第七部 北家起つ
三五歳で権力を握ってから一二年、冬嗣も四七歳を迎えた。
今でこそ働き盛りの年齢だが、当時は五〇歳を超えれば老人扱いされる時代であり、冬嗣も自分の後を考える年齢となった。
冬嗣には自分の地位の後継者となれる人が二人いた。二〇歳をまもなく迎える長男の長良(「ながら」と読んでいたとする説もある)と、長男より二歳下の次男の良房の二人である。
元服なら二人ともとっくに迎えていたが、冬嗣はなぜか、この年齢になってもこの二人に官職をつけていない。
冬嗣ほどの権力があれば自分の子にかなりの地位を用意することはできたが、それをしていないのは何かしらの理由があったはず。
そこで思い浮かべるのが、弘仁一二年に創立された「勧学院」である。
「大学」という教育機関はこの時代にも存在している。もっとも、名前こそ現在と同じだがその中身は大きく違っており、一〇歳から九年間の修学期間という決まりとなっていることから、現在の小学校高学年から、中学、高校ぐらいのレベルの教育であったと推測されている。
だが、これが次第に形骸化してきた。役割としては官僚養成のための学校であり、規律上、五位以上の貴族の子は入るのが義務、六位から八位の役人の子は希望すれば入学可能というものであったが、大学に子を通わせるのは教育に熱心な氏族か、親の位が高くないために出世の機会として子を入学させる家に限られるようになった。何しろ、有力者の子の場合は大学を出ることなくいきなり官職に就くことも可能であり、事実上、そちらのほうが出世レースでも有利だったのだから。
朝廷は何とかして大学に通わせようと躍起になっており、修業年限を九年から四年に短縮、入学可能年齢も一七歳まで猶予するといった対応をとるが、上級貴族になればなるほど大学から遠ざかるものになった。
長良と良房の兄弟が大学に通っていたかどうかについての記録はない。
規定の上では通っていなければならないが、どうやら、兄弟そろって通っていなかったようなのである。
しかし、何の教育も施していないわけではない。
冬嗣は自分から鼻に掛けているわけではないが、身につけている教養はなかなか深いものがある。また、長良や良房の生涯を見てみると、こちらもまた父と同様に深い教養を持ち合わせていることが読み取れる。
つまり、何らかの形で教育に接しており、かつ、それを子供たちにも展開していたと思われる。
おそらく、かなりレベルの高い帝王教育を家庭内で施していたのであろう。
そして、長良と良房の兄弟が成人したあとで、その教育組織を拡張し、「勧学院」として設立したのではなかろうか。
二人を大学に通わせていなかったのは、大学が冬嗣の要求するレベルに達していなかったからではないかと思われる。大学の教育は官僚養成が目的であっても、事実上は下級官僚の養成になっており、藤原家にふさわしい教育ではないと判断したからではないか。
勧学院はその後藤原家の一族全体に開かれた高等教育機関として確立され、それに倣って他の氏族も同様の高等教育機関を設立する。そして、勧学院をはじめとする高等教育機関出身の者が朝廷内で勢力を握るようになった。
弘仁一三(八二二)年、冬嗣の子がついにデビューした。
年初恒例の人事発表。
父冬嗣の従二位昇格の四日後の一月一一日、長良が内舎人(天皇の身辺警護を務める)に就任した。ただし、それに対する特別なインパクトは残っていない。
二〇歳でのデビューは有力者の子のデビューとしては遅い。しかも、時期による増減はあるが内舎人は最大定員九〇名という職務。さらに、内舎人に任命されるのは四位か五位の貴族の子であり、二位にまで出世している冬嗣の子のデビューの場としてはかなり格が低い。
つまり、長良に対して冬嗣の子としての注目をする人はいたが、長良個人の出世レースのスタートとしてはほとんど注目されなかった。
これは、冬嗣の判断によるものであろう。
冬嗣は幸運と実力で現在の地位を掴んだのであり、家柄で手にしたわけではない。たまたま自らが側近を務める神野親王が天皇となり、ライバルである藤原仲成を死に追いやったかがために現在の地位と権力を手にし、現在まで維持できた。
しかし、自分の子は違う。
自分の子に特権を与えた場合の反発は無視できない。
自分が生きている間はいいが、もし自分が亡くなったら、自分に反発する貴族たちの中を生きていかなければならない。
自分は他の貴族を冷たく扱えるし、逆らう者は検非違使を使って追いやることも出来るが、それは自分個人だけの話であって子どもたちには該当しない。
その反発を抑える方法は一つ。
特権を使わないこと。
特権は、手放さないが使わず、子どもには逆にハンデを与えての出世レースのスタートをさせれば、追い抜かれたときの反発はあっても、恵まれたスタートであることの反発は生じさせようがない。
