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第一部  藤原冬嗣の苦悩

「北家起つ~藤原冬嗣の苦悩~」は、小説ブログ「いささめ」(http://abeblo.jp/tokunagi-reiki)にて、2009年6月1日から9月30日まで公開しておりました。

 平城上皇の出家、薬子の自殺、そして仲成の死刑。

 ライバルを一掃した藤原冬嗣ふゆつぐはまだこのとき三五歳。平均寿命の短い当時でもこの若さならば未来はまだまだ長い。

 その長い未来を前にして、ライバルを蹴落とし、権力を一手に掴むことに成功した冬嗣はこれからの人生を栄光の日々としてもおかしくはなかった。

 だが、歴史はそれを許さなかった。

 歴史が冬嗣に課したもの、それは、天災と人災という名の試練である。


 「左衛士督従四位下、藤原朝臣冬嗣、式部大輔兼任を命ずる。」

 「はっ。」

 反京都の勢力を一掃することに成功した冬嗣は、嵯峨天皇に働きかけて国の一新を図った。

 まず、大同五(八一〇)年九月一三日、平城上皇の子であり皇太子であった高岳親王の職を解任し、後継として、嵯峨天皇の弟である大伴親王を皇太弟として任命した。

 そして、自分を「式部大輔しきぶのすけ」に就けさせた。

 式部省は役人の人事考課を担う官庁であり、そのトップである「式部卿しきぶのかみ」には皇族が就任することが慣例となっていたため、他の省庁においてはナンバー2である「大輔すけ」の役職が、式部省においては省庁の事実上のトップを意味する。

 通例ならば、式部大輔とは正五位下の者が就任する職務であり、従四位下である冬嗣がこの地位に就くことは格下げを意味する。だが、冬嗣にとってはそれが格下げでも公的根拠に基づく役人の人事権を握ることのほうが重要であった。

 その結果、九月一五日には一五人、一六日には二五人といったペースで、一五日から一九日までの五日間に五〇名以上の貴族や役人に対し新たなポジションが与えられることとなった。

 「奴の時代になったか。」

 時代を掴んだ冬嗣を藤原葛野麻呂かどのまろは横目で眺めた。

 葛野麻呂は冬嗣と同じ藤原北家に属する。だが、本流はあくまでも冬嗣であり、冬嗣の父である内麻呂が一族の長。葛野麻呂は遣唐大使の重責を果たしたことで出世はしたが、平城天皇と接近したため今となっては冷遇される身となっていた。

 それでも、反乱に参加しなかったために罪に問われることはなかった。

 そしてもう一人、冬嗣によって地位を得ながらも冬嗣を冷ややかな目で眺める者がいた。このとき美濃守に就任した参議正四位下藤原緒嗣おつぐである。緒嗣は桓武天皇の忠臣として名を馳せた藤原百川の息子であり、冬嗣より一歳上である。縄主と同じ藤原式家の一員であり、縄主とは従兄弟の関係にあたる。

 緒嗣は桓武天皇の元で早熟の出世を遂げていた。元服は桓武天皇の手によってであり、一八歳で貴族の一員に加えられ、二九歳で参議に加わるという異例の出世スピード。これは父である藤原百川の威光を受けてのものであった。

 桓武天皇の末期には高齢の貴族相手に堂々たる論陣を張り、桓武天皇のライフワークとしてきた平安京建設と蝦夷平定の二つを中断させるという結果を残した。

 平城天皇の元でも参議として、さらには観察使として活躍。そして、田村麻呂の後任として東北地方の安定を勤める陸奥出羽按察使あぜちに就任し、東北地方に出向く。

 だが、帰ってきたのは平城天皇が上皇となり、反乱が起き、鎮圧されたあと。

 緒嗣は都を離れたことが致命的なダメージとなり、嵯峨天皇の時代に乗り遅れた。


 一九日には元号を「大同」から「弘仁」へと変更する。この改元の際に、嵯峨天皇は、「穀物も豊作で倉庫は満ち、人々の暮らしも豊かになっている。それらは全て神仏のおかげである」と高らかに宣言した。

 奈良の挙兵から十日も経たずに人事と元号を一新したことは、嵯峨天皇、そして、今や誰も疑う者のいない朝廷の実力者である冬嗣の存在を大きく示す効果があった。

 嵯峨天皇の言葉が正しければ神仏の加護に満ちた豊かな時代の始まりであり、危機に対する素早い対処、従来の枠にとらわれない人事、そして、新しい元号、これらは普通ならば新しい希望に満ちた時代の到来を予感させるはずであった。

 ところがそうはならなかった。

 代わりに民衆を襲ったもの。

 それは、失望。


 奈良の勢力が成立できた要因の中には権力から突き放された貴族や寺院の勢力というものがあったが、最たる原因は民衆の生活の困迷である。

 特に、重い負担が民衆を苦しめていた。

 この時代の民衆とは、そのほとんどが農民である。都市生活者もいたが比率で言うとそれは高い数字ではなく、畿内を離れたところに住む地方の民衆とはイコール農民であると考えても良い。そのため、対民衆政策と対農民政策とはかなり一致する。

 その政策が負のスパイラルを生んでいたのがこの時代であった。

 法で定められている直接税の税率はわずかに三パーセント。現在の日本の所得税や住民税の税率と比べるとかなり低い数字であり、夢のような数字と言える。

 だが、負担はそれだけではない。

 この時代の農民は、現在で言うサラリーマンではなく、個人商店や中小企業の経営者と考えていただきたい。

 小さいながらも経営のトップに立つ身であり、日々の経営の結果が自分や家族の生活に直結する身、つまり、自分の田畑の収穫が自分の生活に直結する身である。収穫が良ければいい暮らしが出来るが、悪ければ生活が苦しくなる。

