第四部 危機と絶望と
年明けの弘仁四(八一三)年一月一〇日、冬嗣のアイデアが第二段階に進んだ。特に取り立ての厳しかった一六人の国司が罷免され新たな国司が任命された。
と同時に、過酷な税の取り立てが取り締まりの対象となり、罷免されずに済んだ国司たちに言明され、特に取り立ての激しく、また不作が厳しかったところに集められたコメが分け与えられた。配布するモノの違いはあれ、定額給付金のようなものである。
この配布のときにちょっとしたトラブルがあった。
俘囚が反乱を起こしていると言っても俘囚の全員が反乱に参加しているわけではない。反乱に参加せずに俘囚の集落で暮らしている者もいるし、日本人と溶け込んで暮らしている者もいる。
この俘囚を配布の対象とするか否かが問題となった。納税対象はあくまでも納税してきた日本人だけとするか、それとも、生活苦に苦しむ者全てとするかで国論が二分されたと言っても良い。前者は、今は反乱を起こした俘囚との戦争状態にあることと、元々が税であることから税を払った本人に返すべきであることを主張し、後者は、困窮者を助けることが今回の給付の本筋であり、ここで俘囚を除外したら生活苦から反乱を起こした集団に参加しようとしたり、新たな反乱を起こしたりする者も現れるだろうと主唱した。
朝廷でもこの議論は起こったが、結果は後者が選択された。二月二五日、俘囚のうち、何かしらの公的な役割を担っていない者、つまり、役人となっている者や、俘囚の集落の村長を除く者を、日本人と変わらぬ給付を受ける対象とすることが宣言された。そして、反乱に参加する俘囚は給付対象としないが、反乱から離脱した者は対象とすることも宣告された。
民衆は、本心は不満だったが、反乱軍の軍勢を増やすわけにいかないという理屈は理解した。
そして、これが反乱軍の内部にも亀裂を生んだ。出雲を目指して進撃を続ける俘囚の意見が二分されたのがそれにあたる。
集団から逃れれば給付が受けられる。充分ではないかも知れないが、こうして反乱に参加したところで得られるものは少ないことを考えると、逃れることのほうがメリットに感じられた。
彼らは、日本人への復讐が動機であったとしても、自らに直接危害を与えた者をターゲットとするならともかく、今の自分たちがターゲットとしているのは自分たちに危害を加えたわけではない赤の他人。それをただ日本人というだけで襲い続けていることに疑問を生じてもいる一派であった。
だが、日本という存在から苦痛を受けたのだと考え、一時的な給付で恨みが消えるのかという思いも抱く一派もあった。自分たちが日本人への襲撃を続けているのは復讐のためであり、また、侵略されたことへの抵抗でもある。そして、最終的には京都からの独立を果たすのが目的とする一派でもあった。
前者は現実的かつ穏健派、後者は理想的かつ過激派と言っても良い。こういったときに、現状を受け入れるか、原理原則を貫くかということはいつの時代にも起こる。
前者のリーダーとなっていたのがタカキとトシネの二人、後者のリーダーがアラカキ。
はじめはともに日本への復讐を誓い合った仲であったが、このとき生まれた三人の間の溝は最後まで埋まらなかった。
二月二九日、予期していたことがついに起こった。
新羅軍第二陣襲来。
対馬に住む日本人一〇〇名以上を拉致した軍勢は南を目指した。
矛先は北九州でも山陰でもなく、五島列島だった。
新羅は、前年の対馬侵略失敗に加え、山陰の警備が強化されているという情報も掴んでいた。そのため、警備の薄いと考えられる方角から侵略するのが得策と考えて行動した。
だが、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)にも日本は海軍を配属してあった。その軍団の名を「基肆団(きしだん・「基肆」は現在の佐賀県基山町の当時の地名)」という。
基肆団は常駐の海軍と言うよりも、地域の漁師に武具を持たせて、いざというときに対処できるようにした自警団であり、その自警団が五島列島に侵略した新羅と対峙した。
戦いの様子は詳しく伝わっていない。全員ではないにせよ拉致された日本人の救出に成功し、新羅軍の死者九名、捕虜一〇一名の戦果を挙げたとあるが、敗走できた新羅軍の様子も、基肆団の被害も記録に残っていない。
ただし、結果だけはわかっている。
日本の完勝。
この後の日本と新羅との交渉も、戦勝国日本と、敗戦国新羅という関係で終始している。
三月一八日、日本国内にいる新羅人に対し、日本人となるか、新羅へ帰るかといった二択を迫った。多くの者は新羅を捨て日本人となることを選んだが、中には新羅へ戻る者もいた。
この敗戦は新羅人のプライドを傷つけるに充分だった。国力を挙げて送り込んだ軍勢が、地域の自警団に手も足も出ずに叩きのめされ、無条件降伏を余儀なくされたのである。
それだけなら戦闘の敗北で済むが、日本は、捕虜を手厚くもてなし、無事に新羅に送り届けたのである。
これは新羅人の自尊心をさらに傷つけた。海の向こうの野蛮の国と思っていた相手に、戦争だけでなく文明でも大惨敗を喫したのだから。
以前から、新羅からは多いときで年に一〇〇人単位の亡命者が日本へやってきていた。彼ら新羅人の日本国内における処遇は俘囚と同じで、日本より土地を与えられ農業で生活することを求められたが、税の負担は課されなかった。ただし、俘囚と違って新羅は農耕社会が浸透しており、自分たちは日本人より格上だというプライドさえ捨てれば俘囚よりは容易に日本社会にとけ込めた。
