第六部 新時代の灯火
新年恒例の朝賀を暴風厳寒のため中止するという良くないスタートの弘仁一〇(八一九)年、その緒嗣が暴走した。
二月二〇日、不作からくる財政難のため貧困者の救済はこれ以上できなくなったとし、富豪の蓄えを調査して、余裕ありと判断した者に対し、貧困者に無担保無利子で貸し出させるよう進言したのである。
そしてこれが許可された。
良く言えば累進課税だがこれにも限度はある。無担保無利子であろうと貸し出しである以上返ってくるものであるはずだが、不作のために返還不可能となった場合までの返済義務はなく、これは事実上の財産没収であった。
三月二日、山城、美濃(現在の岐阜県南部)、若狭(同福井県西部)、能登(同石川県北部)、出雲などで飢饉が発生したため、無担保無利子の貸し出しを先行して開始。
力ずくによる財産没収であるため各地で猛反発が生まれた。
理屈の上では緒嗣の言うことは正しい。豊かな人間の財産を貧しい人に分ければ貧富の差はなくなる。だが、これが失敗する理屈でしかないことは共産主義の滅亡という事実を持ち出すまでもない。
貧富の差で問題になるのは貧困の差そのものではなく、貧困の差を埋められない環境のほうである。執政者が成すべきことは、貧しい者が豊かになるチャンスを用意することであって、豊かな者を貧しくすることではない。
緒嗣はそれをやった。
元々冬嗣はこの政策に乗り気ではなく、検非違使の出動も抑えていた。そのため、財産没収を強行する役人や、それに抵抗する富裕者との対決を抑えることができなくなった。
はっきりとした確証はないが、武士という存在の誕生はこのあたりである。
従来の説では、地方の富裕層が自分たちの財産を守るために、自ら武装したり、武装した者を雇うようになったのが武士の始まりとされている。
近年の説では、武人としての訓練を積んでいた皇族や貴族や下級官吏が、配下の兵士たちとともに地方に流れ、所領を守るための武装集団を形成するようになったのが武士の始まりと言われる。
いずれにせよ、おびただしい数の失業者が盗賊と化して治安悪化を招いていたことに加え、朝廷権力による財産没収を目の前にしては、それが法に触れることであろうと自らの財産を守るための武装を選ぶ者は多かった。それが武士の誕生とつながったという確証はないが、綿麻呂によって解雇された兵士といった武人としての訓練を積んだ者が失業者として存在しており、武力を必要とする人がいた以上、遅かれ早かれ武士の誕生は免れ得なかったであろう。
武力に頼って抵抗するというのは最後の方法であり、そのケースは深刻化するほどの数ではない。
ただ、それに頼らないで何とかして自分の財産を守ろうとすることは手広く行われた。
地方に派遣される官吏の税は、現住所ではなく赴任先で納めることが認められており、赴任先で納めた税はその国の税収として利用された。ただ、それを利用する者は少なかった。メリットがあまりなかったからである。
しかし、緒嗣の命令による財産調査の先行実施地域に京都もその一部である山城国が含まれていることから、納税を赴任先で済ませることとする貴族や役人が続出した。赴任先で納税すると主張することで、実際に納税するかどうかは別として、財産調査から納税分が引かれるからである。
その上、真面目に納税するのであっても、赴任先で納税するほうがメリットとなった。
この頃、京都や五畿よりも地方のほうがコメの値段が安いことが広く知られるようになった。
そのため、給与を銭で受け取ったあと赴任先でコメを買い、そのコメを納入するという方法を選べば差分が利益となった。
この方法は、貴族や役人の財産を守る効果があったが、京都や五畿の税収の落ち込みを呼んだ。これは、単に地域の財政を悪化させたに留まらない。