 世の中の経営者の中には無借金経営として銀行を必要としない経営をする経営者もいるが、運転資金を銀行から借りて経営する経営者のほうが多い。

 これが農業となると、運転資金=種籾を借りて、利益=収穫したコメを返すというサイクルになる。前年度の収穫(=利益)が出れば翌年度の種籾(=運転資金)を自前で用意できるが、前年度の収穫が乏しく種籾がなくなった場合は誰かから借りなければならない。

 この時代の種籾の貸し出しにつけられた名、それが「出挙すいこ」である。

 この出挙の利率が一〇〇パーセントを超えるようになったのが問題となっていた。

 たしかにコメはムギやトウモロコシなどの他の穀物よりも生産性の高い農作物である。

 この当時の技術、この当時のコメの品種でも、一粒の種籾から五粒から一〇粒のコメの収穫を見込むことができた。ちなみに現在では、最高の技術、最高の天候、最高の土壌、最高の品種といった条件が揃えば、一粒の種籾から一二〇粒の米が収穫できる。この当時はそこまでの技術も品種もなかったが、それでもこの時代でのヨーロッパでは一粒のムギを蒔いて二粒のムギの収穫ができれば御の字とされていたことを考えると、一〇倍の収穫が考えられることは、ヨーロッパと比べれば恵まれていたと言える。

 だが、出挙の返済を考えると恵まれているなど言えない。利率通りに出挙を返し、税を納めた後には自分たちの生活する分がぎりぎり残るかどうかであり、種籾までは残らないのが普通であった。

 そのため、翌年の春になったらまた種籾を借り、収穫まで田畑を守り続け、収穫して返済するというサイクルに入らなければ生活が成り立たない者が大多数を占めた。

 出挙の返済がこの時代の農民の負担に占める割合は高く、収入の五〇パーセントを軽く超えていた。

 経営の流れとしては中小企業の自転車操業と同じである。


 出挙の名目は貧者救済のための施策である。種籾まで食べ尽くしてしまい翌年の耕作ができなくなってしまった農民を救うのだから、この名目自体は褒められるべきものと言えよう。

 だが、この出挙、ビジネスとして眺めると、ミドルリスクだがハイリターンを見込める魅力的な投資であった。

 なんと言っても、半年から八ヶ月で倍額が戻ってくるのは投資として魅力が高い。そのため、国が率先して出挙を行っていたし、地方に赴任した国司や、その地域の郡司、現在の感覚でいうと都道府県知事や市町村長もそのビジネスに参加していた。

 だが、リスクもハイリスクとまでは行かないにしろなかなかに高い。

 何しろ相手は自然。荒れ狂う自然にさらされた農業には不作という結果が伴い、乏しい収穫に終わるならまだマシで、ときには収穫ゼロという結果さえある。収穫が無ければ利子どころか元本が戻ってこない。恫喝しようが、法に訴えようが、無いものはとれない。

 この一〇〇パーセントという利率、これはそうしたリスクをふまえての利率設定であるとも言える。どんなビジネスでもそうだが、担保となるべき資産がない相手へ貸し出しをする者は、不良債権となる可能性の高ければ高い相手ほどその利率を高くする。現在の金貸しがヤミに近づけば近づくほど利子が高くなっているのもリスクがその分高いことの反映。

 さて、この出挙であるが、国や地方が直接農民に貸し出すことは少ない。一応あるにはあるが、たいていの場合、国や地方はその地域の有力者、つまり、大きな土地を持ち、大勢の耕作者を抱える、現在の感覚で行けば大企業を相手にして貸し出すのが普通であった。こうした大企業相手ならばリスクが低いと見なされるため、出挙の利子も低い。これを「公出挙くすいこ」という。

 中小企業としての農家が種籾を借りるのはこうした大企業である有力者からなのが普通であった。こうした地域の有力者が種籾を農家に貸し出すことを「私出挙しすいこ」という。

 そして、公出挙として受け取った種籾をそのまま私出挙に回すことが頻繁に見られるようになった。

 例えば、公出挙として年率三〇パーセントで借り、その種籾をそのまま農民に年率五〇パーセントで渡す。そうすると、中間の大企業は差分である二〇パーセントをそのまま収入とすることが出来る。

 中小企業の農民としても、自分相手には貸してくれないが、大企業が間に入ってくれれば種籾を貸してくれるということで、年率が高くなってもそれに頼る。

 種籾が無限にあるわけではないから、貸し出す側はより有利な結果が期待できる相手を選ぶ。つまり、収穫が見込めそうな相手を最優先にする。収穫が見込める農家は利率の安いところを選べるが、見込めないところは利率を高く設定しているところしか選べない。

 リスクを踏まえて利率を上げ、その利率通りの返済があると、一時的に高くなった利率は常態となり、莫大な負担とともに莫大な収益をもたらす。

 その結果、種籾を貸し出す側に回す余力がある者がこぞって出挙に参加するようになっただけでなく、私出挙で借りた種籾を別の農民にさらに利子を上乗せして貸し出すという農民同士の取引まで発生し、出挙は福祉政策ではなく投機となる。

 ここに、国のトップから末端の農民までが参加するバブル的なビジネスモデルが成立した。


 だが、これは豊作でなければ成り立たないビジネスモデルであった。

 不作になった瞬間、バブルは壊れ、出挙が不良債権と化してビジネスに関わる全ての人に打撃を与えることになる。

 不作になると、まず、私出挙が返されなくなる。返すだけの収穫がないのだから返しようがない。それでも返済を求めて農民の食い扶持を奪うという非常手段も頻発したが、それは、餓死する農民や、田畑を捨てて逃亡する農民が激増するという結果を招いただけで、返済を埋めるまでは行かなかった。結果、出挙は不良債権と化して大企業に襲いかかる。現在で言う中小企業の倒産である。