無論、冬嗣の子なのだから出世は他の人より早いであろう。だが、スタートが後ろならば、実際上はともかく、理論上は文句を言えない。
仮に文句を言ったとしても、
「長良より恵まれていた地位を活かさなかったのはそっちだ。」
と言われるだけである。
弘仁の飢饉が終わってつかの間の平穏が訪れたが、弘仁一三年は再び災害と不作に襲われる年となった。
特に七月の状況がひどかった。
六月以前の状況は、五月一三日、石見の飢饉に伴う施の実施の記録のみであるが、七月に入るととたんに記録が増えてくる。
七月二日、十日連続の日照りにより田畑の水が枯渇したため、引水の順番を貧しい者を優先させるように命じる。厳密に言えば既に存在していた規律の再確認であり、罰則のないまま無視されていた規律を、罰則付きの規律に変更したのが今回の措置。罰則の内容は伝わっていないが、おそらく罰金刑だろう。
七月八日、貧困に陥った皇族に資金援助を実施。
同日、山城国の飢饉に伴う施を実施。
同日、甲斐国(現在の山梨県)で発生した疫病の救済のための施を実施。
同日、五位以上の者の給与減額を指令。
ただ、全国的な災害ではなく、どうやら局所限定の災害と不作であったようである。
例年であれば実施されていた免税もこの年は行われていない。
感覚としては、辛いことは辛いが、最悪ではないというところか。
それに、この年は前から待ち望んでいた希望があった。それはずっと楽しみに待たれており、それが民衆の不満を大いに和らげていた。
弘仁一三年の冬至は一一月一日。
この時代、冬至が一日と重なる「朔旦冬至」は新しい時代の始まる区切りと言われ、その日が近づくに連れて日本全体が祝賀ムードに包まれた。
今で言うと、クリスマスと正月を一〇年分まとめて開催するようなところか。
国全体が祝賀ムードとなり、民衆はこの日に向け服を新調し、奮発してごちそうを買い、当日は仕事もせず、神社や寺院に参詣して各々が祝日に興じた。
普段の辛い生活もこの日ばかりは忘れ去られ、この一日を楽しんだ。
この祝賀ムードは宮中も例外ではなく、嵯峨天皇は祝賀行事を開催している。
嵯峨天皇はその場で、祝賀のためと、徳を積んで天恵を得るために、大規模な恩赦を実行。殺人や強盗傷害、偽金鋳造などの重犯罪者を除く罪人が釈放された。
また、数多くの役人や貴族に出世した新しい位が与えられ、宮中に勤務する役人には祝賀のプレゼントが配られた。そのプレゼントの中身はわかっていない。
この祝賀ムードは日が変わっても続き、例年のような苦しい年末とは正反対の空気が漂った。
そしてそれが奇妙な結果をもたらす。
景気が良くなったのである。
確かに不作のピークは過ぎ、ひと頃よりは生活が楽になっている。だが、それでも楽な暮らしとは言えない。
それなのに、景気は良くなった。
これは不景気というものが、数字ではなく感覚によるものだからとしか説明できない。
どんなに数字を挙げて今の景気は悪くないと説明しても、感覚として景気が悪ければ不景気である。
だが、祝賀ムードがその雰囲気を一掃した。
なけなしのカネではあっても、そのカネをはたいて服を新調し、ごちそうを買ったことで、消費が増え、景気の向上をもたらした。
オリンピックやワールドカップといったイベントを開催しようとするのも、要はそうした経済効果を見込んでである。その上、現在のこうしたイベントは建設業の失業改善をもたらすというプラス効果もある。
歴史上、オリンピックやワールドカップの開催に経済的理由で反対する人はいつの時代にもどの場所にもいたが、開催したせいで景気が悪化したという前例は一つもない。
この祝賀ムードは所詮一時的なものであり、永続するものではない。
こうした感覚を、祭り気分の反動とか、祭りの後の静けさとか言うが、要は熱が冷めて現実に舞い戻ったということである。
現実に戻ると貧困は続いていた。
景気は良くなったが、職が無いという現実も、カネが無いという現実も残っていた。
年が変わって弘仁一四(八二三)年二月一日、京都市中の貧困者に対する銭の支給が行われた。
二月、九州を中心とする西日本で疫病が流行。多数の死者が出た。
三月一六日、京都市中のコメの値段が高騰したため、穀倉院のコメを安値で販売した。
三月二二日、京都の飢饉が深刻になったため、コメの無償配給を実施した。
祝賀ムードは消え、また元の不景気感が戻ってきた。
ただ、一度体験した好況だけにその落差は大きかった。
嵯峨天皇は即位してから今まで、ただの一度も好景気を体験したことがなかった。
そして訪れた祭り。
そして訪れた現実。
即位してから初の好景気が終わり、再び現実が舞い戻ってきたとき、嵯峨天皇の精神は大きな落ち込みを見せた。
四月一〇日、嵯峨天皇が退位を示唆。
