159
白夜にようこそ
──幼い頃に一度だけ、自分の名前の由来を親に聞いたことがある。
霖という字は名前以前に文字として珍しい。今よりも遥かに人間らしく様々な物事に好奇心を持てた幼少期、ふと気になって検索して出てきた意味は、読み方通りに長々と降り続く雨のことを指す一字だった。
つい先日部首という概念を知りどう見ても雨かんむりな名前から薄々察してたけど、ただでさえ雨宮って苗字なのに私の名前はどうしようもなく霖であった。頭痛が痛くて馬から落馬してるようなもんだろこれ?
思うに名前が持つ意味というのは、漢字の組み合わせか読みさえ見れば、親が何を思って名付けたのか考えれば分かるものなのだ。
例えばユウキという名前なら優しく輝くという意味で優輝なり、勇ましく樹木のように堂々としてほしいから勇樹なりと、名前は親が子にこうあって欲しいという願いを込めて漢字を組み合わせるのが一般的。
或いは父と母の名前から一文字貰って組み合わせたもの、単純に響きがいいからこれにしたもの、子の趣味なぞ知らずに流行りのキャラクターの名前に乗っかったもの、子の感性なぞ考えずにキラキラネームを当て字で付けたものもある。
はて? なら字が持つ意味を調べてみても分からない、日常的にもまず見ない霖という漢字が、どうして私の名前になっているんだろう?
至極当然な私の疑問に果たして返ってきたのは、出産時が連日連夜雨だったからというシンプルなもの。
どうやら記録的な豪雨だったらしいけど、それを聞いてまず思ったのが『ああ、私ってちゃんと人から生まれてきてたんだ』という、疑問とは関係ない部分でのおかしな安堵だ。
どうやら私は本当に人の子であるらしい。
常識離れした美貌とも言うべきか。美少女と呼べる容姿だけなら珍しいで済むが、色が落ちたでも染めたようでもない新雪のように綺麗な白髪と、濁りなく透き通った紅色の瞳を併せ持つ私は、まるで人じゃないみたいだと言われてきた。
加えて、他人と感性が掛け離れていて余りにも自分本位な性格は、子供に自分こそが異物であると思い込ませるに足る十分な理由だ。
もしかしたら私はそこら辺の河川敷で拾われた、血縁関係の無い異生物の赤子だったんじゃないか? と。
幼いからこそ本気でそう思っていた私は深層では恐怖をしていたからこそ、そんな感想が浮かんだんだろう。
『雨が好きなの?』と問うた。
『嫌いじゃないけど思い入れがある訳じゃない』と返された。
雨宮という苗字に霖って名前を付けておいて不思議なことを言うものだ。
適当に付けられた感じかなぁと興味を失っていく私を、その人は何を聞くでもなくただ撫でてきたのを憶えている。
『綺麗な白髪だね』と褒めながら、柔らかくサラサラな長い髪に指を梳かして、優しくゆっくりと撫でられた。
『……アルビノで産まれてきたあなたを見て、ああ、きっとこの子は特別な子になれるんだろうなぁって思ったの』
絹の糸のように指の隙間から零れていく白。何故か動けない私はそれをただ眺めていて、気付かぬ内に感情が解きほぐされていく。
『普通と違うことは必ずしもいいことじゃないし、異常である者が異常であるより、平凡に塗れて生きていく方がきっと幸せになれると思う。……でもね、主人公っていうものは絶対に、特別な何かを持ってるものなんだ』
感触は思い出そうとも、この言葉だけは違う。
『才能なんて分からない。どんな感性が芽吹くのかも分からない。望まないのなら別にそれでもいい。でも、でもね霖ちゃん。特別になれるかもしれない子に、親が普通であれと名前で縛る気にはなれなかったんだ』
思い出した、なんて言うはずが無い。
『特別だと思える名前を付けてあげたかった。普通じゃない容姿をただそれだけだって殺されないように、名前も特別なものにしてあげたかった。あなたが望まないかもしれなくても、ただの私の傲慢でも、可能性を潰したくは無かったの』
いつでも鮮明に憶えているこの言葉こそが、私の芯にあるものなのだから。
『長い長い雨の果てに産まれたあなたを、だから霖と名付けたの。誰とも被らない特別な名前を、この特別な白色に刻むために』
──異常だと言われ、異端だと分からせられ、誰にも馴染めなかった私という存在は、名前の由来を知り初めて『霖』として完成する。
名前という個人を表す特別なものに、私は決まって『霖』と名付けるようになった。
この名こそが『主人公』の証明であるならば、『霖』とは私がそう生きたい理想であるのだから。
ゲームアバターという活動可能な理想に付けたそれを捨てる時が来るのなら、きっとそれは私を主人公であると思うより重いものが出来た時だ。
──ああ、なんで私って名前捨てたんだっけ?