 私出挙の返済が止まっても、公出挙の返済を止めてくれるわけなどなく、大企業にも返済が迫られる。余裕のある大企業ならばその分の返済も可能だが、それが何度も続くとどんな大企業だろうと経営は下り坂になる。

 経営が苦しくなった大企業は、私出挙の貸し出しの審査を厳しくするようになる。前年の収穫が良くなかったところに種籾を貸し出さないようにし、貸し出すとしてもそれまでより高い利子を設定するようになる。これなど、貸し渋りにあって運転資金の確保に苦しむ中小企業と同じである。そして、こちらもまた、種籾が無くなって耕作できなくなるという中小企業の倒産を招いた。

 また、自分のところで雇っていた耕作者、特に奴隷(当時の言葉では「」)や、自分の土地を持たない小作農をクビにすることも起きた。耕作の対価として支払っているコメ、つまり人件費の削減である。他のどんな策を用いようとこれ以上支払うべき財源が無くなったとき、人件費を削ろうとするのは今の時代と変わらない。

 その結果、土地を失った失業者が生まれる。

 また、残った者にとっても、これまで耕していた田畑を減らされた人数でやらなければならなくなるのだから、これは労働量が増えるということである。それでいて、得られる報酬は前と変わらないかむしろ減っている。これについては、現在のサービス残業やワーキングプアを思い浮かべていただきたい。

 中小企業の倒産、経営不振、貸し渋り、失業者の増大、労働環境の悪化、ワーキングプア。

 これらは平成になってはじめて現れた現象ではない。


 平城天皇はこの負のスパイラルを絶つべく、こうした重荷を課す国司や郡司の上に観察使を設置し、過重な負担を課す地方官吏を次々と追放し、大規模な減税を決行した。

 負のスパイラルの原因は貴族や官僚の腐敗であり、腐敗を食い止めれば生活は向上するとの考えからである。

 そして、負担の高さが民衆の重荷になっているとして、コメ以外の税率を下げることで民衆の生活水準が上がるように画策した。

 民衆はこれに感謝した。そして、未来に希望を見た。これで自分たちの暮らしは良くなると考えて。

 この希望は長く続いた。実際に生活水準が上がったわけではなく、統計的にはむしろ生活が悪化していたのだが、それでも希望はあった。

 平城天皇が退位して観察使が形骸化し、ついには廃止されても、民衆はまだ希望を完全に捨ててはいなかった。

 国司も郡司も何事もなかったかのように舞い戻り、出挙の高い利率が復活しても、民衆にはまだ希望があった。

 奈良の都という最後の希望が。

 何もかも捨てて奈良に行けばそこには平城上皇がおり、平城上皇に守られた奈良には豊かな暮らしがあるというのはもはや伝説となり、奈良へと向かう民衆の流れは無視できないものになっていた。


 その奈良の勢力が消失させられ、民衆は最後の希望を失った。


 時代が変わったことに対する希望より、自分たちの希望が失われたことへの失望のほうが強かった。時代はその希望を奪った者達のものであり、自分たちは再びあの苦しい暮らしを続けていかなければならないのかという失望が民衆を襲った。

 それでも、朝廷には失望を希望に変える方法があった。わかりやすい形で負担が少なくなる、あるいは生活の苦しさがなくなるといった政策を早々と打ち出すことである。そうすれば、新しい時代の始まりを希望に変えることができる。

 それなのに、この十日間の政策は宮中の中だけのことに終始し、民衆を省みるものではなかった。

 民衆にとっては、貴族の人事がどうなろうが、元号が変わろうが、取り立てて大騒ぎするようなものではない。その大騒ぎするようなものではないことに終始していることは失望の上積みをしただけだった。


 冬嗣はそれをわかっていた。

 わかっていたが、動くに動けなかった。

 冬嗣は、現在の経済の混迷が出挙にあると確信し、その利率を下げることをかなり早い段階で画策していた。

 ところが、人事には口出ししなかった桓武天皇の忠臣たちも、冬嗣のこの政策には頑迷に抵抗した。

 特に葛野麻呂と緒嗣の反発が激しかった。

 貴族の反発の理由は地方へ赴任した際の収入が減らされることにある。

 もっともそれは本音であり、建前としては、それによる国庫収入の減少がある。直接税の比率の低さはとてもではないが国をやっていけるだけの金額ではなく、出挙による高い比率の税収が得られるからこそ国はやっていけるのだとして反発した。実際、平城天皇による減税は国庫収入の減少と財政不安を招いており、嵯峨天皇は当初、出挙の利率を上げることでその危機を乗り越えようとしていたほどである。

 結果は、冬嗣ひとりが宮中で孤立する状況。出挙の税率引き下げが議案に挙がっては直ちに却下される状態が十日間続いた。

 だが、九月二三日、嵯峨天皇が突如、緊急措置として出挙の利率を最高三〇パーセントとするよう命じたことから事態は急転する。

 「何を勝手なことをなさるか!」

 緒嗣は驚きを隠せなかった。

 「帝を操り人形とでも思っているのか!」

 葛野麻呂は怒りを露わにした。

 誰もが、嵯峨天皇の背後に冬嗣が居ること、そして、この命令が冬嗣の意見そのものであることに気づいた。

 嵯峨天皇の前でありながら冬嗣を罵倒する他の貴族たちの声も響いた。

 冬嗣は立ち上がって、罵倒する貴族の前に立ち、見下ろして無言で睨みつけた。

 その表情は仲成を死刑にしたときと同じ表情だった。

 「主上! いかがなさるおつもりですか。」

 葛野麻呂は視線を逸らし、嵯峨天皇に冬嗣を諫めるよう言った。

 当初は葛野麻呂たちに意見を合わせていた嵯峨天皇であったが、その意見は次第に冬嗣の意見へと近づいていった。

 嵯峨天皇は悩んでいた。冬嗣の打ち出した緊急措置は嵯峨天皇のこれまでの政策を一八〇度転換するものであり、財源の裏付けのとれた政策ではない。だが、それは民衆の失望を減らすために有効であるとも考えられた。

