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第三部  経済危機、そして、腐り出す

 国家財政はもはやどうにもならないものになっていた。

 前年秋の収穫が乏しく、税収は悪化の一途をたどっていた。

 そして、ついに役人に支払う給与もなくなった冬嗣は禁じ手に手を染めた。

 三月一日より、給与支給をコメから銭へ変えると宣言したのである。

 この時代は国家による通貨供給量がコントロールされている時代ではない。銅があればあるだけ鋳造され、市場へ流れていた。その上、私鋳銭(市民の手による勝手な銅貨鋳造・今で言うニセ札)も大量に流通していた。

 そこに訪れた不作。

 市場のコメは値上がりし、それは他の物資の値上げも招いていた。法によればコメ一升(当時の一升は現在でいうだいたい〇・七リットル)につき銭一枚というのが決まりだったが、そのような決まりなど市場の論理の前には何の役にも立たない。増え続ける銭と減り続けるコメとの関係は、コメ一升が銭二枚、二枚が四枚、四枚が八枚と、銭の価値を落とすだけだった。

 給与がコメで払われている間は、給与であるコメそのものが市場で高い価値を有するものであるため役人の生活はある程度保証されたものになっていた。給与として受け取ったコメを市場に持っていけば、コメの値段がそれ以外の品よりも上がっているため他の品を買いやすくなっていたのである。たとえば、それまでコメ五合出さないと買えなかった服が、コメ三合で買えるようになっていた。

 つまり、物価そのものは上がっているのだが、コメの価値がそれ以上に上がっているため、京都の民衆にとってはインフレでも、官庁に勤める給与生活者にとってはデフレになっていた。

 ところが、給与がコメから銅銭になり、市場に流れ込む銅銭が一気に増えた。

 これはただでさえ混乱していた市場により一層の混乱をもたらすだけだった。

 ハイパーインフレ発生である。

 役人たちはこれ以上価値を落とす前に給与を全てコメに変えておこうと市場に殺到し、それがかえってコメの値段を上げることとなった。そして、受け取った銅銭だけでは生活できないため、ある者は残業を増やし、ある者は副業に手を出し、ある者は不正な手段に手を出すこととなった。

 農業を除く副業は禁止されており、不正な手段などは論外である。そのため、残業を増やすことで収入を増やそうとした者がいた。

 この時代の法で定められている勤務時間は、五位以上と六位以下とで分けられる。

 五位以上は日の出から正午までのだいたい六時間が勤務時間であるが、緊急会議が行われる場合は午後や深夜まで突入するし、その場合でも残業手当は出ず、休日手当という概念も、休日という概念もない。現在でいう残業代が支給されない管理職を考えていただけるとわかりやすいだろう。ただし、五位以上になるというのはかなりの出世であり、その報酬も多く、名ばかり管理職ではなかった。現在のサラリーマンでいうと少なくとも取締役以上の身分になる。

 六位以下は五位以上と同様に日の出とともに出勤するが、正午までではなく日の沈むまでのだいたい一二時間が勤務時間となる。日の沈んだあとも勤務した場合は残業手当が支給される。また、五日間働くと一日の休日が与えられ、その休日に出勤した場合は休日出勤手当が出る。これは現在で言う残業代の出るサラリーマンと変わらない。もっとも、五位に近い六位とか七位の職務になるとその責任も給与も多くなっており、現在の企業でいうと部長や支店長クラスに該当する。

 この残業手当と休日出勤手当を命綱と考える者が増えた。

 と言っても、引き受ける仕事を増やしたのではない。

 能率を下げて仕事を後ろにのばし、仕事の有無に関わらず休日でも出勤するようになった。記録によれば、このときの役人の労働時間は最も多い者で一ヶ月に四五〇時間に達したとある。