ふわふわとした頭で考えて……漸く掘り起こせたのは余りにも馬鹿な理由。
こんな場所で負ける人間が、理想の否定だけで足りるとでも思うのか?
名前に重さを見出した私にとって、私そのものを表す『雨宮霖』は人生そのものと言っても過言じゃない。
それら全てを否定される覚悟を……言わば命を懸けるからこそ、主人公ならきっとこんな時に勝てるんだろ?
私が私を主人公だと証明するために、だから『雨宮霖』はここに来た。
そう脳が認識した途端、はて、私はなんでこんなことを考えているんだろう?
揺りかごで揺れていた。微睡みに衰弱させられていた。
はっきりしない意識で、でも私は戦っているのを思い出す。
根っこにある心象風景、それを穏やかに眺めていたのは……ああ、分かった、そうだこれ──
(──走馬灯じゃん!?)
世界が、灯る。
刹那に全身に感覚がビキビキと張り巡らされ、ボヤけていた視界が瞬時に脳へ死闘を映す。
視認、反射!
後方へ頭突きを入力、頚椎と頭部に出力されたSTRで加速しギリギリで薙ぎ払いを躱した。
あはっ、本当に切れてんじゃん私の意識! 切れるならこの後まで我慢しやがれこのポンコツ!
円錐水蒸気が襟巻きのように飛び、音速の可動で脳が頭ん中でぶち揺れる。
ぐらつく視界、力が入らなくなる全身、全て今更の誤差だろこんなもの!
視界!? ブレようが輪郭が分かるだけマシ!
肉体!? るっせぇんだよ動かせボケが!
胃液が込み上げて口から出るより、この決着の方が速い!
だから走り抜けろこの現実での一秒を! 彼女にとって最後の十秒を!
世界が、褪せる。
どこまでもモノクロの夜の中で、全力で私は思考を飛ばす!
どうすればコイツを殺せるか、どうすればこの十秒で詰みに持って行けるかを!
振り切った剣を戻さず突きに繋げ、それすら躱す彼女に初めて見せる裏拳を放つ。
肩で弾き体勢を揺らした霖に裏拳の勢いのまま一回転して足払い、当てて崩しきったその腹を折るようにもう片足で蹴りを入れる。
感覚が無い脚を振り切って宙に浮かした霖、着地より決着の方が早い!
残り六秒、逆袈裟に剣を走らせる先は首!
回避不能な筈の攻撃は……それでも霖には届かない!
腹から空気を締め出され出口として無理矢理に開いた口、丁度いいからそれを胃液と空気が通るより速く力任せに閉じて白の刀身を噛んで止める!
歯を始点に空中で足をプロペラのように回転、上に吹き飛ぶベクトルを回転と体重移動で殺し切り、衝撃と推力を受け渡した右脚で空中に静止しながらオーバーヘッドキックを上からぶち落とす!
横からの肘打ちで逸らされた先は地面、衝撃で口から抜けた切っ先を避け、間髪入れずの縮地タックルを、火力で埋まった脚を軸にした鉄山靠で相殺……否、叩き潰す!
超音速と超音速の激突、果たして吹き飛ばされたのは私の技の出かかりに当てて尚白の方!
残り三秒、円錐水蒸気同士がぶつかって打ち消し合うイカれた戦場に、もう色も音も障害物も存在しない。
暴力的な風圧で作られた空白地帯で、それでも戦闘機が二機飛んでいる。
また視界に知覚出来る風圧を残して白が消えた。円錐水蒸気の出来た方向から進路を察し、頭を振って捉えた神速を共感覚でぶっ潰せ!
もう時間が無い。
速度の乗った片手突きを退がりながら右の剣で弾かれて、空いた手の掴みすら左腕を身代わりに防がれた。
(まだ……)
残り二秒。
手首のスナップで剣を横から手裏剣みたいに投げても、霖の超反応の前には頬を掠めただけ。
反撃に迫る左腕からの剣閃を、霖ごと加速して速度で無理矢理腕を後方へ放って隙を作り……それを突ける手段がもう私には無かった。
(まだ……っ!)
残り、一秒。
霖の右剣の突きを内側から左腕で逸らして、飛んでいく私の剣の柄を右手で掴む。
彼女から盗んだ加速技を使って全身で速度を作り、それを乗せた剣閃は……それでも尚、霖の剣技に防がれる。
死神が肩に手を置いた。
無駄だって、これが現実なんだって、もう勝敗は着いたんだって。
(それでも……それでも、私は……っ!)
