表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

第1話 死者に手向ける花

ざわめく雑踏を脇道に入ると、そこは驚くほど静かだった。

錆びた色の壁が並ぶ。建物と建物の間隔が狭く、庇もほとんどない。

雪が積もることを想定していない家並みを歩いて女は呟いた。


(あいつ、許さない・・・。絶対・・・!)


腰には剣が二本、色褪せた革のベルトに差している。その足どりは速い。

突然足が止まり、一つ向こうの路地を一点に、釘付けにされていた。

「・・・いた!」

小さく声が出る。左の壁に消えた。

向こうはまだ気が付いていない。左に走る。

右に曲がり一気に通りに出る。

その通りに人はいなかった。その男以外には。

男の前に立ちはだかる。その目は真剣そのもの。

というより殺気立っている。

「お前、よくも」

「わ、わ、わ、待て! 待て! 悪かった! 悪かったって!」

「謝っても、許さない・・・!」

右の腰の剣を抜剣、じりじりと寄る。男は罪を認め謝っているが、

女は少しも謝罪を受け入れようとしない。


女の視界の端に人が入った。緑の髪の男。

前髪が長く、そのわずかな隙間から覗いているせいか、

こちらからは表情はよくわからない。

心拍数が一気に上がる。

剣を掴む手に汗が湧き出るのがわかった。修行が足りない。

緑の髪の男は邪魔をするだろうか。止めるだろう。それが普通だ。

しかし抜剣している人間に迂闊に近づくだろうか。

でも誰かを呼ぶだろう。一緒に斬ってしまうか。

でも、関係のない人間。邪魔だ。

そう、うまくはいかない。

世の中は大体そういうもので構成されている。

納剣し、女はその場を立ち去る。

これが最後のチャンスではない。また、機会はある。

そう言い聞かせて歩く。

「た、たた、助かった! 俺の声が聞こえたんだな!」

背後から聞こえる声に耐えて足早に去った。



電力の供給が停まってから十年ほどが経つ。それを計画した意思と徹底的な策略、以前からの環境問題の不満もそのとき爆発したかのように、世界の電力の供給はわずか二週間で絶たれた。生活は激変した。世界がリセットされたかのように。これを機にもう一度、エネルギー問題を見直そうと世界の星府は立ち上がった。

しかし現状は変わらない。このまま、電気のない生活にしてしまおうという意見と復旧させる意見とで争っている。しかし電気はある程度ないと不便だ。便利なことを知ってしまったから。

もう昔には戻れない。

しかし、復旧が始まった頃にようやく気付く。

もはやすべてに供給できないほど、人間が増えていた。


夕暮れが近い。この辺りは夜になると真っ暗になる。

人は朝起きて活動し始め、夜と共に眠る生活をよぎなくされた。

夜に備えて人が行き交っている。

(あの男、絶対気配無かったって! あぁもう! あの男さえいなければ!)