 もっとも、それは長続きしなかった。

 そうして増やした時間外手当を持って市場に行っても、同じことを考える役人や、手持ちの銭をいち早くコメに変えようとする者がうごめいていて、コメの値段をみるみる突き上げていったことを知ったから。

 役人の超過勤務は一ヶ月で終わった。


 マジメな役人はやる気を失い、マジメでない役人ともども、本業そっちのけで副業に手を出すようになった。四五〇時間働いた者はもういなかった。その代わり、三日に一度しか出勤せず、出勤してもいつの間にか早退している者が続出した。彼らの向かうのはアルバイト先であった。

 この時代の役人がただ一つ許されていた副業は農業である。役人であろうと日本国民として班田収受に従い土地を受け取っており、そこを耕すことは認められているどころか推奨されていた。ただ、家族や奴隷に耕させたり、近隣の農家へ貸し出したり、あるいは何もせずに放っておくなど自分では田畑を耕さずにいることが多く、本人が耕す光景があまり見られなかっただけである。それが、このときから役人が自分で田畑を耕す光景が広く見られるようになった。

 ただし、これは法に触れない副業であり、休日ならば問題視されなかった。

 問題視されたのはその他のアルバイトである。突出して多かったのが、読み書きできる能力を生かしての本を書き写す副業であり、その圧倒的大多数が写経であった。

 平安京は意識的に寺院を制限した都市であり、奈良時代なら苦境のときに頼ることのできた寺院という存在がなかった。

 しかし、最後の心のよりどころとして宗教に対する期待は増えていた。生活苦に直面すると、思想や宗教といった精神世界にすがるようになるというのは今も変わらない。

 寺院に頼ることのできない京都では、寺院に変わる存在として経典に目が向けられた。その意味などはどうでもよく、とにかく漢字の書かれた神秘的な文書そのものが心の安らぎを与えるかのように考えられた。一昔前、マルクスと名が付けば、中身を理解することなく本が売れたのと同じである。

 そして、経典の市場における価格が上がってきていた。作るそばから売れ、売り切れが続出し、珍しく市場に出回ったかと思えば前より値上がりしている。経典の値段はコメと歩調を合わせているかのようであった。

 経典の作成はポートフォリオで言う市場成長率の高い産業ということになるだろう。需要に供給が追いついていないのである。

 そこで、経典作成がビジネスとして捉えられ、そのために経典を作れる人間が重宝されるようになった。一つ一つ手で書かなければならないのだからその人数は多い方がいい。かといって、街中にあふれる失業者を集めたところで役には立たない。何しろこの時代は義務教育というものもなく、文字の読み書きができるだけで既にそれは特殊技能であり、その特殊技能がないと経典作りに参加できない以上、集める対象は絞られる。この時代におけるそれは僧侶と役人だけ。

 しかも、全国的に見れば僧侶を考えられるが、京都でその技能を持った者を探そうとすると役人しかいなかった。京都には、僧侶や、寺院をリストラされた元僧侶は少なかった。

 この時点で最も僧侶が多かったのはやはりまだ奈良であったが、奈良の協力はまず得られなかった。奈良の寺院にしても経典作成は貴重な収入源であり、僧侶を貸し出すどころかリストラした僧侶の穴埋めを探している状態であり、修行ということで寺院の外に出した僧侶を還俗(僧侶をやめ俗世間に戻ること)させて、写経のためだけのアルバイトとして雇うまでになっていた。

 経典をたくさん作るならば印刷すれば良いではないかと思われるかも知れない。たしかにこの時代にはもう紙への印刷技術があったし、現存する印刷された経典もある。だが、それができるだけの紙がなかった。また、あったとしても、それでは売れなかった。手書きの経典でなければ価値はなく、印刷物は見向きもされなかった。御利益がないと見なされたのだろう。