 この葛藤が嵯峨天皇を支配し、決断するのに十日かかった。

 「今はまず、農民を救うことを考えよ。」

 「税を減らし、この上、出挙まで減らしたら、国庫は立ちゆかなくなります。」

 「それはわかっておる。だが、それよりも農民を救うことだ。」

 「しかし……」

 そのとき、それまで黙っていた冬嗣が口を開いた。

 「何をごちゃごちゃ言ってんだ。文句があるなら貴様の手で民衆を救ってみろ。」

 目上を目上とも思わぬその口調は、その場を静かにさせるのに充分だった。

 「何を言うか!」

 葛野麻呂の反発を示す言葉が出るのに少し時間がかかった。

 「口を開けば他人の批判ばかりで、何ら自分の意見も言わずにいることが恥ずかしくないのか。私が利率を下げると言ってから十日も経っている。それが不満なら、それに変わる意見を出したらどうだ。時間がないとは言わせぬ。貴様等も貴族を名乗るなら、十日も経って意見の一つも考えられないような能なしではなかろう。」

 「誰に向かって口をきいているのか!」

 「私が敬意を払うのははただ一人、主上のみ。貴様に払う敬意など無い。口をきいてやっただけでも感謝しろ。」


 冬嗣の強引なやり方に貴族は猛反発した。

 だが、彼らはすぐに気づいた。

 この十日間、冬嗣が何をしてきたか。

 冬嗣は、人事権を握っているのである。そして、冬嗣より下位の者は息の掛かった者を抜擢し、冬嗣一門とも言うべき派閥を作り上げることにも成功していた。

 気がつけば、高位の者こそ桓武天皇の忠臣で占めているが、それより下は異なる派閥の者になっていた。三位以上の高齢の貴族とその仲間という派閥、そして、冬嗣を中心とする四位以下の若い貴族の派閥。仲成の始めた世代間の対立がここに完成した。

 もっとも、冬嗣の側に若い者が多いと言っても「比較的」という形容詞がつく。高齢の貴族側に属する緒嗣は、世代的には冬嗣に近い。

 いくら冬嗣が人事権を握っているとは言え、三位以上の貴族に対する人事権はない。三位以上の貴族の圧倒的大多数は桓武天皇の忠臣であり、冬嗣との関係は反奈良ということでは一致していたが、それが無くなれば明確な敵対関係となる。

 このときの冬嗣は従四位下。本来であれば三位以上に口出しできるものではない。

 だが、冬嗣には奥の手があった。

 嵯峨天皇とは同じ世代であり、意見を同じくすることが多い。そして、自分自身が嵯峨天皇の右腕を務めている。これは、公私両面において、嵯峨天皇に働きかけをする機会が他の者より圧倒的に多いことを意味する。

 そのため、自分のアイデアを嵯峨天皇に伝え、嵯峨天皇がそれに賛成すれば、冬嗣の意見は天皇の意志になる。

 この時代にはまだ摂関政治という概念がない。だが、その基礎となる考えは、このときに誕生した。


 ただ、その第一歩となる出挙の利率引き下げに対する民衆からの感謝の声は全く挙がらなかった。

 これには三つの理由がある。

 まず、そもそも出挙の最高利率は法で定められており、年によって違いはあるが三〇から五〇パーセントと定められている。この時点でもその法は有効であり、一〇〇パーセントというのはとんでもない利率であると同時に、法に反する利率でもあった。観察使が国司や郡司を処罰できたのはその法に違反するということを根拠としている。

 つまり、冬嗣の定めた利率はこれまで何度も定められながら守られなかったことを繰り返したにすぎず、今回も結局守られずに今まで通りになるとの思いが強かった。

 次に、労働環境や失業対策が全くないことへの不満がある。

 田畑を捨てた者、働く場所を失った者を奈良は受け入れた。しかし、その奈良が無くなってしまった。あとで待っているのは生活する手段がないという現実である。

 それなのに、提示した政策は出挙の利率を抑えることだけ。これでメリットがあるのは今の時点で田畑を持っている者だけであり、田畑を持たぬ自分たちはこれからどうやって暮らしていけばいいのかという不満への回答が無かった。そして、俘囚にくれてやる援助があるなら自分たちにくれという思いが日に日に強くなっていた。

 最後に、冬嗣個人に対する不信がある。

 自分たちの希望であった奈良を壊滅させたこと、仲成を捕らえただけでなく死刑にしたこと、罪もない女性を悪女に仕立て上げ自殺に追い込んだこと、こうした冬嗣のこれまでの残虐な行動を前にしては、その他の奈良派の貴族を許そうと、民衆のためという名目の政策を掲げようと、易々と信じてくれるものにはならない。

