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平安時代叢書 第二集 北家起つ~藤原冬嗣の苦悩~  作者: 德薙零己


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第二部  本州統一は血とともに

 「正三位、藤原朝臣葛野麻呂、渤海使饗応役を命ず。」

 「御意。」

 「従四位上、藤原朝臣冬嗣、現業務は兼任の上、参議に命ず。」

 「はっ。」

 新年の儀式は何事もなかったかのように例年通りに行われ、年始恒例の人事刷新として貴族や役人の出世が公表された。冬嗣もこのときに参議へ出世している。

 「奴が参議とは世も末だ。」

 「嘆くな。参議にもなればボロも出ようというもの。反撃はそのときを待てばよい。」

 貴族たちは、冬嗣が参議となったことに反感と警戒感を抱いた。位からすれば冬嗣の参議は妥当だが、このときの貴族たちには、その妥当性よりも、冬嗣がついに自分たちの最後の牙城に乗り込んできたのかという思いであった。

 だが、冬嗣の主な関心はそこにはなかった。

 宮中が儀式や恒例行事に終始しているその間も各地から情報は届いており、そのどれもが絶望的なものばかりであることが、冬嗣の脳裏を支配していた。

 海の向こうからの渤海からの使者は、渤海でもやはり不作のため農民が土地を捨てる状況が頻発し、新羅からの難民が大挙して押し寄せていることを伝えた。

 陸奥・出羽の二ヶ国では特に不作の状態が激しく、大勢の農民が田畑を捨て逃亡していることを伝えてきた。

 不作による食糧不足は日本国内だけの問題ではないことが明らかになった。そして、民衆を救うための何らかの対策が必要だというのが貴族や役人の共通理解となった。

 ただ、財源がどこにもなかった。

 それでも嵯峨天皇は、そして冬嗣はできる限りのことをしたのである。

 ただ、空になった国家財政でできることは限られていた。

 二月五日、京都近郊にある無料の病院「施薬院」の設備を拡充させた。朝廷の所有していた薬草栽培用の田畑を施薬院に与えたのである。この結果、それまでは皇族と一部の貴族しか使用できなかった高価な医薬品が一般庶民の治療にも使用できるようになった。これには善行を積んでの御利益という目的があった。

 翌二月六日には死刑の一時停止を含む刑罰の減免が発せられ、このときに獄中にいた罪人に対する恩赦が同時に実行された。これもまた御利益を求める善行の一つとして意図されたものである。なお、このときは現在死刑判決が出ている者に対する執行の一時停止であって、死刑そのものの廃止となったわけではない。

 嵯峨天皇は信仰の力でこの苦境を脱しようとしていた。善行を積めば神仏の御利益で何とかしてくれるのではないかという思いである。


 必死にもがき苦しんで神仏に頼む姿は痛々しいが、神仏の御利益はなかった。

 全国の田畑から農民が次々と消え、食料を求めて各地を放浪しているという情報がほぼ毎日朝廷に届いてきた。

 冬嗣は現在の状況を調べるように命じるが、調べるだけで、流浪する彼らを救う手だては打ち出せなかった。

 特に、陸奥と出羽の二ヶ国の状態が最悪だった。

 農耕の浸透はまだ途中で、生活の中にそれまでの縄文時代の生活が溶け込んでおり、田畑からの収穫による食糧確保が関東以南と比べて少なかった。

 また、気候の問題もあり東北地方の田畑での収穫量は他の地域より少なかった。

 しかし、東北地方が農耕経済化し、それまでよりも安定する暮らしが実現しつつあるという情報は北海道に届いていた。

 という状態での環境の変動である。

 環境の変動はまず北海道の自然を襲い、北海道の狩猟・採集で暮らせなくなった人が津軽海峡を越えて本州にやってきた。昨年の二〇〇人という情報は偽りではなかったが、押し寄せてきた二〇〇人は第一陣に過ぎなかった。第二陣、第三陣と人の流入は続き、数百ではなく数千から一万以上というレベルで人が押し寄せるようになった。

 しかし、東北地方でも状況は大して変わらなかった。

 農業が浸透しきっておらず蓄えが少ない。

 環境の変動で自然界からの狩猟・採集が減る。

 そして、増える人口。

 瞬く間に食糧不足が東北地方北部に襲いかかり、食料を求める人の群れは群衆から軍勢に変わりつつあった。

 名目としては、京都の朝廷からの独立を目指す「反乱軍」であるが、役所を襲い、倉庫を襲い、村々を襲い、略奪の限りを尽くす、秩序無き武装強盗集団である。


 もはや役所の警察権力でどうこうなるものではなくなった。

 東北からは早急に軍勢を派遣するよう要請があり、嵯峨天皇は坂上田村麻呂に再度東北地方に出向くよう命じる。

 だが、田村麻呂の体調がそれを許さなくなっていた。

 桓武天皇の忠臣として軍を率い東北地方を制圧してきた田村麻呂も、このときすでに五四歳になり、かつての風邪すら知らぬ健康は消え失せ、病のせいで身動きできぬほど衰弱していた。

