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それは恋ではありません!

好きな男の子に「好きな人が出来た」と言われて焦る女の子のありがちな話。

 菱川小春15歳。高校生になって3ヶ月。ここ数年の7月はもう真夏と言って差し支えない暑さで、小春の高校でも6月から自己判断で夏服を着て良い事になっていた。

 クラスでは遅い方だったが小春も今日から夏服に変え、夏の風の一部となって軽やかに早朝の登校路を駆ける。

 何故早朝から走るのか。それは早くこの夏服を見て欲しいからだ。

 誰に?

 小春の視線の先には少年の後ろ姿。

 アイツだ!

「カああぁズうううううぅー!」

 小春が叫んだ。

 少年が振り返る。

 短く整えられて清潔感溢れる頭髪、半袖のワイシャツから伸びる細く見えるが最近逞しくなった気がする腕、スラリと引き締まった足、そして地味に見えるけれど――決してアイドルみたいな美形ではないけれど――小春が「私だけはその良さに気づいている」と思っている顔。振り向いて小春を見て微笑んだ。立ち止まって小春が追いつくのを待ってくれている。その優しさと、自分のためなら立ち止まってくれるのだと言う承認欲求が満たされて小春は思わず抱きつきそうになるが、なんとか踏みとどまった。

「おはよう」

 少年、夏川花純かずみが落ち着いた声で挨拶をした。

「へヘヘッ」

 花純が余りにも落ち着いているので、小春は近くに民家が無いとはいえ朝から大きな声を出したのと、必死に走ってきた事が急に恥ずかしくなり、ちゃんと挨拶を返せずに変な照れ笑いをしてしまった。

 小春が息を整えるのを待ってから、二人は並んで歩き出した。

 二人は小学校からの幼なじみで、別に付き合っているわけではない。が、小春はいつからか花純の事が好きになっていた。仲は良いが花純がどう思っているのかはわからない。

 花純の両親が朝早く出勤するので、花純も同じ時間に家を出る。小春は一緒に行きたいので頑張って早起きしている。

 まだ人通りの少ない時間、朝露の名残を感じる静かな空気の中を二人並んで歩き、同じ教室に行き、クラスメイトが登校してくるまでの時間が、高校に入ってからの小春の一番大切な時間となっていた。

 家族の話、友達の話、テレビやネットの話、毎日色んな他愛もない話をして来たが、この日は小春にとっては苦しい戦いの始まりの日となった。

 神社の横を通りかかった時に発した、

「今日も熱くなりそうだよねー」

 何気ない小春の一言は、夏服に変えた事に気づかせようというプランだった。

 本当は第一声で「夏服にしたんだ、可愛いじゃん」と言って欲しかったが「可愛いじゃん」などと恋人でもないのに軽々しく言う花純ではない事は知っている。そもそも夏服に変えた事に気づいてもいないのではないか、興味が無いのではないかと心配になったので、話題を夏服方面へ誘導したのだ。

 だが、花純の反応は予想とはまるで違った。

「俺、好きな人出来たかも」

「はぁ!?」

 恐れていた事態が突然やって来た。

 小春は自他ともに認めるチンチクリンなので、格好良くなっていく花純とはいつか釣り合わなくなるとは思っていた。だがこんなに早くその日が来るとは!

 だが小春は諦めない。まだ「好きな人……それは小春、お前の事だよ」というルートが消えたわけではない。花純がチンチクリン好きな可能性はゼロでは無い。

 話の切り出し方からして自分の事ではないと思いながらも小春は、

「へ、へえー。ついにカズにもそういうアレがアレなんだ……」

好きな人が出来た、という世にも恐ろしいワードを口に出したくなくて自然とアレアレ言ってしまう。

 だが、恐ろしいながらも、小春は一歩踏み込んでいく。踏み込まないわけにはいかない。

「……誰?」

 自分であれ……!

 奇跡よ起これ……!

 平静を装いながら、小春の胸中は死を覚悟しながらも前に進む勇者であった。頑張れ! 死ぬな小春!

「……バドミントン部の太田先輩」

 終わった……小春では無かった。

 わかっていた。そもそも花純がチンチクリン好きだったなら、もっと二人の仲も進展していたはずだ。

 「ただの友達」という分厚く重厚な壁の前でチビがぴょんぴょん飛び跳ねていただけなのはわかっていたのだ。

 泣きそうになるのを堪え、太田先輩を思い出す。バドミントン部の太田先輩……ああ、美人でスタイルの良い髪の長い女だ。チンチクリンでショートボブの自分とは正反対だ。太田先輩がボインのうっふんエルフなら自分はボブゴブリンだ。

 たとえゴブリンであっても、ここで泣いて花純を困らせたりはしない! 小春は全身を矢で撃たれたようなダメージをほんの少ししか見せずに、まだ踏み込む。このゴブリンはまだ生きているのだ。

「カズ、バドミントン部じゃないのに、どういう経緯なの?」

 笑顔のまま小春は聞いた。本当は聞きたくないが、聞かずに終われない。何かの間違いの可能性もある。

「……昨日たまたまバドミントン部やってる横を通りかかった時に、俺のすぐ横で太田先輩が上のジャージを脱いだんだよ」

「……ほう」

 ん?