 この時代、書くときに最も多く使用されていたのが木簡もっかんである。

 木簡とは、長さが二〇センチから三〇センチ、横幅が二センチから四センチの細長い木の板であり、紙よりも気軽に手に入り、また紙より丈夫なため、文章そのものは短くて済むがそれを持って移動しなければならない書き物、例えば税の運搬の荷札や、役所間の文書のやりとり、そして、木簡を束ねて巻物にし、経典として使用されることが多かった。

 これが自分の勤めている役所において使用する文書の書き込みであれば立派な公務で何の問題もないが、そうではない場所での書き込みや、役所の中であってもその中身が役所とは関係のない書き込みとなるとアルバイトとなる。

 これがいいビジネスになった。仕事は何とか理由を付けて欠勤し、写経所に出向いて写経すれば、こなした数だけ収入が増える。出勤しても、隠し持った木簡に経典を書いて時間をつぶし、帰宅時にそれを写経所に持って行けば売れる。それも、銭ではなくコメや絹織物といった貨幣の役割を果たすものと引き替えに。

 嵯峨天皇はこの状況を苦々しく感じ、冬嗣は何度も禁止令を出すが、収入に困った役人は冬嗣の命令を聞かなかった。


 その結末が役人の腐敗である。

 役人とか政治家という人種が必ずしも腐敗するとは限らない。強い信念を持って賄賂を絶対に受け取らないと宣言する人もいるし、清貧を最後まで貫く人もいる。だが、それと役人や政治家の評価とは全く関係ない。ダーティーであろうが、これ以上なく腐りきっていようが、そんなものはどうでもいい。彼らのただ一つの役割は国民の生活を良くすること。それだけが政治家や役人の評価である。クリーンを貫こうが、清貧を貫こうが、国民生活が苦しければ評価は無能の一言で片づけるしかない。

 ただし、歴史を眺めて経験的に言えることがある。それは、貧困と腐敗はたいていつながっているということ。

 腐ったから貧しくなったのではない。

 貧しくなったから腐ったのである。

 国民生活が苦しいのに国家財政は豊かだということはない。特権階級が国家財政で贅沢な暮らしをしたり、無能な政治家が無駄なことに税を使ったりということはあっても、国家財政そのものが潤沢なわけではない。国民生活が苦しくなるとそれと歩調を合わせるように国家財政も厳しくなるし、国家財政で生活している者も苦しくなる。

 給与の支払いに支障が出ることもあるし、定められた給与が支払われてもインフレのせいで生活が苦しくなることもある。また、財政引き締めとして、政治家や役人の給与カットが行われることもある。

 役人だろうと政治家だろうと人間。日々の暮らしというものがあるし、より良い暮らしをしたいという欲望もある。腐らずマジメに働けばいい暮らしが待っているというなら誰だってそうする。だが、そうではなくなった。マジメに働いても得るものが少なくなったというのに誰がマジメに働くというのか。

 暮らしを良くしようというのは人間の本性。そして、真面目に働くより生活を良くする手段があればそれに手を出すのもまた本性。それが法の隙間を縫うか、あるいは法に逆らうか、その特権ゆえに民衆にはできない方法で暮らしを良くする手段があるとき、権力を手にした者がそれに手を出すのも、古今東西変わることのない人間の本性である。

 自分は断じて腐っていないという宣言は、強靭な意志の持ち主なのではなく、単に腐る機会が無かったというだけのことに過ぎない。クリーンをアピールする野党が権力を握ったと同時にそれまでの与党以上に腐りだすことなど珍しくもない。


 では、この時代はどう腐ったのか。

 まずは賄賂である。賄賂が存在しない社会というのは、清廉潔白な人間ばかりの社会ではなく、賄賂が割の合わないビジネスになっている社会のこと。そうでなければ、規模の大小はあれ、渡した以上の利益が得られるならば賄賂はどんな状況でも起こる。いかに法で厳しく禁じていようと賄賂は起こるし、特権階級ののみならず、庶民まで進んで行う。たとえば税を見逃してもらうために税よりは少ない額を役人に手渡すように。