 軍勢の派遣は国家財政にとって大きな痛手であったが、武装強盗集団を放っておくなどできぬ話である。

 「とにかく反乱軍の動きを制御することです。綿麻呂ならば任せられます。」

 床に伏したまま動けなくなった田村麻呂が指示を出し、冬嗣がそれを聞き取っていた。

 「反乱軍の動きを制するには二万六千の軍勢が要ります。ただちに集めてください。」

 「二万六千……」

 冬嗣は田村麻呂の出した数字に絶句した。今の朝廷にそれだけの兵士を出す財源などない。

 「それができなければ、今ここで反乱軍を制したとしても、時を経ずに第二第三の反乱軍が生まれます。」

 「第二第三を出さなければよいのでは?」

 「いかにして。」

 冬嗣は視線を逸らし何も答えなかった。

 田村麻呂は冬嗣が何か考えているらしいことはわかったが、そこから先は自分を必要としないことなのだろうとも悟った。

 この先は政治の世界。自分の世界ではない。

 田村麻呂は綿麻呂と違い、貴族に列せられようと武人であり続けようとつとめ、それを実践してきた。

 朝廷の雰囲気、特に会議が苦手で、可能なときは文屋綿麻呂を代理に立てて出仕させていることから、単に政治が苦手なだけとする考えもある。

 だが、軍が権力を握ったときの恐ろしさを知っていたというのも理由にあるのではないだろうか。

 田村麻呂は、どんなに理不尽な命令であろうとそれに従い、命令を果たせるように努力してきた。軍事力を握る自分がシビリアンコントロールに従うことこそ国内の安定と平和をもたらすという信念があったのだろう。

 田村麻呂は貴族でもある以上、宮中において発言することはできたはずである。だが、田村麻呂が何か意見を言ったのは後にも先にもたった二回、それも、戦場からの手紙だけである。ただし、その一度目の意見が緒嗣を通じて桓武天皇の対蝦夷政策を一八〇度変えるきっかけにさせ、二度目の意見が奈良の反乱を壊滅させるきっかけとなっている。

 発言力はあったのだ。ただ、それをほとんど使わなかっただけで。


 二月八日、日本国内の俘囚が東北地方の反乱軍に合流することのないよう、それまで移住者一代限りであった生活援助を俘囚の子にまで適用し、よりいっそうの生活の安定を図った。

 その上で、翌二月九日、田村麻呂の副官として戦場を渡り歩いた文室綿麻呂を筆頭に、佐伯清岑や、田村麻呂の弟である坂上鷹養らを東北地方へ派遣した。田村麻呂の進言では二万六千人の軍勢であったが、それだけの軍勢を整える余力は朝廷にはなかった。そのため、綿麻呂には兵士を現地で採用せよとの命令が下った。

 それでも、この派遣は、ただでさえ厳しくなっていた国家財政をよりいっそう悪化させることとなった。

 冬嗣は民衆の不満をそらす策に出た。

 今でもそうだが、民衆の不満の募っているときに、何か外のことに目を向かせるというのがある。

 大イベントを用意したり、スポーツの国内・国外試合に熱狂させたりというのがそれであるが、それよりもはるかに大規模で、かつ、長期的に目を向かせる手段がある。

 戦争。

 東北地方を制圧するための軍勢派遣は大々的に公表され、東北地方からの戦況の様子は刻一刻と朝廷に伝えられ、朝廷はその中で都合の良い部分を公表した。

 「陸奥国の蝦夷の反乱。死者多数、村は荒廃す。」

 「駐留軍苦境。至急援軍を要す。」

 「朝廷、文屋綿麻呂に反乱軍追討を指令。」

 「反乱軍追討開始。戦況は我が方に有利。」

 「反乱軍敗走。我が方の軍勢、反乱軍に占拠された村を解放。」

 民衆は「野蛮人」の蛮行に怒り、その制圧に歓喜した。

 だが、同時に悲劇を生み出した。

 俘囚への虐待がそれである。

 日本の元で暮らすことになった蝦夷は、そのまま東北地方に留まる者もいたが、まとまった単位で日本各地に移住させられ、そこで農地を切り開いて生活するよう命ぜられた者もいた。ただし、それが成り立つまでの間、生活は国が保証する。

 彼らは税が課されず、また、出挙と同様に種籾を受け取るが、それに対する返済義務がなかった。つまり、この不作にあっても暮らしが安定していた。

 彼らは日本人と溶け込んで暮らすのではなく、自分たちだけで集まって集落を形成していた。

 ただでさえ見下している相手が、自分たちと触れ合うことなく、暮らしの保証を受けた上に負担から逃れて生活している。

 そこへ飛び込んできた東北地方からのニュース。

 蝦夷の集団が武器を持って暴れ回り、東北に住む日本人が襲撃され、奪われ、殺されているという知らせは、ただでさえくすぶっていた反感に火をつけるに充分だった。


 飢餓に苦しむ日本人にとって、格下であるはずの俘囚が何かを持っていることすら怒りを呼ぶことだった。

 何もかも捨てて逃げ出すことが出来た俘囚はそれだけでも幸運だった。

 俘囚のために渡された生活物資は跡形もなく持ち去られ、飢えを満たすために使われた。

 俘囚の開墾した土地は日本人のものとなった。

 そして、多くの俘囚が殺され、レイプされ、奴隷として売られた。

 自由の身になれた俘囚も元の土地に住むことは許されず、集落から追放された。

 日本各地で血の惨劇が繰り広げられた。

 その情報は二月中には朝廷に届いていた。

 にも関わらず、冬嗣が行動したのは三月に入ってから。

 蜂起した民衆が俘囚を襲い尽くした三月一一日になってやっと、俘囚の現状を調査するよう命令を出したのである。

 これは、あまりにも遅すぎる。

 だが、民衆の不満をそらすために暴れさせるだけ暴れさせておいて嵐が収拾するまで待っていたとしたら話は変わってくる。

 冬嗣が狙っていたのはそれだった。

 戦争を起こして民衆の不満を外に向け、国内の安定のために内部の俘囚にも敵意を向けさせ、さらに、負担の大きい俘囚の数そのものを減らす。

 それが冬嗣の考えた不作への対処だった。

 この冬嗣の態度に身をかけて抗議した者がいた。緒嗣である。緒嗣は早急な俘囚の保護を主張し、受け入れられない場合は全ての職を辞すと表明した。ただし、これは却下されている。


