第五部 怒り
弘仁六(八一五)年という年は、人の行動なら前年と大差ないが、自然という点では前年の間逆であった。
雨のない前年と違い、雨に苦しむ一年となったのである。
梅雨の前から雨の日が多く、梅雨は例年以上の雨となり、梅雨が終わっても雨が降る日が続いた。
雨を免れることのできた地域もあったが、そこでは雨のかわりにイナゴが大発生した。薩摩国はこれで四年連続の被害である。そして、五月一四日、この年もまた免税が発せられた。
それ以外の地域で言えば単に雨が多いという情報だけであったが、その雨の多さが日を重ねるに連れて危険へと向かった。
六月一六日、河内国でついに洪水が発生した。多くの死者が出て、生き残った者も住まいと食料を失った。被災者対策のために国庫からコメが配られた。
その八日後の六月二四日には、雨が豪雨となり、雷雨となって近畿一帯を襲った。山城国の京都郊外では豪雨と雷による死者も出た。
七月一三日にも京都に豪雨が降り注いだ。死者が記録に残されていないことから犠牲者は少なかったとも考えられるが、それでも京都の都市機能に大ダメージを与えることとなった。
この一ヶ月間の被災に対処すべく、七月二五日、京都市内と五畿の免税が発せられる。
免税が発せられたことで税負担は減ったが、田畑の喪失と作物の全滅はどうにもならず、雨はなおも降り続いた。
八月三日、長雨が続き各地で水害が起こっているため、伊勢と加茂に使者を派遣し祈祷させる。京都近郊以外の水害の様子は伝わっていないが、地層を分析した結果、死者が出るほどの水害ではないにせよ、家や田畑が水害に遭うことは多々あったのではないかと考えられている。
京都近郊以外の水害の様子が文献で残っている唯一の例外は大宰府管轄の地域のみ。九州から中国地方西部にかけての一帯の水害が激しく、租税を三年間免除することとなったという記録が残っている。ただし、それがこの年の何月頃のことなのかは伝わっていない。
この弘仁六(八一五)年という年は特筆すべき法が定められた年であった。
一一月二一日に宣言された死刑の事実上の停止がそれである。すでに死刑の執行が行われなくなっていたが、やらないというだけでできないわけではない。しかし、これ以降は死刑執行そのものが困難となった。まず、死刑は秋冬にしか執行してはならないことが再確認され、一一月と一二月は国の祭事が連続しているため死刑執行が禁止された。さらに、京都と陸奥や出羽との連絡には二ヶ月を要するため、春が来る前に連絡が完了するには一〇月までに死刑執行の連絡を出さねばならないとなった。
ところが、監獄を管理する役人から死刑執行についての是非に関する連絡が上奏されるのは年末、通常は一二月に上奏するのが習わしとなっている。そして、年が変わったらリセット。死刑執行のためにはもう一度上奏文を提出しなければならない。
一二月に出される書類を一〇月までに出さねばならないと定めることは事実上の死刑停止である。一二月の提出は慣例であり、書類を前倒しで提出すれば死刑執行にも対応できるがその例はなかった。
それどころか、仲成の死刑以後、どんな重罪であっても死刑判決自体がなくなった。
このときの『格(律令の補完や実状に合わない部分の改訂をする法律)』の制定は死刑を最高刑罰とする律(刑法)を否定するものではなかった。死刑を定めた法は有効であり、ただ単に、律に従えば死刑となる犯罪であっても、死刑ではなく一段階低い追放刑に処すということとなっただけである。
そのため、このときの決断は死刑の『廃止』ではなく『停止』である。
とは言え、死刑にならないと言ってもそれが犯罪者にとってバラ色になるわけでもなく、被害者や遺族に二重の苦痛を与えるものでもなかった。
現在のように交通も発達し、海で隔てられていても飛行機で軽々と移動できる時代ではない。島流しとなったとしたら、いかに行動の自由はあろうと、鉄格子のない牢獄で死ぬまで過ごすということである。