ただ、その最後の一点が問題となっていたためにとけ込めずにいた者が多かった。それは譲ることのできないプライドであり、どんなに貧困に陥ろうと、自分たちは日本人より格上という意識だけは捨てられなかった。
ところが、その最後の拠り所であったプライドが引き裂かれた。貧困の激しさから新羅から逃れてきたが、それでも新羅は祖国であり、アイデンティティでもあった。その新羅が日本に戦争を仕掛け、負けた。
待っていたのは、自分たちが敗北者であるという現実である。その上、亡命者自身はともかく、その子や孫となると日本の言葉しかわからず、日本の暮らししか知らない世代である。さらに、当時の新羅は今の韓国ほど名に関する思い入れを持っておらず、改姓も頻繁に行なっていた。
自分が敗戦国新羅の人間であるという思いより、先勝国日本の人間であるという思いのほうが強くなり、日本に残ることにした新羅人の多くが、このとき自分の名を捨てて日本名を名乗るようになった。
ただ、新羅相手には文明国で接した日本も、国内問題では野蛮な習俗が残っていた。
拉致。
今でこそ日本人は北朝鮮を野蛮人と馬鹿にできるが、この当時の日本は北朝鮮のことをそこまで笑えなかった。本人や親が承知した上の身売りだけでなく、誘拐や強制連行が頻発していたのである。
目的は、身代金よりも、拉致した人間の販売にあった。
あるときは労働力として、またあるときはセックスの相手として売り渡され、奴隷とされた。中には脱出できた者もいたが、多くの者が救い出されることなく留め置かれた。
国はこれを放置していたわけではない。実際、律令によれば、拉致した者だけでなく、拉致被害者を買った者も処罰の対象となっていた。ただ、検挙率が低かった。
新羅人に対する二択を迫った同じ日、拉致に関わった者に出頭するよう命じる布告が出された。
だが、これは、命令だけに終わった。
この拉致被害者がどういった境遇にあったかを伝える記録が六月一日付で残されている。
それによると、奴隷にされた者は、病気になると家を追い出されているとある。家を追い出されて行くところもなく、平安京の道ばたで横になり、病で亡くなるのを待っている人が多いことが問題となっていた。
無論、奴隷の全員がそういった境遇ではない。だが、これは決して珍しい現象ではなかった。
六月一日の布告で、こうした奴隷の養育放棄をした者は、鞭打ちの刑に処すとした。これは少しだけだが効果があった。
話は前後するが、その少し前の五月二五日、朝廷が行なってきた給付がついに底をついた。
そして、布告が出された。
『これといった災害が起きていないのに不作が続き、飢えに苦しむ人が続出しているのは、国司の圧制に原因がある。』
『農繁期に国司が農民に農作業ではない労働義務を課したために、農民が田畑を耕せず不作となった。』
『しかも、厳しい取り立てがよりいっそう民衆を苦しめている。』
『それだけしておいて、コメが足りないからと朝廷にコメの配給を要請するのは嘆かわしい。コメが足りないのは国司の責任なのだから国司がどうにかせよ。』
『これまでは対処してきたが、もはや国には余分なコメなど無い以上、今後一切、朝廷はコメの配給を行わない。』
原文はもっと厳かだが、要はこういうことである。
冬嗣は国の財政がどうにもならなくなった理由を国司に押しつけただけでなく、自分には何の責任もないと宣言した。
この時代、天災というものは単なる自然災害とは考えられていなかった。能力の欠けた者や悪事を働く者が権力を握ると現れる天の裁きだと考えられていたのである。
そう考えると、今のこの不作は権力を握った冬嗣に対する天の裁きとなる。実際、反冬嗣の者はそう考えていた。
だが、冬嗣はそれを認めなかった。天の裁きを認めないだけでなく、天災そのものを認めなかった。そして、現実に起こっている不作は全て人災だとした。
こう言われた側はたまったものではない。
雨が降らない。降ったかと思えば洪水。台風上陸に、イナゴの発生。これを天災と呼ばずに何と言うのか。
天災に対処すべき国がその責任を放棄し、その対処を各国に押しつける冬嗣の姿勢は新たな敵を生み出した。
ただし、一つだけ共通理解があった。
それは、国の財政が底をついたということ。
誰の目にも明らかとなっているこの問題に対応するには、冬嗣のような強引な言い訳を用意しなければならないのだろうとする考えを抱く者もいた。
では、本当に国のコメは尽きたのだろうか。
その五日後の五月三〇日、嵯峨天皇は文屋綿麻呂を征夷将軍に任命した。対俘囚の最高司令官である。
人選に困り、軍事費に困っていたはずなのに、スムーズに指名し行動している。
どうやら、国のコメが尽きたと言っても軍勢を出せるだけの余力はあったようである。ただ、地方の援助に回せるほどではなかったということらしい。
もっともこれはここ数年の通常の光景である。ただ、異常事態であることは確かであり、その状態を納得させる手段として今は戦時下だと宣言することで今まではどうにかできていた。
ところが、新羅に完勝し新羅を無条件降伏させたことで、日本の敵は一つ減ってしまった。
