考える。自分が死んだあとのことを誰が考えている?

この世界を見ればわかるではないか。自分が生きている間のことしか考えていない。なのに、なぜ。そうまでして子孫を残そうとする。それはもう、自分ではないのに。こんな人間に育つということを想定できなかったのか不思議だ。住んでいる家の規模と子供の数が合わないのに似ている。あらゆる可能性を考えて作るべきではないのか。どんなに心の優しい人間たちに囲まれていようと、自分みたいな人間は生まれる。

人は本来、そういう風に出来ている。

優しければそれだけ強く、真逆へ。確固として。

自覚している。とても冷静だ。惨めな姿を俯瞰で見る。

この世に善人などいない。悪を知っているからこそ善人になれる。すべてに優しい、すべてに興味がない。どちらも同じ平坦だ。突き出た特別が無い。ちょっとへこんだそれは、暗ではないのか? 暗を知っているからこそ、優しさがわかる。いつしかその仮面に支配され、暗を無意識に処理できるようになるだけだ。

弱い人間は、装うか、負けるか。

私は、従うとしよう。



まったく、馬鹿みたいに人、人、人。ついでに犬、犬、犬、犬。

一体、動物にいくらかけているのだ?

どれだけ裕福なのだ? だったらその資金をくれ、まったく。

昼下がりの公園。敷地はとても広い。

盛り上がった丸い芝生、その円周の道。それに沿って並んだ長椅子。

散歩や運動、通勤の通り道にして、暗くなるまで、とにかく人が多い。

ここは散歩経路の1つにしている。1日1回は外に出るようにしている。毎日同じ時間に同じことをすれば、色々都合が悪いので少しずつずらす。部屋の中にいても腐るだけだ。電気がないことに初めて感謝する。しかし、無駄に熱量ばかり摂取してしまう。不思議と、体を動かすと食欲が抑制される気がする。室内では筋肉強化、外では長距離を走る。とても健康ではないか。

銀行の残高の数値を思い出す。気が重くなった。忘れろ、いや、忘れてはいけない。落ち込んではいけないが楽観もだめだろう。馬鹿か。まだ、もう少しは大丈夫だ。しかし、大丈夫な時期に手を打っておかねば、本当の窮地に追い込まれる。

恐ろしい世の中に生まれたものだ。何の関係もない次世代に、皺寄せがくるなんて理不尽だ。それを想定していなかったのか? 死んでしまえば関係ないもんな、いい気なものだ。私も、早く死にたい。自分で死ねたらどんなに良かっただろう。死を理解する頭脳、ノス・フォールンめ、進化に拍車をかけやがって。いや、痛覚をなくせばいいのか。しかし、どうやって・・・。

くっそ、あの女、ぶつかりやがって。一人前に剣なんて持ちやがって。こら、それをよこせ! 売って金にしてやる! と思ったら顔はまずまず、整っているほうだ。目つきがきついが笑うとそうでもないな。