「そしたら白いシャツの胸の所が盛り上がってて」

「……うん」

「真ん中が少し凹んでたんだよ」

「……おう」

 綺麗な目で遠い空を見上げて、花純が物憂げに言った。

「その光景が、ずっと頭から離れないんだ。これが恋……」

 

「それは恋ではありません!」

 

 花純の言葉を遮って小春は叫んだ。

 勝機だ! ゴブリンは全身の矢を毟るように抜き取り、瞳に灯火を宿らせて花純をその双眸に捉えた。

「……え?」

 花純は狼狽えている。小春はこのチャンスを見逃さずにたたみかける。

「カズ――いや夏川花純……」

「は、はい」

「それは恋ではありません」

 もう一度、今度は静かに言った。

 思わず足を止めた花純の正面に立ち、小春は続ける。

「それはすりこみ……初めて近くで見た乳房山脈と渓谷に感動しただけの事、それは恋ではありません」

「な、なぜ3回も……」

「大事な事だからです!」

「なぜ敬語……」

 小春は腰に手を当てて目を閉じ、眉間に皺を寄せて、諭すように語りかける。

「良いか夏川、よく考えろ。目を閉じろ。太田先輩の顔だけ思い出せ。顔だけだぞ。絶対に山を思い出すな」

 何かのコーチの様に、小春が花純に厳しめに言う。

 花純は言われたとおりに目を閉じる。想像する。

「……だめです、山がセットでついてきます」

「馬鹿者!」

「ウッ!」

 小春は即座に軽い平手打ちをした。

 チンチクリンが手加減した平手打ちはノーダメージだが、花純は頬を抑えてよろめいた。

「もう一度だ、太田先輩の顔を思い浮かべろ。顔面だけだぞ」

「はい……顔面だけ……」

 さっきよりも集中して目を閉じる。

 花純の脳裏に太田先輩の顔面だけが想起された。頭髪すら無い状態で。

「どうだ思い浮かべたか?」

「はい」

「ドキドキするか?」

 花純の脳内で、太田先輩の顔面だけが虚空に浮いている。不気味だ。

「いえ、しません」

「そうだろう。お前が恋だと思っているのは山への憧れ。それはどの山でも良いんだ。恋などでは無い」

 小春は内心苦しい説だと思いながらも、確信に満ちた態度で「ドンマイ」と花純の肩を叩いた。

「し、しかし……」

 だが花純も初めて認識した感情に「恋」という名を与える事にある種の陶酔を感じていたため、簡単には引き下がれない。

「くっ、しぶとい……カズ、こっち来て」

 二人はちょうど神社の鳥居の前まで来ていた。小春は花純の腕を引いて境内へ入っていく。

 樹齢の長そうな大木の間に花純を連れてきて、向かい合う。

「なになに?」

 少し怯えた花純をよそに、小春はキョロキョロと辺りを見回す。誰もいないし周囲からも見えない事を確認して、背負っていた鞄を地面においた。

「どうしたの?」

 花純が心配そうに小春に歩み寄ろうとした時、小春は夏服のリボンを取った。

「こは……」

「証明する!」

 そう言ってボタンをいくつか外して、勢い良くスポーンと頭から夏服を脱いでインナー姿を晒す小春。早脱ぎ。龍が如くが如く。

「目を覚まして! カズは、山が好きなだけなんだよ……!」

 勢いでやってしまったが、やはり恥ずかしい。小春は固く目をつぶった。

「や……ま……?」

 花純は小春の胸元を注視したが、山や渓谷どころか丘も見当たらない。

 そんな事は小春も知っている。だが小春は信じたのだ――奇跡を。

 今この瞬間だけ奇跡が起きて自らの平原に山脈と渓谷が生じる事を信じたのだ。それは余りにも儚い願いであったが、この場所なら神様が力を貸してくれるかも知れない、そんな小さな奇跡に全てを賭けた。

 恐ろしい現実を直視出来ないので目を閉じて居るが、この瞬間、世界の誰よりも彼女は奇跡を願った。

 花純は至近距離でしばらくそれを見つめていたが、やがて小春の足元の夏服を拾い、服についた落ち葉を払ってから小春の首の下辺りにそっと触れさせ、何も言わずに小春の肩を掴んで後ろを向かせ、自分も後を向いた。

 小春は目を開けて制服を受け取り、いそいそと夏服を着ながら後を振り返り、顔を赤くしながら花純の背中に話しかける。

「……な?」

 何が「な?」なのかは花純にも小春にもわからないが、

「……うん」

 花純は頷いた。

 奇跡が起きたのだと小春は思った。今だけきっと山はあったのだ。死の平野に。

 境内から出て、学校へ向かって二人は歩き出した。

 ふと優しい風が吹いて、花純は足を止めた。

「小春、夏服にしたんだ」

 小春が振り向いて嬉しそうに笑った。


 いつものように学校へ着いて、授業を受けながら花純はぼんやりと考えていた。

 虚空に浮かぶ小春の顔面。恥ずかしそうな、そして予防接種を受ける時のような、必死に目を瞑る小春。

『ドキドキするか?』

 小春の言葉が蘇る。

 胸に手を当てて考える。

 生じた感情に名前をつけようした瞬間、イメージの中の小春の顔面が全身像になって腰に手を当てて偉そうに言った。

『それは恋ではありません!』

 

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