それは喜ばしいことなのだが、同時に困った問題も生んでいた。今の重税は戦時の臨時税であるのだから、新羅降伏により戦争が終わった以上、余った分は返して貰えるとする雰囲気が広まっていたのである。
だが、そんなコメなどなかった。だいいち、もう配り終えている。しかし、新羅降伏という事実がある以上、このままでは税を返すべきと言う意見に対し何もできない。
そこで考えたのが残る敵である俘囚討伐。その司令官に綿麻呂を選んだのも、何と言おうとこの時代の最高の指揮官なのだから。そして、今はまだ戦争中であり、国内の敵を倒すことを優先させなければならないという姿勢を打ち出すことで、税の返還要求を封じようとした。
縄主に預けられていた軍事力は再び綿麻呂の元に集い、これまでとは逆の方角である西へ向けて軍勢を出発させた。
天災は無いと宣言した冬嗣であるが、無いと宣言できただけで天災から逃れられるわけなどない。
六月二日、石見国(現在の島根県西部)と安芸国(現在の広島県西部)で洪水が発生。
翌三日には、大隅国と薩摩国(ともに現在の鹿児島県)でイナゴが大量発生。
どちらも紛れもない天災であり、田畑に壊滅的な被害をもたらしたため、税の免除が命じられた。
イナゴは一〇月にも発生し、洪水ではないが大型の台風が同じく一〇月の二九日から三〇日にかけて九州全域を襲った。
ただ、どうやらこの弘仁四(八一三)年は、天災に遭わなかった地域についてなら、まずまずの収穫であったようである。
こちらも時間が前後するが、一〇月三日に嵯峨天皇は豊作への感謝を神に捧げており、また、天災と免税の記述はあるが、不作に関する記録もない。飢饉の記録も、飢饉に苦しむ民衆を救ったという記録もない。
冬嗣の対面を維持するために、本当は不作であったのに記録に残さなかったとする考えもあるが、だとするなら天災の記述をしておきながら不作の記述をしないのも理不尽である。
ここは、文字通りまずまずの収穫があったと考えたほうがいいだろう。
そこで先に述べた冬嗣の宣言、すなわち、不作は国司のせいとする意見を思い出してみると、それがあながち的外れではないのではという思いを抱かせる。
内容がいかに言いがかりであろうと、冬嗣は人事権を握っている。国司としてふさわしくないとなったらいつでもクビにできるし、実際、年始には大量一六人もの国司をクビにしている。
いつでもクビにできる人間が命令を下している以上、クビになりたくなければ、いくら言いがかりでもそれに従わざるを得ず、結果、国司の厳しい取り立てや労働義務は減っただろう。
また、冬嗣は出挙について何も言っていない。しかし、最高利率を三〇パーセントとする法はなお有効であり、国司はそれも守らなければならなかったはずである。
労働義務が減ったか無くなったかはわからないが、少なくとも農民が田畑に専念できるようになったことは大きかった。そして、取り立てを厳しくしないというのも大きかった。
その結果が、記録されることのない程度の収穫が出たということにつながったとは、あながち間違いだとは言い切れない。
ただし、財政問題の解決とはなっておらず、陸奥・出羽両国に常駐する兵士の維持費を、越後国と信濃国の両国に負担させるよう命令が出ている。
さて、この陸奥・出羽両国に常駐する兵士であるが、大規模な軍事攻勢に出ることはなくても、小規模な出動なら頻繁に繰り返していたようである。本州全域を制圧したと言ってもまだ蝦夷の残党は残っているし、海の向こうからやってきた集団に対しても向かい合っている。記録には、ただ軍勢が出動したとあるだけでその詳細は記されていないが、これも記すまでもない程度のものだったからであろう。
そして、記録が残されていないのがもう一つある。出雲の俘囚の反乱と、それを鎮圧すべく西へ向かった綿麻呂の行動についての記録が残っていない。
反乱があって鎮圧したとは書いてある。ただ、その詳細が残されていない。
一一月一日、八ヶ国の国司に対して俘囚の陳情を可能な限り聞き入れ、これ以上の反乱を起こさぬように務めよと命じている。と同時に、俘囚に対しても、陳情先は国司までとし、中央への訴えは正式な手続きを経ない限り認めないと命じた。
本来ならばこの八ヶ国だけでなく全国の国司に命ずべきところのはず。しかし、八ヶ国に限っているのは、それが俘囚の反乱への対策であり、対外関係対策もあったのではなかろうか。
命ぜられた八ヶ国は、播磨(兵庫県西部)、備前、備中(ともに岡山県)という当時の京都から出雲に至るルートにある国と、筑前・筑後・肥前・肥後・豊前の九州北部の五ヶ国。前者は出雲の反乱の拡大防止があり、後者は俘囚が新羅と連帯するのをくい止めるという意味があった。
新羅が無条件降伏したことは、新羅が二度と日本に攻め込まなくなったということではない。むしろ、復讐心を呼び起こしてさらなる侵略をたくらむ動機になる。
その新羅にとって、日本国内で反乱を起こしている俘囚は、敵の敵であるがゆえに味方であり、充分利用できる価値がある。
その流れをくい止めるには、新羅との接触の多い地域にいる俘囚が、新羅ではなく日本を選ぶようにしなければならない。
この年の年末年始にかけては平穏であったようで、これといった記録はみられない。
そして、出雲の反乱もどうやらこのあたりで解決したようである。弘仁五(八一四)年二月一〇日、出雲反乱討伐に功績があったということで、俘囚であるキミモシに、外従五位下という、ギリギリではあるが貴族の一員に加えるという特別処置が下された。この人物についての詳細は不明だが、おそらく、綿麻呂に従って参戦した者の一人であろう。