頭を抱える。動揺している自分がいる。修行が足りない。

歩きながら一通りの問答と反省をして、

それでこの問題は一応棚にあげておく。

一軒の店から女が出てくる。

「シヨウ! 遅かったから心配したよ! もう日が暮れるっていうのに」

長い金髪の女がシヨウに近づく。

「もう。どこ行ってたのよ。呼んでもいないから」

「色々・・・。ごめんなさい」

「夕暮れは危ないんだから。フリークスに襲われたらどうするの!?ってシヨウなら大丈夫かもしれないけど、でももしものことがあるかもしれないしそうなったら」

「はいはい、エリー。もう戻ろう。お客さん待ってるよ」

人々の情報のやりとりに便利なこの店は、

マニアの間ではちょっとした人気だ。

ふらっと入り飲み物1つで何時間も居座ったり、

情報を売り稼いでいる人間もいる。

エリーと呼ばれた金髪の女はこの店のたった1人の従業員で店長である。

「こらぁそこぉ! 軟派は外でやって! あぁ壁! 汚れる! 床! あぁっ! シヨウ! シーヨーウ!」

「はい、はーい」

エリーが呼ぶときは大抵が手遅れになってからだった。

抱えきれないオーダー数と調理や、掃除をしたり介抱したり。

今回はそういう仕事。

でも、呼ばれなければ自由時間だと言い渡されている。

裏庭にいた彼女は店側にやってきた。

男二人組が嫌な空気を纏っていた。

仕事の愚痴から始まったちょっとした口喧嘩だが

エスカレートしている、とエリーが耳打ちした。

シヨウはそこに立ちはだかった。

「お客様・・・お話の声が少々大きいので外でされてはいかがでしょうか」

接客用の笑顔で言った。

酒の入った相手に効くとは思えない、といつもシヨウは思っている。

男はシヨウの腰の剣を見た。

ここで働くときは上階の自室に置いてきているのに、

今日に限って差したままだった。

「あぁ? お嬢ちゃん? 何? 用心棒? すごいなあ偉いなあ」

「おい、もう出ようぜ」

言い争っていた相手が言った。

「よし、お譲ちゃん、俺が稽古してやる」

「お前! またそういう・・・。そういうところが付き合いきれないって言ってるんだよ!」

他の客はテーブルの上のものを避難している。

でも酒を飲みながらでも遠回しに注目している。

「お、おい、こいつはヤベェって! 帰ろうぜ! この女知ってる、剣がすっげぇ強いってのもあるけど、確かノスフ・・・」

「うるせぇ黙ってろ。へぇ、お前強いのか。若いのにすごいなぁ。天才ってやつか」

酔っているにも関わらず素早い拳が飛ぶ。

シヨウは後ろに跳んで、圏外に抜ける。

男のテーブルから酒がこぼれていた。

「掃除・・・!」

自分の顔は見えないからわからないがすごい顔をしていたのであろう。

男はシヨウに外に出るよう促した。彼女はそれに従う。

連れの人が何やら言っているがとりあえず笑顔で応えるだけ。

外に出てくれれば暴れることが出来るので都合が良い。

さてどうすれば殺さずに済むか、その方法を考えながら店の外に出た。

「「あ」」

店の前の、広くもないが細くもない道に奴がいた。

昼間の緑の髪の男が。

「さあて始めようとするかあーって一度言ってみたかった台詞ぅ」

でもその足はふらふらだった。

どうして人は客側になるとこんなに馬鹿になってしまうのだろう、

と場違いな考えを巡らす。

理不尽だとわかっていての提案、

金を出すから・・・から始まる存在を根本から否定する要求。

シヨウはふと気が付いた。

緑の髪の男がしきりに何か言いたげな動きをしている。

でも逡巡している、ように見える。

というか、シヨウにはその動きの意味するものが全くわからなかった。

「気持ち・・・わる・・・」

そう呟きながら男はまっすぐではない方向へ少し歩き、

その場に蹲ってしまった。

「大丈夫ですか!?」

緑の髪の男が素早く駆け寄った。

その速さにシヨウは虚を突かれた。

動けないでいる彼女の横を一緒だった痩せた男が通り過ぎる。

「そこの人ーすみませーん!」

緑の髪の男を見る。誰にでも穏やかだと印象させる外見だ。

多分、先入観だろう。

そう思い直してシヨウも倒れた男の様子を見た。

特に中毒の症状は見受けられなかったが

自分の足で立っていられないほどには泥酔している。

「ちょっとちょっとーどうすんのお前はもう・・・」

こちらは足取りも意識も素面と変わらないように見えた。

「俺手伝いますよ。家近くですか?」

「うっわ助かる。いいの?」

倒れた男の背中を支えていた緑の髪が頷いて、

痩せたほうが大まかな道の説明をしだす。

そのやりとりをシヨウは見ていた。

「あっごめんね!お勘定だよね!いくらだっけ」

会計額を見に一旦中へ戻り金額を伝える。金額を受け取り、

釣り銭を取りにまた店に戻る。

「へーっあそこの学生さんなんだな。最近の若者って親切だし礼儀正しいよなーって年寄りくせえ発言!俺も相当酔ってる!」

「この方とはもう長いんですか」

「んー、十年も付き合えば腐れ縁というやつになるか。こいつ酒そんな強くないくせに飲むし」

「まあ美味しいし楽しいし羽目はずしちゃいますよ」

「いやあ、いい大人がこんな醜態とかどうよ。自分に見合った量を飲めって話でさ。いい加減大人になれよ」

「はい、お釣りです。お待たせしてすみませんでした」

そう言って手渡す。「あと、これもどうぞ」

「すみません店員さん、恐縮です。ろうそくまで・・・どうも御親切に」

形見を扱うように男は大事に仕舞う。

そして深々とお辞儀をするのだ。

酔った人間の行動に特に関心もなく、同じように返しておく。

倒れた男を両側から支え、またお辞儀をし、それを見送る。

しかし今度こそ確信的に緑の髪はシヨウを見ていた。



シヨウは店の二階に住んでいる。この建物はエリーの家である。

一階を改装して店として、二階部分は住居。

空いている部屋を使わせてもらっている。

開店時間は特に決まっていない。昼すぎや昼前には開店する。

したがってシヨウの起床時間も決まっていなかった。

この日は昼前に起きた。

一階に下りて店部分のエリーの手伝いをするのが日課だ。

しかしその日はすでにエリーの手伝いをしている者がいた。

緑の髪の男だ。

「あら、おはよう」

シヨウは静かに絶句している。

「シヨウの知り合いっていうから手伝ってもらってまーす」

男を見る。奥のシンクで洗い物をしている。

シヨウが見るとにっこりと笑った。

その顔がなぜかとても気に障る。

「シヨウにこんなかわいいお友達がいるなんて私嬉しい!」

とかなんとか言いながらテーブルを軽い足取りで拭いている。

「ありがとうございます。替わります」

そういって蛇口の前のスペースを入れ替わる。

水が蛇口から出ている。

量は適量。勢いよすぎず、だからといって少なすぎでもない、

適量と言うのに相応しい量が流れ出ていた。蛇口を捻る。

「ええっ ちょっと、出しすぎじゃない?」

大げさな動き付きだった。

ゆっくり瞬きを一回。そして男を見る。

瞬時に固まり、目線がどこという方向でもない方に泳ぐ。

目が前髪に隠れる。

「・・・・・・・・・いえなんでもありません」

洗った食器をかごに移し、男を伴ってシヨウは裏口の扉に行く。

「何かあったら呼んでね」

裏庭に出た。外は、人が快適と思う温度、そして天気だった。

「で、何の用ですか」

「ねえ、君どこかで会ったことない?」

「ない、と思いますけど」

(昨日の昼間を覚えていないのか?)

「違う、違う、それよりも前に・・・」目線がシヨウを外れる。「あー・・・これは酷いなあ。そっか。泣いていたのはこれだったのか」

その家の敷地内の一角には石で囲んだだけの花壇がある。

店の裏庭を借りてシヨウが作ったのだが今はみる影もない。

花は無残に潰れ、茎は折れている。

「これ、もうだめなの?」

花壇の前にしゃがみこんでシヨウを見上げている。

「何かお話があったのではないのですか」

「この街なんか変じゃない?」

「変というと?」

「うーん、なんというか、えーと」考えこむような動きをしている。「シヨウさんはこの街の人じゃないって聞いたからわかるんじゃないかって、思ったんだけど・・・なんというか変としかいいようが」

「シヨウ! ちょっと頼まれてくれない?」

エリーが扉を開けながら裏庭に飛び込んできた。

「いつもの赤い実をこの篭いっぱいに」

「あれは臭いから嫌」

「場所って裏の山ですよね? 俺頼まれますよ。そっちに行く用事があるんです」

エリーが笑顔の彼を見る。シヨウも見てしまった。

エリーの目線がシヨウを再び見ている。

「わかった、わかりました。行きます。でもそうだなあ、昨日作っていたあの丸いの、食べたいなあ」

「めざといんだから。仕方ないなあ。じゃあ完成品を試食してもらおうかな」

シヨウのささやかな抵抗は受け入れられ、裏山へ入る準備をした。

とはいっても剣を差すだけだ。エリーから篭を受け取る。

「夕暮れよりも前に戻ってくるのよ。ここらへんでもフリークスの目撃があったみたいだから。充分気をつけてね。すぐ逃げるのよ」

エリーの見送りを受け、店のすぐ裏の、山へ続く道を歩く。

「丁度良かった。よろしくシヨウさん」

さっき申し出たときと同じ調子で彼が言った。

あ、と思い出したように付け加える。

「ジイドです。よろしく」

「すみません。ありがとうございます、ジイドさん」

なんとなく言いにくい名前だと彼女は思った。



フリークスとは、その種族からかけ離れた外見になった動物の個体。

五百年ほど前から発見されるようになった。

その姿は異形で、共通するのは狂っている、ということ。

故にフリークス。

生態はまだまだ不明な部分が多い。

彼らはこの星でたった一つの人間の外敵。人間だけを襲う。

彼らがどのように生まれ、何の為に生きているのか誰も知らない。

誰も詳しく調べようとしなかった。

人間は自分達の問題にいつも忙しいのだ。

「着いた、ここ。あの木が不味い赤い実の木」

腰くらいの高さの木に赤い実がぽつぽつとついている。

「え、この街の特産物っていうか赤の街って謳われる元となったあの赤い実?」

「そう。他の家では庭先で栽培してるみたいだけど、エリーはしてないの。園芸が出来ないというか仕事以外の生活能力がないの。出来ないわけではなくて・・・単に面倒くさいってだけらしいけど」

「へー。初めて見たかも」

ジイドが鼻を近づけている。

「食べるならどうぞ? ・・・一生後悔する味だけど」

「えっ」

笑顔のまま固まっている。

「色は悪くないけど、味が。好きな人にはこのクセはたまらないらしい。あ、だから食べてみたほうがいいですよ。一度後悔しておいたほうがいい」

そういわれて食べる気が起きるわけもないのかジイドは食べなかった。

二手に分かれ実を採ることに没頭した。

「あんまり採らなくてもいいですよ。そんなに要らないと思います」


そんな二人を見つめる二つ目があった。少し離れた茂みの中。

猫のように瞳孔が鋭いが目の形はそれを逸脱している。獣の眼だ。

フリークスは茂みに気配を隠し、二人の様子を伺っていた。


シヨウはふと、何かの気配を感じ歩きだした。少しの警戒。

しかしそれはすぐ解かれた。

木の根元に横たわっていたのは、鳩くらいの大きさの鳥。

しかし明らかに鳩とは違う形状に成り替わっていた。

嘴は鋭く、人間で言う白目も白くなく黄色。

瞳孔はジイドより細い、猫科を思わせる鋭利な縦長。

足の爪も異常に鋭い。その体は何者かに襲われたのか血まみれ、

もう手の施しようが無いのは見てすぐわかった。

人間の気配に気付き、死の間際でも野犬のように威嚇している。

シヨウは近づいた。そして傍らにしゃがみ、手を伸ばした。

鋭利な嘴が走る。

おそらく最期の、渾身の斬りつけ。

苦悶の表情のまま、シヨウは動かなかった。

手を差し出したまま。血が滲んでいる。

「ごめんね」

(私じゃ助けてやれない)