 宮中には出挙の利率引き下げに対する民衆の反応が届いた。

 冬嗣に反発する者はこれ幸いと冬嗣への攻撃を始めた。

 「出挙の利率を引き下げたことに対する感謝が無いのは、冬嗣の人徳に問題があるからではないのか?」

 葛野麻呂の手厳しい一言だった。

 葛野麻呂は冬嗣より二〇歳上の五五歳。位も、役職も葛野麻呂のほうが上で、本来ならば冬嗣は敬意を払わねばならない相手のはず。

 「結果が出れば、人徳など関係なかろう。」

 「ならば結果が出ると言うことか。」

 「出なければそのときに次の手を考えれば良い。挑戦して敗れた者に、挑戦すらしなかった者が口出しする資格など無い。仲成は少なくとも挑戦はした。貴様は仲成以下だ。」

 その葛野麻呂を冬嗣は平然と罵倒していた。


 葛野麻呂をはじめとする貴族を敵に回し、民衆も敵に回した冬嗣に、一ヶ月後、さらなる難問が現れた。

 一〇月二七日、陸奥国に二〇〇人ほどの集団が海の向こうから押し寄せてきた。このとき押し寄せてきたのは北海道の縄文人(当時の用語では「蝦夷えみし」)の集団という説が有力であり、このときの朝廷も海の向こうの蝦夷が渡来してきたということで対応している。

 現在、日本の歴史は旧石器時代より始まり、縄文時代を経て弥生時代に至るとするのが一般的である。だが、弥生時代が始まったと同時に縄文時代の暮らしをしていた人が消えたわけではない。

 狩猟・採集を生活の基礎とし、農業を行なわない、あるいは、行なったとしても農業を生活の基礎とはしない彼ら、言うなれば縄文人たちはこの時代にも存在していた。それを当時は「蝦夷」と呼んでいた。

 桓武天皇の時代に坂上田村麻呂による東北地方の制圧があったが、まだ東北地方全域を制圧したわけではなかった。県で言うと、青森県の全域と、岩手県の北部、秋田県の北部がまだ京都の支配下に組み込まれておらず縄文時代が続いているという状況である。

 また、制圧した東北地方も、それより北の東北地方や北海道と同じ縄文人の住む土地という認識もされていた。このとき朝廷の支配下に入った縄文人は「俘囚ふしゅう」と呼ばれ、日本人より一段下に見られていた。ただし、課税はされず、農地を開墾しての定住生活が成立するまで食糧や布などの生活物資が与えられるなど、生活の面で優遇されていた。

 民衆の出挙の利率引き下げに対する反発とはこれである。

 税を納める自分たちは苦しい生活をし、さらには不作から出挙が返せないために暮らしの手段を失ったのに、俘囚は国の援助で税を納めることなく生きている。それは理屈ではどうにもならない感情だった。

 さらに、蝦夷や俘囚に対する当時の庶民の視線は「野蛮人」というものであり、国に逆らう異民族というものであった。反発の中にはそうした差別感情も色濃くあった。

 実際、制圧時に捕虜にした蝦夷は見せ物であるかのように朝廷に連れて行かれたし、強制的に地方に移転させられる俘囚も居た。東北地方に残った縄文人に対しても、狩猟・採集を中心とする縄文時代の生活習慣を野蛮と一括し、農耕を中心とする日本の習慣をするよう押しつけていた。

 ただし、そのおかげで狩猟・採集を中心とする生活より安定した生活が送れるようにもなっており、生存率の向上に伴う人口の増加、そして生活水準の向上が徐々にではあるが実現しつつあった。

 これは縄文人にとって相反する二つの感情を生み出していた。侵略され支配され、日本人より格下に扱われているという屈辱と、支配されるようになった結果、それまでよりも良い暮らしを手にできるようになっているという希望である。

 時代は後者の感情が優先してきていた。支配を受け入れることでそれまでは夢でしかなかった飢えの少ない暮らしを手にできると理解したことが大きく、日本の支配に組み込まれた東北地方の縄文人と、組み込まれない北海道の縄文人、この二つの地域の交流は次第に細くなっていった。

 それまでなら二〇〇人の縄文人の渡来など日常の光景として記録に留められなかったであろう。しかし、今はもう時代が変わっていた。二〇〇人の渡来がニュースとなる時代へと。

 それでもこのときの陸奥国の官吏の対応は、野蛮人に対する対応と言うより、海の向こうの同胞に対する対応だった。このときの官吏は何名であったのか、また、その官吏の名前は何かといった記録は残っていない。

 その官吏にとって海を渡ってきた者らは自分たちの仲間であり、また武装集団というわけではなかったこともあり穏健に対応しようとしていた。おそらくであるが、このときの官吏自身が俘囚であった可能性が高い。そしてこれは、官吏の仲間に対する友愛であるだけでなく、桓武天皇の対外強硬路線とは逆の平城天皇の対外融和路線の影響がまだ残っていたということでもある。

 だが、融和路線の交渉は強硬路線の交渉より難しい。そのため、彼らとの交渉は困難を極めた。

 日本からの主張はとにかく帰国してほしいというものであったが、縄文人は、既に冬を迎え海が荒れていること、故郷の生活が厳しいことを挙げて、このまま日本にとどまること、さらに、俘囚が受けているような当面の生活の補償を要求してきた。

 交渉の結果、とりあえずの保証として、食料と衣服を彼らに支給し、翌年まで彼らを保護することが決まった。

 都にその情報が届いたのはその交渉がまとまったあとである。

 「陸奥や出羽はまだ本朝(ほんちょう・当時の人が「我が国」という意味で使用していた語)の力の及ばぬ地。そこに住む者らは海の彼方の者と同じ言葉を話し、同じ暮らしをしている。そうした者が海の外からやってくることなどおかしなことではあるまい。」

 報告の第一報を聞いた嵯峨天皇は悠長に構えていた。

 冬嗣はそれに対して何も言わなかった。

 「それに、本朝には毎年数十から数百の新羅人が逃れてきておる。海の外より人が来るのは、本朝の暮らしが豊かで実り多いものであると考えたからではないか。ならば、本朝より追い出すのではなく、本朝で暮らすことの素晴らしさを感じさせるべきであろう。」