 東北では蝦夷が日本人を襲い、それ以外では日本人が蝦夷を襲う混乱は次第に収束してきた。

 綿麻呂の軍勢が次第に北上し、それまで京都の権力の及ばなかった岩手県北部に侵攻。また、反乱軍に襲われた村を救済し失業を解消すると同時に、今後の軍勢の移動を容易にするため、道路工事を中心とする公共事業を展開する。これは大伴今人が山陽地方(資料には「備?国」とある。二文字目は記録に残されていない)に赴任していた頃の経験に基づくものであり、このときのルートは現在の国道四号線とほぼ合致する。

 山を崩し、森を切り開く工事は難航した。また、蝦夷も日本人もそのような肉体労働に反発していた。

 しかし、民族に関係なく動員して道路を開削することで便利な暮らしが実現することが理解され、互いの協力関係が相互理解を呼んで蝦夷と日本人との融和が図れた。

 つまり、東北の占領地帯では民族間の対立が多少は解消され、互いに融け込む平和的な収束が計画され、一部ではあるが実現してきたのである。

 しかし、東北より南の地域での収束は、間違えても平和とは呼べぬものだった。

 襲うべき俘囚が居なくなったがための収束である。

 逃げ出した俘囚の数を掴みとることは出来なかったが、蜂起による被害は調べることが出来た。

 不完全ではあるが、奴隷として売り飛ばされた俘囚を解放することも、集落に閉じこめられレイプされ続けてきた俘囚を解放することも出来た。

 だが、それだけだった。

 それまでの集落に戻っても、家は焼かれ、田畑は奪われ、生きる手だてが何一つ残されていなかった。

 生き残った俘囚の日本人へ対する怒りは激しいものがあった。


 平安京に詰めかけた者の中に俘囚は居なかった。

 そこは俘囚に対するもっとも激しい差別を見せる場所であった。寄り立つものなど何もない人間でも、他人を見下すことによる最後のプライドは存在する。自分を賛美し他人を見下す極端な思想に走る人間は右も左も関係なく人間社会の敗北者。

 しかし、最後のプライドにすがろうと、生きる手だてのないことはどうやってもごまかせない。

 ある者は生きるために犯罪に走り、またある者は生きるために身体を売った。一杯の粥をめぐって殺し合う光景さえ起こるようになった。

 奈良が健在であったらこうした人は平安京ではなく平城京に流れ、平城上皇や寺院が救っていたはずである。だが、奈良を壊滅させた今とあってはそれもできない。

 平安京に寺院はほとんどない。それは、困窮者を助けるコミュニティがないということでもある。

 今までは、大問題であることを頭では理解していた貴族であっても感覚で理解してはいなかった。だが、今はもう違う。

 貧困は目の前で起こっている問題なのである。

 四月一一日、失業対策のテストケースとして河内国(現在の大阪府)に三年間の緊急援助が実施されることとなった。堤防工事に失業者が動員され、食料と給与の原資として銭三〇〇貫が貸し出された。

 四月一四日、借り入れ前のムギを馬の飼料として刈り取ることが許可された。ムギが実るのを待ってから収穫するよりも、青々とした草の段階で刈り取って馬の飼料として売るほうが倍の収益になるためである。これは、生活に困った農民の生活を少しは楽にする効果はあったが、そのすぐあとに訪れる食糧危機を悪化させる原因ともなった。この許可は弘仁一〇年三月一四日に禁止されるまでのおよそ八年間続いた。 

 四月二二日、国家財政悪化に伴う増税が議論される。平城天皇の時代に暫定的に下げられてきたコメ以外の税率を、律令に定められた税率に戻すというものである。これには賛否両論噴出した。

 国家財政の悪化の結果、国で救える最貧困者を救えなくなっていた。だから増税だと。

 今ここで増税したら最貧困者がさらに増えることになる。だから税は上げないと。

 これに対する結論は五月二日に決まった。畿内についてはかつての税率を復帰させ、それ以外の地域では、名目上の税率は元に戻すが絹などの布による代納を認めるというものである。

 五月二〇日、朝廷は貧困者に対する食料の無料支給を決定した。

 こうして順を追うと、不作に対する経済苦境に対し、あの手この手で対応していることが読みとれる。

 しかし、対応するだけで解決とはなっていない。


 五月二三日、坂上田村麻呂死去。享年五四歳。

 桓武天皇に忠誠を尽くして東北地方の制圧を進め、奈良の反乱の鎮圧にも功績のあった武人も、病には勝てなかった。

 田村麻呂の死の情報を綿麻呂が掴んでいたのかどうかはわからない。だが、掴んでいたところで綿麻呂の軍勢の勢いが止まることはなかった。

 軍勢は次第に北上を続け、反乱軍はその勢いを弱めていった。

 この時点の綿麻呂の軍勢はおよそ一万五千人。京都から連れていった兵よりも現地で集めた兵のほうが多かった。だが、この人数では、一丸となって攻め込むことは可能でも、制圧した場所を守るための人員を割くことは困難。