「ちょっと何してるの!」

背後から草の踏む音と共にジイドの慌てた声が降ってきた。

シヨウの手を鷲掴む。彼女は頓着しない。

まるで気が付いていないように。

フリークスの動きは徐々にゆっくりになる。

全体の動きがなくなってもまだあばら骨が上下している。

それが完全に動かなくなるまでシヨウは見ていた。

目を離さなかった。

奇妙なくらいに静かだった。


ジイドが手に布を巻いてくれた。見た目ほど大したことはない。

「仕方ないよ。誰にもどうすることも出来なかった。助けも請いていなかった」

「・・・・・・」

見ればわかること、口に出さなくてもいい核心を言うことに

なんの意味があるのだろう。

そう思いながらきっとこれがこの男の性質なのだと思い当たる。

「さて、もう行こうか」かごを持って立ち上がった。

手を差し伸べてくれていたことにシヨウが気が付いたときには、

もう立ち上がる動作をしていた。

シヨウの視線に気が付いたらしい。手が宙で止まっている。

今更その手を取るわけにはいかないので話題を変える。

「あなたの用事は?」

「俺の用事につき合ってくれるの?」

シヨウが頷くと満面の笑顔になる。

「ありがとう~」

でもすぐに笑顔が陰る。

「本当、大したことないんだけど、でもシヨウさんには見ておいてもらいたいんだ。うーん、でも危険かもしれない」

「危険? なんですかそれは」

思わず笑ってしまう。反射的に腰あたりに意識を向ける。

ジイドも同じく意識を向けた。

彼の顔を窺ったがまだ渋っている表情だった。

こういう感覚がまだ古い、とは一応口に出さない。

シヨウは率先して歩き出す。

ジイドもついてきたので同意を得られたものとした。


更に山の奥に入っていった。昔は人が通っていたと思われる。

今はほとんど獣道になっている道もどきをジイドが先頭で歩いていた。

木々が濃くなり葉の間から光がチラチラ差し込む。

崖のように段差を岩が作り、その岩に隙間がある。

岩の上には木の根が覆い被さって、

岩の上からは下に穴が開いているのは見えない。

明らかに怪しい穴の前でシヨウは訊いた。

ジイドは穴に入る気満々だった。

「何・・・この穴・・・。何が住んでるの?」

「最近街に出没してるフリークスの巣、と思われる」

いつもとは若干違うが笑顔のままで言う。

「ちょっと待って? なぜあなたがそんなことをしているの?」

「ひ、暇だったもので」

「はあぁ?」

ジイドが四つん這いになって中に進んでいく。

止めるつもりはないが自分は穴にも近づかない。

気持ち低めに声をあげる。

「中にいたら、どうするの!?」

「んー大丈夫。今、中には誰もいないみたいだよー」

そのまま中に入っていってしまった。

穴の中は外からでは暗くて見えない。

主は今いないらしい。いないとわかっていてもためらう。

「くっそ」

舌打ちをしシヨウも中に入る。

中腰くらいの高さで奥までは意外に深くなかった。

穴の奥まで行くと大人二人が横たわってくつろげそうな空間があった。

穴はそこで終わり。最深部は暗いと思っていたが、

岩の天井の隙間からは明かりが差し込んでいた。

(綺麗・・・)