高貴な人や比較的罪が軽いと思われる犯罪者は人の暮らしがある有人島に流されたし、脱出するチャンスも、許されて帰還する希望もあったが、そうでない犯罪者は、生活するのは無理だろうという無人島で餓死するまで放置されたり、もっとひどい場合だと、船にむりやり乗せたあと船にフタをして釘を打ちつけて、脱出できないようにさせた上で海の彼方へと流すことも行われた。
こうなると、死刑ではないが、飢餓で苦しんで死ぬまで痛め続けるという、事実上の死刑である。
そしてもう一つ、冬嗣家にとってのニュースがあった。
次男の良房に嵯峨天皇の娘で臣籍降下した源潔姫が嫁いできた。とは言え、良房はこのとき一〇歳、潔姫は六歳。天皇家でない者が皇族に嫁ぐという先例は多々あるが、臣籍降下したとは言え、天皇の実の娘が臣下の妻となるのは、確認できる限りではこれが歴史上初めてのこと。
当時の人はそれだけでも冬嗣の権勢を理解できた。
「(薬子の出会いもこういうものだったのだろか。いや、それは考えるまい)」
幼い二人のままごとのような暮らしとしてスタートしたが、この時代にしては珍しく、この二人の関係は潔姫が四六歳で亡くなるまで続いた。
恋愛に多少なりとも距離を置いてきた冬嗣も、実の子の恋愛ならば目を細める一人の父親だった。
翌弘仁七(八一六)年の年明けは前年から続く雨。通常なら正月一日に行われるはずの宮中の行事もこの雨で中止になった。ただ、雪ではないことから、降水量はともかく、気温は前年よりましだった可能性もある。
雨が止んだ後で降ってきたのは砂だった。一月二五日に黄砂現象と思われる記録が記されている。
もっとも、この年の天災はこの程度で済んでいた。
天候不良も見られず、この年の前後には頻発されていた免税もこの年は少ない。
そればかりでなく、三月九日には、前年に三年間の免税となった大宰府管轄の地域に、免除された税の代わりに絹を納めるよう命令が下っている。
どうやら、田畑の復旧に要する時間は思ったより早かったようである。ただ、元通りの収穫となるには時間を要しているため、絹での納税という形をとることで、完全な免税から税の一部減免へと変えたらしい。
そのほかの地域でも天候的に穏やかであり、対外関係も平穏、政治も安泰という安定した時期を過ごしていた。
八月までは。
八月二三日、関東地方からニュースが飛び込んできた。上総国(現在の千葉県)で大火が発生し、国衙所有の米倉六〇棟が消失したというのである。
第一報では、出火はあくまでも自然発火。米倉の管理責任者であり、上総国の徴税の責任者でもあった久米部当人は責任をとって自殺した、という連絡が届いた。
これを怪しいとみた冬嗣は、ただちに刑部省(現在の裁判所と検察庁を合わせたような省庁)に対し火災事件の捜査を命じる。
上総国の国司交代はこの年に行われる。国司交代の引継には任期中の国内の収穫とそこからの税収が含まれており、その数字が京都で管理している数字と一致しない場合は国司の横領が疑われる。
以前であれば多少の横領は認められていたかもしれない。実際、国司を務めあげることで一財産築く者もいたし、国司となって地方に赴任することを希望する貴族は多かった。
ところが、冬嗣の断固とした態度は国司たちのそうした雰囲気を一掃した。真面目に務めあげなければ全財産没収の上追放となるとさえ言われた。
そんな中で届いた火災発生と米倉の消失。それも六〇棟という大量の米倉の消失。そして、証言可能であったはずの責任者の死。
これは怪しくないわけがない。
冬嗣の命による捜査の結果浮かんだのは、やはりと言うべきか横領発覚を恐れたことによる隠蔽工作というものであった。
しかし、前の上総国司である多治比全成は横領など一切無かったと主張し、その他の役人たちも横領を否定。引き継ぎ時の数字が合わなかったとすれば、それはその自殺した久米部当人の横領であると主張した。
刑部省の最終回答は、放火であったという証拠は見つからず、放火可能であった者も死んでいるため、被疑者死亡による不起訴とするしかできないというものであった。
そこで冬嗣は、官有物の消失ということで、法に基づき、国司をはじめとする上総国衙の役人たちに損害賠償を請求するという決断を下した。