こういうやつって、自覚しているのだろうな。まあ、使えるもんは使ったほうがいいと私も思う。女は武器が多くて羨ましい。騙されるほうが悪い。

お、謝った。仕方ねえな。


彼女は気が緩んでいると、自覚する。

腰に差してある剣の先が人に当たってしまった。とんでもない失態。

シヨウは社会の自分の立ち位置を、とても礼儀正しい人間、

と設定している。そうしたほうが何かと便利だし、簡単だからだ。

たまに気が緩むのは当り前。

人の最高の状態を維持し続けるのは不可能だし、

たまに笑顔や優しさを装い、弱さを見せておく。

この頃はもう、どちらが本当の性分か区別がつかなくなっているが、

しかし、どちらでもよくなっていることも確かだ。

彼女はとても気が短い。自分に非が無ければ、理論と理屈と正論を使って、

相手を押し黙らせる方法をつい考えてしまう。

しかし、それを自覚しているからこそ、感情を抑えることが出来る。

そこへ自分が到達しないようにすれば良い。

許すという感情のコントロールはまだ苦手だった。

不思議な踏み心地の地面だった。その道を樹が囲む。

木々の間に階段がある。それを下りると公園が広がる。

物体の運動によって動く振り子に乗る遊戯、傾斜を滑り降りる遊戯、

その着地点は砂が盛られている。電気があった時代に使われていた乗り物の、

ゴム製の部分を組み立て、吊り下げたものもある。

鉄を使ったものはどれも錆びている。そこを抜けるとこの公園一帯を囲む道路。

そこに沿って植えられた樹。冬が終わり、暖かくなると花が咲く。

葉よりも花が先に芽吹く樹だ。

彼女にはそれが怖い現象に思える。

今は青々とした葉だけが生い茂っているが、幹を見ればその種だとわかる。

花が咲くのは春だけ。しかも十日足らず。

葉を付けている期間のほうがずっと長い。

冬になる前に葉をすべて落とし、春になるのを待つ。

枝と、幹だけ。その状態で雪や低温をやり過ごす。

晴天の下に花を付けた姿が雄大だからか、短期間しか見ることができないからか、

その季節だけ樹の下に集まったり、記録に残すために出向く人もいる。

なんとも不思議な現象だ。葉を付けた姿には誰も目もくれない。

ずっと多くの期間を見ているのに。だからだとも言えるが。

儚いことに美徳を感じる人間がいる。

それは、人が有限の生き物だからか、この星も有限だからか。

しかし、今生きている人間はその終焉に立ち合うことはない。

人は自分に関係のない話を、自分のことのように思うことができる。

今の自分との不幸の度合いを比べ、心配し、その心があることを確認。

次の瞬間に晩ご飯のおかずを考える。

それが普通。普通の人間だ。

道路の並木道を横断し、橋を渡る。

橋の手摺が手頃な高さで、下を覗くと水の流れが見えた。

水位は低い。落ちても溺死は無理だろう。

橋を越え、橋に沿った道を歩く。公園を対岸に見ながら歩く砂利道。

石の感触が靴越しに伝わる。シヨウは足の裏に神経を集中させる。

目が覚めるような感覚。今まで眠っていたのではないかという神経。

気をつけて歩かなくては足を捻る。

そういった危うさを現代の人間はわかるのだろうか。

舗装された平坦な道を歩く。何も考えなくてもいい。

とりあえずは転ばない。そういう道しか知らない人間や犬さえ存在する。

それは、幸せなことなのか。

風が吹く。民家の横の斜面に植えられた樹の葉の擦れる音が響く。

近くの住民は日常的に聴いている音だろう。その音に耳を傾ける。

前髪は翻り、後ろ髪もあちらこちらに飛ぶ。シヨウは樹を見上げた。

次に河の向こうを見る。星の自転に動きたくても動けない、

雲が風の方向に大きく広がっている。その向こうに落ちかける陽。

雲の間から漏れる、地表を長く走る波長。風の音しかしない。

後ろには樹。運動着を着た男性が遠くから走ってくる。シヨウは息を吐いた。

男性が走り去る。もう一度樹を見上げる。

青い空だったら良かったのに、と思う。



誰にも迷惑はかけたくはない。それくらいは弁えている。

普通の人よりも死について考えていたと思う。

死後の世界はあるか、死んだらこの私という意識はどうなるか、この星や世界や、すべての事象はどうなるか、どこまでも考え尽くした時期がある。結局、死後の世界は、死んだことがない人が言うからこそ存在し、信用ならないし、星は自分がいなくても存続する。もしかしたらまた、新しい全くの別人、別の意識で自我を持つかもしれない。もしかしたら性別も違うかもしれない。そう思うと安心できない。

また、人生が始まるのか?

死ぬのは逃げているというのを聞いたことがあるけれど、では、どうすればいいのだろう。誰かに話を聞いてもらえばすっきりはする。しかし、それで、自分以外の何が変わるだろうか。楽観はいけない。そんなのは自分だけが変わるのであって、外側は何も変わらない。資金の面では誰も助けてくれない。仕事も見付けてはくれない。無いものは見付けられない。絶望をわかっているほうが落ちるときの衝撃が緩やかだ。

だから、あまり動揺はしていない。心はいたって静かだ。

その時が来ればきっと乱れるだろうが、まあその時はその時だ。

あらゆることを想定して、部屋や通帳の中身はそのままだ。本当に、何があるかわからない。私はわりと慎重だ。そうこうしているうちに着いてしまった。もう後には引けない。これで、最後にする。