一五日にはタカキとトシネに報償が出ている。ただし、タカキとトシネの報償はアラカキに妻と子を殺されたことへの見舞いという名目であり、どうやら、俘囚の反乱の末期は、日本を敵とするのではなく、仲間同士が殺し合う凄惨な状況が展開されていたと思われる。
おびただしい血が流れたはずだが、それでも、これによってひとまずの争乱は収まった。
四月二八日、藤原冬嗣、従三位に出世。
同時に、式部大輔を辞任。
理論上、これで冬嗣は人事権を手放したことになる。
だが、従三位となったことは、冬嗣に権威をもたらした。
もはや知らぬ者のいない嵯峨天皇の右腕である。数多くいる三位以上の者の中で、冬嗣は頭一つ抜け出ていた。
桓武天皇の忠臣たちがただ一つ寄って立つところは、自分が冬嗣より上の身分であるという一事。権力ならともかく権威なら冬嗣を上回っていることが最後に残されていたプライドだった。
その冬嗣が三位になった。これで権威でも冬嗣が自分たちに並んだことになる。これは桓武天皇の忠臣たちにとって最後の一撃となった。
彼らは、もはや自分たちの時代ではないこと、そして、自分たちの次の世代が時代を掴んだことを悟った。
それでも、少なくとも嵯峨天皇の前での言論の自由はあった。そして、そのことだけは桓武天皇の頃と変わらなかった。
ただ、葛野麻呂がいかに冬嗣に反発しようと、緒嗣のように辞職をかけて冬嗣に抗議しようと、その意見が採用されることはなかった。
薬子との恋に生きた平城天皇と違い、冬嗣は恋愛で人生を左右してはいない。セックスをして子供も残したが、関係を持った女性はあくまでもセックスの相手であり、心を狂わせる相手ではなかった。
では、平城天皇の弟である嵯峨天皇はどうか。
恋愛感は冬嗣に近いと言える。後嗣をもうけることも天皇としての義務だと考えたのか、一人の女性に愛情を注ぐのではなく数多くの女性と関係を持っている。
ところが、その数がすごい。
皇后以下、最低でも二九人の女性と関係を持ち、男子二一人、女子二二人、合計四三人の子をもうけている。
後継者がいなくなったために断絶した天武朝の教訓、そして、恋愛で人生を狂わせた兄平城天皇の負の記憶もあるだろうが、それにしても多すぎる。
そのため、嵯峨天皇は子供たちの何人かを天皇家から除外することを考えた。なにしろ、子供たちの養育費だけでも国家財政に関わる問題となっていたのだから。
貴族の子でも民衆の子でもない、連綿と続く天皇家の子供である。その時代の最高の環境と最高の教育を用意しなければならない。同じことを貴族が子供に対して自分の財産を用いてやっても文句を言われないのに、天皇家はそのカネの出るところが税金であるがために、財政問題と連動して考えなければならない宿命を持っている。
五月八日、嵯峨天皇は、自分の子供のうち、すでに『親王』や『内親王』の位を得ている者を除く全員を、皇室から離脱させ、臣下の一人として遇すると発表。また、これから産まれる子についても、皇后から産まれる子については皇室に留めるが、それ以外の子は皇室から離すとした。
これに対する反対意見が翌日奏上された。この世が誕生した頃から天皇家とそれ以外の者とは明確な区別が成されており、天皇家として生まれた者が臣下となるなど例が無く、それを知った後世の有識者も穏やかなことではないと判断するであろうという理由である。
資料には『公卿』とあるだけで、誰がその反対意見を述べたのかは伝えられていない。ただ、おそらく桓武天皇の忠臣の誰かだろう。
この意見は封殺され、嵯峨天皇の子がこのとき、大量に臣下となった。その後も産まれた子を臣下にすることが続き、二一人の男子のうち一七人、二二人の女子のうち一五人、合計三二人に『源』の姓が与えられ、臣下となった。
後に何度も行われることとなる臣籍降下のはじまりである。
反対意見が出された同じ日、新羅から非公式な接触があった。国交回復を求める接触である。
嵯峨天皇はこれに対し、新羅が敗戦国として臣下の礼をとるなら接するが、対等な関係を要求してきたときは交渉を打ち切って使者を帰国させるよう命じる。ただし、帰国費用や帰国に使用する船は日本で負担するとした。
これに対する新羅の反応はない。
だが、想像はできる。
唐との関係も渤海との関係も進展せず、唯一外交関係を結べそうにあったのが日本だった。ところが、不作からの脱却を求めて日本に対して行なったのが、外交に基づく援助の要請ではなく軍事侵攻。しかも、失敗して無条件降伏に追い込まれた。
何とかもう一度外交を切り開いて貰おうと使者を派遣したが、日本が平城天皇の頃の平和路線ではなく、強攻策を貫いて新羅と敵対関係で終始した桓武天皇の時代に戻っていたと確信したのではないか。
新羅を統治する憲徳王は八方ふさがりの状態に陥った。新羅国内は盗賊が強盗団を形成するに及び、唐や渤海といつ戦端が開かれるかわからず、無条件降伏したゆえに平和となった日本との関係も喜べるものではない。
これは新羅にとって絶望以外の何物でもなかった。
現在の韓国史の研究者は西暦七八〇年頃から滅亡までの新羅を「新羅下代」と呼んで新羅衰退期にあったとしている。この当時の人も新羅が衰退期に入ったことは感覚として掴めていた。ただ、その新羅があと一〇〇年生き残るとは誰も予想していなかった。