後継の天皇として、皇太弟でもある嵯峨天皇の弟の大伴親王を推挙。自身の不徳に対する天罰がこうした不作・飢饉・疫病・不況の原因であるとし、徳を積んだ者が天皇となればこうした問題は解決すると主張した。
冬嗣は、ここで嵯峨天皇が上皇となった場合、天皇一名上皇二名という体制となり、財政負担も重いものとなると反対。退位するのであれば豊作となった後とすべきと進言した。
これは冬嗣の失言だった。
即位から今まで一度も豊作を経験していないのが嵯峨天皇である。
それも一年や二年の話ではなく一〇年以上続いた話。
冬嗣が言った「退位するなら豊作になった後」という言葉。
そして、退位への反対意志。
これを嵯峨天皇は、自分が帝位にある限り不作は終わらないと言ったと捉えたのである。
以前からきしみだしていた嵯峨天皇と冬嗣の関係に、これで亀裂が生じた。
嵯峨天皇の帝位とは言え、これまでずっと実権を握ってきたのは冬嗣であり、嵯峨天皇が主導権を握ったことはなかった。
確かに信頼はしていた。強烈なリーダーシップは他の誰よりも頼りになったし、何より、冬嗣がいたからこそ平城上皇との争いに勝つことも、今まで帝位にあることもできた。
だが、今まで一度も好景気を体験していない。
いつ頃から冬嗣の能力に疑問を感じるようになったかはわからないが、一度生じた疑問は消えることなく、嵯峨天皇の脳裏から離れなくなった。
今回の冬嗣の失言はそれが表面化するきっかけになった。
嵯峨天皇は帝位を降りると決意した。決意したことで、これまでくすぶっていた冬嗣への感情が爆発した。
今まで何があろうと冬嗣とだけは接してきた嵯峨天皇が冬嗣とも会わなくなり、一人で籠もるようになった。
これは冬嗣にもどうにもならなかった。
「長良、良房。」
「はい。」「はい。」
その日の夜、冬嗣は息子二人を呼び寄せた。
「もはや譲位は避けえぬ状況となった。主上が退位されるということは父の時代の終わるということだ。父は主上の退位にあわせて隠居する。」
「父上! それはなりませぬ!」
「長良、良房、二人はこれから自分の手で時代を切り開かねばならない。今は大伴親王に帝位に就いてもらうがその後を考えねばならない。」
「正良親王(嵯峨天皇の子)ですか?」
「ああ。まあ、大伴親王に子ができたときは考えねばならないが、今は正良親王を考えるのが本道だろう。」
「父上、いかがなさるおつもりで。」
「順子(冬嗣の長女)を嫁に出す。」
「順子は一四歳、正良親王より年上ではありませんか。」
「それは良房が言うようなことでは無かろう。潔姫は良房より四歳歳下ではないか。それに比べればたかが二歳差などとりたてるほどのこともあるまい。」
四月一六日、嵯峨天皇退位。大伴親王が淳和天皇として即位。
その際、大伴親王は頑なに天皇即位を辞退したが、嵯峨天皇は頑としてそれを認めず、冬嗣も取り合わなかった。
嵯峨前天皇と淳和天皇は兄と弟の関係にあるが、母が違う。
嵯峨前天皇は平城上皇とともに桓武天皇の皇后である藤原乙牟漏の子であるが、淳和天皇こと大伴親王は藤原旅子の子であり、嵯峨前天皇とは同い年である。
皇位継承レースからは外れているとみなされていたのか、平城上皇ほどの皇位継承に対する配慮もなされておらず、嵯峨前天皇ほどの帝王教育も受けないまま成長した。
このままでいけば皇族の一人に過ぎなかったはずであるが、奈良の反乱が全ての予定を狂わせた。
嵯峨天皇の弟として皇太弟となり、嵯峨天皇の政務を裏方として真面目に支えたことから評価が上り、嵯峨天皇は自分の後継者に自分の子ではなく大伴親王を選ぶきっかけとなった。
つまり、嵯峨天皇の後継者は大伴親王しかあり得なかったのである。
しかし、順でいけば嵯峨前天皇の子に帝位が遷るべきところ。それを考えた淳和天皇は、四月一八日、皇太子に嵯峨前天皇の皇子である正良親王を指名する。
しかし、嵯峨前天皇がこれを拒否。
冬嗣と袂を分かった嵯峨前天皇にとって、冬嗣と密接につながっている正良親王は皇位継承権から外さねばならない存在だった。
本来であればいかに前天皇と言え皇太子の任命に対する異議を唱えることは許されないはずであったが、嵯峨前天皇にとって正良親王は実の子。父親としての反対を持ち出すことで抵抗した。
同日、淳和天皇の命令により京都市内の病人に対する施を実施。
四月一九日、淳和天皇は再度正良親王の皇太子就任の要請をするが、嵯峨前天皇は頑迷に拒否。
四月二〇日、淳和天皇が嵯峨前天皇と直接会談に及び、正良親王の皇太子就任を再度要請するが議論は平行線をたどる。
この二日後、思わぬ方向から助け船が出された。
四月二二日、奈良の寺院に籠もっていた平城上皇が、平城京跡地に勤める官吏の京都帰京と、自身の太上天皇(=上皇)の位の返上を申し出る。