採用枠が一人空く、食料が一人分生産しなくて良い、水も空気もごみも、あらゆるものの負担が少しだけ減るのだ。いいことではないか。

これはなかなかに大変だ、くっそ、腐っているな。

これはだめだ・・・あれは細いし。

ああ、あれはいい。きっと大丈夫。

誰もいない。そういう場所を選んだのだから当り前だ。

止めてほしくはない。口ではなんとでも言える。

あの一瞬で楽になれると信じて。

はは、手に、汗が。

まだ、縋ろうとしているのか。


彼女は仕事で来ていた。人を捜していた。

こういった仕事はノス・フォールンという、人の考えていることを、

感知することが出来る頭脳を持った人種が得意とするのだが、

あいにく、彼女に回ってきた。

そこは鉄を含んだ土と岩でできた森林だ。

かつての火山の周りに湖が五つあり、森林との壮大な風景が見られる観光地。

正規の参道もあるが、今、彼女がいるのは別の入口。

森全体は磁場が狂っているので、

道を外れると出てこられなくなると有名だ。

公道から森林を見る。昼なのに樹の根元まで光が落ちていない。

奇妙に静まりかえっている。

生き物の気配がしない灰色の世界が、無限に広がっている感覚。

シヨウは踏み込んだ。公道が見えるところまでしか探さない、

場所が場所なのでそういう契約。同行する知り合いもいなかった。

見付からない場合、報酬はない。

彼女はゆっくり歩く。地面には樹が倒れ、腐っている。

光が届かないので余計な雑草も生えない。

枝を踏む音が響く。鳥の声もしなかった。

上を見上げれば空が遠くに見える。

ここが自殺の名所でなければ良いのに、と溜め息が漏れる。

そこで、彼女は目にした。

樹にロープを垂らし、

その輪に、首を今まさに、

くぐらせようとしている男に。

彼女は無音で近づく。

見晴らしは比較的いいのであまり近づけない。

しかし、男の背後の位置なので気付かれはしまいと、どんどん進む。

もう隠れることができない所まで来てしゃがむ。

男の顔は確認できない。しかし、捜している人物ではなさそうだった。

写真の男はもっと歳をとっていた。あの男はまだ若そうだった。

シヨウは見つめる。

覚悟せざるおえない状況、ここまで来るという決定的な意志。

そんな人間に、何かを言って変えることが出来るのかも疑問だったし、

そうしようと考えるほど、彼女は他人に熱心ではなかった。

人間だけが死を考える。人間だけが死を理解する。

もしここまで頭脳が肥大化しなければ自分は死ねたのに、と考える。

輪を掴み、首を通して、男は踏み台にしていた倒木から足を離す。

もっと躊躇うものだと思っていたので、意外に早い決断にシヨウは見えた。

男がぶらさがる。ゆっくり揺れていた。

まだ、膝は曲がっている。手は輪を掴んだまま。

揺れて、揺れて、回り出す。

回る。耳の穴が見えてくる。頬、そして鼻。

こちらを向いた。

その眼はしっかりとシヨウを見ていた。

男の顔はまたあちらを向く。

そして、手を支点に、輪から顎を引いた。

足は先程の倒木に届いていた。


死を覚悟する意思、実行する意志。

本能に逆らう強大な理性。

この男でなくとも、世界では自殺者は多い。

自分がいなければ確実に成功していた。

この瞬間にも誰かが自ら死んでいるのに、

ただ、場所が近いというだけで手が震える。

汗腺から汗が吹き出るのがわかった。

掌を見ながら握って、開いた。呼吸を思い出す。

枝を踏む音が近づいた。

逃げた方がいいかと一瞬考えたがもう遅い。

シヨウは男を見据えた。男はまだ二十代といったところ。

死を覚悟した人間が、どのくらい理性を失っているか見てみたかったが、

普通の若者だった。色が濃い茶髪。見たところ元からの色のようだ。

濃紺の服。ズボンは黒い。靴も履いている。

笑顔はさすがにまずいだろうと思ったので、真面目な顔。

男はシヨウを一瞥した。

「お前、こんなところで何をしている?」

同志でないことはわかるみたいだ。口調もしっかりしている。

「いえ、ただの通りすがりです。す、すみません。お邪魔しました」

ゆっくりとお辞儀をした。

とんでもない言い訳だったが間違ってはいない。

男とは反対の方向へ引き返す。

「あ、ちょっと、待ってくれ。君・・・」

シヨウは飛び上がるほどだった。

死ぬために道連れを欲しがる人間もいるからだ。

彼女は眉をひそめる。今にも剣に手が伸びそうだった。

男は手を口に当てて何かを考えていた。

「君、私を殺す気、ない?」

「は?」

声が木霊した。

冗談で言ったのではないと、男の顔を見ればわかる。

腰の剣に意識を飛ばす。

「えっと、待ってください。そういう理由で持っているわけではないので・・・」

「でも、やれるだろう?」

男は当り前のように言った。そして後ろを向き、地面に座った。

「出来れば一撃で」

一秒ほどの間。

「ちょっと待ってください。いえ、それは無理です。他の人に頼んでください」

シヨウは男の背中に向かって言った。

「なぜだ?」

彼は首だけを動かして言う。

「今なら誰も見ていない。大丈夫だ。私がいいと言っている。他殺体で発見されるがまあ、場所が場所だし、首はすぐ近くにあるし、すぐ身元はわかるだろう。あ、そうか。君に迷惑がかかるのか」

「はい、そうです。困ります」

「きちんと手続きすればやってくれるか?」

「ああ・・・それならいいですよ」

今度は男が止まった。

当事者二人と、二人の血縁ではない事情を知る第三者。

その監視下で、殺し合いにまで達する決闘、自分なりのけじめ等、

それを行うことが出来る。

太古の儀式に沿った慣わしだ。それを星府が許可している。

しかし、実際は頼まれても誰も合意しない。

監視すら辞退する。

「は・・・」男の息が漏れる。「正気?」

シヨウは目を細めた。

「いや、死ねるなら今すぐ死にたい。本当にやってくれるのか? その剣は飾りか?」

首を振る。

生き物が生き物である条件、生きていること。

それを自らの意志で放棄するのは動物にでも出来る。

しかし、理解しているのは人だけ。

ノス・フォールンによってもたらされた

最大の弱点だとシヨウは認識している。

種族差別でもない、寿命の短さでもない、

それが一番凄いことだと、彼女はこの議論をするとき常に思い当たった。

「人を捜しに来たのですが、誰かいませんでした?」

「あー・・・それなら、あのあたりに」

男が指す方向に倒木がある。

そちらに歩き出す。もう少し奥だった。

朽ちた衣服。枝からぶら下がる切れた紐。

樹の枝に混じって埋もれる、生き物だった残骸、

に見えなくもない物体。

それを上から眺める。しかし彼女には何もわからなかった。

シヨウが戻ると男はまだ座っていた。

「本当にやってくれるのか? どうして、今、やらない? 無駄な殺生はしないとか、今時言ってしまう人?」

「いいえ」

色々反論したいが我慢した。

ノス・フォールンなら気付かれただろう。

「では、一旦戻りましょう。私はまだ死ぬ気はありませんので」歩きだす。「あ、もしかして、身辺整理してしまった後ですか? 私はちょっと、そちら方面の手伝いはできませんが・・・」