一息ついたと思われた不作。
しかし、収穫があったと言っても次の収穫までの余裕があったわけではない。
自ら耕したものを生活の糧とする人々の生活の状況は断片的にしか残っていない。
その断片ではこのように記されている。
『本来なら国司が郡毎にコメの収穫をまとめるべきところであるが、国司や役人の怠慢によりそれが行われず、中央への報告が国単位でまとめられているため、郡毎の貧富のばらつきが中央で把握できなくなっている。』
『国司や国衙に勤務する役人の給与は国衙の近くの郡の収穫が充てられ、それより離れたところの郡のコメが出挙の原資として使われているため、国衙近くのコメが遠くの郡へと流れることとなり、国衙より遠ければ遠いほど豊かな暮らしとなっている。』
『それでありながら同じ税が課されるため、貧しい地域は税に加え出挙の返済でますます貧しくなり、豊かな地域は税があっても出挙の収入があるため豊かになっている。』
これは一〇〇パーセント真実を伝えているとは言い切れないが、一つだけ考えさせられることがある。それは、地域による貧富の差が起きていること、それも、地域の中心ではなく地方のほうが豊かになっているという、歴史的にはあまり見られない現象が起きていること。
ただ、実際にはそういうこともあったのではなかろうかとも思わせる。
各地の地方史を見てみると、その地域の歴史が千年以上もの間連綿と続いていることがよく見られる。文字に残された記録だけではなく、また、遺跡に注視するのでもなく、今なお使われている田畑や道路といった生活を見れば、長い間そこに集落が存在し、その集落では生活が存在していたことも読み取れる。と言うことは、貧しいと言われ、収穫が乏しくても、そこに暮らす人がいて、世代が受け継がれ続けてきたと言うこと。
生活できないほど貧しい集落は存続できない。頑張ろうが無茶しようがそこでは生活できないのだから、住民全てに見捨てられたか、意地で残った場合は生活できずに餓死となっていなければおかしい。逆に言えば、存在していると言うことは、不作であってもその集落で生活できたということ。つまり、その集落は、自然環境によるのか、土壌によるのか、農業技術によるのか、あるいは交通事情によるのかはわからないが、収穫にしろ交易にしろ、生活できるだけの何かがあり続けた集落ということになる。
それまでは、どのような事情があろうと建前としては全ての集落が平等であり、平等に田畑が分け与えられているはずだった。班田収受はこの平等を前提とした制度であり、地域による格差は断じて許されることではなかった。
だが、格差はあった。それも平等の名目を破壊するほどの格差が。
その格差がどうにもならなくなったとき、班田収受は崩壊し、集落の淘汰が始まった。
この時代、ある程度の収益のある集落はますます豊かになり、そうでない集落がますます貧しくなっていた。
それは、富というものがが、一部の恵まれた特権階級のものではなく、ごくありふれた一般市民のものとなったということ。
それでいて、富を得て豊かになった当の本人は、自分自身のことを、特権階級ではなく、税を搾取される貧しき庶民と認識し、税に加えて出挙の返済も迫られる本当に貧しい人のことは自己責任の一言で捨てるようになった。
たった一度の出挙の利用が勝ち組から負け組へと転落する。そして、転落したら最後、勝ち組に戻ることはできない。
それは問題だと考える者は多かったが、その解決は朝廷の責任にあるとされ、本来の解決方法、すなわち、勝ち組が自分の特権を捨てて負け組を勝ち組に引き上げることは断じて拒否した。
今と変わらない、敗者復活の機会のない格差社会が誕生した。
しかし、何も格差社会を誕生させようとして諸々の制度を制定したのではない。それどころか、一つ一つの制度は格差を無くそうとするために始めたことである。
出挙は貧しい人を助けるためのものだった。
特権階級への課税も貧富の差を埋めるためのものだった。
手厚い福祉も財産の差による生活水準を均等化する目的だった。
ところが、そのどれもが格差を広げ、格差を固定化するに役立つだけだった。
出挙は貧しい人を苦しめ、豊かな者を富ませるだけだった。
特権階級への課税は、限られた特権階級の没落と、その下に位置する数多くの豊かな者の特権階級化を生んだ。
手厚い福祉は財産の差による生活水準をさらに広げた。
一つ一つは格差を無くそうとする動きなのに、格差を無くそうとすればするほど、些細な差が絶望的な格差となって現れる。
これは何も今に始まった問題ではない。
現在の過疎の問題も、都会への憧れによって若者が都会へ出て行ってしまうことが原因として挙げられることが多いが、それよりも大きな理由がある。
そこでの生活がいやだからということ。
平安京に流れてきた人は、集落での暮らしが生活できるほどではなかった人たちである。そして、その流れがずっと続いている。残酷な言い方をすれば、死んでも死んでも難民が減らない。だが、出挙バブルが破綻し不作が始まったのは二ヶ月前とか三ヶ月前とかの話ではない。数年に渡った話である。
ならば、いま平安京にたどり着いたばかりの者というのは、不作と言われようと、少なくともついこの間まで農村で生活できていた者ということになる。