これが実現すれば、上皇二人制の解消が実現し、財政負担も軽くなる。
この時点ではまだ嵯峨前天皇は上皇となっておらず、天皇の地位を辞した一皇族になっている。そして、嵯峨前天皇が上皇となれば、父としてではなく政務に関連する公人となり、正良親王の皇太子即位に対する拒否権は発動できなくなる。
平城上皇の申し入れは冬嗣によって半分受け入れられ、もう半分は却下された。官吏の帰京は認めるが、上皇位の返上は拒否されたのである。
そのかわり、四月二三日、嵯峨上皇に正式に太上天皇位を奉ることが決まった。例を見ない上皇二名体制の確立であるが、平城上皇の国政関与はほとんど見られないため、この時点では混乱とならなかった。ただし、この段階ではまだ尊号を贈ったに過ぎず、正式な上皇就任とはなっていない。
四月二四日、嵯峨前天皇、太上天皇就任を拒否。単なる「前天皇」に留まりたいとの意志を示す。
四月二五日、淳和天皇が嵯峨前天皇に再度太上天皇位を奉る。嵯峨前天皇は再度拒否するが、その返信の受け取りを冬嗣が拒否。
結果、嵯峨前天皇は拒否の宣言をしなかったと扱われ、これにより、嵯峨上皇が正式に誕生。同時に、正良親王の皇太子就任に対する拒否権が止められ、正良親王の皇太子就任が決まった。
その騒動の中、一時代を築いた武人が亡くなる。四月二六日、文屋綿麻呂死去。この日は一日中喪に服すこととなり、帝位就任に関する一切が停止された。
四月二七日、淳和天皇正式に即位。
即位祝いとして、京都市内と五畿に住む障害者、母子家庭、孤児、高齢者に施を実施。また、出挙の未納分の支払いを免除。貴族・役人の位をそれぞれ昇格させる。これにより、冬嗣は正二位に昇格する。
四月二八日、太古から続く名門家系である「大伴」家が家名を「伴」家に改めた。淳和天皇こと大伴親王の名と重なることを畏れ多いと考えた結果である。
淳和天皇の治世の始まりも嵯峨天皇の頃と同じだった。すなわち、災害と不況である。
この時代の考えでは、天皇の交代は新しい時代の到来であり、良くないことは全てリセットされるものだった。
そのため、淳和天皇即位に伴うゴタゴタと、そのころから続いた天候不順が、淳和天皇の治世を暗雲立ちこめるものと考える者が多かった。
特に、雨の日の連続が農業に影響を与えること必至となったことで、淳和天皇は何よりもまず、長雨対策に追われた。快晴の祈願と、長雨による困窮者への施の実施である。
淳和天皇は善き天皇であろうとした。
悪しき天皇であろうとする人はさすがにいないが、淳和天皇は生真面目なまでに善人であろうとした。それは、そうであろうと演じるのではなく、心の底から善人だからそうしたのであろう。
こうした人が帝位に就くとどうなるか。
財政を悪化させる。
何も悪化させようとして悪化させるのではない。
困った人を助けようとするために支出を増やし、結果、財政を悪化させる。
財政危機とか財政破綻とかのきっかけは、悪よりも善であることが多い。軍事費とか、公共事業費とか、悪とされるカネの使い方など国家財政に比べれば取るに足らぬ額であるし、減らそうと努力したところで財政危機には何の影響も与えない。だが、福祉とか、医療費とか、善とされるカネの使い方は財政を大きく揺さぶる。そして、この削減は例外なく国家財政の向上をもたらす。
この一年の淳和天皇の財政出動を見ると、よくもまあここまでの支出を冬嗣は許したものだと思わずにはいられない。
もっとも、権力を手に入れたと同時に緊縮財政をやると、いかに財政を立て直すためであろうと確実に支持率は下がる。民主主義でこれをやったら確実に次の選挙で負けるし、民主主義でなくとも不人気の政権間違いなし。
ただ、善人であることと、天の恵みがあることとは一致すればいいのだが、それはなかった。
天が差別しているのかと言いたくなるほど、善人の治世に難題が発生することなど珍しくない。
その珍しくないことに淳和天皇の治世がぶつかった。
善人ゆえの財政出動に加え、災害対策の財政出動が重なった。
五月二〇日、高齢者へのコメの支給を指令。ただし、対象は八〇歳以上限定。本来であれば対象年齢をもっと引き下げるところであったが、冬嗣の反対により八〇歳にされた。
七月一九日、長門国の干害と疫病流行に伴い、税を一部免除。
同日、美濃・阿波(現在の徳島県)の両国で疫病が流行しているため施を実施。
七月二〇日、三河・遠江両国での干害と疫病流行に伴い、税を一部免除。
八月六日、近江国で疫病が発生したため穀物を支給。これまでの施ではどれだけの量の支給が行われたかの記録はないが、このときは二〇〇〇斛(およそ一二〇トン)と記録が残っている。
不況は治安の悪化をもたらす。
これは、市民生活に直接影響を与える。