だが、この出火は国司交代のタイミングで起きており、現在はもう新たな国司が着任している。官有物に対する損害賠償となると、前任の国司や役人たちではなく、着任したばかりの国司や役人たちとなる。
これが問題となった。
法を適用するとなると無関係な者に責任をとらせなければならなくなる。しかし、それしか責任をとらせる法はない。
そこで、冬嗣は法の拡大解釈をした。
引継期間の間に発生した官有物消失の責任は、その期間に応じ前任者も負うべきというものである。
これにより、交代前の役人たちへの損害賠償請求が実現することとなったが、これもうやむやのうちにもみ消されることとなる。
九月四日、嵯峨天皇が病に倒れる。病とあるだけでどのような症状かはわからないが、病の祈願を行わなければならないほどというのは判明している。
誰が注進したのかわからないが、この病は上総国の火災に対する措置の誤りを正すための天罰ということになった。そして嵯峨天皇はそれを受け入れた。
九月二五日、上総国出火の責任を免除するとの通達がでた。
これに冬嗣は怒った。横領し、隠蔽し、手下に責任を押しつけ自殺させ、罪を着せられたら祟りがあると言い、一切の責任を負わずにのうのうと暮らす者がいることが我慢ならなかった。
その結果が『検非違使』の設置である。
検非違使は律令に記された官職ではないため、正規の出世ルートからは外れる。しかし、警察権と司法権の両方を手にするだけでなく、バックに冬嗣がついているため、生半可な権力者では太刀打ちできない捜査権を手にしている。おまけに、冬嗣がその権力でもって、この職務を務めあげた者には五位以上への出世の道を用意した。
いつの時代にも正義感あふれる若者はいる。
理想に燃えている。
親が裕福なおかげで理想を議論していても食べていける。
エリートっぽい道を歩いてはいるがトップエリートではない。
そのくせ、野心に満ちていて、本来の自分はこんなものではないと考えている。
天下国家を論じるもののその内容は具体的でも現実的でもない。
こういう若者が。
そうした若者が検非違使に飛びついた。任官を願う者が殺到し、自分たちが悪と考えるもの、特に貴族や役人の腐敗を遠慮なく取り締まるようになった。
よく言えば秩序の確立、悪く言えば秘密警察を使っての恐怖政治だが、このときの検非違使は冬嗣にとって理想的な結果をもたらした。
冬嗣にとって都合の悪い存在が黙り込むこととなったのである。この時代の貴族や役人が、何一つ犯罪に触れることなく現在の地位にいるなどあり得ない。賄賂や横領など叩けばすぐにホコリが出てくるし、仮に自分がやっていなくても部下がやっていたらそれは使用者の責任になる。
検非違使の職務は律令で定められた職務と重なっている。司法権は刑部省の管轄であるし、警察については弾正台という組織があった。京都市中の行政や治安維持については京職といった官職もあった。だが、その全てを包括する検非違使は権力を徐々に拡大し、その他の官職は有名無実と化していく。
さらに、のちには武士が検非違使に就くこととなり、武士の中央政界への進出のきっかけとなった。
現在の日本を難民の受け入れについて閉鎖的な社会と見るか開放的な社会と見るか、この判断は難しい。正式な手続きを踏んだ上での難民の受け入れに目を向ければ閉鎖的だが、難民として日本にやってきた韓国人とその子孫に対する特権に目を向ければ、必要以上に開放的となる。
では、この時代の日本はどうか。
これは無条件で開放的と言える。
俘囚や新羅人の対策をとり続けたのも、そうした生活苦から逃れようと日本へやってきた難民を受け入れ続けた結果に他ならない。
ただし、当時の日本は、彼らが日本語を使い、日本人として日本の習俗で暮らすことを要求した。つまり、難民を受け入れるが、外国人として生活することは拒否するという態度であった。
難民の第一世代は日本で定住するための生活の援助をするが、その次の世代は特権など無く、日本人として扱われる。現在の在日韓国人のように、世代が変わり、日本語しか話せない世代となっても韓国人のままというようなことはなかった。