人が都市に流れるのは、都市に行けば豊かになれるからではない。都市が便利で、文化水準が高いからでもない。都市に行く以外どうにもならないと思い詰めたからである。
この時代で言えば、不作でも来年の収穫まで何とかなると思えば集落を離れないが、来年の見込みも見込めないとなったら都市へと流れる。
では、なぜ都市か。
理由は単純で、農村が彼らを受け入れないから。
土いじりが嫌だとか、農業なんてしたくないというのもあるだろうが、それよりももっと大きな理由は、収穫の多い集落に行ったところで耕すべき田畑がないということに尽きる。
勝ち組となった農村は新しい人を受け入れることをほとんどせず、仮に受け入れたとしてもヨソ者として扱った。田畑や山林を譲るのは自分の子であって他者ではなく、その集落に生まれたのでも譲るべき田畑がない子は、自分で田畑を切り開くか、跡継ぎのない家の田畑を継ぐか、集落の外に出るしかない。
それが自分たちの富を守るための選択だった。
富は増やし守るものであって、他者に分け与えるものではないと考える者は多い。妥協しても同じ集落の者は助けるが、見知らぬ集落の見ず知らずの赤の他人を救う意識は全くなかった。
無論、貧困や格差が大問題だということは知っている。
しかし、彼らにとっての真っ先に解決すべき問題とは、他人より自分の富が少ないことの解決であってが、その日の食事に困る人の救済はその次。そうした人を救うのは国の役目であり、いくら救済のためであろうと自分の富を減らすなどあり得ず、救済のための税はとっくに払ったという態度で終始している。
今の日本では、勝ち組の高齢者と負け組の若者という関係だが、この当時の日本では、勝ち組の農民と、負け組の都市難民という構図だった。
では、格差の負け組を受け入れた京都はどうだったのか。
都市は農村と違い、仕事とつながるのは給与であって収穫ではない。つまり、生活のためには受け取った給与を持って市場に行き、食料や生活用品を買わなければならない。
その市場の物価が上がっていた。
市場は政策ではなく経済で動く。物価を決めるのは需要と供給のバランスであって、物価をいくらにせよという命令ではない。無理して値下げさせることはできたが、供給とバランスのとれない命令された物価は直ちに品不足を呼び寄せただけだった。
そして、命令を無視する闇市場にモノが集まり、そこでは需要と供給のバランスのとれた値段でモノが売買されるようになった。
何かしらのモノを持つ者はそこで売ることで利益を稼ぎ、転売を繰り返すことで富を増やした。一方、売るべきモノを持たぬ者は闇に足を踏み入れることも許されなかった。
ここでも、すでに持つ者がますます富み、持たぬ者が貧しくなる光景が繰り返された。
持たぬ者のほとんどは地方から逃れてきた人。彼らは都以外に行くところがないからやってきたが、都に出ても職など無く、収入のアテもなかった。
ここで解決すべきは失業問題でなければならなかったのに、冬嗣の選択は違った。
六月三日、京都でおよそ一年ぶりとなる施を実施。これは一瞬ではあるが、京都に流れ込んだ民衆を救うことになる。ただし、根本解決とは至っていない。
その上、これまで税の免除を申し出ることの少なかった京都近郊から不穏な知らせがもたらされた。
気候や土壌の良さに加え、農地面積当たりの人口も多く、技術革新も進んでいたため、他の地域よりも安定した収穫があったのが「畿内」とも「五畿(現在の読みは「ごき」であるが、当時の読みは「いつつのうちつくに」)」とも言われる、摂津、河内、山城、大和、和泉の五ヶ国である(かつては河内と和泉が一つの国であり「四畿」と言われていた)。
この五ヶ国は今で言うと「首都圏」を構成する地域であるが、今の首都圏と違い、他の地域以上の義務が課される代わりに、他の地域にはない様々な特権が与えられていた。税率が他の地域より高かったが、国家予算は優先的に配分され、福祉の恩恵も他より多かったのである。それでも、より多くの義務に対するより多くの権利と考えられ、この当時は特におかしなこととは考えられていなかった。
そのうちの大和国と河内国から、税の減免を求める嘆願が届いたのは前代未聞だった。法に定められたことではないが、経済基盤を五畿に置く貴族は非常に多く、そこで自分の土地を広げて収穫を獲得し、自身の収入としていることが普通だった。
その五畿の不作に貴族たちは慌てふためいた。それまで悠長に構えているところもあった不作が、自分たちのフトコロを痛める現実のものとなったのである。
七月二一日、農家の破産を防ぐために、大和・河内の両国に対し免税を指令する。
しかし、免税を指令しても収穫がでないことにはどうにもならない。そして、この年の収穫は絶望的だった。
梅雨だというのに雨が降らず、作物は枯れ、田畑は水不足からひび割れを起こした。
この干害は五畿だけでなく、近畿一帯を襲った。
七月二五日、嵯峨天皇はこの干害の責任は国司にあると宣言。中国の故事を持ち出し、国司の非道な行いに対する天罰が今回の干害であるとした。
これに対する国司たちの態度は記録に残されていない。
民衆からは施を求める声が挙がったが、その財源などなかった。それどころか、首都圏の免税を埋めるべく、いかに税収を増やすかに苦心していたほどである。
冬嗣はこれに妙案で応じた。
八月二九日、高齢者、母子家庭、障害者、孤児に限定する支給を行うと宣言。ただし、この時点では何をどれだけ支給するかは決められていない。