治安の悪化の対処は単に日々の暮らしに用心を深めればいいというものではない。二四時間緊張を要するような暮らしは心休まるものではないし、用心していようとそれ以上の暴力が目の前で展開されたらどうにもならない。
一〇月七日、内裏の延政門で火災。このときは延焼を食い止める。しかし、これは事件の始まりでしかなかった。
一〇月二一日、こんどは大蔵省で火災が発生。大火となり、建物が焼失。三〇名あまりの者が消火活動にあたり鎮火にあたり、その功績により淳和天皇より褒賞が与えられた。
延政門の火災をふまえれば偶然の連続とは考えられず、冬嗣は警備の強化を指令する。
その状態は一ヶ月を迎えたが、ちょうど一ヶ月後の一一月二一日、再び大蔵省で火災が発生したことで事件は急展開を見せる。
偶然の失火ではないと見た冬嗣は検非違使に犯人逮捕を命じる。この時点ですでに、この連続火災は人災であると見抜いていた。
ほどなく、放火犯四人が逮捕される。
放火犯の名前も、逮捕後の犯罪者の処遇も現在に伝わってはない。死刑は廃止されたが、その他の刑罰まで廃止されたわけではなく、現在では禁止されている拷問もこの時代は合法であった。
記録によれば、一〇月二一日の火災も自分たちの放火であり、放火の騒動中に大蔵省の財物を盗み出すことが目的であったと証言したことが判明している。これはおそらく真実であろう。
犯人逮捕には成功したが、治安が一著しく悪化していることは隠せなかった。特に、国の直轄の役所で犯罪が起きたことは時代への絶望を抱かせるに充分だった。
ついこの間の祭り気分は過去のものとなり、辛く厳しい現実が待っている日々だけが目の前に横たわった。
ただ、淳和天皇は淳和天皇なりに未来への希望を抱かせる日々を構築しようとしたのである。
弘仁一五(八二四)年一月五日、元号を「天長」へ改元。
皇位のリセットは好景気を呼び込まなかったが、改元なら世相を一新するのではないかとの思いがあった。現在と違い、この時代は天皇の交代が元号の交代とはつながらない。在位中に何度も元号を変えることも、天皇が変わっても前の元号を続けることも珍しくなかった。
ただ、弘仁という元号の時代が幸福の日々でないことは誰もが実感できていることだった。
改元は意識をリセットさせ、景気を回復させる行為と考えられた。
ただし、それを行うまでは。
改元しても、貧困は続いているし、不景気も続いている。
それでも淳和天皇は新しい時代を信じ、冬嗣はそれに努力した。
ただ、時代は変わってくれなかった。
前年の財政出動は国家財政を悪化させたが、景気の回復はもたらさず、収支を悪化させるのみだった。
この状況に立ち上がったのが緒嗣である。
緒嗣は財政悪化をくい止めるために外交費の削減を提案する。具体的には渤海使の供応の費用削減である。
渤海使の渡航費用や滞在費用は全て日本の負担だった。つまり、渤海は日本との関係維持を日本の財政でまかなっていたということである。
この当時、外交に要する費用は格上が負担した上で格下が格上を訪問するものとされていた。つまり、必要とする側が。費用を相手に負担させた上で使者を派遣するという形式である。
日本は新羅や渤海の使者を受け入れたことはあっても渤海に使者を派遣することは少なく、新羅にいたっては使者派遣に関する記録が全くない。これは日本の当時の対外意識の結果であろう
遣唐使の派遣も渤海や新羅が送った回数に比べればその頻度が驚くほど少ないばかりか、費用を自主的に日本が負担し、さらには唐からの使者の日本派遣を執拗に要請している。
桓武天皇以後の対外政策はこうしたところにも現れていた。ただ、これはプライドを保てはしても、経済効率的に良いものではない。
一月二四日、藤原緒嗣より渤海の来朝を一二年に一度にすべしとの意見が出る。
渤海との関係が頻繁にすぎる。両国間の規約によれば、一二年に一度の訪問により関係を維持するとあったため、緒嗣の意見は規約の再確認にすぎない。
これにより外交費用の節約が図れると考えられたためこの訴えは認められ、渤海に対し、来朝は一二年に一度とするよう通告された。
渤海はこれを受け入れた。
三月一日、美濃国で飢餓が深刻化しているため、施を実施。
三月二八日、亡命してきた新羅人へ口分田を配布。
四月二一日、淡路島で飢饉が深刻化したため施を実施。
五月一一日、亡命新羅人に陸奥への入植を命じる。
六月一日、施を実施。実施場所、実施内容は不明。
六月一一日、安芸国が干害と疫病流行に苦しんでいるため施を実施。
こうした政策を淳和天皇は病をおして進めた。
善人であろうとする淳和天皇は、大伴親王と呼ばれていた頃であれば、健康を絵に描いたようとまでは形容できなくても、断じて病弱ではなかった。
しかし、皇位に就いて以後、淳和天皇に健康問題が見られるようになる。体調不良が続き、起きあがって政務をとる姿はいかにも弱々しく、ときには床に伏したままという状態にまでなった。