「雨の日は大変そうだよね、ここ」

顔を向けるとジイドはしゃがんで細部を見回している。

仕方ないので黙っていることにした。

なんとなくだが息苦しい。手で口と鼻を覆う。

そこまで奥まってはいないし空気が滞っているわけでもない。

「んーじゃあ帰ろうか。あ・・・シヨウ・・・」

「はい?」

「外に何かいる」

外から見えない位置へと素早く移動する。

心臓が一気に高鳴った。二人は穴の両側から外を窺がった。

「フリークス? 人?」

「・・・わからない・・・」

目をこらしても明るい外を伺い知ることはできなかった。

この一本の通路にフリークスが入ってきたら

ここが二人の墓場となるだろう。

シヨウは一瞬考えて中腰で進みだした。

「えっちょっと、行くの?」

「ここに入って来られたらもっと危ない。外で待ち伏せられているのだとわかっているだけまし」

「でも」

「決断が早いほうがのちに時間的余裕が得られる」

「・・・・・・」

「かご」

意外な速さでかごがシヨウの手に乗る。

受け取るなり逆さまにする。赤い実をその場へ全て捨てる。

「行くよ」

中腰で外へ走り出し、出口直前に篭を外へ投げた。

一拍置いて二人は一気に外へ出る。

緊張が走る。

合わせている背中が少し触れる。熱と上下する体の動きが伝わる。

自分の鼓動に飲まれないよう擦れる葉音一つにも神経を研ぎ澄ます。

鳥の声。流れる雲。踏みしめる草。石ころ。

剣の柄。

しかしいつまで立っても何も来ない。

何も起きなかった。


街の方角へ急いで向かう2人を、

一部始終見ていた獣の眼はもう別の方を向いている。

穴に一目散に駆けていった。


緊張と山の道ではない道を歩いたせいでいつもより疲労した。

そのうち開けた空間に出た。赤い絨毯になっていた。

「うわぁ仏葬花がいっぱい生えてる。こんなところがあったなんて知らなかった」

血を染めたような赤い花びら、葉の葉脈は真っ直ぐだ。

土の下では根で繋がっている。

シヨウは構わず花を踏んで進んだ。

ジイドは花畑の手前で止まったままだ。

「この花って・・・。あの、危なくない?」

シヨウは面倒くさそうに振り返るだけ。

「ここって村の墓場じゃないよね?」

「獣の死体くらいはあると思いますよ。嫌なら回ればいい」

花の群生地を避ければちょっとした遠回りだ。ほんの少しだけ。

「人間の死体は無いってことで、良いのかな。・・・よし、傷は特になし」

自分の掌、肌が出ている部分を確認、

おそるおそる花畑に足を踏み入れるジイドの姿が少しおかしかった。

「危ないよ。傷なんかあったら、それこそ傷どころじゃなくなるよ」

「切り傷くらいじゃこの花は襲わないでしょう。もっと出血しないと」

構わず歩く。

「それにしてもこんなところがあるなんて」

ジイドは足早だ。

「普通、村の近くにこんなに仏葬花が咲いている所なんてないよな」

もうシヨウに追い付いている。

「というよりこの現代に」

「この街はまだ仏葬花の風習が残っているのかな」

「あれ、でもどっかで墓場は見たような」

「ここで豆知識! どっかの国では歓迎用の首飾りにしてるんだよ」

「自生かなー。自生するっけ?」

「物騒、仏葬、正式な名前は・・・エメレーカ?」

「今時の人達は仏葬花の恐さを見たことあるのかなー」

「人を喰う植物なんて、フリークスよりもよっぽど怖いし」

「なぜ?」

シヨウが立ち止って聞き返した。

「それが生きるための行動だから。あ、ちょっと違うな。意思がないから怖い、かな」

一拍も開かず答えが来る。

「人間の心のほうが怖いと思うけど」

「そう? ある程度予想出来る場合があるし、自分だって同じ器官を持っていると考えればそんなに怖くないと思うよ」

「つまり、何を考えているかわからないから怖い?」

「うーん・・・わかりやすく言えば、そうかな」

「花なんて何も考えていないでしょう」

「何も考えていない、はちょっと違う。どの生き物も少なからず思考してるよ。それが・・・人間の頭脳ほど高等じゃないってだけで」


街道に出た。街を見下ろす橋。

この街は地形的に行き止まりなので、誰もがこの橋を渡って街へ入る。

雲が街へ影を落とす。

遠くの山々もくっきりと見える。その風景をシヨウは見ていた。

「それで、何かわかりましたか?」

ジイドは目を逸らす。目は髪に隠れてよく見えない。

「うーんどうだろう、特に何も。ごめんね~なんか大変な目に遭わせちゃって」

「いいえ。大丈夫ですよ」

頭をゆっくり振って一応安心させておく。

訊いても本当のところは答えてくれないだろう。

「あ! 篭と実! どうしよう! 戻ってとってくるよ。もう大丈夫だろうし」

「今日はもう疲れたのでいいですよ、エリーもわかってくれます。それと・・・フリークスにはあまり首を突っ込まないほうがいいですよ」



エリーの店へ戻る途中、何か食べたいというジイドの誘いで

店が連なっている区域を通った。

昔ながらの店頭での売買や屋台もある。

エリーへのおみやげをいくつか買っておく。

「あら、あそこ。また・・・なんだろうねえ」

近くを通る人達がちらちら振り向いて囁き合っている。

その方向を見ると二軒先の店の前に、人の囲いが出来ていた。

「あの女の子二人、ここらじゃ有名な仲良しなんだけどね」

凄みのある声で、顔まで近づけて言うものだから一歩退いた。

知らない小太りの女が説明している。

彼女の近くには誰もいないので自分に説明して

くれているのだろうと、シヨウは顔をそちらへ向けた。

説明を聞くと、わざとだ、わざとじゃない、の問答だった。

そこに「わざとだ」という確固たる自信を持って言い張る、

第三者が出てきたものだからにわかに盛り上がる。

いや、盛り下がった。

群集のどこからか声がした。

「ああ、ノス・フォールンか」

誰も納得がないが解決へと方向が向いたところで、

シヨウの関心も薄れたその時だった。

「あれってやばいね・・・」

目だけで横のジイドを見た。

「こういうことは他人が口を挟むことじゃないと思うけど・・・あ、すみません」

シヨウが何か言う前に、ジイドは人を掻き分け、

騒ぎの中心に行ってしまった。

彼女のいる位置から会話はよく聞こえないが、

ジイドが栗毛の男に何かを言い、

そのまま二人は輪から外れてしまった。

でも栗毛の男は納得していない顔。

シヨウはその二人の後を追った。



畑が並んだ農道。民家は遠く何軒か見えるだけだ。

この間知り合った、とまではいかないが、

顔だけは知ってる人なので彼は言われるままついて行った。

「え、えーと君ねえ、ああいう事に首つっこまないようにしたほうがいいよ?」

何かと思えば、彼には説教にしか聞こえなかった。

「はー? いいじゃん、本当のこと言っただけだし。俺たちじゃなきゃわかんなかっただろ」

「そういうことじゃなくってね・・・」

この人は何か難しい方向に考えているらしい。

社会人になって沢山の人間の輪に入るって面倒くさいな、

とつくづく彼は思った。

そう思っていたら、前方に見慣れた、否、

見たくもない人影が見えて、不覚にも彼は固まってしまった。

あの女だ。

彼女は持っていた荷物を道端に投げ捨てた。

黄色い果物が土手を転がる。

その眼は一点を、自分だけを見ていた。

たとえ女でも逆の意味での熱い視線はごめんだった。

あんた、わかってるよね?と無言で迫ってくる。

「す、すまんて、謝ってんじゃん! あんたもしつこいなぁ!」

突然把握できたのか軽い声が飛んできた。

「あっそうか。君があの花壇をやっちゃったんだ」

「だから言ってるだろ! フリークスが追ってきて! 逃げたところがたまたま花壇だっただけだって!ほんとに死ぬかと思ったんだぜ!」

「フリークスに追われるなんて、あんたが悪い」

女は腰の剣の柄に手をかけ、抜いた。

「まあまあ穏便に。というかそ、それほんと!? そのフリークスってもしかして・・・ なんで??!」

剣は抜けていなかった。

目の前の緑の髪が柄の先を押していたからだ。

抜剣を阻止している手を凝視し、女も止まっていた。

自分と女の間に挟まれる格好となっていて、

尚も自分の話を続けている。

「えーとシヨウさん? この人、悪気は無かったみたいだし、許してあげれば?」

「そうだそうだ!」

2人一緒に斬ってやろうかと、

1秒くらい本気で考えた顔になったあと一呼吸。

彼女は剣を押さえる手にそっと触れた。

「あれっ」

目の前の男が宙に浮いていた。そのまま、背中から地面に落ちる。

何が起きたのか自分の脳はまだ処理中だし落ちた方も分析中だろう。

地面の物体のことをすっかり忘れたかのように、

女はこちらにやってくる。

普通の足取りで。

これはもう範疇を超えている。

逃げ出す体勢をしないといけないのに動けない。

姿勢さえとれない。

けれど地面に転がった男が意外にも早く復活し、

彼を庇うように立ちふさがった。

「ま、まぁまぁ・・・平和に・・・」

「あなたには関係ない」

「だからね、花ならまた植え直せばいいよ」

「あ! あれは! ・・・・・・・・・っあの花壇はねえ・・・!」

呼吸が苦しそうだ。次の言葉は紡がれず、

何かを出そうとするのと押さえるのに必死に見えた。

その何かはわかるようでわからない。

「もういい」

そう一言残して彼女は去った。

「あーあ、泣かした」

「えーっ 今のって俺のせい!?」

「どう考えてもあんたのせいだろ。俺知らねー」

考え込んでいる。わかりきったことの何を考えているだろう、

と冷めた横目で見ながら、既に別のことを考えていた。


あれは特に何か考えての行動ではなかった。

興味本位とすら言えない。

フリークスが住んでいるというので誰も近づかなくなった森に入った。

フリークスの噂は知っていたし撃退する術も持っていないし、

遭遇したらどうするのか、それすらも考えていなかった。

そして出会ったのだ。

異様な姿を目の前にして、しかし彼が思ったことは恐怖ではない。

可哀相だと、思ったのだ。

自分はノス・フォールンだと知っている。

でも人生でほとんど初めて意識した。

次の瞬間に襲われた。



(泣くな泣くな泣くな! こんな事くらいで泣くな! そもそも花壇なんてどうでもいいじゃない。花壇くらいで。馬鹿だ。馬鹿馬鹿馬鹿。くっそ、修行が足りない!)

薄暗い道を考えて歩いていた。

昼間でなくて良かった、自分は多分ものすごい顔をしている。

割と押さえられていないことが自覚できた。

裏庭に入った。今頃、店はエリーが一人で切り盛りしている。

シヨウも手伝わなければならなかった。

でも今はとてもじゃないが仕事を出来る状態ではない、

と思いながらも呼ばれれば店に出るだろう。

そして普段と変わらず勤務をするのだ。

そう思ったら冷静になってきた。

しかし彼女は最初から冷静だった。

固執しているものがあって、それを失って、傷付いている自分。

歳をとったものだ。

目の前の小さな花壇は荒れたままだった。放置している。

小さな空間を見つめていた。

猫が歩いている。敷地を横断している。

互いの存在を認めても逃げ出さない。

首輪はしていない。しゃがんで手を振ると近づいてきた。

手に擦り寄る。尻尾がぴんと立っている。雄だった。

「ごめんね。何も持っていないよ」

両手を広げてみせる。その手をしばし見た。

猫はふと何かに気づき行ってしまった。

相変わらず、動物は思うように生きている。

「シヨウ、生きてる・・・?」

緊張感の無い声がした。

ささやかな高さの生垣の外からジイドが見ている。

「何かご用ですか」

案外普通の口調で返すことができた。

「えーと、さっきはごめんね」

「あなたが謝ることじゃない。謝られてこの花壇が直るなら世話ないね・・・」

じゃなくて!