九月一一日、その第一回の支給内容が公表された。一〇〇歳以上の老人に穀物四俵(約一二〇キロ)、九〇歳以上で穀物二俵(約六〇キロ)、八〇歳以上で穀物一俵(約三〇キロ)、その他の者が穀物一斗から三斗(約六キロから一八キロ)。今は一〇〇歳を超える老人など珍しくもないが、五〇歳で老人扱いされる時代の一〇〇歳は現在の感覚で行くと一三〇歳を超える超長寿。探せばいるかも知れないが、まずありえない数字である。
施はする。それも充分な量の施を定期的に行う。ただし、それは、働けない者やハンデを背負っている者に限定する。
これは京都の民衆を黙らせるのに充分だった。
自己責任による貧困の打開に目覚めたのではない。
冬嗣を見放し、朝廷はもう頼れないと考えたのである。
それまでは、批判はしていたが、少なくとも施がありその日の食料にありつけた。しかし、これからはもう考えられない。
困っていることをいかに訴えようと、高齢者でも障害者でもないと判断されたらそれで終わり。自分でどうにかしろと言われるだけ。
彼らは自分の力で生きて行く以外に方法が無くなった。
と書けばまだ格好はつくが、仕事も収入もない状態で生きていくとなると、残飯を漁るか犯罪に手を染めるしか無くなる。
もともと良いとは言えなかった治安がより一層悪化し、その対策のために、福祉を減らすことで浮いた以上の負担を強いられることとなった。
近畿を襲った干害が収まったのは秋になってから。収穫の季節が終わってから雨に恵まれ、一〇月には雪にも恵まれた。
そして、一二月二日には京都の都市機能を麻痺させるに充分の大雪が降った。
その大雪の前日、画期的な布告が出された。
東北地方を平定したとは言え、それまでは、日本人は日本人として扱われ、俘囚は俘囚として扱われていた。戸籍や住民台帳にも「夷俘」とだけ記され、俘囚の氏名は記されなかった。
しかし、今後は俘囚であろうと姓名を記すよう、役人に命じられた。
これにより、少なくとも法の上では俘囚がいなくなったのである。無論、自己のアイデンティティを蝦夷に置く者もいるし、日本にあくまでも逆らおうとする者もいる。
しかし、法の上では平等となった。
このあたりから資料上の俘囚の名が消え出す。と言っても、俘囚が死んでいったからではない。俘囚の名でなく日本人風の名を名乗る者が増えたからである。それは流行でもあり、また、現実的な判断でもあった。
俘囚の反乱が鎮圧されたということは、俘囚が日本人に見下される日々が再開されたということでもある。そのときの身を守る手段の一つが名の変更であった。
俘囚だけの集落や俘囚だけの家庭内では改名前の名が使われたかもしれない。だが、その外では日本人の名であった。
特に、俘囚の若者にその流れが強かった。
日本人の名が格好良く感じられ、日本人の暮らしも格好良いものに映った。野や山林を巡り歩いて獲物を見つける暮らしより、田畑を耕す暮らしのほうが格好良いものと考えられた。
これは悪く言えばアイデンティティの喪失であり、蝦夷の暮らしを誇りとする年長者は怒りをもってこの情景を眺めたが、昔ながらの暮らしをみっともないと見る若者に、そんな苦言など通用しなかった。
俘囚はこのあとも日本人と同化していき、翌年には俘囚出身の貴族が誕生する。それまでにも貴族となった俘囚出身者はいたが、それは戦乱の功績であり名誉職的なところもあった。だが、それより先は一般の貴族として列せられることとなる。
これとは別であるが、もう一つ、自らの意志で日本人に加わる者がいた。
一〇月二七日、新羅からの亡命者二六人が大宰府へ漂着。それまで非合法な形で日本へやってくる新羅人は数多くいたが、大宰府に正式に届け出た上で、日本への帰化を望む形での亡命は珍しかった。
弘仁五(八一四)年は渤海使来朝の年でもあった。新羅とは戦端を開かれてもおかしくない情勢であったが、渤海とは一貫して友好関係を築いていたのが日本の外交である。
ともに新羅を仮想敵国とする同士、両者の関係は渤海滅亡まで友好関係のままであった。
それは、両国間に適度の距離があり、民間人の交流が乏しかっためであろう。新羅も渤海と同様に海を隔てているが、当時の民衆にとっての新羅は目に見える脅威であり、生活の中で目の当たりにできる新羅人とは、亡命人よりもむしろ強盗であり殺人犯であって、友好や尊敬を抱ける相手ではなかった。
だが、渤海は違う。まず、渤海人が日本に来ることは滅多になかった。来たとすればそれは渤海からの正式な使節であり、彼らが日本人と接触するときも当代きっての文化人との交流であって、民衆の生活には脚を踏み入れていない。
おそらく、当時の民衆は渤海を知識としては知っていても、生活の中で意識することはなかったはず。意識することがあるとすれば渤海からの使者を迎えたときの歓迎ムードであり、そのときのお祭り騒ぎぐらいなものであろう。
友好を前面に立てた上で民間人の交流がない状態を維持できれば、関係を悪化させるほうが難しい。
ただし、渤海は文化的な交流をするために使節を日本に派遣したのではない。
渤海もまた日本と同じ問題を抱えていた。
環境の変動による不作と経済不振である。
新羅と敵対し、唐とは一定の距離を置く渤海にとって、最大の味方であったのがこの当時の日本である。
渤海は日本の援助を求めてきた。
と言っても、日本の無償援助を要請したのではない。