 これがエスカレートすると、役人が民衆と接する仕事をするとき、無料であるべきところが賄賂を受け取らなければ何もしないとなる。

 その手始めとして、本来無料であるはずの医療が事実上の有料になった。

 無料の医療を求めて門を叩いても、何かしらのプレゼントを用意しなければまともな治療を受けられなくなった。それを拒んであくまでも無料を貫くと延々と待たされることとなるし、それだけならまだしも、待つだけ待って何の治療も受けられずに診療時間が終わることすらあった。

 休んでも給与の貰える身分ならば構わないが、休んだらその日の売り上げがゼロになる人にとって、一日中待たされる無料の医療は利益どころか損失になった。

 結果、プレゼントを用意できずに無料の医療しか利用できない人はなかなか治療が受けられず、待たされ続けたあげくに収入が減り生活が苦しくなる。一方、ある程度豊かで医者へのプレゼントを用意できた患者は待つことなく診てもらえる。

 無償医療を実践したときに必ず起こるこの医療格差問題は一二〇〇年前に既に発生した。

 賄賂と同時に起きたのが怠慢である。得られるものも変わらないならより少ない労力で済ませようというのも人間の本質。役人から積極性は消え、陽が上っても出勤せず、出勤したかと思えばいつの間にか早退している。それでも出勤すればいいほうで、あれこれと理由を付けては欠勤するようになった。

 勤務中の態度も誉められるものではなくなった。副業として持ち込んだ写経は懸命にやるが、本業は遅々として進まなくなった。書類は片づかず、各地から上ってくる報告も山に埋もれ、統計はいい加減になった。

 自分の担当する部署は何ら問題が起きていないことになり、貧困からの脱却を狙う数々の命令は滞りなく実行されたことになったし、その命令が成功して結果を出したことにもなった。

 そして、横領も増えていった。

 職場で使う筆や紙ならばまだほほえましいが、税の着服、国の米倉からのコメの持ち出しとなると、国家財政を揺るがす大問題となる。

 民衆はこうした役人の不正に怒りを覚え、冬嗣はこうした役人の不正を正そうとしたが、腐敗は無くならなかった。無くなるどころか一層悪化したのである。


 神仏に頼った嵯峨天皇であるが、その対象となるべき寺院の腐敗もこの時代進んでいた。

 まず、寺院が営利に走るようになっていた。僧をリストラし、写経で稼ぐだけでなく、奴隷を利用して土地を開墾して領地を広げ、奴隷に働かせてその収穫を運用に回し、さらに多額の布施をかき集めるようになった。

 僧侶になる目的自体も不純になった。仏教の哲学を求めてではなく、寺院に入って豊かな暮らしをすることが目的になった。それは僧侶になるとついてくる免税だけが理由ではない。

 わかりやすく言えば、この時代の寺院とは今で言う民間の企業である。大きいところに入れば生活も安定するし、そこの一員であること自体が社会のステータスになる。入るための競争は熾烈を極めるし、入ったあとの競争もあるが、出家して中に入れば俗世間よりは安定する。

 ただ、それまでの終身雇用が無くなり、リストラも始まっていた。僧侶を還俗させて写経生にさせることは現在で言う子会社への出向であり、奴隷を使っての土地の開墾や耕作など、その仕組みは大企業と派遣社員との関係と同じである。

 この時代はこれを苦々しく思う空海や最澄といった名僧も輩出するが、彼らが行なったのは自分たちの理想とする寺院の建立であって、日本の仏教界全体の改革ではなかった。


 弘仁三(八一二)年三月二〇日、嵯峨天皇は各寺院の管理・監督を国司に命令する。

 四月一六日には戒律を破った僧侶を処罰するよう宣言する。これは僧侶に異性との接触を禁じるものであった。ただし、寺院に信仰上の救いを求めてきた者、医療行為、そして、寺院の雇っている奴隷は例外とされた。