「ああ、それは大丈夫」

男が手を振って笑った。

立ち上がって、衣服に付いた枝を払う。

「よし、戻ろう」

意外なほどに普通なのでシヨウは驚いていた。

もっと暗く悲観的で、何にでも不満を感じ、

人生にも人にも絶望しているものだと思っていたからだ。

公道に出た。男が先を歩いてシヨウが後を追った。

近くの街までは歩いて1時間ほど。

それまで2人の間に特に会話は成立しなかった。

シヨウは誰かといるとき、会話をしなくても平気な人間だ。

苦痛に感じない。相手が何を考えているとか全然気にならない。

ところが、稀に、苦痛と感じる人もいる。

彼女にはそれが理解できない。

それは、他人が自分のことをどう思っているのか気になるのだ。

つまり自分をよく見せたい、好かれたい、せめて嫌われたくない、

という極めて人間的な感情が働いていて、

それこそが頭脳を行使する人間の集団、

つまり社会との適合性の高さを表しているのではないか。

それなら自分は相当に不適合だな、と苦笑。

自分以外はすべて他の人。親も他人。

自分で自分に驚く時があるのに、他人が把握できるはずがない。

生まれ落ちたらすでに別個の人間と、思っているのは口に出さない。

誰もがわかっているのに口にすれば皆、顔をしかめる。

なぜだろう、そこまで血に拘るのは。

それこそが人が人を作ろうとする、

組み込まれたプログラムなのか。

しょうもない1人議論を強制終了。面白くない。

他の頭脳の意見が聞きたくても、

しかし、これは明らかに他人には聞くことができない話だった。

街まで来た。

「えっと・・・私はこれで」

「手続きを取りに役所へ行くのではないのか?」

男が急かす。シヨウは考えながら言った。

「会社へ行かなくてはなりませんので、少し待っていただけませんか」

「まあ、そういうことなら・・・。でもいいか、言っておくけど、生きていれば時間はある。けれど金は有限だ。作れば出来る時間とは違う」

「ええ、そうですね。けれど、日が沈みますので今日はもう・・・」

「だめだ。こういうのは早いほうがいい。すまない」

真剣さは伝わったが、彼女は首を傾けて息を吐いた。

「わかりました。では後ほど・・・どこかで落ち合いましょう」

「ではあそこはどうだ」

男が指す。民家の屋根の山の向こうに、

樹が盛り上がっているのが遠目でも見えた。

そこは昼間行った場所だった。

男と別れて、シヨウは支社へ急いだ。

急ぐといっても走ったわけではない。

1時間近くも歩いて足は棒のようだ。

歩いている最中は気が付かなかったが街へ着いた途端、疲れを自覚した。

庭に赤い花が咲く民家の敷地へ入っていく。

自分の家のように扉を開けた。


そこに見知らぬ男が二人立っていた。来訪者へ顔を向ける。

支社を担当する女性と話をしていたようだ。

先だって立っている男の髪の色に目が留まった。

白に近いが光の加減で色が付いているように見える。

それを後ろで三つ編みにしていた。

眼の色も独特で、シヨウはこれまで見たことがなかった。

「お、噂をすればなんとやら、だな」

三つ編みの男が言った。

会釈をして通りすぎようとした。

「シヨウさん、ご報告いただけますか?」

受付の女性社員が言った。

シヨウは彼女を見て、男を見る。

また女性を見た。

しかしどちらもシヨウの言葉を待っていた。

「あの樹海にはいませんでした。あと、死体かどうかわかりませんが・・・ありましたので連絡したほうがいいと思います。この写真の人である可能性は低いと思います。もっと古い・・・行方不明になる以前のものに見えました」