渤海で穫れる毛皮と日本の穀物との取引である。
「難しい問題になりました。」
冬嗣は渤海の要請に頭を抱えた。
友好関係にある渤海との関係を壊すわけにはいかない。だが、渤海に渡すだけの穀物はなかった。
「毛皮は魅力的です。着込んで暖をとるだけでなく、財貨としても有用です。」
「今の国庫から出せるとすればどれだけだ。」
「無です。それどころか、今の国庫のままでは収穫まで持たせることができません。おそらく、夏には尽きるでしょう。ここで渤海の要求を受け入れた場合、最悪の結果として十万人規模の餓死者が出ることもあります。」
嵯峨天皇も迷っていた。
今年の税収で得たコメを渤海に渡すことは二つのメリットがあった。
渤海にとって日本が最大の味方であると同様、日本にとっても渤海が最大の同盟国である。新羅を降伏に追い込んだとは言え、新羅と友好関係を築けていない以上、孤立を避けるためにも渤海と敵対関係になることは何としても避けなければならない。
そして、渤海の持ち出した条件である毛皮もまた魅力的な条件だった。毛皮は単に着るだけではなく、コメと同様の貨幣として立派に通用した。絹などの布地も含め、衣料はコメに次ぐ価値を市場で持っていたが、毛皮はそのトップに君臨していた。
だが、それで失われる食糧が問題だった。
嵯峨天皇は結局結論を出さず、この問題に時間をかけるとした。
この状態で年を越す。
渤海からの使者もまた、日本で新しい年、弘仁六(八一五)年を迎えた。
その間も、朝廷では討議が繰り返されていた。
意見は真っ二つに分かれ、そのどちらも優位を占めなかった。
何と言っても毛皮は魅力的であるが、それは毛皮が高価だからではない。この時代の経済の基礎の第一はコメだが、絹や木綿といった布地もコメに次ぐ地位を占めていた。そして、毛皮はそうした布地の頂点に位置していた。
つまり、交易による毛皮の獲得というのは、高価な製品がもたらされるというだけではなく、財政を好転させる要素でもあった。
その上、最大の同盟国との交易である。ここで断ることは、これまで友好を築き上げてきた日本の対渤海関係を悪化させる要素になりかねなかった。
だが、その対価は日本にとって重すぎる負担だった。
コメに限らず他の穀物も不足し、庶民の食糧事情が悪化している状態での食料輸出は簡単にできることではない。
高価な財貨と対外友好を得られる代償としては重すぎる。
一月二二日、渤海使帰国。
結論がどのようなものであったかは伝えられていないが、使節は手ぶらで帰国したわけではない。
遺跡からの出土品から推定すると、どうやら、絹や木綿といった衣料を持ち帰ったらしい。
これは日本の出来るぎりぎりの譲歩だった。
コメに次ぐ価値を市場で持つ製品の輸出、しかも、渤海では日本以上に高値で取引される布地の輸出であれば、対外友好も、使節のメンツも立たせることが出来る。
ただ、渤海が当初求めていた結果でないことは事実であり、嵯峨天皇は渤海国王宛に国書を送っている。
このときもたらされた渤海の毛皮は朝廷の財政を幾分か軽くし、市場に流されることで、市場の衣料の価格を下げるのに貢献した。
この年の冬は例年より寒く、暖をとるための燃料のために山に入って木を切ろうとして捕まる者も出ていたほどである。この状況でもたらされた毛皮は凍死者を減らすのに役立った。
役人の腐敗は止まらないどころか悪化していた。
無論、それに対して何もしていなかったわけではない。
二月九日、横領の容疑で複数名の役人が逮捕された。ただし、懲戒免職となった三名と、発覚する前に死去していたため免罪となった二名の名が伝わっているが、その他の名は伝わっていない。
その一方で、民衆のためを思って働いていた役人もいた。渤海使帰国後は空室となった鴻臚館(こうろかん・現在で言う迎賓館)を、住まいを失っている民衆の避難場所として開放したのもその例である。
ところが、その行為は善意であったが、結果はそうではなかった。
売ればカネになるとカベを引き剥がし、屋根瓦を持ち去り、庭の木を切り倒し、賓客歓待用の食器は勝手に売りさばくといった行動が当たり前になり、よかれと思ってやった食糧配給は夜中まで続く宴会を呼び、ついには些細な口論から乱闘が繰り広げられた。
このときの状況は、厚生労働省の講堂で寝泊まりした年越し派遣村の面々の行動を思い出していただければいい。その時代にタバコはないからその場に棄てられた吸い殻の有無だけは違っているが、これ以上ないほど汚しまくり、復旧するまでにかなりの手間と時間を要したのはこの時代も同じである。
三月二日、鴻臚館は閉鎖され、そこに住んでいた人たちも追い出され、以後、鴻臚館の開放は国外からの賓客を迎えるとき以外厳禁となった。
同じ月、禁止されたのがもう一つある。三月二〇日、陸奥・出羽両国からの馬の買い付けが禁止される。この両国出身の馬は高値で取り引きされた上に、上流階級の間で馬の飼育がブームになっていたことから、数多くの馬が陸奥や出羽から京都へと流れ、東北地方での軍備の維持に困難が生じるようになっていた。
この時代の馬は単なる動物ではない。現在の感覚で言うと、オートバイであり乗用車である。現在の成功した人間が高級車を選ぶように当時の成功者はより優れた馬を手に入れようと努力した。持っている馬の優劣がそのままその人のステータスになっていたのだから。