 これは空文に終わった。セックス目的で連れ込んだのであっても医療だの仏教行事だのと何とでも理屈がつけられ、女人禁制の寺院に女性が入り浸り、男子禁制の尼僧院に男が押し寄せた。そして、相変わらず寺院の中では本来禁止されているはずのセックスが横行し、さらにはそのセックスを営利事業として始めるようになった。この時代の寺院の中にはまるでホストクラブではないかと思わせる寺院まで存在しており、これらが下火になるのは織田信長を待たなければならない。

 さらに、この禁令をステップアップとして、異性と接しないという戒律は守っているとでも言いたげに、寺院の中で同性愛が盛んになった。生活の苦しい農民が自分の息子を寺院に売り飛ばすようにもなり、家族を養うために僧侶に肛門を捧げることも横行した。


 京都の治安悪化は目を覆うばかりになっていた。

 次々と死者が生じているのに、道に座り込む貧しい人の数は増える一方だった。地方から続々と流れ込む人の流れが止まらなかったのだから。

 地方に暮らしの希望など無かった。食べ物がなくなり、自然の恵みも期待できず、身の安全も期待できなくなっていた。

 中でも最大の問題が俘囚だった。

 彼らは自分たちが受けた被害を忘れていなかった。そして立ち上がった。

 それまで俘囚が住んでいたところに襲いかかり、家や家財道具、そして食料を奪って住むようになっていた日本人がまず殺された。

 次に、俘囚の妻や娘を犯した日本人が殺され、仕返しとばかりに今度は日本人の女性がレイプされた。

 そして、俘囚を奴隷に売り飛ばした者も、奴隷として買った者も殺された。

 さらに、何の罪もない日本人も、一年前、自分たちを襲った者と同じ村に住んでいるというだけで殺された。

 復讐を掲げる俘囚の集団が誕生したのだ。

 やっていることは東北の反乱軍と同じだった。集落を襲って食べ物を奪い、そこにいる人たちを殺し、草木の生えぬ廃墟としたあとで次の村へと移動する。

 それを彼らは復讐と呼んだ。だが、彼らは自分たちの仲間を殺した者のいる集落だけではなく、俘囚と関わりを持たなかった集落も襲った。

 その被害を受けるようになった日本人は、抵抗ではなく逃避を選んだ。

 怒りと勢いに任せて俘囚の集落を襲ったときは日本人の数のほうが多く圧倒的に優勢だったが、今や俘囚が集団となっている。

 それは一つの集落でどうこうできるものではない数、しかも、身に覚えのあることへの復讐。日本人は俘囚に恐れおののき、より安全な場所へ逃げることにした。

 それが京都だった。


 しかし、京都の状況も天国ではなかった。

 とりあえず俘囚から逃れることはできるが、京都に行ったところで生活のすべなど無かった。

 五月一八日、およそ一年ぶりに、京都に住む貧民を対象とする「施(せ・食料の無料配給)」が実施された。

 施は六月四日にも実施され、一六日には市場でのコメの価格を下げるために、国の倉庫からコメが大量に供給された。

 これらの政策で少なくとも餓死者は減った。だが、治安が改善されたわけではなかった。

 根本原因の解消、つまり、不作続きから生まれる貧困は解決できなかった。

 それだけではなく、今年も不作になるであろうことがこの時点ですでに予見されるようになっていた。

 まず、薩摩(現在の鹿児島県)でイナゴが大発生し田畑を喰い荒らした。

 そして、全国的に梅雨になっても雨が降らない日が続き、嵯峨天皇は各地の神社に雨乞いを命じた。

 そして訪れた疫病。体力を失っていた貧しい人は、俘囚や餓死から逃れても、病死からは逃れられなかった。


 冬嗣はこの状況からの脱却を計り様々な手段を講じるが、一時凌ぎにはなっても具体的な成果は現れなかった。

 嵯峨天皇は焦りからますます神仏を頼るようになった。病を無くし、イナゴを無くし、日照りを無くし、豊作となるよう神社や寺院に祈らせた。

 しかし、神社の神官も、寺院の僧侶も、嵯峨天皇の求めを叶えるものではなかった。命令だからと仕方なく祈祷はしたが、それは明らかにこれまでより短く簡単なものに終わった。それでいて祈祷料はこれまで以上の額を、それもコメで要請した。