一見するとそれは暴論だが、郷に入りては郷に従うのは無駄な摩擦を生まないために世界中どこでもしなければならないこと。移住した先で、自分の家の中で移住前の風習を続けることは構わないが、自分たちだけで固まって集落を作り、外とは拒絶された空間を作って、その土地の風習に従わずに暮らすのは無駄な摩擦を生むもとになる。
民族全体が差別されるケースというのは、自分たちを特別と考えて周囲を見下し、周囲にとけ込まずに自分たちだけで暮らしているケースである。
この時代の二大難民である俘囚と新羅人について、この年の一〇月に記録が二つ残っている。
一〇月一〇日、俘囚に口分田を配布。
口分田を配るということは、日本の税体系の中に俘囚が組み込まれたということである。
すでに日本人であろうが俘囚であろうが関係なく、同じ権利が与えられていた。また、法の上でも俘囚であることが記録されなくなり、ただ、義務だけが違っていた。
その義務が同じになった。
かつて俘囚と呼ばれていようと、日本人と同じ義務が課され、種籾の貸し付けも無料ではなく出挙に変わった。
一〇月一三日、新羅人一八〇人、帰化を求め亡命。
それまでは、許可なく勝手に日本にやってきては住み着いていたのが亡命新羅人である。日本の立場としては、いつの間にかやって来ては生活しているというものであり、難民として受け入れたわけではなかった。ただ、原理原則に従っていたら現実と辻褄が合わなくなるので、原理原則のほうを曲げていただけである。
だが、今回は違った。
はっきりとした亡命であり、かつ、日本人になると宣言しての入国である。これに対する朝廷内の議論は伝わっていない。
この二つの出来事。
結論から言うと悲劇をもたらすものだった。
それからおよそ半年後となる弘仁八(八一七)年三月一五日、四三人の新羅人が帰化を希望して日本へやってきた。これは記録に残った例であるが、個人や数人程度であったため記録に残っていない者や、密入国してきた者もいると考えられており、この時期にどれだけの規模の難民が新羅からやってきたのかわからなくなっている。
だが、こうした難民を受け入れる日本の状況は楽観視できるものではなかった。
地方から、飢饉が派生したため餓死者や流浪者が増加し、残っている者も食料が乏しくなっているという連絡が相次いで届いた。
五月二一日、信濃(現在の長野県)、長門(同山口県)での飢饉に対処するための物資援助を表明。ただし、何をどの規模援助したのかは伝わっていない。
六月には前年とうってかわった干害が全国を襲う。河川やため池が枯れ、結果、田畑の水も必要を満たすに至らなくなった。これに対処するため、嵯峨天皇は雨乞いを命じる。
六月三日、筑前でも飢饉が深刻化したため、大宰府が大規模な援助を実施。同日の記録にはそのほかの国にも飢饉が発生したと書いてあるがそれがどこかは書いていない。
琵琶湖水系は干害にも強いため、琵琶湖からの水が利用できる山城や摂津では干害の被害も他より少ないのが通例であったが、別の災害がこの地を苦しめる。七月一七日、摂津で高潮が発生し、およそ二二〇人の死者が出た。
繰り返される自然災害、終わることのない飢餓、抜け出すことのできない貧困は動揺を招く。
この頃、東北地方で俘囚の反乱が発生したのもその一例である。
残された記録によれば、反乱と言うよりも、少し多めの強盗集団、あるいは、テロとか過激派といった類であろう。なぜなら、大規模な軍勢の投入ではなく、既存の武力で解決しているのだから。
反乱を起こすといっても、それは日本からの独立を本当に願ってのものではなかった。題目としては自分たちを支配する日本に抵抗し、蝦夷としてのアイデンティティを掲げ、最終的には日本からの独立を勝ち取ることを挙げたが、実際は、自分たちが食べていくこと、暴れ回ること、奪うこと、殺し回ることが目的であった。
何しろ、被害者もまたついこの間まで俘囚と呼ばれていた者なのだから。
いくら彼らが、日本に従うようになった蝦夷は裏切り者だと主張しようと同調する者は少なく、被害者は身の安全を日本に頼んだ。