地方で納める税はその土地の収入となるが、京都や五畿で納める税は国家財政である。
冬嗣は国家財政の減少を食い止めるために、赴任する場合であっても現住所で納税することを命じるよう主張する。
五月二日、冬嗣の意見が採用され、住所での納税が命令された。
緒嗣の進めた政策は善意から発案された政策である。しかし、結果を見れば、悪意から起こした政策であるとしか言いようがない。
たしかに豊かな者の財産は減った。だが、貧しい者が豊かになったわけではなかった。
京都市中にあふれる失業者は減ることなく、インフレの激しさから市場で物を買うこともできず飢えに苦しんだ。
六月四日、京都市内の困窮者に新通貨「富寿神宝」を給付。
しかし、モノの絶対数が少ないところで通貨量が増えたがために上がった物価。ここで通貨をばらまくことはインフレを加速させるに充分だった。
しかも、モノが少ない理由である不作はいっこうに治まる気配が無く、この年も不作であることがこの段階で明らかになっていた。
七月、干害発生。雨乞いにより雨を降らせた寺社に褒美が与えられる。
七月二〇日、京都に暴風雨。
八月、一転して長雨。それまで雨乞いを命じていた寺社に快晴を祈らせる。
まったく嵯峨天皇と冬嗣の時代は天災と人災の連続である。
その結果の不作と貧困から抜け出すことができないまま一〇年を経過し、これはこの後も続く。
水害や干害、地震、暴風雨といったものは人間の手でどうこうなるものではないし、この時代、天災による不作が続いたという記録は日本だけでなく中国や渤海の史書にも残っている以上、これは日本だけの現象ではない。
この時代についての史料としてもっとも使用されるのが「日本後記」であり、この作品の基礎資料も日本後記である。
日本後記は「続日本紀」の続きを記すことを目的に、この年、嵯峨天皇の命令によって編纂が開始された。実際に作成に当たったのは、冬嗣、緒嗣に加え、藤原貞嗣、良岑安世など。完成したのは承和七(八四一)年一二月九日であるが、その前から段階的に公表されており、嵯峨天皇は自分の治世中の出来事の記録を目の当たりにしている。
冬嗣存命中は、冬嗣が事実上の編集長として強大な発言権を持っており、冬嗣存命中の時期の記載はそのまま冬嗣の指示と言っても良い。
無論、冬嗣は偽りを書いたのではない。実際に起こった出来事を書いたのであり、それは現在の地質調査や他の史料などからも事実であることが証明されている。
これは日本後記に限ったことではないが、六国史と呼ばれる上代日本の正式な歴史書は事実の羅列を基礎としている。そこには作成者の感情もなく、単にそのときの記録を連挙しているにすぎない。そのため、物語性に欠けるが信頼性は他の歴史書より高い。
しかし、日本後記には例外がある。ごく一部ではあるが、作成者の感情が表れているがために、真実か否かが怪しい箇所がある。
それは、冬嗣存命中に記された、奈良の反乱についての容赦ない罵倒。言い回しは冷静を装い、事実を客観的に記しているかのような感覚を受けるが、その内容は仲成と薬子に対する罵倒の連続である。
藤原仲成は大悪人で、藤原薬子は希代の悪女。奈良の反乱は正義に対する悪の反乱であり、二人の死は正義の結果とされた。
おそらく、この二人を死に追いやったことは冬嗣に一生つきまとっていたのだろう。だからこそ、冬嗣は自分の正当性を声高に主張する必要があった。
しかし、それがかえって奈良の反乱に対する記録の信憑性を低めており、それ以外の箇所の信憑性が高いゆえに画竜点睛を欠く結果になっている。
弘仁一一(八二〇)年二月、遠江・駿河の両国(ともに現在の静岡県)から緊急の連絡がもたらされた。
およそ七〇〇人の新羅人が反乱を起こしたという連絡である。
新羅からの亡命者が日本国内で社会問題となるのは以前からあったが、せいぜい犯罪のレベルで済んでいた。