 これに嵯峨天皇の怒りが爆発した。

 僧侶も神官も取り締まることを命じ、あるまじき態度の者は処分するとした。これには冬嗣も驚きを見せたが、嵯峨天皇は冬嗣を押し切り、勅令を出した。

 女性と一緒にいた僧侶が種子島に追放された。

 神社の掃除を怠った神官が罷免された。

 それまで認められていた場所で狩りをした者も、それが神社や寺院の近くとされると不敬とされ処罰された。

 だが、それらは嵯峨天皇の敵を増やすに終わっただけだった。

 民衆の間でははっきりと、冬嗣批判、朝廷批判、そして嵯峨天皇批判の声が挙がった。民衆は桓武天皇の時代を懐かしみ、出家して寺院にこもっている平城上皇の再登場を願うようになった。

 さらに、この頃から怪しい予言が民衆の間で言い交わされるようになった。

 曰く、これから戦争が起こる。

 曰く、これから大地震が起こる。

 そして、神罰があり、人類は滅びる、と。

 こうした予言はいつの時代にも現れる。そして、そうした不安をあおることで商売をする者も現れる。紙切れや、墨で書きなぐった板きれを御利益があると称して売るだけでなく、酔った勢いの戯言を神の言葉と称し、転んで脚をすりむいただけで神のたたりと脅す者も現れた。

 さらには怪しげな新興宗教を起こし、これから起こる大災害でも自分たちは助かり、そのあとは自分たちが権力を握るパラダイスが訪れるといった話をもちかける集団まで現れている。そうした集団は何も共産主義やオウムに始まった話ではない。人類の歴史上幾度と無く現れては消えた話である。

 だが、いくら人類の歴史に付き物とは言え、それを放っておくことは許されなかった。

 九月二六日、嵯峨天皇は法や秩序を乱す言論を取り締まるよう命じた。それは人類滅亡を謡う新興宗教だけではなく、天皇批判も取り締まりの対象になった。

 言論の不自由とか思想の不自由とかいった概念などこの時代にはない。だが、その感覚ならあった。このときはまさにそれが誕生した瞬間だった。

 それでも、生活の不満を口にする自由ならあっただけ、日本海の向こうの某国よりはマシだが。


 一〇月六日、冬嗣は父である藤原内麻呂を亡くす。

 その一ヶ月前に病気から辞意を申し出るが、許可されずにいたことで余計に体調を悪化させていた。

 父を亡くしたことで、冬嗣は喪に服し、宮中から姿を消した。

 そして嵯峨天皇はこの時になってはじめて、冬嗣のフィルタを掛けない生の情報に接することとなった。

 それまでは、地方から上がってくる情報が常に冬嗣を経由していた。それまで受け取っていた情報もかなり高いレベルの警報であったが、それでも冬嗣のフィルタが掛かっていた。つまり、冬嗣にとって都合の悪い情報は伝えられないし、嵯峨天皇の気分を害する情報も伝えられていない。

 それが無くなった。

 全ての情報が嵯峨天皇に直結し、嵯峨天皇は現実に愕然とした。

 自分の命令が何の結果ももたらしていない。寺院は相変わらず腐ったままだし、役人は働かない。民衆の暮らしは貧しくて、自分への批判は止むことがない。

 さらに、今年の収穫もまた不作であり、まともな税収は期待できないこと、それは自然の結果もあるが人災の側面もあることを知った。自分が良かれと思ってやったことがかえって悪影響を与えているのを知ったのは空しさすら感じた。