 やはり田村麻呂が主張した二万六千人は必要だった。

 そのためにはさらに一万人以上の人員を増やさねばならない。しかし、京都から軍勢を送ってもらえる余裕など無い。そこで、人員はさらなる現地調達となる。

 綿麻呂はまず、自分たちの軍勢は、蝦夷を攻める日本軍ではなく、武装強盗集団を壊滅させるために結成された、民族の垣根を越えた連合軍であると宣言した。

 その宣言に共鳴したか、縄文人の中には綿麻呂の軍勢に加わる者も現れた。もっとも、戦乱に巻き込まれて生活が苦しくなった者が、戦乱のどちらか一方、それも優勢な方に身を投じることでとりあえずの暮らしを計画することは珍しくない。

 綿麻呂はそうした者を歓迎し、武具と食料を与え、それがさらなる縄文人の軍勢加入を呼び寄せた。

 だが、それでも軍勢は足らない。

 そこで、嵯峨天皇に働きかけ、綿麻呂の軍勢に参加して兵役を務めた者に限り、三年間の納税を免除すると布告させた。俘囚は既に免税であるため、ターゲットは東北地方に入植した日本人である。

 これに興味を引かれたのか、軍勢は綿麻呂が望む人数に増えた。

 綿麻呂は、自分たちを民族の垣根を越えた連合軍であるとしたが、新たに軍勢に加えた者を、日本人は守備、縄文人は攻撃と分けている。つまり、新たに加わった日本人を集落にとどめて、集落警護の軍備に就かせている。

 これには二つの効果があった。

 まず、農業に慣れた日本人が残るほうが次の収穫をより多く見込めること。農業に不慣れな縄文人の兵士を常駐させるより、農業に慣れた日本人の兵士を常駐させるほうが、戦闘ではないときに農民として働かせた場合の効果が高いと判断してのことであった。

 そして、二番目、こちらのほうが重要だが、綿麻呂は日本各地で繰り広げられていた血の惨劇を知っていた。東北地方では両民族の相互理解による友愛を深めているが、それは理屈であって感情ではない。仲間の受けた苦痛の前には理屈など簡単に吹き飛ぶ。

 惨劇を起こさない方法はただ一つ、両者を接近させないことである。

 東北地方の日本人は少数派。俘囚に対する日本人の攻撃と同じことが東北で起こるとすれば、立場は逆転し、被害者は日本人となる。そのため、守るべきは日本人の住む集落。

 その日本人の集落を日本人が守る分には何も起きない。その兵士がその集落出身ならもっと安心である。

 だが、蝦夷の兵士が日本人の集落に派遣されたらどうか。

 結果は、守るべき兵士と、守られるべき農民との戦闘。

 日本人が蝦夷に殺されたこと、蝦夷が日本人に殺されたこと、これを忘れるなというほうが無理である。


 一方、綿麻呂の軍勢に攻められ続けている反乱軍は壊滅状態にあった。日本の勢力内に侵攻していたのが逆に自分たちの勢力を縮めることとなり、内部分裂さえ起こすようになっていた。

 軍勢結集前、日本と蝦夷との事実上の国境となっていたのは岩手県北部から秋田県北部にかけて。それより南では反乱軍であった軍勢も、それより北では日本の侵略に抵抗する義勇軍であった。

 ところが、自分たちを守るはずの義勇軍が、こともあろうに蝦夷の集落を襲ったのである。

 彼らには兵站という概念も、根拠地からの補給路という概念もなかった。だいたい、自分たちで充分な食料を用意しての行軍でもないし、食糧確保の手段を計画しての行軍でもない。ろくな食料も持ち歩かずに行動し、必要とするものは全て現地調達。日本人の集落を襲うときの名目は日本への抵抗であっても、実際は自分たちの空腹を満たすことが目的だった。

 綿麻呂の軍勢の前に敗北を重ね、北へ北へと逃れている間もそれは同じだった。ただ、それまでターゲットとしていた日本人の集落はもう無かった。

 そこにあるのは自分たちの故郷の集落。

 それを彼らは襲ったのである。

 これが反乱軍に内部分裂を生んだ。

 反乱軍の中にはその集落出身の者もいる。そして、その集落に住む仲間のために軍勢に参加した者もいる。

 故郷を襲うべきか否かの議論はされた。そして、襲うべきではないとする一派と、襲うべきとする残りとの対立が生じ、襲うべきではないとする一派が綿麻呂の元へと逃れてきた。今は戦闘中。逃れる場所があるとすればそれは敵の軍勢の元しかない。

 綿麻呂の元へ逃れた者のリーダーであるツルキは、故郷であるオラシベ(岩手県二戸市浄法寺町)がかつての仲間たちに襲撃されたこと、襲撃した者のリーダーがニサテ(岩手県二戸市仁左平)出身のイカコであること、現在はトゥモ(青森県七戸町)を本拠地とし、周辺の蝦夷を集めて軍事訓練を積み、綿麻呂に対抗しようとしていることを伝えた。