しかし、このときは社会問題では済まなくなった。
多くの日本人が犯され、殺され、倉は奪われ、家は焼かれた。
しかも、遠江・駿河領国の国衙に常駐する兵士だけで対処できなかった。
これは一刻を争う事態であると判断した冬嗣は綿麻呂に出動を要請するが、綿麻呂はこれだけでは不充分であると判断。
「今から京都で軍勢を集め東海に派遣するのでは、相手に逃げ出す機会を与えるのみ。」
「ならばどうしろと言うのだ。」
「一刻も早く使者を関東、特に相模と武蔵に派遣し、関東より兵を派遣させ、東西より挟み撃ちとする。」
冬嗣は兵を率いることに関しては完全に無知である。その経験もないし、学んだこともない。また、それを必要とする局面も無かった。武力が必要なら検非違使を動かせばそれで済んでいたからである。
だが、今回は違った。
国衙常駐の兵士で太刀打ちできないということは検非違使でも太刀打ちできないということである。
朝廷が動かせる武力は綿麻呂しかいなかった。
直ちに綿麻呂を中心に対策が立てられ、使者が関東地方の各国へ派遣された。
このときの亡命新羅人の反乱の名目はわからない。俘囚の反乱であれば、少なくとも日本の支配からの脱却という名目があるが、彼らの反乱の名目は今までもわかっていない。
ただし、目的と経過なら同じである。
目的。自分たちが食べるための強奪。
経過。数多くの日本人が殺され、数多くの建物が焼かれた。
日本に亡命する新羅人は以前から多かったが、亡命先での暮らしは新羅人を満足させられるものではなかった。それも当然で、いくら新羅が日本に無条件降伏しようと、新羅人にとって日本は格下であり、日本では自分たちが特権階級として扱われるべきと考えている彼らに、一般人として扱われる待遇は屈辱でしかなかった。
また、日本での住まいも、彼らが希望した新羅を海の向こうに眺めることのできる北九州や山陰ではなく、海の見えぬ場所や、海が見えてもそこは太平洋という場所があてがわれていた。
これに対し、そもそも亡命であったのかとする説もある。
日本に来たのは密貿易や人身売買のためであり、それが失敗したために日本への亡命を装うことにしたというものである。海の向こうが新羅である山陰や北九州に住むことを願ったのもそうした新羅との連絡を容易にするためであり、朝廷がそれを見破ったために彼ら亡命新羅人を新羅から遠ざけたという考えである。これはこれで信憑性がある。
日本へ逃れてきた亡命新羅人の数と反乱を起こした新羅人との数を見た場合、反乱を起こした者の数が少なすぎる。
新羅人の中のごく一部、それも、日本への帰化意志の全くなかった者を集中して静岡県に住まわせたことに目をつけた新羅が、生活苦に苦しむ同胞をたきつけて起こした反乱ではないか。
研究者によっては、彼らがそもそも亡命を装った工作員であったとする説を挙げる人さえいる。日本国内で内乱を起こし、日本を壊滅状態にさせたあとで新羅が日本に侵攻する計画であったという説である。
さすがにそれは考えすぎだと思われるが、名目無き反乱でありながら、その始まりは見事なものであることは間違いない。準備も、制圧計画も、相手の軍備状況も見通した上での行動開始であり、対する日本の朝廷は完全にノーマーク。これは偶発的に起きた反乱ではなく、新羅の軍事作戦の一環として計画されたと考えるべきであろう。
ただし、この後は杜撰の一言でしかないが。
反乱を起こして日本にダメージを与えることは成功した。
だが、その後がなかった。
そもそも反乱に参加した人数が少なすぎる。
新羅は亡命新羅人や俘囚、さらには生活苦に苦しむ日本人も反乱に同調して立ち上がると考えたが、それはなかった。反乱に参加する日本人がいないだけでなく、俘囚も、他の亡命新羅人も反乱に加わらなかったのである。彼らを解放軍と見る者など居らず、ただただ恐怖と怨念で眺めるのみ。