八つ当たりをした自分に嫌気が差す。

いつもあとから後悔する。だから後悔というのだが。

この不毛な考えをこういった場面でいつも思い出す。

「それと、これ」

野菜や柑橘の果物が入った袋。すっかり忘れていた。

「あ、ありがとう」

最近不覚が多すぎる。存在自体を忘れてしまう、

ということをしでかしたことは今までになかったのに。

「シヨウ、笑ったほうがかわいいのに、一人でいるときは鉄仮面だよ」

やはり斬っておけば良かったと思わざるを得なかった。


それからジイドは何度か店に来た。裏庭で話すときもあれば、

生垣ごしに数回のやりとりだけのときもあった。

花壇はすっかり片付けてしまった。

今は何もない。土が平らになっている。

「次は何植えるのー? 野菜とかいいよねー。家庭菜園。シヨウ、シヨウ、ミミズがいる。栄養が豊富な証拠だねえ凄いよ」

「野菜はいい考えかも。エリーもそれならやる気が出るんじゃないかな・・・」

「うっそ、エリーさんそこまで酷いの? ここ来たときから酷かった?」

「あ、それは違ったな。・・・多分だけど一人のときはきちんとやれるんだと思う」

「それじゃあシヨウが駄目にしてるんだ」

「おい笑うな。何、その理屈」



夕方からメニューに酒を出している。

下階から声が聞こえる。完全に日が暮れるまで人は酒を飲む。

シヨウは今日は非番だ。たまにこういう日がある。

部屋は物が少ない。ベッドが一番大きい。

今はそこに横たわっている。

「聞いてよ。あいつまた来るって。いつも言うのよ。冗談じゃない。同情でもされているのか?」

腰から抜いた剣と川の字になっていた。返事をする者はいない。

一瞬静かになる。下の階から流れてくる音楽が途切れた。

ロウソクが灯る店内。軽快な人の声の音楽が確かに止まっている。

シヨウは階段を下りた通路にいた。

左手の扉は裏庭へ出る。右手の扉がリビング兼台所。

今は店に改装したところになる。

扉の向こうから声がする。

「なんでこんな人間が大勢いるところにわざわざ来るのか理解不能」

扉の向こうの気配がこちらに近づいてくる。

シヨウは開け放った。ジイドの方へと開いた扉。

ドアノブへ延ばした手が空中で止まっていた。

通路をあける。目が合ったかはわからなかった。

前髪で隠れて見えない。

目の前の扉が閉まる。続いて、裏口の扉が静かに閉まる音。

外はもう夕方とはいえない暗さだ。

シヨウは店側の扉を開ける。

「何? どうしたの?」

「なんでもないの。ちょっと、ね」

エリーが言葉を選んで言う。

「ねえ、何?」

聞く人が聞けば、不敵な物言いに聞こえるように訊いた。

自分は少し笑っている、と自覚できる。

どう答えるか気になって、珍しく詰め寄ってみた。

「・・・なんでもねえよ」

「子供には関係ない」

「わからないから訊いています。彼が、ノス・フォールンだから?」

数人立っている。見ている。

座っている人も見ている。

見ていない人もいる。

隣と話している人もいる。

帰ろうとしている者もいる。

一体これはなんだろう。何に関係があるのだろう。

エリーを見た。

逸れると思った視線は、揺れながらシヨウのところで止まっている。

「ごめん、エリー。約束のあれ。今いい?」

「え?」

「この前約束した試作・・・、完成したんだっけ?」

「え、ええ」

エリーが動き出す。氷が入った棚を開ける。

「ノス・フォールンなんて、どうでもいいと思いますけどね」

フォーク入れから一本取り出す。

「どうでもいいなら相手にもしなければいいのに」

丸いケーキを受け取りシヨウは歩き出す。

扉を開け、階段の前に出る。

エリーが追いかけて言った。

「そういうことは皆わかってるの。だけど」後ろ手で扉を閉める。「誰だって見られたくないモノはあるから。すべての人間が、シヨウみたいな考えじゃないのよ」

「わかってる」


一万年前、遥か空の上から降り立ったという異星人がいた。

ノス・フォールン。

彼らはこの星の先住民と外見の違いがさほどなかったため、

瞬く間に溶け込んだ。

しかし、頭脳の構造は明確に違っていた。

一万年経っても顕れる彼らの頭脳の構造は、

この星に生まれた人間ならば誰もが知っている。

頭脳の表層で考えていることを読む能力。

心が読めるのだ。


ジイドは何も植わってない花壇の前にしゃがんでいる。

シヨウが扉を開けても何も反応しない。

それくらいどうってことはない距離だからだ。

こういうことに慣れないシヨウだった。

そもそも、人から相談されることが今までにあったか、

今考えただけでは、記憶にない。

緊張しているのがわかる。

元気付ける? 気持ち悪い。

その行為をしている自分に対する感想。

相談されたことがない。

だから他人には解決を決して与えられない。

(ええと違うな。この件は私はわからないし関係ない。関係ない話をするのか? 子供か・・・)

あれこれ考える。

この声は聞こえていない。やり方は簡単だ。

花壇を囲む辺に座る。ジイドとはタンジェントの位置。

ケーキを食べる。冷たくて美味しい。甘さ控えめ。

花壇以外の部分は荒れ放題だ。

「あ・・・ごめんね~」

笑った。

「なんか騒がせちゃったねえ」

いつもの顔。この表情。

口の中のスポンジを咀嚼しながらジイドの方を見てみる。

長い前髪。

飲み込む。

「その態度がむかつくと言ってる」

ジイドに変化があったかは見ていない。

傍らにケーキを乗せた皿を地面に置く。

こんなときでも冷静な自分に笑いたくなる。

一歩、二歩進み、ジイドの横に立つ。両手で彼の頭部を掴む。

ジイドは後退できずに土の上に完全に座ってしまった。

無理矢理こちらに向ける。

さすがに目が見える。見開かれた。

彼の口が何かを発する前に言った。

「言いたいことがあればはっきり言えばいい。全部を敵にしたっていいじゃない」

目線が外れる。

「ええ、それって、シヨウのことじゃ・・・」

「ごまかすな」

黄金の目が揺らぐ。

至近距離で睨む。逃がさない。

自分だったらこうでもされないと、嫌なことから逃げてしまう。

紫暗の目で見つめ返す。お互いに全然珍しくない色だ、と思う。

導き出した彼の答えは。

「でも・・・シヨウが味方なら心強いかも」

少し困った顔。消え入りそうな声だった。

「ふうん、そう」

手を離す。そしてさっきと同じ場所に座り直す。

なんだろう、拍子抜けしたのはわかる。

一体何を期待していたのか。

やはり慣れないことをするものではないという結論に達した。

「ねえ、ノス・フォールンの知り合いがいた?」

「いたよ」

「なんか、シヨウの隣ってへにょーってなる」

「は?」

「楽だってこと。脳で直接考える人の近くはやっぱり楽だな。情報量が少ないからか、やっぱり」



シヨウは赤い実を採りに来ていた。いつもの場所である。

採りに行かされるこっちの身にもなってほしいと思ったが、

泊まらせてご飯を食べさせてもらっている手前、何も言えない。

自生している赤い実はここ以外見たことはない。

エリーとの山散で偶然見付け、通っているというわけだ。

今日は風が強く、低く黒い雲が速く流れている。

嵐の前触れのようなわくわくにも似た、心が落ち着かなくなる天気。

このような天気がシヨウは実は好きだ。

独り言ひとつ言わずに採り終えた。

(こんなもので良いかな)