 これは綿麻呂にとって天からの恵みとも言える情報だった。

 蝦夷の軍勢の恐ろしさはそのゲリラ戦法にある。

 いつ、誰か、何名で、どのように襲ってくるか全くわからない。誰が指揮しているのかも、どこが本拠地なのかもわからない。そのため、常に注意を払わねばならない上に、攻めても攻めてもこの戦乱のゴールが見えない。これは兵士たちに大きなストレスとなって襲いかかっていた。

 それが、敵のリーダーの名前も、敵の本拠地もわかっただけでなく、向こうがゲリラ戦法を捨てて真正面から対決する意志を示しているのである。

 兵士を襲っていたストレスは消え、ゴールを目の前にするかのような解放感が広がった。その最後の戦闘をすればこの戦争は終わるという感覚とともに。


 一方、朝廷に伝わる情報は希望を抱かせないものばかりであった。

 水害にみまわれ、田畑が水没し家を失う地域があった。

 かと思えば、干害で井戸も川も枯れる地域が出てきた。

 被害の原因も状況も異なるが、どちらも生活の手段を失った農民たちが、とりあえずの生活を求めて放浪生活に放り出されたことでは共通していた。

 しかし、被災者に対する援助は全く無かった。心無いからでなく、援助にまわせる国家財政が無いからである。

 朝廷ができたのは被災者の税の一部免除だけである。

 国の援助のないことは被災者を失望させるだけだった。

 この命令が発せられたのは八月一一日。

 この時期に自然災害に対する減税処置命令が下ったということは、この年の収穫もまた期待できないものに終わるという可能性が高まったということである。

 嵯峨天皇はさらに神仏を頼るようになった。いや、その奇跡以外に頼るものなど無かったというほうがよい。

 嵯峨天皇は娘の一人である仁子内親王を斎内親王(神社に仕える皇族の女性)とし、伊勢神宮に派遣し祈祷させた。このときの仁子内親王はまだ七歳。純真無垢な少女のほうが祈祷にふさわしいと考えられた結果である。

 だが、これも危機から逃れる手だてではなかった。

 それどころか、九月一二日には大型の台風が京都に現れ、その暴風雨による深い爪痕を残した。

 翌日には台風の被災者へのコメの支援が実施された。

 地方の被災者は減税だけで対処しながら、京都の被災者には援助する。これは、貴族たちの目に届く範囲での被害か否かという違いであると同時に、まもなく収穫のときを迎えるという時期だからこその対応だろう。

 最後の最後まで取っておいたコメを放出しても、もうすぐ秋の収穫がある。そうすれば国庫はリセットされる。そう考えたからこそ、米倉が空になるまでの援助をしたのではないだろうか。

 しかし、結論から言うとそれは誤りだった。


 東北の綿麻呂から物資不足を訴える手紙が来た。

 綿麻呂の軍勢は反乱軍と違い、集落を襲って略奪するということがない。それどころか、襲われた集落の復興のための物資提供までしている。ただ、それは立派なことだが、補給を常に受け続けることができる環境が整っていなければできない話。

 その行為は、京都の朝廷の勢力下ではまだ可能であったが、国境を越えて進撃している今とあっては期待できない。

 さらに、京都を襲った台風は勢力をなおも続け東北地方にも姿を見せた。東北各地で水害や土砂崩れが発生したのである。

 綿麻呂はその復旧支援に人を割かなければならなくなった。

 そのために窮状を訴える連絡を出したのに、回答はつれないものだった。

 「米倉はもう尽きました。綿麻呂に送るなど無理でございます。送ることができたとしても、その途中の窮状を救うことなく通り過ぎさせると、反発どころか内乱が起きかねません。」

 「どうにかならぬか。」

 「どうにもなりませぬ。」

 冬嗣を批判することの多かった葛野麻呂も、このときは冬嗣に同調している。

 ここにいる誰もがその状況をわかっていた。わかっていたがどうにもならなかった。送るような物資の余力などもう無くなっていた。

 それでも討議は繰り返されたが、出た結論は、必要とする兵を現地で調達せよという命令だけだった。

 ただし、嵯峨天皇の名で記した文書であっても、それを口にしたのは冬嗣であるということを匂わせた。


 綿麻呂と冬嗣の面識がないわけはない。

 ただ、その関係は間違えても友好的なものではなかった。

 一個人としては、冬嗣に対する感情の悪化は奈良の反乱のときまで遡る。平城上皇派と見なして逮捕し牢に入れたのが他ならぬ冬嗣。そのときは田村麻呂の取りなしで釈放されたが、綿麻呂の冬嗣を見る視線はこのとき確実に悪化していた。

 貴族の綿麻呂としての悪化はその後、冬嗣が宮中で見せる、葛野麻呂をはじめとする上位で高齢の貴族に対する、礼儀も何もあったものではない図々しい態度、さらに、嵯峨天皇をまるで操り人形のように操って権力を握っている現状が拍車を掛けたものだった。これは頭では理解しようと感情が許せるものではなかった。

 それに輪を掛けて、武人の綿麻呂にとっても悪化したのがこのとき。

 それまで田村麻呂の副官としてやってきた綿麻呂は田村麻呂を尊敬していた。田村麻呂が朝廷との交渉を苦手としているのを見るや、綿麻呂は自分が田村麻呂の代理として朝廷で熱弁を振るった。

 その真面目で清廉潔白な生き方は息苦しく感じられることもあったが、武人として賞賛される要素の全てを兼ね揃えていた田村麻呂に従う兵士は多く、今の綿麻呂の軍勢が進軍できているのも、自分が率いているからではなく、亡き田村麻呂の右腕であった人が率いているからに他ならない。