 医療の無料化がかえって生活を悪化させる悪循環。

 俘囚への福祉がかえって俘囚を孤立させ、敵対感情を生み出して血の惨劇を招いている悪循環。

 京都に流れていた民衆を救うことがかえって京都に民衆を呼び寄せ、農地からさらに人を奪う結果になった悪循環。

 それがさらに不作を招き、不作が貧困を招き、貧困がさらに京都に人を呼び寄せる悪循環。

 嵯峨天皇は福祉のジレンマに陥っていた。

 福祉を厚くすればするほど貧困が拡大し、治安を悪化させる。だが、その福祉はもはや権利となってしまい奪うことができなくなっている。


 俘囚の集団は、生まれ故郷の東北ではなく、西へ西へと移動していた。

 目的地は出雲(現在の島根県東部)。

 なぜ出雲なのかはわからない。

 山陰地方の方言は東北と似ていることから、山陰と東北とは何らかの接点があったのではないかとする説もあるほどである。もしかしたら、出雲には以前から俘囚の一大コミュニティがあったのかもしれない。

 また、海外勢力、すなわち新羅と呼応していたとする説もある。実際、亡命新羅人がやってくるルートの終点は、九州と並んで山陰であることが多く、俘囚が山陰にやってくることは、対新羅の守備隊にとっては海と陸の両方から挟み撃ちになる格好になる。そうして守備隊を撃破すれば山陰を京都の勢力の及ばない地とすることができ、新羅にとっては格好の前線基地、俘囚にとっては独立の地を手にすることになる。

 ただ、東北や新羅との接点など無く、彼らが出雲に向かったのはただの偶然であり、山陰の方言が東北に似ているのは、このときの俘囚がそのまま山陰に住み着いた結果であるとする説もある。

 いずれにせよ、俘囚の集団が西へと移動し、日本海に向かっていることは報告として上がっていた。

 嵯峨天皇はそれまでの融和路線を捨て、俘囚討伐を命じた。ただ、命じたが、その軍勢を指揮する者も、その軍勢に参加させる兵もいなかった。

 本来ならばここで文屋綿麻呂に指揮させるところである。これまでの軍事経験は申し分ないし、この人には東北制圧の実績がある。だが、この人は兵の信頼を失っていた。

 あとは綿麻呂に従っていた副官たちからの選択となるが、彼らは田村麻呂や綿麻呂の指揮の元で活躍する副官タイプであって、軍勢のトップで指揮するタイプではない。

 指揮官の重要な役目に、兵を集めるというのがある。以前は防人さきもりという徴兵制があったが、桓武天皇以後は事実上の志願兵制に変わっている。

 戦乱の都度兵士が集められ戦地へ赴くわけだが、東北に向かうときにはそれなりに集まったのに、今はそれを期待できなくなっている。

 その理由は二つ。

 ひとつは、やはり田村麻呂の人望が素晴らしかったこと。綿麻呂が東北に向かったときも、田村麻呂の副官が指揮する軍勢ということでの参加だった。だが、今はもうそれが使えない。綿麻呂はもう兵士の信頼を失っており、その他の指揮官に対する評価も似たようなものだった。

 そして、二番目の理由は財源不足。

 兵士を雇えるだけの予算がもう無くなっていた。そして、それは公言するまでもなく民衆の共通理解になっていた。

 少し前までであれば、少なくとも兵士である間の衣食住は保証されていたし、少ないながらも給与が払われていた。そのため、軍隊が失業対策として機能していた。

 しかし、今は違う。綿麻呂が兵士の八割を除隊させたことで、軍隊にはもう衣食住も給与も期待できないことが知られてしまった。

 つまり、兵士になることのメリットがなく、やる気も起きないという状況が広がっていた。


 一一月二八日、嵯峨天皇は喪中であった冬嗣に出仕を命じた。

 冬嗣のいない間の嵯峨天皇は明らかに迷っていた。嵯峨天皇に直言できる人間もいなければ、右腕となって活躍する人間もいない。政策に一貫性もなく、命令はするものの、それを実行するための行動がない。それらは冬嗣とて大差ないが、冬嗣は少なくとも現実を見ている。