帰ろうと振り向いて止まった。

体の機能が一瞬だけ全停止したかもしれない。

全身が毛で覆われていて、四本足で立っていて

犬や狼の類に見えなくもない。

白い牙が剥き出しになって口からは舌と涎が垂れている。

フリークスがいた。

(いつの間に)

犬のような呻き声を出している。

地面を蹴ってシヨウへ向かってきた。

左に飛び退いた。

しかし右腕に爪が掠る。

シヨウは一声も発しない。

腰の剣ではなく近くに落ちていた太めの木の枝を見つけて手に取った。

構える前にフリークスが飛んできていた。

「!!!」

押し倒され前足が正確に肩の上に乗っている。

爪が食い込んでいる。

それよりもこのまま首に咬みつかれたら死ぬ。

涎が落ちてきている。自由な足でフリークスの腹を蹴り上げ、

転がり、立ち上がる。

近くに落ちていた赤い実ごと篭を投げつけ、

まだ持っていた木の枝で篭ごと力任せに殴った。

急所でなくていい。ひるんだ隙に走った。

すぐに剣を抜けるように姿勢を保ったまま。

そのまま街の手前の橋まで走りきれた。

「はぁはぁ、はぁーーーー」

橋の欄干に体を預ける。自分が出てきた森を見る。

追ってこない。動くものもなかった。

(あのフリークス、なんで襲って来た・・・? 前、来たときは二人だったから?)

心臓がまだ大きく動いている。走ったからではない。

掌は痺れている。握ってみる。まだうまく力が入らない。

「あーシヨウじゃん? おーい」

橋の下から声がした。下の道に栗毛色の髪が見えた。

呼吸を急いで整える。

もうどうでも良くなったわけではないが、

自分もフリークスに襲われた手前なんとなく、

この男を責める資格が無くなったような気がした。

さてどうしたものだろうと考えていると、

彼が下の道から登ってきた。

その身構えが緊張しているわけでも構えているわけでもなかった。

「ごめんなさい。考え事をしていただけ。ねぇ、あなた、フリークスに襲われて逃げたって言ってましたよね。それってどんなフリークスでした?」

「うわぉ。どうしたの? その乱れ様」

土の汚れや枯葉が全身にこびり付いている。

袖は爪で所々裂かれ、肩や二の腕からは流血していた。

もう乾いているが掌まで垂れている。

「どんなフリークスでした?」

笑顔で訊いた。

「さては、君も襲われたとか? 日頃の行いじゃない!? えーと、四本足で毛がむわぁって。よだれだらだらでガルルルル言ってこっち来た。俺必死こいて逃げたぜ? 庭のことはほんと悪かった。すまん」

「いいえ、私も大人げなかったです」

手を振り動かし、もう気にしていませんと見えるようにする。

でも過剰にならないように。逆効果になってしまう。



朝、街の男達は森の前に集まっていた。

辺りはいつもと変わらない。鳥のさえずりが聴こえる。

その男達を遠目で見る家族と思われる女や子供。

それに混じってシヨウもそこにいた。

詳しい作戦はもちろんわからない。

でも森の中でフリークスを追い詰めることはできないだろう。

きっと見付けることも叶わない。

別の場所に追い詰めるに違いない。

そんな物々しい空気の中に見知った顔があった。

あちらも気が付き、やはり笑顔になって近づいてくる。

「おはよう」

「おはようじゃない、なぜあなたがあの中にいるわけ」

「うーん、まあ色々あって」

その色々を教えろと言う前にジイドが続ける。

「フリークスに襲われたって聞いたんだけど大丈夫? なんかすごい恰好だったらしいけど」

シヨウは首を傾げる。

見た目にはわからないが服の下は包帯を巻いている。

「森に一人で入るのは危険だって言ったのにどうして。あ、まさか赤い実を取りに行ったの?」

シヨウの無言に肯定を見出したようだ。

「大きな声で言いたいけど、赤い実はもうやめたほうがいい」

彼はもう笑っていない。

しかし地顔が柔らかい印象なのでなかなか真剣に見えない。

「遅れるとこしたー。ようお二人さんおはよう。すげー眠い」

到着するなり、隠しもせず栗毛は大きな欠伸をした。

腰に手をあて、立っているのも辛そうだ。

「二人共、行くの?」

「そーう。頼まれたら断れない、俺って結構優しいんだなあ」

「違う違う、おまけおまけ。念の為にってことだから」

「おまけってお前? 俺はこの街の者だし」

さして興味のないやりとりを聞き流し、シヨウは考える。

「おい召集かかってる。行こうぜ」

さっさと出発する栗毛の後に続き数歩、

けれどジイドは戻ってきた。

「あのさ、まさかとは思わないけど、というか失礼な言い方だな。でもあえて訊くけど。もしかしてフリークスが可哀相だと思ってる?」

一回、大きく瞬いた。

「可哀相? でも死ぬなら仕方ない。人間社会の近くに生まれてしまったのは、運が無かった」

そう、不運としか言いようがない。


森へ街へ人が去ってしまったあとも

シヨウはそこに留まり考えていた。

自分がしたいと思うこと。自分が出来ること。

全員納得の平和解決なんてない。

結果は酷いが自分は出来る限り頑張りました、

という感慨が持てるくらいの騒ぎなら起こすことはできる。

しかしここは人間の世界だ。記憶と記録と噂と人の輪。

それらが蠢いて奇跡のバランスを保っているのがここ。

シヨウはそこから抜ける能力も財産もない。

内面の熱い部分とは裏腹に、

出来れば静かに暮らしたいと思っている。

最終地点の目星はついているので見に行くことにした。


シヨウは森の出口にいた。この先に民家は無い。

ふいに草を掻き分ける音がして、人の歩く音が近づく。

「いたいた! シヨウ!」

「栗毛じゃない、どうしたの?」

「栗・・・た、助けてくれ! 俺じゃどうすることも出来ないんだ! 助けてくれ!」

「何かあったの? フリークスは?」

「だから! 俺が、・・・俺がフリークスに言ってたんだ、逃げろって。それを、ジイドが自分だって、庇って。あのバカ! 誰が庇えって言ったんだよ!」

「・・・・・・ふうん。で、私にどうして欲しいの?」

「だから、助けてくれよ!」

「全員を斬って欲しいの? 殺さないようにするのって難しいのよ」

「べ、別にそこまで言ってない! ちょっと強いからって、なんでそうやってすぐ斬るとか殺すばっかり言うんだよ! 頭おかしいんじゃねえの!」

割とそのままそうだと思ったので一片も表情を変えなかった。

「じゃあどうしたいの。止めるって助けるって、どうやって? 私みたいな小娘が何か言って、何か変わるの?」

彼は黙った。仇を取れないような表情。

そうしていたのは一瞬で、

シヨウを諦めたのかまた山へ行ってしまった。



わかっている。自分が何をしても結局何も変わらないことは。

たった少しの波紋は大きなうねりに飲み込まれ、すぐに消える。自分の存在のようだ。小事だ。フリークスだって、ただ生きているのではない。勝手に生まれたけど、誰かが殺していいというわけでもない。怖いのだ。死ぬのも人も。彼等はわかっている。それくらいわかる。それでいいではないか。