 「……、御意。」

 冬嗣のその言葉にはためらいがあった。

 嵯峨天皇は当時の東北地方の実情を理解しておらず、都に伝わる断片的な情報で東北地方を把握していた。

 そして、東北地方からの最新の情報を聞いた嵯峨天皇は特にこれといったアクションを示さなかった。新羅からの亡命者が珍しくないことから新羅以外の地域からの亡命者があってもおかしくはないだろうと考えたのか、それとも、たかだか二〇〇人と考えたのか、このときの嵯峨天皇はあくまでも一時的な出来事だと考えたようである。

 だが、冬嗣はそう考えてはいなかった。

 それが何であるかはわからないが、少なくとも何か良くないことが起こる前触れではないかという思いがあった。

 その冬嗣の思いは正解だった。

 二〇〇名の渡来はこれからの問題の前兆だったのである。

 環境の変動による大飢饉という問題の。


 意外かもしれないが、農業が食糧確保の圧倒的多数を占める地域では、環境の変動があってもすぐには命に直結しない。まず生活が苦しくなり、命に影響を与えるのはしばらく経ってからとなる。

 環境の変動が起こると不作になり、食料品の値上がりが起こり、店頭から食料品が消え、台所の食料も消えて、生活が苦しくなる。

 だが、生活が苦しくても蓄えさえあれば生きていける。

 農業という行動自体が自然界ではあり得ない量の食糧を確保する手段であり、生活できる以上の食糧を確保することも可能である。つまり、蓄えがある間は、環境の変動があっても、生活が苦しくなるが生きてはいられる。そして、命に影響を与えるのはその蓄えがなくなったとき。

 そのときになってやっと飢饉が始まる。

 だから、環境の変動を察知してから飢餓対策まで、普通であれば時間を確保できるし、何らかの対処も可能となる。

 一方、狩猟や採集が中心だと、環境の変動はすぐに命に直結する。

 狩猟や採集の基本は自分たちが生活できるだけの食糧の確保であり、蓄えるほどの食料の確保をしていることもあるがその蓄えは農業の比にはならない少なさに留まる。つまり、その日の食料をその日に手に入れるのが暮らしの基本であり、食料が手に入るならその場に留まるが、食料が手に入らないと食料の手に入るところへ移動することとなる。

 だから、狩猟や採集で生活している人たちが移動を始めるということは、自然界で何かが起こることの前兆である。

 陸奥に二〇〇人規模の人が押し寄せたのはその例であった。


 その一ヶ月後、冬嗣は東西から同じ知らせを受け取った。

 「不作のため税が納められなくなっております。」

 「不作となり、田畑を捨てる農民が続出しております。」

 各国から続々と同様の知らせが飛び込み、無事を伝える国は一つとしてなかった。そして、特例としての免税を求める国が続出した。私出挙どころか、公出挙も戻ってこなくなったのである。

 このときになって冬嗣は、漠然とした不安の正体を知った。

 「まずいな……」

 それが何なのかはわからないが、自然界に何かが起こっているのは理解した。

 その結果、今年のコメは不作だと。それも、これまでにない不作になると知った。

 一一月二八日、冬嗣は願いのあった中から三河国(現在の愛知県東部)と美作国(現在の岡山県北部)の二ヶ国の税を、今年に限り免ずるように命じる。

 「免税とは、大げさにもほどがあるのではないか。」

 「無いものをとれるか。少しは考えてから物を言え。」

 本来であれば願いのあった全ての国に適用すべきであったが、それでは国家財政が成り立たなくなる。そこで、名目として大嘗祭のときに珍しい献上品を送ったこの二ヶ国への返礼とした。

 だが、これは一時的な対策に過ぎなかった。

 そのあとも各地から不作の情報が届いた。税の免除を願い出るだけでなく、不足するコメを運び込んで欲しいという願いとともに。

 全国的な不作であることを理解した冬嗣は、もはや一刻の猶予もないと嵯峨天皇に進言する。

 「このままでは餓死者が出ます。」

 「餓死とは大げさな。冬嗣殿もヤキが回ったか。」

 「冗談などでは無い! 状況もわからずへらへらしている貴様に何がわかる。」

 そして、冬嗣は手に持っていた書類を床にまき散らした。

 書類は木簡と紙とが混在し、床に落ちるときに木簡の乾いた音が響いた。

 床に落ちた書類を手にとって眺めた瞬間、葛野麻呂から笑いが消えた。

 嵯峨天皇への冬嗣の進言は苦渋に満ちたものだった。ついこの間、神仏の加護により豊作に恵まれ、民衆の暮らしが豊かになったと宣言したばかりである。

 書類を見た嵯峨天皇は、その現実は受け入れた。しかし、具体的な対策を出すことができなかった。

 いや、嵯峨天皇だけでなく、冬嗣を含む宮中の誰もが打開策を打ち出せずにいた。

 奈良の軍勢に対処するための出費が国家財政を圧迫しており、税を減らすどころか増やさざるを得ない状況であったのに、コメが不作とあっては税収を増やすわけにはいかず、逆に国からコメを出さなければならない。

 ここにいる誰もが、二ヶ月前には民衆の希望であった奈良を壊滅させ、平城天皇や仲成の独裁を批判した者である。

 そして、権力を掴んだときに待っていたのはこの現実。

 それまでは自分では何もせずただ他人を批判していれば良かったのが、今はもう批判ではなく自分たちで何かをしなければならないという現実に、誰も何もできなくなっていた。

 「これは薬子の祟りではないのか。」

 「いや、仲成の復讐だ。」

 貴族の中には、ついこの間の仲成の死刑や薬子の自殺を持ち出す者もいた。

 「どうするんだ、冬嗣。おまえのせいだ。おまえが奴らを殺したから……」

 そして、全ての責任を冬嗣に押しつけようとした。

 「だと言うなら私個人を呪い殺せば済む話。私がなお生きている以上、祟りだの、復讐だのと考えるのは無意味だ。そんな戯言を言っている暇があるなら今年の不作への対処を考えろ。能なしどもが。」