そう言って写真を机に置いた。

黒髪の男性が写っている写真だ。

どうやら会社の関係者らしい三つ編みの男は、

やけにシヨウを見ていた。

視線で串刺しにされそうだ。

「シヨウさん」

三つ編みの男がにこにこしながら言った。

上司が部下に指示するような笑み。

もう一人の男が影のように付き添っている。

部下だと思われる黒ずくめの服装のその男も、

微笑をたたえている。

「今日はもう時間がないので今度にしますが、折り入ってお話がございまして」

「どんな内容ですか」

目線が上を向く。

「訊きたいことが。そんな大したことではありませんから。日にちをみてまた伺います」

そのまま彼女は三人の視界の外になる位置まで歩いた。

単に部屋を移動しただけだ。

そこは台所だ。しかし、使われている痕跡はない。

誰が考えたのか、仕事場に出勤する前に、

支社への出社連絡をしなければならない。

それに対する費用と労力と時間に、何の保証も賃金も無い。

まったく意味不明のシステムがこの頃の社会では普通となっている。

信用されていないのか、無断欠勤を何とも思っていないのか、

シヨウは調べたことはないので、

どちらの意識にも問題があるのだなという見方しかできない。

賃金を貰っている手前、何も言わない。

外へ出てしまえば良かったのだが、

いつもすぐに休んでしまうので奥に来てしまった。

また、玄関を通らなければならない。

けれどそんな気は起きなかったので窓から出ることにした。

子供じみた不要の意地が、いまだにどうしても抜けないシヨウであった。

一階の窓から出て着地。

窓を閉めたとき、鍵が開いてしまうことに気が付いた。

が、もう諦める。

彼女は夕暮れの公園を歩いた。待ち合わせの階段の下に着く。

階段の下を使って花壇が連なっている。

天気のいい日は木陰、雨の日は雨宿りとして最適だ。

ただ、今は薄暗く、柱の影はすでに暗闇に染まりつつある。

「こっちこっち。何、通りすぎているのさ?」

声のする方角を見る。先程、目の前を通り過ぎた人だった。

見たことのないシルエットだった。

こちらに歩いてくる。シヨウはやっと気付く。

自殺志願者の男だった。

気が付かなかった原因は髪だった。

長かった髪が短くなっていた。

肩に触れるか触れないかの位置で、髪の先が踊っている。

「今から役所へ行くのですか? もう閉まっていますよ」

「よく考えたらそうなんだよ。ごめんねえ。疲れているのに」

男の髪が揺れている。

「それよりも、立会人を募らなくてはいけない。でも私には知り合いがいないんだ。早速困っているんだけれど、君のほうでどうにかならない? 生活費は大丈夫だから」

「仕事での知り合いとか、学校の友達とか、だめなのですか?」

「うーん、いないこともないけど・・・。仕事も今はしていないから、誰とも連絡つかないんだ」

「私も、ここの出身ではないので知り合いとかいないですよ」

「会社の人に頼むっていうのは? あ、頼みにくいか。だよねえ」

男は動き回る。せわしない。

「ユーメディカ社ってどうだったっけ、そちら方面」

「ユーメディカ?」

「少し前から色んな事業に手を出していたよね? 立会人派遣なんて、ないか」

「いえ、やっていないと思います。脳研究が主流だと思っていたのですが」

「数年前に島を買って研究所建てたって話題あったね」

「そこに提供するのですか?」

「提供? 頭脳を? いや、しない。臓器も何も。ユーメディカが無理なら民間の企業に頼むか・・・」

「フリークスの駆除をされている方でも、大丈夫かもしれませんよ」

「え、そうなの?」

「人間は斬ったことはないと思いますが。さすがに・・・」

「君は? ないの?」

思わず男を見た。あまりに自然な流れで訊いてくる。

「死にたいと思っている人間を斬ったことはないですよ」

「あ、私はセリエだ」

「えっと、シヨウと申します・・・」

「どうしたものかなあ」

頷いて、また歩き回る。

シヨウは花壇の縁に座った。

縁が腰の位置にあったので、ほとんど膝は折っていない。

それでも、足への負担はかなり軽減した。

手持ち無沙汰だったので腕は組んだ。やや下向きへの視線。

3メートルほど先の地面を眺めていた。

視界の端をセリエの足が行ったり来たりする。

そもそもシヨウは、今すぐにでもこの男を斬っても構わなかった。

死にたいと思っている人間を殺すことに割と抵抗はない。

けれど、世間の目は違う。

命は尊い、絶対のものだと認識している。

どんな理由があろうと人の命を絶つ行為を認めない。

殺してと言われたから殺しました、は通用しない。

死んだ人間はいいかもしれないが、残された人はどうなる。

手を下した自分はどうなる。

シヨウはまだ、社会という輪の中に居ようと思っていた。

「立会人が集まらないのはしょうがないので、この際、別の人に頼むという手もありますから、今日のところは休んで、落ち着いて考えてみたらいかがですか?」

セリエは指を差して何度も頷く。

「なるほど。うん、そうだな。疲れたし、帰ろうか・・・。それにしても帰って寝たいと考えるなんて変だなあ・・・人間は本当におかしい」

「明日はとりあえず生きるってことで、いいんでないですか」


それからシヨウは、顔を覚えている仕事仲間にそれとなく聞いてみた。

しかし誰も頷いてはくれなかった。

セリエの名前は出していない。

全くの他人でも、自分の近くで人が死ぬのを見たくない、ということか。

セリエにはやはり自分でどうにかしてもらうしかない、と考え始めていた。

自分の胸に刃物を突き立てる。その様を想像する。

痛みを思い浮かべる。

今までのどんな痛みにも比べ物にならないだろう。

それくらいしかわからない。彼女はいつも与える側だった。

午後の陽光に目を細める。膝に陽が落ちてそこだけ暖かい。

その日は仕事がなく、出掛ける理由も用事もないので支社に居た。

民家だと居間になる。

そこの窓際に配置されたソファに座って本を読んでいた。

窓の外、視界の端を通りすぎる影があった。

数秒遅れて戸が開く音。シヨウは顔を上げる。

彼女の座るソファの前までまっすぐ来た。

多少、息が上がっている。

「久しぶり。これ・・・、そこで渡してくれって頼まれた」

封筒だ。折っていない紙が入っていると思われる大きさ。

シヨウは立ち上がってそれを受け取った。

「ありがとうございます。3週間は、久しぶり?」

懐かしい、と感じた。

どうしてこの街にいるかという疑問は湧かない。

あの赤い街にはこの街を通過しないと行くことはできない。

封筒を見る。赤い花の紋が押されている。

顔を上げると、ジイドはいつになく神妙な表情でシヨウを見ていた。

しかし、彼女と視線が合うとすぐに逸らした。

「あの・・・何をしてるの?」

「何って・・・何」

「だから、その、介錯みたいな・・・。立会人を募ってるって聞いたんだけど・・・」

露骨な表現で訊くというへまはしない。

どこからどのように聞いたのか、

そちらを聞いてみたかったがやめる。

悪い噂というのは広がるものだ。

尋ねた人のなかに彼の知り合いがいてもおかしくない。

「本当?」

「そんなわけないでしょう」

「本当に本当? 嘘じゃない?」

「あなたに本当のことを言わないといけない? 嘘をついてはいけない?」

「じゃあやっぱり、そうなんだ?」

「これ、届けた人、どんな人でした?」

「黒ずくめで、髪が黒かったね・・・」

シヨウはジイドから視線を外す。

「そもそも人が自殺を考えるのって、そんなに不思議とは思わないな。考えたことのない人間はいないと思うんですよ。そうじゃないですか?」

「そう考える君のほうがよっぽど不思議だけど」

「では、どうして生きたい? この、死んでいないだけの状態をなぜ維持したい?」彼女は一人でしゃべっている。「いや、それはわかる、逆はできないから。でも、うーん。そこまで特別なこと? 勝手に生まれて生きているだけなのに」

「相変わらずだなあ。いつもそうやって一人議論してるの? 一人だから議論じゃないか。単なる独り言?」

自分の結論に小さく吹き出している。

「寿命が短いノス・フォールンの意見が聞きたいな」

対面してシヨウは言った。顎に手を添えている。

「やめさせようよ。その人、どうして死にたいと思ってるの?」

「さあ。知らない」

「知・・・、理由も聞かないで・・・、ちょっと待って。どうかしてる。後悔するよ」

「死んだら後悔できない。多分」

「違う、シヨウがだって。人を殺すのってものすごいことなんだよ。一つの命が無くなる。絶対に元に戻らない。親御さんとか絶対悲しむ」

「二十歳を超えた人間が出した決断を、親がまだ口出すのか。それはどんな感じ?」

「論点がずれてる」

「人を殺す方法を考えているよりはよっぽど健全だと思うけど・・・」

「どうしてそう、すぐに死ぬとか自殺とか考えるのかなあ」

「それが怖いから、じゃないですか? 怖いからこそ対処しようと考えませんか、あらゆる想定を」

「それは、わかる。けれど、いつか誰もが絶対来ることなんだから、考えたってしょうがない。その時が来れば嫌でも覚悟してしまう。諦めというか・・・」

「考えなくても絶対来るのなら嫌だけど考える、私ならそうしますけど。覚悟なんて、普通に生きている人は出来るんですか? お年寄りはあんなに生きているのに、殺人、窃盗までしてまだ生きたいみたいですよ。凄い」