彼の前にフリークスは現れた。

距離は30メートルほどだろうか。一歩一歩慎重に近づく。

今までずっと話しかけてきた。

「お願いだ、俺は、お前を助けたい。俺が人間を説得する」



雷に打たれたかのように走り出した。

森のずっと上のほうで煙が上がっている。

でもそこに着く前に人が倒れているのを見付けてしまった。

血が広がる中心に彼は横たわっていた。

発見した自分は本当に運がない。

シヨウは近づいた。靴に血が付く。

彼も気が付いた。でも動けない。目線だけがシヨウを捉える。

「やっぱり俺の声、聞こえてなかった、っぽい」

もう助からない。剣を振るうにあたって人体の勉強はした。

「あいつのこと、頼む、わ」

「ごめんなさい。私の力ではきっと何も救えない」

笑おうとしたのだろう。でも途中で引き攣り、笑えなかった。

「ほん、っと、あんたって、冷たいのな」

失敗した。自分の性分を呪ってしまう。

ここは嘘でも何でも、止めると言うべき場面だった。

せめて言葉だけでも優しく送りたいのに。

治療の仕方を覚えていない。

剣の世界に入ってそれで死ぬのなら仕方ないと思っていたから。

それが今は悔やまれる。

死んでいく人間に、シヨウは何もしてやれない。

彼は静かに目を閉じた。

ずっと見ていた。

こういう場面は目を逸らしてはいけないと思っている。

涙で目の前が見えなくなるなんて愚かすぎる。

自分のしてきた結果から目を背ける行為だとさえ思っている。

息を吐く。ずっと止めていたような感覚だった。

立ち上がる。もうここに用は無い。

急いで下山した。途中で誰にも会わなかった。

山を出たところでジイドがいた。人が集まっている。

皆、バケツを持っている。畑の用水路から水を汲んでいた。

山の崖から一気に降りる。下は草と土。着地。

「シヨウ! 大丈夫?」

ジイドが気が付き駆け寄ってきたので訊いた。

「フリークスを見た?」

「火がどんどん広がってる! 早く消さないと・・・でもアレシュトルがどこかに行ったまま戻ってこないんだ。あいつ、完全に閉じてて全然見えなくて。どこかで見なかった?」

「栗毛が死んだ」

シヨウは彼の名を知らない。ジイドの目が見開かれる。

「何、それ。シヨウ、何があった?」

「あなたは、何のために今日、山に入ったの? フリークスを助けるためと言ったら大笑いするけど、どうして?」

「アレシュトルはどこにいる?」

さすがに有無を言わせない表情だったので、折れる。

「ここから真っ直ぐ、赤い実の近く」

ジイドは駆け出す。バケツを持った大人に声をかけている。

シヨウはそれをぼんやり眺めて、歩き出す。街のほうへ。



街の注意は山の火事に向けられていた。人の波とは反対へと歩く。

フリークス。それを排除しようとする人間達。どちらが善でどちらが悪か。同じ地に住んでしまった生き物。どちらがどうなってもどうでもいい。でもシヨウは、それなのに、どうしても気が治まらない。そんな争い事はやりたい人間がやればいい。でも、それに巻き込まれた人は? そうまでして排除する必要性がまったくわからない。くだらない。くだらない。何が面白い? 人間は本当にこの星に必要? なぜ、ここにいる? 破壊するだけ。何も生まない。生み出すのは毒だけ。自分たちの首を絞めるとわかっている行為をやめることができない。子孫に輝く未来をと言うけれどそれとは真逆の行為ばかり。やればやるほど逆効果なのは少し考えれば誰でも辿り着く帰結。それでもやめない。

(知っている。今日が良く終わればいい。自分が苦しまなければいい。自分のしていることは大きい星にとって小事。私もそう思う。所詮人間か・・・)

長い夢をみていたように目が覚める。目の前にフリークスがいる。

これは幻? この前の続き?

違う。

農道の真ん中。横の藪からフリークスは出て来た。

本当に、単なる偶然の遭遇だった。

「私の言葉が、わかる?」

ゆっくり話しかける。フリークスは逃げなかった。

「壊したければ壊せばいいじゃない。腹が空いて、我慢できないのでしょう? 人間が憎くてしょうがないのでしょう? そんなに生きたいのならどこへでも行ける。でもあなたはそれをしなかった」

シヨウは無手だ。畑の真ん中。砂利道。

辺りは、誰もいない。

「それなら行きなさい。納得のいくまで、やればいい。私は助けない、でも邪魔もしない」

諭しているのではない。

まったくの逆。

フリークスは痩せている。毛は汚く艶がない。

骨と皮。肋骨が鮮明に浮き上がっていた。

(どうやって狂うのだろう。人間への憎悪? 空腹、環境の変化、遺伝子・・・)

星の全ての生物が人間に戦いを挑むとどうなるだろう。

昆虫の数だけで人間の完敗か?

どちらの味方でないのは星だけ。

星は見ているだけ、生命を生むだけ。

人間が蝕んでいるのさえ気づかないよう。

フリークスは行ってしまった。シヨウも追いかける。

すぐに見失うがこの先は知っている。

そこに討伐隊もいるだろう。


広い場所に出た。元々は民家の敷地で、

崩れかけた煉瓦が更地を囲んでいる。

滅多に誰も近づかないのか草が好き勝手に生えている。

細い道が一本、向こうの木々の間に真っ直ぐに伸びていた。

背の低い木が所々生えており、

放っておけば数年後には森林になりそうだった。

シヨウはその場所が見渡せる高台の上にいた。

更地の真ん中に四つの車輪が付いた荷台。

赤い花が入っている。

待ち構えているのは顔は覚えていないが朝見た人間達だろう。

周辺の背の高い草の間にも隠れているに違いない。

どんな作戦かは彼女は知らない。

高台の塀に肘をつく。退屈な授業を聞くように、眺めるだけ。

下にいる人間達にもシヨウの姿は見えているだろう。

彼女のような、一般的に見た子供はただの足手まとい。

後ろから足音が近づいてくる。続いて、息。

勢いを殺すために塀にぶつかるように張り付いたのは緑の髪。

長い前髪を整えようともしない。

シヨウを一瞥。何かを言おうとして、

けれど言葉は出てこなかった。息が切れている。

「ジード、どうするの?」

彼は顔を上げ一瞬考えた顔をしたが答えた。

「どうするって、止めないと!」

「止めるって、人間を? フリークスを?」

「両方だよ!」

「そんなに甘くない!」ジイドに負けない勢いで返していた。

「皆が皆、この星で生きていけると、本気で思っているの?」

彼は多分心の底からわからないという顔をしている。

「なぜ?」微笑んだ。

「この星はノス・フォールンを受け入れた。星は全ての生き物に優しいよ」

金色の目が見据える。

「シヨウは考えない? 人と、星が、皆で生きようって。共存しようって」


動けなかった。


「両方? 共存?」

彼女には思いつかなかった考えであった。

これはなんだろう。怒りに多分一番近い。

「シヨウは人間が嫌い?」

「自分が良ければそれでいいって、失ってから大切だと気付くなんて、馬鹿みたい。取り戻せないものは本当にあるのに」

「でもそれが、人間てやつだと思うな」

そして空き地へと続く古びた煉瓦の階段を下りていった。

わからない。否、わかりたくなかった。

こんなことを言う人間がいるなんて、認めたくなかった。

ずっと一人で生きてきた。故郷を出て来た。

それから剣の修行ばかりしていた。

それは充実していたけれど、自分の中で完結してしまうもの。

常に自分一人の世界。意外が無い世界。

(だから他人が存在するのか?)