これは、体力によるものではなくストレスによるものだろう。
善人であろうと務めれば務めるほど結果は望まぬものとなる。
施をしても民衆は豊かにならず、災害は続き、飢饉ははびこっている。
この結果が現れぬことが多大なストレスとなって淳和天皇に襲いかかっていたのではないか。
この時期の冬嗣をみると、淳和天皇の治世に対する何かしらの諦めを抱いているかのようである。淳和天皇の進める政策に対するアクションがなく、淳和天皇のなすがままにさせている。
これは淳和天皇の即位が冬嗣の想像もしていなかったタイミングで起こったことだからであろう。嵯峨天皇の退位は想像すらしていないところでおきた事件であり、冬嗣は嵯峨天皇の後の時代に対する対処を全くできない状態でその時代を迎えてしまった。
つまり、権力の奪取に失敗した。
役職や位は手にしているが、冬嗣はそれを有効活用できずにいた。現在の地位を維持するのに精一杯でそれ以上何もできなかったのである。
この冬嗣にできることは淳和天皇の次を見据えることだった。
冬嗣は淳和天皇の治世が長いものとはならないだろうと予期した。
倒れた淳和天皇は病床のまま政務を執った。
冬嗣は地位に応じた職務は果たしていたが、先陣を切って政務を執ることはなかった。
この権力の隙間に入り込むように緒嗣が勢力を伸ばそうとしてきた。
ところが、淳和天皇がそれを遮った。
淳和天皇が右腕として選ぶ人材は駿河にいた。このとき駿河国司として駿河国に赴任していた同い年の藤原吉野。淳和天皇とは幼なじみであり、淳和天皇が教育を受けるときは常に学友として側にいた。吉野はかなり高い教養を身につけているが、長良や良房のように藤原家で受けた教育ではなく、皇族教育の結果であろう。
吉野は藤原家の本流ではない。吉野の出身は冬嗣の所属する藤原北家ではなく、縄主が所属していた藤原式家で、父の綱継は縄主の弟、つまり、吉野は縄主と伯父と甥の関係にあたる。
この頃までは縄主と同様に特にこれといったインパクトのない人材と見られていた。
話題に上ることがあるとすれば、敵を作らぬ温厚の性格の伯父と違い、明確に敵を作る性格の人であったということぐらい。自分の味方と考える人には情けを尽くすが、敵には容赦なく冷血になれることは、周囲に恐怖を振りまいていた。
この意味で、吉野の性格はむしろ冬嗣に近いものであった。
駿河国司として能力は高く、民衆からの支持も強いものがあった。吉野にとって、一般民衆は味方であるが役人は敵であった。そして、犯罪の被害者は同情を寄せる存在であり加害者は明確な敵であった。
税の取り立てを厳しくする役人や、汚職に手を染める役人は、容赦せず全財産没収の上駿河から追放した。
犯罪者にいたってはもっと苛烈だった。死刑はなくなったが、駿河で犯罪に手を染めた者には事実上の死刑が待っていた。両手両脚を縛られた状態で船に乗せられ、海の彼方へと放り出された。
その結果、駿河では治安が向上した。犯罪があまりにもリスクの高い行動となったことで犯罪者は身を潜めるか駿河から出て行くしかなくなったのだから。
七月七日、奈良からニュースが届く。
平城上皇崩御。
国葬は奈良で執り行われ、旧平城京の北部、楊梅陵(奈良県奈良市佐紀町)に葬られたとされている。ただし、これは宮内庁の公式見解ではあるが発掘の内容とは一致しない。
楊梅陵は上空から見ると円形になっている。このことから、かつては国内最大の円墳とされてきた。ところが、昭和三七(一九六七)年から行われた調査の結果、この楊梅陵はもともと平城京築造前に存在していた前方後円墳で、その台形の部分が平城京築造の際に切り崩されたと判明したのである。
ゆえに、平城上皇の正式な墓はない。
参詣するとすれば、宮内庁の公式発表に従って楊梅陵に足を運ぶしかないのだが、そこに平城上皇の遺体は眠っていない。
また、楊梅陵に薬子を思わせる記録は何もない。
ただ平城上皇の陵墓として指定されているだけである。
日本後紀は著名人の死を記録するとき、その人の簡単な伝記を記している。
平城上皇も例外ではなく、「その知識や度量は奥深く、知恵や計略に優れていた。天皇としての政務に勤しみ、無駄な国費の浪費を削減し、法令を厳格に適用して秩序を守った」と称賛する一方、「生まれつき他者への妬みが激しく、寛容さが欠けていた。さらに婦人を寵愛し、その婦人とその親族に政治を委ねた」とした。
そして「牝鶏戒晨惟家之喪(メスの鶏が鳴く家は滅びる)」という一文で平城天皇の一生についての記事を締めている。
淳和天皇と距離を置き権力を弱めた冬嗣であるが、オフィシャルな歴史に対する権力は最後まで手放さなかった。