「それ、ちょっと言い過ぎじゃない? 君と話してると話が飛ぶ・・・なんだっけ。だから今死ななくてもいいじゃんって話」

「そういう話をしていたの?」

「説得を待っているんじゃないかなあ。ほら、自分は誰にも必要とされてないとか話す相手がいないとか一人で抱えすぎている状態。案外、話すだけ話したらすっきりしたってけろりと帰って行くかもしれないよ」

「そうかなあ」

「ちょっと言ってみたら」



公園の樹の下だった。

その樹は空から落ちてきた災厄を飲み込んだという。

そして樹は枯れつつある。

厄を飲み込んで自分が犠牲になっているらしい。

なんとも綺麗な自己犠牲の伝説が語り継がれている。

シヨウには単なる寿命にしか見えない。

彼女が見ていた樹をセリエも見上げる。

「樹とか動物っていいと思わない? 何も考えなくてもいい」

「毎日が生きるそのものですね。人は社会で生きる方法を探して生きている。人の毎日やっていることなんて、生命維持にほとんど関係がない」

「ごみを生産している生物。どう? 誰か見付かった?」

シヨウは慌てて首を振って答える。

けれどセリエは表情を変えなかった。

「さすがに、知り合いがいないのはどうしようもないです」

セリエのほうも進展はないようだ。

それに、まだ、生きている。

「だよねえ、どうしようか・・・」

「あの、もしそうなら、やめてしまうっていうのも・・・あると思うんですけれど・・・。ほら、理由を話せば多少、楽にはなります。現状は何も変わらないけれど、自分の受け止め方次第で前向きに・・・」

息を吐いた。そこまで言って、やめた。

セリエの表情を。

ああ、やはり・・・。

セリエという人物をよくは知らない。

そういう話以外の話をしたことがない。

けれど、恐らく。

「あー・・・なんだ、説得ってやつ?」セリエは笑っている。「へえ、面白いね。説得して、君に何の利益がある? そもそも君に関係ある? というか単に見ていられないだけだろう。止めるだけ止めて、その後の生活を助けてくれない奴らが、何を言っても無駄だというのに」

シヨウは黙っている。

その通り、まったくその通り。

猛烈な怒りに似た苛立ちを抑えていた。

彼に対してではない。

自分に対して。次にジイドに会ったときが楽しみだ。

「ええ、そうです。本当に。ああ、もう・・・」

「彼氏になんか言われたとか? それとも、可哀想だと皆で同情してみたわけだ。でもしているだけ、だよね?」

「すみません、出過ぎたことを言いました。大丈夫です。私がきちんと殺して差し上げます」

おかしな言い方だなと思いながら言った。

「うん、そうしてもらわないとこっちが困るんだよ。君も、働いているならわかると思うけど、今の時代、ただ息を吸っているだけで金が減っていくんだ。住むにも食べるにも何かが必要なんだよ。隣人愛だとか愛する人がいればやっていけるとか、一昔以上前の状態じゃないのだから、そんなんでは今は生きていけない。なんて時代に生まれたんだ、ほんと、まったく・・・」


「どうだった? うまくいった?」

ジイドはシヨウの仕事場の支社に来ていた。

もちろん中ではなく外で待っていたが、

シヨウが支社の中に入るとごく自然についてきた。誰も咎めない。

ロビィの椅子に座る。

彼は来客用の一人掛けではない椅子に座った。

「思ったとおりの結果になってとても嬉しい」

「本当? 良かった」

「逆効果テキメンでしたよ」

「逆、効果? 逆?」

彼女は、たった今、自分で言ったテキメンという意味を考えていた。

適応面? 快適面倒? 適用面子?

あ、覿面か・・・。

「あ・・・なんか怒ってる?」

怒っていますと答える人間がいるのだろうか。

気が付くと、手の内にあったペンが折れていた。

「折れたし」

ごみ箱に放った。

弧を描いて飛んだそれはごみ箱の端にぶつかり、床に落ちた。

ジイドをなんとなく見た。顔をしかめて彼女を見ている。

見られながら彼女はすでに動いていた。

床に落ちたペンを拾う。

「ちょっと、もったいない。どうしてすぐ捨てるかな。再利用とか修理してみようと思わない? というかそれ、結構愛用してる感じに見えたけど」

「いや、もったいないよ。でももう使えないし。使えないものをいつまでも持っているほど暇じゃない」

「暇はなんか違う」ジイドは笑う。

「余裕はない。場所もない」

「場所? なんで場所?」

見ると本当に疑問に思っているようだった。

場所がわからないとは。

彼はきっととても裕福で余裕があるのだろう。

とにかく。

「これに関してはもう口出ししないでください。あなたには関係ないでしょう」

彼の反応は見ない。立ち上がる。

「あれ、どこ行くの」

「仕事です」


出勤するシヨウを見る影がある。

「俺にはそれなりに歳をとっているように見えたが?」

三つ編みの男が言う。彼の薄い色素の目が煌めく。

「そして貴方のことは覚えていないでしょうね。あの反応を見ると」

こちらは髪は黒い。目の色も服も暗色だ。

「実は俺もよく覚えていない。目立ってなかったし」

笑った黒ずくめの男に釘を刺しておく。

「お前、変に仕掛けたりするなよ」

「あ、いいのですか?」

「いやだからだめだって」

「でもあちらから仕掛けてくれば、問題ないでしょう」

相変わらずの彼なりの理論に苦笑も浮かばない。

「話訊くまでは殺したりするなよ」

「私だって温和に進めたいですよ。でもシヨウさんがどうしても剣でお話ししたいと言うのなら、喜んでお相手して差し上げます。むしろそちらが良いのですが。話を訊いたあとならばいいってことですよね?」