結果は、反乱の下火。
暴れるだけ暴れてもその後がない。
暴れる場所が無くなった反乱新羅人は勢力を東へと移し、伊豆へと到達する。
伊豆でも彼らの所行に違いはなかった。人は殺され、建物は焼かれた。
しかし、なぜ伊豆に向かったのかはわからない。
あるいは、伊豆に向かったことの明確な理由など無いのかも知れない。荒らし回って次のターゲットを探し続けた結果がたまたま伊豆だっただけだとも考えられる。
この伊豆で、彼らは意外な行動を見せた。
倉の穀物だけではなく、船を奪い、海へと乗り出した。
ここで彼らの行動パターンが読めなくなった。
海賊となって海沿いの集落を襲うのか、海の彼方の新天地を探すのか、遠回りして新羅と連絡を取るのか。そのどれもが当てはまらず、彼らの船は伊豆沖に停留し、それが陸地から確認できる距離に留まった。
だが、これも、今回の反乱の始まりを考えれば理解できなくもない。
元々無謀な反乱だった。最初は仲間が増えるだろうと思っていたし、新羅本国との連携もとれると考えていた。しかし、それがなかった。日本人だけではなく、かつて新羅人であった帰化者も彼らの味方をしなかった。新羅との連絡も全くとれず彼らは孤立を余儀なくされた。
計画のスタートだけは見事だったのに、その後の計画はムシが良すぎる内容で、おかげで反乱はすぐに破綻した。
何しろ、今やっていることの目的が見えていない。暴れるだけ暴れたはいいが、その後どうするべきかというビジョンがない。新羅に帰るなら帰るでいい。自分たちの新天地を探すならそれでもいい。ところが、暴れるだけ暴れたあとで待っていたのは、自分たちはいったい何をしているのかという思いだけである。
自分たち以外に仲間などなく、ただただ、暴れる日々を過ごすのみ。
来るはずの新羅の援軍など影もなく、ついには噂にすら上らなくなった。
新羅としては、攻め込むべきタイミングが現れなかったために軍船を出せずにいたというところか。そのため、この反乱はあくまでも亡命した新羅人たちが勝手に起こした反乱であり、新羅当局の知らぬことと称した。
つまり、反乱軍を見殺しにした。
二月一三日、反乱を起こした新羅人全員を拿捕。
綿麻呂の出陣を待つこと無く、相模・武蔵をはじめとする七カ国の常駐軍の派遣で事が済んだ。
このあとの新羅人たちを伝える記録はない。
ただ、戦闘の最中に死者が出たことはあっても、拿捕された後に死刑になることはなかったと推測されている。
新羅の反乱の鎮圧に成功したことで幸先の良い年の始まりであると考え、今年は期待できると考える者は多かった。何より、嵯峨天皇自身がそうであろうとした。
だが、天災はその思いを簡単に吹き飛ばした。
新羅人拿捕の前日である二月一二日、河内国で洪水が発生。二月の冷たい水が集落や田畑を襲い、多数の死者や行方不明者が出た。食料や住まいを失った民衆に対する施は直ちに実施された。
三月五日、京都で施を実施。これは災害によるものではなく、京都に逃れた貧困者の救済が目的である。
だが、いくら貧困者を救済しても、田畑に戻ったところで荒れ果てているし、新たに開墾するにもそれだけの資産がない。そして何より、出挙の返済義務が重くのしかかっている以上、下手に戻ったらまた厳しい取り立てに合うのは目に見えている。
それを考えたのだと思われるが、四月九日、未納の税に加え、一切の出挙の返済を免除。公出挙だけではなく私出挙にも適用した。
借金の全額帳消しである。
借りていた側はいいが、貸していた側は大損でしかない。
しかも、その貸していた側というのは、財産調査を受けて無担保無利子での貸し出しを強制された側。それで財産が減らされた上に、収入を期待できた出挙も権利を全部捨てろと命じられたのである。