もうこの頃には、俘囚とかつて呼ばれていようと自分は日本人であり、自分は日本に属する者というアイデンティティが確立されるようになっていた。
九月二〇日、反乱軍の首脳オヤシベと、その仲間六一人を拿捕。通常、こうした反乱の首謀者は拿捕された後に京都へ送られるが、このときは送られなかった。
反乱を越した者に対する温情措置が、蝦夷との決別と日本への浸透をよりいっそう生むこととなる。
その四日前、朝廷にニュースが届いた。
九月一六日、藤原縄主死去。
薬子の正式な夫であるが、奈良の反乱に対して連座されることなく、外交官として、貴族として遅い出世を歩んでいた縄主は、その敵を作らぬ温厚な性格からこの頃には朝廷内で重宝されるようになっていた。
冬嗣と葛野麻呂、あるいは文屋綿麻呂との関係はお世辞にも良好なものではなかったが、縄主が間に入ると関係が維持できた。
ただ、これは縄主にとって複雑な感情であったと思われる。
薬子が安殿親王のもとへ向かってから、縄主の女性関係は全く見えない。それは薬子が自殺してからも変わっていない。
押しつけられた結婚であったとしても、そして、相手の好意が自分には向かっていない結婚であったとしても、やはり、縄主は薬子を愛していた。そして、自分の元を去ってもなお、その思いは貫いた。
その薬子を自殺に追い込んだ男と向かい合うのである。
辛かったであろう。
苦しかったであろう。
しかし、その感情を隠して、死の直前まで貴族としての責務を貫いた。
誰もがそれを理解し、その死に心を痛めた。
一〇月七日、常陸国(現在の茨城県)で大火。米倉一三棟、コメ六〇〇トンを消失。上総のときと違い、横領の証拠隠滅のための放火とは見なされず、処分された者もいなかった。
そして、一一月以降、京都に天災が連続する。
一一月二五日、大雪。
一二月一三日、地震。
一二月一四日、大雪。
一二月一八日、地震。
一二月二〇日、地震。
これらの雪や地震の規模は伝わっていない。地質調査を見ても、それほどの被害は出なかったであろうと推測されている。
しかし、現実の被害の有無と感覚とは一致しない。
縄主の祟りではないかとする感覚は生じなかったが、繰り返される天災は何らかの凶兆とする考えが広まった。
また、実際の干害や水害は生活を苦しめた。収穫がないため、税が納められないばかりか、食べるものが無くなった。
生活苦に加え未来への展望が乏しくなった民衆を救うことは当然考えた。考えたが、救うだけの財源がなかった。
冬嗣は最後の手段に手を出した。
翌弘仁九(八一八)年の三月一九日、財源捻出のために貴族や役人の給与の二五パーセントカットが決定された。
ここに至るまでには猛反発を招いた。
「ただでさえ不作で収益が出ないのに、このうえ給与まで減らされたらどうやって生活しろと言うのだ!」
「給与を減らせば仕事に対する熱意も冷める。役人はより一層の不正に手を染めるようになる。」
「律令に定められた給与を支払うのは国の責務。それすら果たせぬほどではない。」
これが縄主の祟りなのかと思わせるほどに縄主の不在は痛かった。冬嗣と、葛野麻呂をはじめとする貴族の対立は深刻なものとなり、冬嗣は検非違使の出動まで匂わせた。
「全財産没収か、給与の減額か、好きなほうを選べ。」
それは冬嗣が久しぶりに見せた恫喝だった。
財源確保のための給与減額を実現させたが、それで天候が穏やかになるわけではない。
春になったと同時に冬の大雪を忘れさせるだけの日照りが起こった。
四月三日、嵯峨天皇は干害続きのため雨乞いを命じる。
しかし、なおも雨の足音はなく、四月二三日には広隆寺が失火する。
同日、嵯峨天皇は干魃による不作や失火が天より下された天罰であるとし、天の恩寵を得るために、経費の削減、市中に放置されたままとなっている餓死者の埋葬、飢餓にある者への施の実施、監獄に収容されている者の再審理と冤罪判明後の釈放を命じる。
自然現象に対する嵯峨天皇の行動は一貫している。
自然災害を天からの警告と捉え、天の警告をそらすための徳の積み重ねに奔走する。