冬嗣の一生を悩ませることとなる二つの出来事、仲成の死刑と、薬子を自殺に追いやったことの二点は、冬嗣が最後までその正当性を主張し続けたことだった。
そのため、仲成や薬子について言及しなければはならない局面では、ありとあらゆる手段で二人を悪人と扱っている。
だが、この冬嗣の行動に対し、意外なところから横槍が入った。
八月九日、嵯峨上皇が奈良の反乱に関係したために免職となった者や流罪となった者を免罪とすると発表した。それに対し淳和天皇は何の反応も示していない。
そして、冬嗣は何も言わなかった。許す者は免職や流罪になった者であって、死罪や自害した者ではない。ゆえに、仲成や薬子については触れていない以上どうにもできない。
だが、それの意味するところは誰もが理解できていた。
赦しではなく奈良の反乱のときの冬嗣の行動の否定である。
殺害したことが誤りであり、自殺に追い込んだことも誤りであると暗に示した。
淳和天皇の体調はすぐれないまま年を越え、翌天長二(八二五)年一月一日、淳和天皇の体調不良により朝賀を中止するまでに至った。
だれもが淳和天皇の治世は長いものとはならないと感じた。
その淳和天皇を救うため、駿河国司であった吉野が急遽呼び戻された。蔵人就任の上、淳和天皇のサポート役に任命された。
京都へ戻ってきた吉野は自分の置かれた境遇の違いに驚きを見せ、自分の地位が思いがけない高いものになっていることに足を震わせた。
このとき、吉野以外の者も出世を見せている。
四月五日、冬嗣、左大臣へ出世。兼任している左近衛大将は兼務継続。後任の右大臣には藤原緒嗣が就任。
これは冬嗣の人生のゴールと言っても良い地位である。制度上、その上には太政大臣があるが、これは臨時職であって常設ではない。常設の官職でトップというのは左大臣と定められている。
そして、右大臣というのがナンバー2であることも定められていることであり、緒嗣がこの地位に就くこともおかしなことを見られなかった。
ところが、この頃から緒嗣が不可解な行動に出る。
四月九日、緒嗣が右大臣辞任を表明。却下。
四月一三日、緒嗣が右大臣辞任を表明。却下。
四月一六日、緒嗣が右大臣辞任を表明。却下。
七日間で三度の辞職表明である。
なぜ辞意を示したのかは記録に残っていないが、考えられる理由は三つある。
一つは自らが権力を掴めていないことに関する絶望。
嵯峨天皇の時代の緒嗣は不遇だった。それは冬嗣がいたためであり、自分はその後塵を拝してきた。
それが淳和天皇に変わった。そして、冬嗣は嵯峨天皇のときのように密接な関係を築けなかった。
これは緒嗣にとってこれ以上ないチャンスに思えたはずである。実際、淳和天皇即位直後、誰よりも先に淳和天皇と接しようとしている。
ところが、淳和天皇の回答は緒嗣を満足させるものではなかった。善人であろうとする淳和天皇にとって、権力にすり寄る緒嗣は疎ましく感じられたのであろう。むしろ権力を持ちながらすり寄らない冬嗣のほうが清潔に感じられるほどだった。
二つ目は、淳和天皇の次の時代を見据えて。淳和天皇の政権獲得時に何ら行動を示せなかった緒嗣にとって、淳和天皇にしがみつくのは得策ではなかった。
緒嗣もまた、冬嗣と同様、淳和天皇の時代は自分の時代ではないと悟ったのではないだろうか。そして、冬嗣のように権力にしがみつくことなく、権力から離れることで時期をみたのではないかとも思われる。
ここで注目してほしいのは、権力から離れるのであって、権力を諦めるのではないということである。
そして最後の理由。これは第二の理由のラストともつながる。
権力を諦めないという行為の中に、淳和天皇に自分を認めさせるという選択肢もあった。つまり、淳和天皇の次を狙った辞職騒動であっても、自分のこの行動が淳和天皇に良い形でアピールすることにもなるのではないかという打算もあった。権力にしがみつかない清廉潔白さをアピールすることで、善人である淳和天皇の心証を良くしようという打算が。
この打算に冬嗣が刺激された。
さらに、淳和天皇の体調が回復し、短いものとなると思われた治世が意外なほど長くなると考えられるようになったのも加わった。
となれば、淳和天皇の心証を良くすることはプラスに働く。時代は掴めなくても、それがマイナスにはならない。
善人の淳和天皇の心証を良くするには、善人であると思われる行動が必要だった。
五月初頭(日付不明)、冬嗣は、貴族や役人の給与引き下げを提言する。
善人の統治者は無駄な税の使い道をわかりやすい形で削減する。そのいい例が政治家や役人の給与削減。現実の効果は大したこと無いが、アピールとしては強力なものがある。自身も最高の貴族である冬嗣にとって、貴族の給与削減は収入の減少を意味するが、それ以上のアピールを得られる行為だった。