これは経済の原理を完全に無視した暴論だった。
豊かな人間の富を取り上げ貧しい者に配ったところで、貧困は無くなることなどないばかりかかえって悪化する。貧しさはさらにエスカレートし、経済成長はマイナスだけを記録する。当然だ。豊かになったらその分を召し上げられるというのに、誰が懸命に働くというのか。
これを考えるのは何も難しいことではない。現在に生きる我々は共産主義を考えればよいのである。この政策は共産主義そのものであり、夢や希望のはずだった共産主義は一つの例外すらなく失敗に終わったという事実を考えれば、この時代の日本の貧困も理解できよう。
共産主義とか社会主義とかいう言葉はこの時代まだないが、貧富の差を無くそうとする概念と、その概念を実行させた結果の失敗という現実は、もうあった。
この年の四月にはもう一つ出来事がある。
四月二一日に弘仁格と弘仁式が同時に撰進された。律令を補完し、細則を定めたものである。
これにより、死刑廃止が正式に決まった。
もっとも、不備が見つかったための改訂が繰り返されたため、現存する弘仁格と弘仁式はこのときのものではなく、改訂されたものである。
また、現存する条文は少なく、オリジナルがどのようなものであったのかは伝わっていない。
その後、災害に関する記録が例年のように続く。
四月二六日、和泉国で飢饉のため施を実施。
五月一〇日、讃岐国(現在の香川県)で干魃のため施を実施。
六月、干害解消の祈祷を命じる。
ところが、このあと災害に関する情報が出てこなくなる。だったら他の情報ならばあるのかというとそれもなく、日本後紀でのこのあたりの記録は一ヶ月当たり数行、一〇月に至ってはわずか一行の記載があるのみという少なさになる。
記録が再び充実するのは一一月になってから。
一一月七日、収穫が復旧したため、カットされた給与を元に戻すと決定された。
これは単に、減らされた給与を元に戻せというだけでなく、本当に収穫が復旧したらしいのである。それをふまえてこの年の災害情報を見ると近畿から四国東部に限定されており、どうやら、それ以外の地域では災害がひどくなかったらしい。
研究者の中には、この年を以て『弘仁の飢饉』の終焉とする人もいる。
人類の歴史は戦争の歴史だと言う人もいるが、私はそうは考えていない。
戦争が歴史で取り上げられることが多いのは、単に、戦争に関する記録が多く残っているからに過ぎない。
これは戦争に限ったことではなく、災害もまた戦争と同様に記録として残る頻度が高い。逆に言えば、ほのぼのした話題はまず記録に残らない。
そのため、災害が頻発したことは記せても、そうでないときの暮らしがどうであったかとか、災害のあと、被災した人がどう立ち直ったか、あるいは、京都に逃れてどう暮らしたかといった情報は極端に少なくなる。それは事件性が少ないから。
現在の新聞やテレビのニュース、そしてインターネットのニュースサイトでも、戦争や災害となったらそれがトップニュースとなり、数多くの記録が残されるが、その後について記すのは、その出来事からちょうど何年目とか、裁判の判決が出たとか、そうしたタイミングでないと大きく取り上げられない。
歴史書は新聞ではない。事件や事故がないからといって他の話題で紙面を埋めるなどしない。話題がなければ記録のほうが減るのである。
冬嗣の時代の記録がある程度残っているのも、それだけ災害に見舞われ続けた時代だったからである。もし、平穏無事な時代であればここまで記録に残らなかったであろう。
冬嗣の時代が悲しくなるほど天災と人災の繰り返された時代であったことは考古学の調査などからも明らかになっている。だが、それが終わった後で待っているのは、平穏ではなく記録の減少。考古学も、他の資料も、その隙間は埋めない。
弘仁一二年以後は記録量が少なくなる。