そんなものは幻覚だ、弱気が見せるイメージを意思の力で捩じ伏せろ!
まだ時間はある、まだ私は負けてない。
そうやってどれだけ思い込んでも、タイムアップは残酷にやってくる。
もし、もうちょっと真面目にゲームをやっていたんなら、この結果は変わっていたんだろうか。
イベント勝負で怠慢の結果に敗北を刻んだあの日が、あの時間に殺される感覚がフラッシュバックする。
嫌だ、まだ終わりたくないとどれだけ願ったとしても……やがて残酷は私の前に舞い降りた。
(あ……)
かくん、と世界の速度が変わる。
加速していた世界がどんどん巻き戻っていって、その逆行の速度に私の肉体が引き摺られていく。
スキルが切れた私の認識速度が、急速に尋常へと引き戻されていく。
終わる。
終わってしまう。
エンドロールが閉じ切る前の刹那、認識してしまったその事実に……私の感情が塗り潰される。
思考も、理性も、何もかもが、ただただ1つの感情に漂白されていく。
現実だの恐怖だのなんだのを考える暇が無いくらいに、衝動が脳内にある余計なモノを消し飛ばす。
奥底にあった、どうしようもなく純粋で単純な衝動。
「──負けたくないっ!」
音も、色も、感覚すら捨てた私は、その一瞬確かに迷いすらも投げ捨てた。
だからこそ──
──白の渾身の一撃は、霖の胴を切り裂いた。
『ッズバァアアアアン!!!!!』
……音が聞こえた。
超音速の飛翔物を生身で聞けばこんな感じなんだろうなと、一瞬だけしか見えなかった円錐水蒸気を前にして思う。
風圧に殴られて倒れそうになる体。
踏ん張って耐えてみて……遅れて、この衝撃は風圧だけのものじゃないなって気付いた。
痛いんだろうか? 霞んでいて見えないや。
「はぁ……はぁ…………ッあれっ?」
触れて漸く分かる。胴体が斜めに切り裂かれていた。
結構深い傷痕だ、大体HPは二割くらいの筈。
まだ死なない。それが分かれば別にいい。
引き戻された感覚が一時的に鋭敏になって、久々に音を拾えている。
随分と高くて、速い。引き伸ばされた低音しかない世界で二十分もやりあったんだ、感覚も馬鹿になるか。
「……ああそっか。負けたんだ、私」
離れた場所に、息も絶え絶えな少女がいた。
力が抜けてへたりこむ彼女は、そんな言葉を呟いて虚ろな目で私を待っている。
決着を、審判を、私が下すのを待っている。
スキルの効果時間はお互いに終了した。再度発動可能になるまで、残り100秒以上もある。
その間私の攻撃を凌ぎ切ることなんて、いくら私がゴミみてぇなコンディションでも不可能だ。
タイムアップ、或いは詰み。
それが分かるからこそ、白は抵抗を終えていた。
「…………例えば、」
別に、こうなることは分かってた。
「馬鹿な子が取る百点と、頭のいい子が取る百点って、同じ奇跡だと思う?」
これで漸く、私は私に挑戦出来る。
「……急に、何を」
「思考加速は同時じゃなく君が先に切った。……最後の一撃、スキルが切れた私が見えなかったのは、君がまだ加速していたからだよ」
思い出すのはついさっき、この女の子に放った言葉。
『──前々から思ってたんだ。君の仮説って認識速度に肉体を同期させるっていう法外なものだけど…………逆に言えば君の最高速度は、スキルの倍率に縛られてるんじゃないかって!』
ああそうだ。彼女の加速は他の仮説と違って、無条件で使用可能な技術じゃない。
加速するための前提条件──認識速度の加速が出来ない限り、神速に至ることなんて出来やしない。
だからこそ白はスキルでもって仮説を起動していたわけだけど……認識の加速なんざ別にスキルが無くとも、集中さえすりゃ誰だって出来るものだ。
──そう、彼女の仮説の起動は本来スキルなんて必要無い。
「"もしスキルを使ってる最中に自力でも認識速度を加速出来たのなら"……それを試す前に、ここで負けちゃっていいの?」
「………………馬鹿なんですか?」
「あは、思ってないとは言わせないよ。言い訳のしようがないほどぐちゃぐちゃにしてやるって言ったじゃん」
言い訳は、邪魔だから。
本心から心置きなく、勝利したって喜びたいから。
可能性……言わば理論値と言えるものを引き出した上で潰さない限り、人はたらればを考えて勝敗を正しく刻めない。
敗北だけじゃない、勝利だってたらればから逃れることなんて出来やしない。
もしも白がスキルにPSを重ねた本当の『神速』を使えたのなら、果たして私は勝てたのか? って。