始終笑顔を絶やさない。

「ま、殺す前に俺を呼べよ。訊きたいことは山ほどあるんだからな。なんだ、お前興味があるのか?」

「人間誰しも不老不死には興味があると思いますよ? あ、不死ではありませんか。星治界のお偉い様方は大変興味があるようですが」

「想いの力だけで不老になったら恐いからな・・・ノス・フォールンとの交配の副産物か、なんにせよノスの脳のほうが終わったらやってみるかな・・・」

「あなたの趣味にも呆れたものです。その熱心さを仕事に回してください」

「俺はいつでも仕事熱心だぞ」

「熱心すぎるのですよ、だめな方向に」

「趣味の為に仕事をするって、俺くらいの歳なら普通だろ」



シヨウは街の郊外まで歩いてきた。

「どこまでついてくるのですか」

「断るまで」

露骨に不機嫌な顔で見ても、あちらは前髪で隠れている。

本当に不機嫌になりそうだった。

今日は畑を耕す手伝い。

この頃割と多い仕事だ。田舎出身なので土に抵抗はない。

しかし作業には不慣れで、しばしば口出しをされる。

自身の記憶や見様見真似ではいかないという場面があった。

「ええっ 農家の手伝い!? すっごい!!」

馬鹿にしているのか、

と思って見れば本当にそう思っているようだった。

「ね、ね、俺もやってみたい。良い? ついて行っても?」

「いや、仕事だし」

まさかこんなに食い付きが良いとは思わなかったので、

どう反応すればいいか困った。

「じゃあさ、通りすがりの知り合いってことにして声かけるから」

「もう、勝手にすれば」

そうまでしてやってみたいのかと問いたくなった。

この街の郊外には畑がたくさん広がっているのに。

「あ」

「あの人・・・」

三つ編みの男に、影のように佇んでいた男だ。

髪も服も黒く本当の影のよう。

「会社の人よ」ジイドに説明する。「お疲れ様です。前の、お話の件でしょうか」

相変わらず薄い笑みを浮かべていた。

「おはようございます。用事はまあそうなんですが」

「それなら、今から出社ですので終わってからで」

シヨウの言葉をやんわりと止め、彼は続けた。

「お話の件は、貴女自身に用事があるのではなく、正確には貴女の見た昔の風景ですね。でもその話はまた今度、きちんとお伺いします。そこいらのノス・フォールンでは記憶は探れませんから」