 だが、田村麻呂の戦闘が成果を出したのは、それらの要素に加えて、桓武天皇が後ろで全面サポートしていたからである。

 田村麻呂が申し出る前に桓武天皇は必要とする全てを田村麻呂に届けさせていたし、朝廷で熱弁を振るう綿麻呂の言葉にも耳を傾け、最大限の援助をしていた。

 ところが、もう桓武天皇はいない。軍事のバックアップという点で桓武天皇の果たしてきた役割を現在では冬嗣が一手に担うようになっているが、担っているだけで応えているわけではない。

 綿麻呂とて現在の国家財政の窮状を知らないわけではない。

 理屈はわかる。コメの余裕など無い。

 だが、それにしてもやり方が冷たすぎる。

 現地調達の命令に綿麻呂は怒り狂った。

 そして思い出した。

 自分の上に立っているのは、平城上皇を責め立て、薬子を自殺に追いやり、仲成を殺した男なのだと言うことを。

 そして、その男は、自分の意見に耳を傾けるどころか、「現地調達せよ」という命令を発した。

 これは綿麻呂を決心させるに充分だった。

 もはや冬嗣は信頼できない。

 戦争の何たるかも理解していないし、この混乱にあっても何ら対処していない。対応はしているが、それはどう見ても結果の伴うものにはなっていない。

 自分自身も貴族であり朝廷の裏表を知り尽くしている綿麻呂は朝廷の政務がどのようなものであるかを知っている。そして、その能力も把握できている。それが、桓武天皇の頃はおろか、仲成が政権を握っていた頃よりもはるかに劣っているのが今の朝廷だと結論づける根拠となった。

 そして、これから先、自分たちの窮状を訴えてももはや何ら回答も得られないだろう。ならば、今の自分に出来ることは、今の戦力でできるだけ早く戦争を終わらせることのみと考えた。

 そして、こう結論づけた。

 冬嗣は無能だと。


 神社や寺院に足を運んでの神仏頼みにはメリットがある。

 実際にその場に行くことで、都ではわからない地方の状況をこの目で見る機会を得ることである。

 「もはや一刻の猶予も無きこと。わかっておりますな!」

 「伊勢もか……」

 「伊勢だけではない! 本朝の全てがそうなのだとなぜわからぬ! こうしている間にも、一人、また一人と命を失っておる。なぜ救うと言わぬ!」

 冬嗣はわからないわけではない。ただ、どうにもできないことだった。

 仁子内親王の伊勢参詣は、御利益はもたらさなかったが、京都から伊勢神宮に至るまでの道中の現状を冬嗣に伝えるというメリットはもたらした。仁子内親王に付き随って伊勢までの往復を果たした者らが語る道中の様子は、冬嗣にとって貴重な情報となった。

 それは、伝え聞き、書状で目にしていた以上のものであった。

 農村という農村がことごとく貧困に襲われ、田畑という田畑がことごとく不作となり、食料は無く、人々は痩せこけ、飢餓と疫病で次々に人が死んでいる。

 内親王の行幸を迎えることすら伊勢にとって過重な負担となり、結果、伊勢からの納税はどうあがいても無理だと断言せざるを得なくなった。

 「それは仲成の爪痕だ。」

 「な……」

 ところが、冬嗣はそれを前年の奈良の反乱による負担の後遺症と断言した。そして、一一月九日、伊勢国に対し、奈良の反乱の後遺症と行幸を迎え入れたことに対する褒美と合わせるかたちで、今年の納税を免除するとの布告を出した。

 彼らが絶句したのは、冬嗣の持ち出したその理由である。

 あまりにも突拍子もない理由に二の句が告げなかった。

 もっとも、伊勢に対する免除に何らかの理由を設定しないと他のどの国の税も免除しなければならなくなる。ただでさえ破綻している財政においてそれは許されなかった以上、伊勢だけが特別であるという何らかの理由付けが必要だった。

 「民に米無く、蔵に米無し。わかっているだろうが。」

 「それはわかっておる。だが、それをどうにかするのがそちの役目にあろう!」

 「米は天から降ってくるものではない。救えるだけの米など無い。本朝にも、外国とつくににも。」


 明日の食料もなく、明日の希望もなく、ただただ生きているだけの日々を過ごす京都の民衆にとって、東北地方からもたらされる戦果だけが喜びであった。

 何もできずにいる朝廷も、綿麻呂からもたらされる戦果を伝えることで民衆の不満を薄めることに成功していた。

 そして、そのときはついに訪れた。

 一一月一三日、朝廷は勝利を宣言した。

 東北地方の蝦夷は綿麻呂の前に全面降伏し、日本の国境は津軽海峡に達した。

 本州からは蝦夷がいなくなった。日本の暮らしを受け入れない者は北海道へと逃れ、残った者は日本人とされた。人々の意識の中ではまだ残っていたが、これから先、「蝦夷」という言葉は北海道に住むアイヌを指す言葉になり、東北地方に住む者は誰であれ日本人となった。