階段を下りた。

煉瓦は割れて段を崩している。それを飛び越える。

ジイドは状況を確認していたが

下りてきたシヨウの姿を見て微笑んだ。

「うわ、手伝ってくれるの?」

「言っておくけど、人は助けない」

「じゃあフリークスを止めてくれる? 傷付けないように、なるべく。説得は俺がする」

「話が通じるの?」

「わからない。でもやってみる」

更地の端で待つ。

「来る」

ジイドは目を閉じる。視覚からの情報を遮断する。

「上だ」

さきほど二人がいた煉瓦の道からフリークスが降ってきた。


人間は目の前のりんごを「りんご」と言う。

動物に「りんご」という言葉は無い。

他国でも「りんご」という単語が存在しない国がある。

しかしどのような言語を用いて言っているとしても、

この目の前の果物のことを指して言っているのならば

ノス・フォールンは解るのだ。



シヨウとジイドのいる5メートルは向こうに下りた。

その圧倒的な殺意は、決意は、誰も止められない。

荷台へとまっすぐ走って行く。

(これが人間に復讐するという行為ならば、それは、感情の証明になるのだろうか)

「面白そう。私も仲間に入りたいな」

「シヨウ」

ジイドが素早くたしなめた。

「あ、邪魔はしないって約束しちゃったんだ」

多少困った顔を表面化させる。「じゃあ無理か」

「いいよ、ここにいて」

ジイドは行ってしまった。

「私を、知らないなあ」

シヨウは小走りで向かう。

まずは金髪の太った男の前。

次は黒髪の男。そして痩せた男。

次々と近づいては何もせず、次の人間の元へ行く。

まるで散歩。

近所の人間に声でもかけるように。

ステップのように足取りは軽やか。

無邪気な笑み。

動きを髪が追尾。続いて腰の帯。

際立つ2本の剣。

「お前・・・」

最初は視界に入れただけの大人達も次第に苛立つ。

フリークスにかかろうとする人間の行く手に先回りしている。

結束は解かれフリークスとの距離は遠い。

矢が飛んでくる。一本目はフリークスの足元。二本目も逸れる。

三本目。鞘のままの剣で弾く。

飛んでくる方向と的がわかれば容易かった。

「お前! そこをどけ! 危ないぞ」

「あっちに訊いてよ」

目でジイドを指した。

彼はここの指揮をしている人物と対峙している。

「待ってください。ここを出ていくように言いますから」

「だめだ。またここに戻ってくるという可能性がある。それでは何の解決にもならない」

「でも、彼は何も悪くない。あなた方も・・・」

「フリークスの肩を持つ気か?」

「そういうわけじゃ・・・」

彼だって理解してもらおうと最初から思っていないはず。

(無駄でしょう)

シヨウは自分が笑っていることを自覚していない。

獣の声。悲鳴に近かった。

振り返るとさっきよりも人数が増えていた。

隠れていた人間だろう。

フリークスの姿が見えない。近くの草の間に動くもの。

体が少し見えた。毛が血の色に染まっている。

人間が一斉に動く。

「待ってください!」

両腕を広げて、ジイドは人とフリークスの間に立った。

「お願いします。話を・・・させてください」

「本当に話が通じると思っているのか?」

「こいつの所為で怯えて暮らしているのだ。ノス・フォールンの考えることはわからない。本当にわからない。どうしてそう思えるのだ?」

「それは・・・」

シヨウは腹が立っていた。

(どうしてこう・・・こいつは)

人間達を見る。

(無駄だと言っているのに)

「あ」

声を出したのはシヨウ。気を取られすぎていた。

一瞬ではあったがフリークスから目を離した。

次に視線を戻したときに、フリークスはその位置にはいなかった。

フリークスは人間の元へ走っている。

その人間は気付いていない。気付いた。

でももう遅い。

かわしきれない距離、そして両者にとって必殺の距離。

でもそこに既に追い付いている影があった。

緑の髪が動きをトレース。重力に乗っ取って元に戻る。

ジイドがフリークスの牙に向かって腕を差し出すのを、

シヨウにはわざとに見えた。

一人と一匹は地面に跪く。弱っているとはいえ、

獣の口に挟まれた腕は無事では済まない。

フリークスは後退の態勢をとる。

しかし、猿ぐつわとなった腕を離せない。

「よ、よし、そのまま、少しの辛抱だ! 待ってろ、今・・・」

武器を構えた男の前に、刃の光の反射が下りてくる。

シヨウが長剣を向けていた。

「そもそも、赤い実を根こそぎ持っていったのが原因でしょう?」

手に力を入れる。

「本当に、自業自得」

真っ直ぐに。

「シヨウ」

人間へと。

「こういう目に遭わなければ、人は何もしない。何も気付かない」

前へ進む。

「シヨウだめだ」

無視。

「気付いても何もしない。今日を生きて明日も生きて、ただ害なだけ」

「でも、こういうことをしてもいいとは違う!」

ジイドを睨む。

「あなたには聴こえないの? この星の声が! 悲鳴が!」

「でも、シヨウが手を下すことじゃない」

目を見て彼が言った。

剣を握る手が緩む。こんなときなのにいつもの表情だった。

「それに、俺には聞こえないよ。そこまで力が強かったら、こんな歳まで生きてない」

挟まれていない腕でそっとフリークスを撫でる。

頭と頭を近づける。


音。車輪が土の地面を動く音。

更地の真ん中、人が今でも通っている道。

車輪は三つ。木で出来た小さな荷台が、その道を走っている。

荷台が跳ねる度、赤い花が跳ねる。

次第に速度を増す。更地の向こうの林に向かって走る。

誰も動かない。

「う、わ」

ジイドが尻餅をつく。

シヨウが駆け寄る。フリークスが走る。

荷台は林の向こうに消える。

フリークスが飛んだ、ように見えた。

赤い花。底から赤い実。

羽根のように飛ぶ。フリークスも跳ぶ。

全部、林の向こうに消えた。

林の向こうには何も無かった。

全部、谷の底に消えた。



シヨウの持ち物は非常に少ない。

片手に鞄。エリーの店の契約は終わった。

晴れた午後。雲が多く、速く動いている。

細い道を歩いていた。その先は谷。古びた滑車。濡れた桶。

地面の端まで歩く。柵はない。鞄を置き、両手で花を持つ。

掲げた花は放るまでもなく、風で飛んでしまう。谷へ、谷へ。

花の赤い軌跡を見ていた。

一緒に飛んでいくフリークスの姿が何度目かの再生。

「シヨウ」

呼ばれて振り返る。輪にした布を首に通し、

それに腕を引っ掛けているジイドの姿を捉えて、彼女は目を細めた。

沈黙。

「なんというか、色々本当に酷かった」

ジイドが言う。本当に正直すぎる。

「けれどありがとうと言うべきなのかも」

「どういたしまして」

お礼を言われる場面が思い出せないがシヨウは応えた。

鞄を肩にかけて歩き出す。

「栗毛・・・、アレシュトル、なんとか一命を取り留めたって」

「本当?」歩みが止まる。「そっか、良かった・・・」

「シヨウ・・・あれはいけない・・・」ジイドは俯く。「人に、剣を向けるなんて」

自明に応えるまでもなかった。

「いつもあんなことをしているのか?」

シヨウのいつもの沈黙を見て、

彼の中で何かが決まったようだった。

「止める」

「は?」

「止めるよ、君を」

「何言っているの」

意味がわからない。

これだからノス・フォールンは・・・と思いかけた。だけど。

長い前髪、決意の目。

シヨウにはなぜかその色が落ち着かない。

その目が真っ直ぐ、見ている。

「ふーん、じゃあ止められるものなら止めてみれば?」

「え?」

シヨウは足早に歩く。

「ちょっと待って、今なんて・・・」

更に速度を増した。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