 冬嗣は貴族たちに広まりつつあったその思いを完全に否定した。

 しかし、不作、不作による食糧不足、不作による貧困、不作による税収の減少、これらを解決する妙案など何一つ浮かばなかった。


 職を失い、生活する手段を失った人が逃れてくるのは大都市と決まっている。奈良壊滅後のこの時点でそれは平安京しかない。

 そして、不作から来る経済苦境は平安京の貴族の目の前で起こるまでになっていた。

 ボロボロの服を着て、食べ物を手にしていないために痩せこけ、生活する手段もなく、ただそこで死ぬのを待つだけという人の群れが、平安京の道という道にあふれるようになった。

 冬嗣は悪化する一方のこの光景を毎日、車の窓から眺めていた。

 「お願いします。おめぐみを。」

 まだ首の据わらぬ赤ん坊を抱えた女性が冬嗣に施しを求めて来た。

 「お助けください。」

 車の前に立ちはだかった女性を見て、御者は車のスピードを緩めた。

 しかし、冬嗣は関心を抱かぬといった風情で命じた。

 「行け。」

 「し、しかし、このままじゃ……」

 「構わん。」

 スピードはそのままであったが停まる様子はなく、女性はひき殺される直前で何とか助け出された。

 この光景を見た民衆から猛然たる非難が沸き起こったが、冬嗣はそれを気にすることなく通り過ぎた。

 「よろしかったのですか。」

 「一人にやれば他の全員にやらねばならなくなる。」

 「それはそうですけどね、いやね、人情ってもんがあるんじゃないですか?」

 「あとであの女性と子供を連れてこい。」

 「何をなさるおつもりで。」

 「詮索は無用だ。」

 「へい。」


 その日の夜、御者はこの母子を連れて、冬嗣の屋敷を訪ねた。

 「命ばかりは……、せめて、この子だけでも……」

 女性は恐怖に震えていた。

 油が貴重で夜になると寝るしかないこの時代、夜に明かりが灯っているだけでもここは別世界だと感じたのに、室内には夢にまで見た豪勢な食事が並んでいる。これはいったい何のパーティーかと思わせたが、ここにいるのは冬嗣のみ。どうやらこれが冬嗣の夕食らしいと感じた。

 「別に殺すわけではない。それより座ったらどうだ。」

 女性は力なく座り込んだ。

 「母一人、子一人か。」

 「……、はい……」

 「夫はどうした。」

 「亡くなりました……」

 「そうか。ときに、その子はいくつだ。」

 「先月生まれたばかりにございます。」

 「私も人の親、子を大事にする気持ちわからぬでもない。ましてやまだ生まれたばかりとあっては可愛いことこの上なかろう。」

 「はい。」

 「では、その子を抱えたまま車の前に立つのは危険と考えなかったのか。」

 「……」

 「子を思う親の愛はわかる。だが、子を利用するのは許せぬ話だ。」

 冬嗣は立ち上がり、女性の横に来てから座った。

 「!」

 女性は本能的に冬嗣を避けた。

 「細い手だ……」

 冬嗣は女性の右手をとった。

 「米の飯はどれだけ食べてない。」

 「……、この子が生まれてから一度も……」

 「そうか。それではまともな乳も出るまい。」

 「……、はい……」

 「子を思う親の気持ちか。それも良かろう。」

 それから部屋の明かりは消された。


 冬嗣には五人の妻がいたと記録されており、記録に残っているだけで八人の息子と二人の娘をもうけている。また、その他にも愛人がいたらしいが、平城上皇のように恋愛に人生を左右されるようなことはなかった。

 女性にモテたかと考えるのは難しい。名門貴族中の名門貴族なのだからそうした上流階級に対する憧れの視線はあっただろうし、この時代の貴族が子供を産ませるために何人もの女性と関係を持つことは珍しくないから、セックスに不自由していたとは思えない。

 しかし、それが恋愛になったかどうかは怪しい。

 この人は本気で恋をしたことがないのではないかとさえ思う。女性を口説くのが似合わないし、口説くこと自体考えられない。

 だが、厳しさを前面に出している人間が時に見せる優しさは人を魅了し、恋愛感情となることもある。

 自分から積極的に誰かを好きになることはなくても、誰かに好かれることはあったのかも知れない。

 我が子とともに冬嗣の車に立ちはだかった女性は夫を捨てたとは考えなかっただろう。夫を捨てたのではなく子供を捨てられなかっただけだと。

 だが、彼女は結局冬嗣を忘れることができず、冬嗣もまた彼女や彼女の子を見届けていた。


 ふるさとの佐保の河水けふもなほかくて逢ふ瀬はうれしかりけり


 これは思い出の女性とのひとときを詠んだ冬嗣の歌である。


 オフィシャルの冬嗣は厳しい人であった。他者を冷たく突き放し、命などゴミのように軽く扱う冷徹で冷酷な人間というのが世間における冬嗣の評価であった。そのため、オフィシャルな場での冬嗣には常に緊張がつきまとっている。

 ただ、プライベートの冬嗣はそこまで緊張させていない。笑いの絶えないという雰囲気ではないにせよ、時に温情を見せ、時に優しさを醸し、細かな気配りを欠かさない。

 使用人の子が熱を出したと聞きつければ自ら駆け回って薬を手に入れ、子供が産まれたと聞けば誰よりも先に出産祝いを用意する。結婚に喜び、死に悲しみ、どんなに身分が低かろうと、冬嗣は自分のために働く人を見捨てることはなかった。