ところが、緒嗣はそれ以上のアピールを示す。五月八日、藤原緒嗣が右大臣職に対して与えられる封戸(職務に応じて与えられる田畑)の半分を国庫に返還すると発表した。
これは収入減どころの話ではない。一族を養うだけの財も得られなくなる行動であり、緒嗣の実家では妻や子の猛反対があった。
これに刺激されたのか、五月一一日、冬嗣も封戸の返還を発表する。しかし、あまりのエスカレートが問題と感じたのか、翌五月一二日、淳和天皇は冬嗣の封戸返還を却下する。
緒嗣の返還についての記録は残っていないが、一部の返還は実現したかもしれなくても全部の返還とは至っていないであろうと思われ、その一部の返還もすぐに元通りにされたと考えられている。
一二月三日、渤海使来朝。一二年に一度の禁を破っての来朝に対応が割れる。
自分が主張しただけあり、緒嗣は今回の渤海使の受け入れを受け入れるべきではないと頑迷に主張。一二月七日、渤海使をただちに帰国させるべきとの上表文を緒嗣が提出。
これに対する冬嗣の反応はない。
この頃から冬嗣の記録が歴史書から消え始める。もしかしたら、このときにはもう冬嗣の体調のほうが悪化してきたのかも知れない。
天長三(八二六)年一月二一日、良房、従五位下に昇格し、蔵人に就任。このとき、良房は出世レースで兄を超え、二月四日には中判事に遷任されるにいたる。
「長良か。良房はどうした。」
「主上のもとにございます。」
「そうか。」
冬嗣はこのとき病床にあった。そして、長良と良房の兄弟を二人とも呼びよせようとしたのだが、枕元に来たのは兄の長良だけだった。
「すまぬ。本来であれば長良を先にすべきであったのだが。」
「いえ、父上。時代は良房のもの。私は良房の影になる定めなのです。」
「それでよいのか、長良。」
「良房は先の帝の御子を妻とする身。これからの藤原のためを考えても良房が表に立つべきです。」
冬嗣はこのときになってはじめて、自分の後継者が良房一人になったと感じた。
当初の予定では長良と良房の兄弟がともに朝廷で勢力を築くことを想定していたのに、長良自身がそれを拒否し、良房一人が出世のピラミッドに挑戦する。
「この後、良房に何があろうと私は良房を守ります。」
「そうか。ならばもう言うまい。」
その頃、良房は朝廷にあった。
「渤海使を帰国させるには反対します。」
「良房は黙っていろ! 貴様はただの蔵人だ。」
「身分云々を口に出して、間違いを正すことを許す度量を持たぬ者にとやかく言われる筋合いはありません。」
朝廷にはこのとき、間違いなく冬嗣の後継者が誕生したという空気が広まっていた。
強硬に渤海使の帰国を主張する緒嗣、それに賛同し実力行使をもって渤海使を帰国させようとする吉野、この二人に対し、良房は若かりし頃の冬嗣を見るかのような態度で挑んだ。
「今の本朝にとって、渤海との関係なしに平和を保つなどできません。新羅を敵に回し、唐とも渡り合えているのも、渤海の協力があるからです。」
「だが、それによる財政負担は大きすぎる。」
「それを受け入れなければ戦争になります! 財政にかこつけたあなたの誇りのために、数万、数十万の命を捨ててもいいと言うのですか! あなたはそんなに偉いのですか! あなた一人の誇りは民衆を屍とさせてまで守らねばならない誇りですか!」
三月一日、渤海使を帰国させるべきとの意見を緒嗣が再度提出するが、良房の強硬な反対に淳和天皇も賛同し却下される。
これに吉野は不安感を抱き、良房の蔵人罷免を淳和天皇に進言するにいたる。
これに対抗するかのように、冬嗣は自費で渤海使を歓待すると宣言し、これに抵抗する吉野が国際関係を悪化させ、戦争を引き起こそうとしていると公の場で非難する。
これを聞いた世論は良房支持が大勢を占めた。
この対立の解決点は見いだすことができず、一ヶ月以上経て、長良が双方に歩み寄らせて妥協案を提示してやっと解決した。
五月八日、渤海使、入京。鴻臚館にて歓待。
五月一四日、渤海使帰国の途に就く。極めて短い滞在期間。
これが長良の示した妥協であった。
早期帰国を主張する緒嗣と、それに猛反対する良房の二人の意見の妥協点を模索した結果、通例ではあり得ない短い滞在期間となった。
これが長良と良房の政界デビューである。
緒嗣や吉野に反発する良房と、その間を取り持つ長良という関係がスタートと同時にできあがっていた。
緒嗣も吉野も、冬嗣はとんでもない後継者を宮中に送り込んできたものだと背筋を凍らせた。
息子二人の政界デビューを見届けた冬嗣は宮中に参内しなくなり、自宅で床に伏すようになる。
もはや誰の目にも冬嗣の最後は目前だとわかった。
七月二四日、冬嗣死去。
死因も辞世の言葉も残っていない。
しかし、冬嗣は藤原氏の本流を作った。
この後の日本は、冬嗣の子孫たちが権力を握る社会となる。