 厳密に言えば、当初は現実を見れていなかったのだが、権力を握ってからの年月が現実を直視せざるを得なくさせている。

 その一事だけでも、嵯峨天皇にとって冬嗣以上に頼れる人材はいないという思いにさせることだった。

 ただ、出仕した冬嗣は嵯峨天皇の期待に応えていない。

 「俘囚の鎮圧に必要なコメがありません。」

 冬嗣はまずこう諭した。

 「ですが、コメがないのは俘囚も同じです。ならば、俘囚を出雲に閉じこめたまま、俘囚の餓死を待つという手もございます。これ以上俘囚が暴れないようにするだけの兵を用意することができれば、あとは時が解決します。」

 その上で、冬嗣は直言を加えた。

 「それよりも心配なのは民です。今は俘囚の騒動だけで済んでいますが、このままですと民の暴動が起こり得ます。すでに民の不満は限界に達し、いつ破裂してもおかしくありません。」

 冬嗣の話は現状分析に留まった。解決するアイデアがないのだからそれしか話せないのもやむなしといったところか。

 「冬嗣にもどうにもならぬということか。」

 嵯峨天皇は落胆を隠せなかった。

 「一時的に回避するすべならございます。」

 「それは何だ!」

 「各国の国司に無理を承知で税の取り立てを命じ、民の怒りを国司に向けさせた後にその国司を罷免すれば、財政と民の不満は一ヶ月ならどうにかなります。」

 それは根本的な解決になっていないが、それでも何の手も打たないよりはマシだと考えたのか、冬嗣のアイデアは実行された。


 「それを持って行かれると飢え死にいたします!」

 「やかましい!」

 冬嗣のアイデアは国司たちに絶好の口実を与えることとなった。それまでであればその場で懲戒免職間違い無しという税の取り立てをしても、今のこの瞬間は許される。

 その結果、多いところでは全農民の一割が餓死し、三割が逃亡という有様になった。

 また、国司の命令に従い取り立てに来た役人が、取り立てに抵抗する農民に殺されるという事件も起きた。

 そうして集められた税のうち、どれぐらいが途中で消えたかわからない。それでも、不作にしてはなかなかの納税額となり、これで国家財政はどうにかなったのである。

 一大勢力となった俘囚の集団に対抗するための予算がどうにかなり、田畑を捨てた農民を兵士とすることで兵力もどうにかなった。

 ただ、民衆の不満は限界近くまで達していた。

 冬嗣は、戦争を煽ることで国内の世論を沈めようとした。

 今の日本は国内に俘囚、国外に新羅と戦争状態にあるとし、今の苦痛は全てがそのためであるとした。

 これが二つの面で有効に働いた。

 一つは、新羅から実際に侵略を受けたという事実。対馬侵略をもくろむ新羅を撃退させたが、それはあくまで第一陣に過ぎず、第二陣がいつ来るかわからないというのは庶民の間でも話題となるほど広まっていた。

 もう一つは俘囚から逃げ回らなければならなければなくなっている現実。反感を爆発させたが、その反動で俘囚を暴徒とさせ、憎しみだけでなく恐怖とさせていた。こちらは新羅以上に差し迫った問題だった。 

 そして、この過酷な徴税も、俘囚と新羅という二つの敵との戦争のための一時的なものだと考えられたのである。

 一二月五日、藤原冬嗣、正四位下に出世。同日、縄主が中納言へ、葛野麻呂が中納言兼民部卿に就任。

 戦時体制が確立された。

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