それにはオカルティックな面もあり、合理的精神とは言えない。これは嵯峨天皇がそうしたオカルティックな考えの持ち主であったと言うところもあるが、そうでなかったとしても嵯峨天皇はこうした儀式を行う必要があった。
天皇に限らず、政権のトップに立つ者が現実主義を貫いてそうしたオカルト部分を排除することが、必ずしも正しいとは言えない。そうしたオカルト的な考えを持つ人も含め、全ての人を統治するのは執政者の義務であり、本人がいくらそれは現実的ではないと無情に接しても、天の裁きとか、死者の呪いとか、そうしたオカルト的な考えを持つ人を納得させることはできない。
ましてや、時代は、そうしたオカルト思想が圧倒的多数を占めている時代である。嵯峨天皇自らがそうした考えの人にあわせて儀式を行わせることは、世間の平穏を保つのに効果があった。
平穏を保つ効果はあったが、天災から逃れる効果はなかった。
七月、関東地方北部を中心とする大規模な地震が発生した。
関東大震災やそれ以前の江戸時代の関東地震は海底のプレートの沈み込みによる地震であったが、このときの地震は群馬県の地層の断絶による内陸型地震であった。現在でもこの地震の痕跡は確認でき、群馬県の前橋市から桐生市にかけて、最大四〇センチに及ぶ地割れの痕跡が確認できるほか、地層にはこのときに発生した土砂災害による地層形成が確認できている。
こうした地質調査の結果、このときの地震はマグニチュード八を軽く超える超巨大地震であったとされる。ちなみに、記憶にも新しい一九九五年の阪神淡路大震災はマグニチュード七・三、中国の四川大震災でもマグニチュード七・八、日本史上最大の被害となった大正時代の関東大震災でもマグニチュード七・九であり、マグニチュード八を超える巨大地震となると、その震源付近は震度七に軽く達する被害であったと推測される。
ところが、これだけの大地震でありながら、弘仁九年七月に発生したということが記録されているだけで、詳しい日付は不明である。また、大規模な土砂災害や、その結果の水害による多数の被害者が出たともあるが、被害の詳細はわからない。
朝廷がその情報を掴むのにも時間がかかったとみえ、地震の被害の調査と被災者の救済のための役人の派遣が決定され、被害の状況に応じた免税が命じられたのは八月一九日になってからである。
九月一〇日、嵯峨天皇が今回の地震は自身の不徳のためであるとし、徳を積むため、二年前以前の税の滞納を全て免除すると発表。
だが、これはさらに国家財政を悪化させるきっかけとなった。
関東の援助のために持ち出された財政の穴を埋めることができなくなり、その結果、貴族や役人の給与の支払いに支障が生じるようになった。
冬嗣は給与カットに次ぐ更なる禁じ手を出す。
一一月一日、新通貨「富寿神宝」発行。貨幣価値はこれまで流通していた銅銭「隆平永宝」一〇枚分とした。ただし、これまでの通貨よりも小さく、鉛分も多い劣悪な貨幣であった。
新貨幣は旧貨幣の一〇倍の価値があるため支払われる銭の枚数がヒトケタ減った。そして、旧貨幣と同じ素材で旧貨幣以上の発行枚数を出せたため、国の財政は一瞬ではあるが潤った。
だが、これはどうにもならない大インフレを呼ぶだけだった。
通例であれば、こうした騒動が起きた場合に真っ先に冬嗣攻撃を行う葛野麻呂であったが、このときはそれがなかった。
したくてもできなかったと言うほうが正しい。
一一月一〇日、藤原葛野麻呂死去。
葛野麻呂の死去により、冬嗣に対峙する人間が藤原緒嗣だけになった。
緒嗣は葛野麻呂のように野心あふれた人間ではないが、自尊心は強い。そのため、出世レースにおいて冬嗣に追い越されたことに対する反発心は強かった。
ただ、嵯峨天皇の信任という点で緒嗣は冬嗣に勝てなかった。特定の天皇の忠臣となったわけではなく、朝廷の一官僚に徹してきた緒嗣は、早熟の天才としてスピード出世を遂げることはできたが、それは途中まで。
はるか後ろを走っていたはずの冬嗣は嵯峨天皇の側近中の側近となった事でスピード出世を続け、弘仁五年に逆転。以後は冬嗣が緒嗣より上に立ち続けることとなった。