 この日、縄文時代は終わった。

 「正四位上文屋朝臣綿麻呂に従三位を授ける。」

 綿麻呂はその功績が認められ従三位に昇進し、冬嗣より上の位になった。

 綿麻呂に従って軍を率いた者たちもそれぞれ昇進し、五位の位を授けられて貴族に列せられる者が数多く出た。

 民衆はその発表に狂喜乱舞し、飢えも忘れるほどであった。

 綿麻呂の派遣からは一年経っていない。だが、桓武天皇の命による遠征開始から数えると今年で三八年になる。

 その間、長い休戦期間もあり、相互交流もあったが、人々の意識としては、日本はその間、東北地方に住む蝦夷に侵略され続けていたのである。地図を眺めれば日本のほうが蝦夷を攻め込んでいるのだが、感覚としては、日本人が殺され、日本人の村が荒らされ、日本のものが奪われている日々という感情であり、軍勢派遣はあくまでもそれに対する抵抗だった。

 蝦夷は憎しみであり恐怖であった。東北から遠く離れた土地でも、当時の日本たちが言う「野蛮人」の侵略はいつ起きてもおかしくない恐怖であった。

 それが無くなったことは誰もが共有できる喜びであった。


 だが、綿麻呂自身は手放しで喜んでいなかった。

 東北地方の犠牲と負担が大きすぎた上に、流入のために人口が増え、結果、不況と貧困がほかのどこよりも吹き荒れていたのだから。

 戦場となった陸奥や出羽では、開墾されたばかりの農地が荒らされたため、もとの狩猟・採集生活に戻る者も出てきた。だが、環境の変動もあって、今の東北地方の山林や海や川といった自然の恵みは、増えた人口を養えるほどではなかった。

 また、より豊かな暮らしをしようと南へ移住する者が続出した。南に行けば豊かな農地もあるし、今よりもいい暮らしができるという考えも広まっていた。

 しかし、これでは今回の戦乱のきっかけと同じ状況である。武器を持った集団ではなく平和的な移住だとしても、移りこんでこられる側にとってみれば、来てくださいと願い出ているわけではないし、この不作のせいで彼らを支える余力もない。歓迎されない集団が押し寄せるのでは、遅かれ早かれ衝突するのは目に見えている。

 綿麻呂は占領軍の司令官としての立場で、東北地方に住む者の移住を厳禁し、自分たちの集落に留まって農耕生活をするように厳命する。その代わり四年間は税を免除するとした。それまでは綿麻呂の軍に参加することが免税の条件であったが、参加有無に関係なく免税となったのである。

 その上で、綿麻呂は全軍の八割を除隊させ、故郷へ帰した。すでに戦闘は集結し、あとは治安維持に必要な軍勢がいればよいという判断である。

 これは現実的な判断である。

 気候のせいで南よりもともと収穫が劣る上に、農業が浸透してから日も浅いため、元々税率が低かったほどである。そこにやってきた不作。これは納税に耐えうるレベルではない。

 さらに、自分たちの維持費用も馬鹿にならない。この時点で綿麻呂の元には二万人の兵がいたが、その人数を養えるだけの余裕はもう無かった。物資が少なく兵士への配給を減らしている状況であり、必要としない兵士は一刻も早く除隊させる必要があった。

 だが、これらは綿麻呂の独断専行であり、綿麻呂に与えられた権限を大きく越えるものだった。

 その情報を聞いた冬嗣は苦言を呈している。

 しかし、冬嗣の苦言を聞き入れる綿麻呂ではなかった。この人は田村麻呂と違い、シビリアンコントロールの効かない武人である。

 その上、綿麻呂は功績により従三位に上り詰めている。いくら冬嗣が権力を掴んでいようと、人事権を握っていようと、自分より目上である綿麻呂は簡単にどうこうなる身分ではなくなっていた。

 東北と京都の間で手紙が往復した。

 冬嗣は独断専行を非難した。ただし、どうせよという具体案は何も記されていなかった。

 綿麻呂は自分の主張を冬嗣に対して展開した。事後承諾せよというものである。

 戦闘らしい戦闘のほとんどない奈良の反乱でさえ伊勢の免税の名目になった。一方、こちらは三八年間の戦闘である。

 伊勢に嵯峨天皇の命による斎内親王の行幸の負担があるなら、こちらは嵯峨天皇の命による軍勢派遣の負担がある。

 だから、綿麻呂の権限による免税は、理屈も備わった上での現実的な政策であった。

 「やむを得ませぬ。伊勢を免税としたなら、陸奥も出羽も免税となります。」

 「しかし、四年は多すぎるのではないか。」

 「陸奥も出羽も戦乱にさらされ荒廃しております。四年は必要でございましょう。」

 結果、冬嗣は綿麻呂の意見を受け入れた。

 それが兵士たちには不評であった。

 免税は軍勢に参加した者のみが得られる報酬のはずだったのに、軍勢参加の有無に関係なく適用されるようになった。風雨に晒されながら戦地を転々とし、武器を持って血を流し続けた今までの苦労はいったい何だったのかという思いが兵士達に蔓延した。

 しかも、自分たちの五人のうち四人が軍をクビになるというのである。生活苦から軍に参加した者もいる。帰るべき故郷を失った者もいる。それなのに、綿麻呂は軍を辞めて故郷に帰れと命令するのみ。

 戦闘で傷ついた者への保証もなく、軍を辞めたあとの再出発の手段も用意しない綿麻呂は、戦闘が終わる前は兵士からの尊敬と信頼を集めていたのに、戦闘が終わった今になって兵士の尊敬と信頼を失ったのである。