そうして構える。

「今日は、私個人が、貴女自身に用事があります。そうですね、話を訊くことが出来る状態ならば、多少どうなっていても問題ないですよね」

暗器が降ってくる。最初は足元。

次は太腿へ、でも躱す。

一気に抜剣する。

「ちょっ 危な!!」など後ろからジイドの変な声がした。

しかしどうにも真剣さに欠ける。

本気でないのはわかっていたが。

狙うのは執拗に後ろのノス・フォールンだ。

「ちょっと! 彼は関係ないでしょう」

「あなたに関係がある時点で無関係ではないですよ。それを弱みにされる場合がある、というのが人間関係です」

彼は笑う。ジイドのように。

でも違う。明らかに質が違う。

彼は。

自分と同じ側だ。

「逃げて!」

わかっても体がついてくるかは別だ。

退路に正確に剣が来る。

「速すぎ! 無理だって! ――――右!」

右腕を狙ってくる。これも躱せる。

ジイドを見る。彼は、目を閉じている。

「見るな!」

ぱっと目を開け、一瞬、呆けた。

「行って! 守りきれない!」

近づこうとしても黒ずくめの男は一定の距離を開ける。

こちらから仕掛けられない。

さてどう出たものかと本気になりかけた頃だった。

「あ、時間です。そろそろ出勤しなくては」

突如無手になる。暗器をそこかしこに仕舞う。

「楽しかったついでに」最初となんら変わらない笑顔だ。「この辺りがこうなのは、私の所為ではありませんよ。そういう所を選んだのは認めますが」

彼が背後を指す。

何を言っているのか、その意味を見たかったが油断ならない。

まだ目は逸らせなかった。

「あなたなら懐かしいかもしれませんね。ではまた」

本当に完全に色々な気配が消えるまで、

シヨウは神経を張り詰めていた。


だから気が付かなかった。

今までは自分以外に気を払わなくて良かった。

後ろのノス・フォールンが蹲っている。

瞬間的に恐慌に陥るが、すぐに冷静になる。

何かをした動作など無かった、はず。

それでも、後ろに誰かいる、

という状況に慣れていない彼女は色々考える。

死んでしまって家族や親類に一生恨まれ続けるのと、

不自由な体で生きることを選んだ本人と家族から一生恨まれるのと、

どちらがましだろうか、等。

考えながら彼の様子を看る。

「どうしたの、ジード」

揺さぶっても頭を振るだけ。

耳を塞いでいるだけ。抑える手を頑なに解こうとしない。

「うるさい、う、たが」

「歌? 何も? 流れていないけど?」

辺りは静かなものだった。

離れたところに民家が数件見えるだけで、何もない場所だった。

「鳥がいない」

「え」

ふいにかけられた声で違和感の正体に気付く。

機械が動作しているとき特有の音。

違和感でもなんでもない、

と処理されるだけの環境に居たこともあった。

懐かしい。

彼は耳を抑えているのではない。頭だ。

昔ちょっと流行った、意図が少し度の過ぎたおもちゃ。

ノス・フォールンが近くに居るという事実だけで、

体調を崩す人間もいるほど。

そんなリクエストに応える歪んだ時代があった。

一般家庭はまだだが、

最近は工場や病院といったところに電力が戻ってきていた。

「ちょっと、気をしっかりして。 聴くな―――」彼の腕を掴む。「見るな!」

でも弾かれてしまう。

同時に「へぶっ」とかいう、変な声が出てしまった。

ノス・フォールンの脳の能力をしばしば「見る」という表現を使う。

それは、相手の言わんとしていることが見た瞬間にわかる場合があるからだ。

シヨウには全く聴こえない。

ジイドだけ。ノス・フォールンだけ。

落ち着け。落ち着け。

頭を抱えるジイドを無理矢理掴んで、自分の額に当てる。


『  』


びくっと震えてジイドが勢いよく顔を上げる。

「気が付いた?」

やっと焦点が合って、長い前髪の間から目がこちらを見ている。

「あ、れ・・・シヨウ?」

「こっちへ」

さすがに山の中には無いだろう。

ふらつく彼の手を引いてどんどん進む。

座れそうな幹がある樹を見付け休む。

ジイドを見る。シヨウはそれほど疲れていない。

「大丈夫?」

俯いて息を切らしている。

「それ・・・俺がやった?」

彼がシヨウの顔を指す。

「ごめんねえ、女の子の顔を」

シヨウは目を細める。

こんなときに他を考えることができるとは。

自分となんという違いだろう。

同じ人間でこうも違うなんて。

「ジード。もう、心は見ないで」

「それは無理」

ノス・フォールンにとって

呼吸や瞬きに等しいことは周知の事実。

彼の手を握る力を強める。

「だから、本当に、もう・・・」

「そこまで、言うなら交換条件・・・自殺幇助なんてやめろ」

考えたが交換になっていない。そう指摘しようとした。

「あと・・・、アレシュトルが死んだ」

「え」

「だから・・・」

そう言いながら体が揺れている。

疲れているときや睡眠不足のときのそれに似ている。

自分では気が付いていないかもしれない。

言い終わらない内に彼は横に落ちていく。


これだから俗に言う「良い人」は短命なのだ。

他人の為に苦心し時間や体力を使うことが出来る。

だから病気になったり寿命が短くなってしまうのではないか。

突きつけられた事実に心が重くなる。

「シヨウはノス・フォールンに甘い傾向が見受けられる」

「それは面白い見解だわ。接するのがノスばかりだとそうなるわね」

シヨウは力無く笑う。

「これからどうする? このまま夜まで起きない可能性は充分ある。ノス・フォールンは睡眠時間を特に摂らなくてはならない」

「それは仕方ない・・・」

彼の視線がジイドに向けられた。シヨウも振り向く。

「大丈夫?」

薄く目を開けた彼は、何か言いたげだった。

次の言葉を待つ。しかし出てくる気配は消えた。

ジイドの目に掌を置く。念じる。

少しでも負担が小さくなればいいが。

彼の傍らに剣を置く。持っている長い方だ。

勤務時は必要がないのに、

今日は置いてくるのを忘れた。そんな失態を今は感謝する。

「レヴィネクス、守っててくれる?」

「仕事に行くのか」

「うん」

「こんなことになっているのに? お前の所為なのに?」

決心が少し揺らぐ。他人が存在しているというだけで、

こんな事に逡巡するのか、と発見する。

「ええ。勤務先の人に、私の事情は関係がない・・・前に話したことがあったね」

「そういう帰結だった。しかし守ることは出来ない。お前もよく知っているだろう?」

その物言いに笑ってしまう。彼はいつも事実を言う。

「一緒にいてくれるだけでいい。頼める?」

小さく頷くのを見届ける。

「勤務が終わった後、セリエにきちんと断ってくるよ」


恐らく、彼と自分は性質が似ている。

でも決定的に違うものがある。

自分は今日も生きている。きっと明日も。

彼はその本能を強大な理性で押さえ付け、あの樹海にいた。

躊躇う瞬間なんてまるでなかったように感じられた。

自分はその行動を起こすことさえ出来ない。


遅々とした勤務が終わり、公園に向かった。

もう日が暮れる。家路に向かう人とは反対方向に一人だけ歩く。

待ち合わせの、草が盛り上がった広場が見えてきた。

セリエがいる。声を掛けようとした。

けれど彼は跪いて。

その彼の後ろに黒い影。

鈍く光る何かが振り落される。

失敗した雪だるまの頭が落ちるように。

セリエの首が落ちる。

見える位置まで来た。あまりに赤い集合体のために、

どす黒く見える血が草に広がっている。

木々の向こうに人がいる。

あちらにも、そちらにも。

でも誰も近づこうとせず、声も出さず、遠目から窺っているだけ。

剣を携えた黒ずくめの男があの朝と同じように言った。

「シヨウさん。やっと来てくださいましたね。来なかったらどうしようかと思っていたんです」

「あなたは、一体・・・」

「これは私の意志ではありません」

「でも、あなたでしょう、あの封筒を届けたのは」

「ジイドさんを使って」

シヨウはますます睨む。

封筒の中身。故郷の資料。

フリークスに襲われた村。

封筒に押された仏葬花の紋を思い浮かべる。

あれは、彼女の所属する会社の社紋。







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