弘仁一二(八二一)年一月九日、藤原冬嗣、右大臣就任。
二月一一日、第一回が行われてから中断してきた高齢者への穀物支給を再開するよう指示。
五月二七日、讃岐国より万農池の堤防建設工事の進捗に遅れが出ているため、故郷出身の空海を工事の担当責任者に任命し、人々を工事に積極参加させるよう要請が出る。
一〇月二四日、河内・摂津・山城の三国で水害が発生。特に被害の激しかった河内で災害対策として租税の免除と施の実施が決定。
一一月一三日、渤海使来朝。
日付は不明だが、この年、冬嗣が藤原氏の子弟の教育機関である「勧学院」を創立。
弘仁一二年の記事はこれだけである。あとは嵯峨天皇がどこへ行ったとか、誰かが亡くなったとか、三つ子が生まれた農家があったとか、その程度。
だが、後世から見るとこの頃に歴史の大きな転換点が生まれていた。
新しい経済のスタートである。
全ての国民に平等に田畑を渡すという班田収受の理想はだんだんと現実に浸食され、私有地の増大と、競争を生み出した。より多くの土地を持ち、より多くの収穫を残した者が豊かになり、そうでなければ貧しくなる。
そして、この不作は競争にさらなる拍車を掛けた。
それまでは、収穫が多いか少ないかだったが、今は、収穫があるか無いか。つまり、生きていけるかいけないかという競争である。
この長期に渡る不作を乗り越えることができた農家は優秀な土壌と優秀な技術に恵まれた農家であったろう。
この優秀な農家が富を集めるようになった。緒嗣はそうした者の富を取り上げることを画策し、一部では実行もさせたが、経済の移り変わりは政策のほうを無力化させた。
ある時は武力で、またあるときは政治力で、彼らは自分の財産を守るようになった。
豊かな農民の中には、貧しい農民の納税を肩代わりする者も現れた。その代わりに、貧しい農民に自分の開墾した土地を耕させるのである。報酬として、耕した部分で得られる収穫の一部が農民の元に渡ることとなった。要は小作料であり後に問題となるが、この時点では出挙の負担よりは少なく、貧しい農民は労働量が増えたもののこれまでの負担から逃れることとなったことから歓迎された。
この豊かになった農民を「田堵」と言う。
そして、田堵らは国衙と結託した。
法を一切逸脱していない。税を代わりに払っているだけであって、脱税しているわけでもなければ、賄賂を送っているわけでもない。そのため、国衙にとっては、税を安定して納めてくれる田堵がありがたい存在となった。
だが、有力な納税者となった以上、相応の発言権がある。単純に言えば、気にくわなければ代わりの納税などしないと脅しをかける。本来課せられるべきは自分の分の税のみであり、他人の税を代わって払う義務はない。
理論上は、田堵が税を払わないというなら本来の納税者の元に徴税に行けばいいだけの話である。しかし、そんな理論など現実の前では無力だった。
班田収受の納税システムはとっくに崩壊していた。
農民に直接徴税に行ってもその前に田堵が立ちはだかった。
田堵はその政治力で、時には武力で国衙の圧力を排除し、自分の元で働く農民を守り続けた。
田堵の誕生は武士の誕生とほぼ同じ頃だが、両者の関連性は不明瞭なところが多い。両者は全くの無関係ではないが完全に一致する存在でもない。
地方に流れてきた貴族や役人が地方に流れてくる場合、田堵となったケースもあるし、武士となったケースもある。強いて分けるとすれば、田堵はその政治力と経済力で力を持ち、武士はその武力で力を持つようになったというところか。そして、田堵が自ら武力を持ったり武士を多数雇ったりして武士団を形成することもあったし、武士が政治力や経済力を手にして田堵となることもあった。
そして、この二つは互いに密接につながりながら、地方における新たな権力を構築していった。