 一二月一一日、綿麻呂帰京。

 こうした帰京は戦闘をともにした兵士も一緒であることが普通なのに、綿麻呂の周辺にはほんの少しの兵士しかいなかった。

 京都の民衆は歓呼を持って綿麻呂を出迎えたが、田村麻呂の時のように一万人以上の兵士が続いていたのとはあまりにも違う光景に愕然とした。


 東北地方の戦乱が集結したことで、とりあえず平和にはなったと誰もが感じた。

 だが、その平和は半月しかもたなかった。

 一二月二八日、新羅軍、対馬襲来。

 桓武天皇の時代は、新羅といつ戦争となってもおかしくない時代でもあった。外交の対立が両国の関係を悪化させ、敵対している状態が続いているためにお互いに手出しできないでいることがかえって平和を招いていた。

 その緊張を平城天皇は平和的に破った。敵対していた新羅との関係を友好に転換させたのである。両国の使節が往来するようになったことは、いつ戦端が開かれてもおかしくない緊張を緩和させることとなった。

 傍目には平城天皇のほうが平和に近いと思われるが、平和を望むならばむしろいつでも戦闘に打って出てやるという態度でいるほうがいい。友好を深めて戦闘には打って出ないという態度で終始したために、かえって攻め込むスキをつかれた国は歴史上掃いて捨てるほどある。

 このときの日本は心底平和を満喫していた。長年の懸案だった蝦夷問題を最高の形で解決したことの満足が上から下まで支配していた。

 さらに、綿麻呂による兵力削減も、それに対する兵士の反発も国外にも知られていた。

 これは、今ここで攻め込んだ場合の日本側の反撃も少なくて済むということである。攻め込もうという立場に立てばこれほど好都合なことはない。

 ただ、それを幸運と呼ぶことは人間性が疑われるが、あえて言うなら日本にとって幸運なことが一つだけあった。新羅の不作が日本以上にひどかったのである。

 新羅が日本に来襲したのは蝦夷が攻め込んできたのと同じ理由。つまり、生活苦のために日本へ襲いかかり、コメとモノを奪い去ることが目的である。ただ、蝦夷と違い陸続きのところを攻めるのではない。攻めていくには船を用意しなければならないし、向こうに行くまでの食料や真水も積んでいかなければならない。

 新羅はそれが用意できなかった。

 二〇隻以上の艦隊ではあったが一隻あたり一〇名前後という少なさであり、合計二〇〇名前後である。新羅からの攻撃の第一報も、新羅軍襲来ではなく海賊襲来と判断されたのもそれが原因であった。

 「今ここで動いておけば東北のような惨劇を食い止められます。逆に言えば、動かないと五〇年とも一〇〇年ともつかない、長い長い地獄が始まります。」

 報告を告げる冬嗣の言葉に、横から口を挟む者など誰もいなかった。

 それは、ここにいる誰もが事態の重大さを把握したということ。戦争は時に国内世論の統一をもたらす。それはこの時代も例外ではなかった。

 京都にはまず、対馬が新羅の襲撃を受けたことを伝える情報だけが届いた。その軍勢が少なく海賊の規模であることも伝えられたが、それは蝦夷のときと同様に第一陣でしかないと考えられ、ただちに軍勢の結集と、出雲・石見(ともに現在の島根県)・長門(山口県)の沿岸警備が命ぜられた。

 冬嗣のその判断は迅速なものであり、充分合格点をつけても良い判断の速さである。

 ただし、判断の速さには合格点をつけられても、対応には合格点をつけられない。

 沿岸警備を命じるだけで、それに要する人員の派遣も、物資やコメの派遣もなかったのである。

 派遣したくてもできなかったのが正解なのだろうし、そのことはもう誰の目にも明らかだった。今の日本は不作による貧困と不況にあえいでおり、朝廷には余裕など無い。そして、それを正直に言えば理解も納得もされる。

 ところが、冬嗣はそれを一言も言わずに命令だけをしている。

 まるで、今の日本は不作ではないとでも言いたげな様子で。

 この冬嗣の態度は、日本の各地に反冬嗣感情を生じさせることとなった。

 もし、この時代に支持率という概念があるとしたら、冬嗣の支持率は辞職もやむなしという数字となっていたであろう。


 幸いなことに、対馬を侵略した新羅軍は対馬常駐の守備隊に撃退された。

 ただし、新羅軍の戦死者五名、拿捕五名という結果であり、残りのほとんどは逃走した。

 これで安心した者などほとんどいなかった。第一陣は撃退できたが、第二陣、第三陣と攻め込んでくるであろうことは充分予想された。

 当然のことながら、日本は新羅との国交を打ち切ることを宣言し、新羅対策を国家最重要課題として対応することとした。

 まず、年明け早々の一月一二日、嵯峨天皇の弟で、のちの平家の始祖ともなる葛原親王かずわらしんのう大宰師だざいのそちに任命し、それまで新羅との交渉を一手に引き受けてきた藤原縄主ただぬし(藤原薬子の正式な夫)を京都に呼び戻して従三位に昇進させると同時に兵部卿に任命した。

 それまでの温情路線を勧めていた縄主を大宰府の交渉窓口担当から外し、対新羅強硬派で知られる二六歳の親王を大宰府のトップに任命することで日本の態度を明確にした。新羅の蛮行は断じて許さないとする態度である。

 同時に、綿麻呂に対する忠誠を失い軍としての統率がとれなくなった兵士たちをまとめるのが縄主の新たな仕事になった。

 敵を作らぬ温厚な性格は兵士たちの感情を和らげるのに役立った。また、敵である新羅のことを誰よりも知っていることは兵士たちに安心をもたらした。


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