 こうした配慮を冬嗣自身が行うことで、冬嗣に仕える者は、冬嗣が自分のことを見てくれているという思いを抱かせることになった。

 そのため、冬嗣の周囲にいる者が下す冬嗣評は高い。信頼できると思わせるし、この人についていこうとも思わせる。

 狩りが趣味で、日本後紀には嵯峨天皇と一緒に狩りに出かけたという記録が数多く残っている。狩りは夏も冬も行われ、冬の寒い最中に野山を駆け回ると身体が冷えるため、身体を温めるために日本酒を温めて飲んだという記録がある。異説もあるが、どうやらこれが燗の始まりらしい。

 そのほかの趣味となると、漢詩や和歌が挙げられる。この時代の貴族たる者、漢詩や和歌が作れなければ貴族失格のところもあるので仕方なく作ったのかもしれないが、漢詩については「凌雲集」「文華秀麗集」「経国集」の勅撰漢詩集の全てに自作の詩が採用されているほどの出来映え、和歌については「後撰和歌集」に和歌が残っている。

 そこにオフィシャルの厳しさを見せる冬嗣はいない。

 だが、オフィシャルの冬嗣は厳しい。

 このため、外から見れば一貫しない性格に見える。

 だが、本人にはそれで一貫している。冬嗣に言わせればオフィシャルとプライベートを使い分けているだけで、不特定多数を前にすれば冷徹で命を軽く扱い、特定個人と前にすると温厚で命を重く扱うという一貫性があるではないか、となる。


 では、そのオフィシャルな冬嗣、つまり、政治家としての冬嗣を見た場合の評価であるが、これが難しい。

 政治家の冬嗣は間違いなく冷酷である。そして冷徹でもある。ただ、結果が伴っていない。徳薙零己が以前に書いた作品で言うと、性格としては朴正煕に似ている。ただし、朴正煕は国民生活の向上を実現させたのに対し、冬嗣の治世下では間違いなく生活が悪化している。

 これに対する反論もあるだろう。朴正煕は大統領として絶対的な権力を握ったが、冬嗣はあくまでも臣下の一人。結果を出せなくてもそれが冬嗣の責任とはならないのではないか、と。

 だが、奈良の勢力を壊滅したことで、朝廷権力は嵯峨天皇に集中することとなった。そして、冬嗣はその嵯峨天皇を操ることで、権力を発揮できるようになった。名目上はどうあれ、事実上、この時点の日本における最高権力者は冬嗣である。

 ただ、少なくともこの時点において、冬嗣が権力者としての責任を果たしているとは言い切れないのも事実。

 古今東西、権力者のもとには例外なく情報が集まるが、それを生かすかどうかはその人次第。有能な権力者は早々と掴んだ情報を生かすし、もっと有能な権力者は自分から情報を手に入れることに神経を払う。

 冬嗣はお世辞にもその情報を生かしているとは言えない。情報を手にすると言っても自分から求めてではなく向こうからやってくるのをただ受けるだけである、

 平城上皇の頃から明らかとなっていた出挙という国家経済システムの破綻も理解していたとは言い難い。ただ単に利率を下げれば解決すると考え、力ずくで利率を下げ、国家財政を悪化させている。

 また、不作の前兆として伝わった東北地方からの情報に対するアクションがゼロ。良くないことが起こるのではないかという思いを抱いたが、思いを抱くだけなら誰にでもできる。問題は、その思いを実現させるか否か。このときの冬嗣はその思いを実現できるだけの権力を持っていたにもかかわらず動いていない。そして、実際に地方から不作で税に支障が出るという情報が来てからやっと立ち上がる。

 不作は情報を掴んだところでどうこうなるものではないが、対策なら情報を早めに掴めたことでどうにか出来たはず。たとえば、平城上皇や仲成が奈良でしたように公共事業で失業問題にあたるといった方法で。

 ところが、立ち上がるのも遅ければ、対策も打ち出さず、議論はするが先送りになるばかり。結果、何もかもが後手後手に回り、被害を事前に食い止めるどころか、被害をかえって悪化させている。


 もっとも、それは冬嗣一人ではない。おそらく情報を掴んでいたであろう嵯峨天皇にも言えるし、冬嗣の取り巻きのおかげで職務を掴んだ貴族や役人にも言える。

 会議は日々繰り返されるが、具体的な対策は誰も打ち出すことができずにいた。

 不足分の税収を埋めるために有力者から税を召し上げようという意見も出たが、すでに限界まで負担させている状況で、有力者の中には公出挙が払えず、家財道具一式を残して夜逃げするという事態が頻発していることでアイデアは消滅した。

 寺院への課税も考えたが、寺院もまた所領の田畑の不作のため収入が減り、抱えている僧侶を修行や還俗という名目で寺から放逐し、寺院内の僧侶の数を減らしている状況では、寺院の維持に手一杯で税を納める余裕などなかった。これなど、現在の業績不振の企業のリストラと同じである。

 およそ二〇日後の一二月一八日、嵯峨天皇はやっと一つの行動を起こす。参議の一人である巨勢野足こせののたりを八幡大神宮に参らせ、神の力で今の苦境をどうにかしようとさせたのである。

 そして、翌日には七名の僧侶に読経を命じた。今度は仏の力を借りようということである。

 ただし、これらは何の結果も生まなかった。

 生み出したものがあるとすれば、不作に対して何もできず、神仏にすがらなければならないまで追い詰められている朝廷の姿を白日の下に晒したということだけ。

 具体的な打開策を打てないまま、翌弘仁二(八一一)年を迎えた。

続編「中納言良房」は小説ブログ「いささめ」(http://abeblo.jp/tokunagi-reiki)にて、2009年11月1日より公開しております。

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