「……勝てると、思ってるの?」
スキルには上限があれど、自力の思考加速の上限なんて分からない。
重ねられたそれは二十倍速で済むんだろうか。それを縮地で叩き付けられたのなら、どう足掻いても私の最高速では追い付けないんだろう。
正しい疑問だと思う。誰だってそう思うさ。だって脳火事場には拡張性なんて無いんだから。
「私が奇跡でも起こすと思ってるなら誤解だよ」
奇跡ってのは弱者の掴んだ上振れだ。
誰かにとっては奇跡的なことでも、別の誰かにとっては日常的な光景でしかない。
だから、この結末は奇跡なんかじゃない。
「君を殺すのは、実力だ」
奇跡なんて起きない、起こさせない、起きたなんて言わせない。私はその結果を偶然には祈らない、その過程の果てに必然を起こしてやる。
足りうる努力をして、起こりうるだけの軌跡の果てに……やがて奇跡は必然へと堕ちる。
「何百回やっても、何千回やっても、絶対に勝てないって思わせる勝利は、そうでなきゃ手に入らないじゃん」
最初っから私の目的は君の史上最高速度だ。
その瞬間以外の君に勝ったところで、んなもんに価値なんざあるわけねぇだろ。
人生を賭けて、逃げ道を潰して、言い訳も出来なくて、文句の付けようがないくらいに全てを出し尽くした後に残る強弱……それだけが、私達に必要な結果だろう?
「……だから、おいで?」
例えこれで負けるならそれでいい。
だって主人公ならここで勝つ。勝てないようなら死ねばいい。
退路なんて全部潰してやる、主人公になれない私なんざ死に腐れ。
私が特別な主人公だっていうのなら、絶対に勝つ場面だろ?
「……かっこいいですね、霖さんは」
「……そう? 不器用なだけだよ、人間が」
だから私は待っていた。
スキルのクールタイムが空けるまで、慣れない会話をしてまでも。
彼女が自力で『第四仮説』を使えるようになるまで、脳を死にそうなくらい使って戦いながら。
戦場に静寂が訪れる。
色の無い世界はもうただの荒れ地でしかない。
あらゆる木々は薙ぎ倒されていて、高い木の葉の天蓋はもう無く、遮るものなく降り頻る雨が私達と大地を叩く。
踏み込みの力と風圧で割れ、捲り上がりまくった地面は、嵐が直撃したよりなお酷い有様だった。
それが、半径100mは広がってる。
余りにも、狭い。
「……霖さん」
「なぁに?」
「……なら殺してみなよ、私のこと!」
剣を再度構えながらそう言った彼女に、私は一瞬返す言葉を考えた。
人は自分に都合のいいように言葉を歪めて聞きとるものだ。
はっきりと、私は彼女の言ったことを聞き取っていた。
会話が成立していないし、間違うにしたって真逆にも程があるけれど……それでも、私は──
「──いいよ、私が助けてあげる」
──後悔なく、そう言い切った。
「「『思考加速』!!!」」
感覚には覚えがあった。
出来ないとは言わなかった。
だってあの時あの瞬間、私の世界は止められたんだから!
残光なんて何処にもなく、よく知る線を雨粒として認識した……雨宮霖と出会ったあの瞬間に、私の時は確かに止まっていた。
最後の最後、果ての果て、スローモーションと化していく世界の中で、更に私は時間を止める!
まだゆっくりと雪のように落ちていくだけだった雨は、やがて雨粒として生まれ変わる。
真っ白な世界から雨が消えた。開けた天に映るのはどこまでも遠くて白い夜。
微動。
雨粒の速度をそこまで殺したのは、目の前の人との思い出だった。
出会いは人に絡まれてたのを助けてもらった街の門、そのあとお茶して、初めてのフレンドになってもらって、唐突に殺されかけた!
(……そうだよ、ろくな思い出なんてなかったよ!)
傷心中に炎上させられたと思ったら、数日もしない内にその炎上させた人達を何故か二人で殺しに行ったり!
引退する話を一応しに行ったら、煽られて気付いたら初めてゲームのイベントに参加して!
それで負けたら今度はちゃんと殺し合おうって言われて、修学旅行当日に来いって最低な約束をして!
最終的には来るどころか私に合わせるために、一年やってたゲームのデータを消してきて!
初めて本気で戦ったのに、戦えたのに、それでもどこまでも私に着いてきて!
(……羅列してみて思ったけど、この人私のこと大好きなの!?)
霖と出会ってから、私にろくな思い出なんて確かに無い。
ふざけんなって何度も思ったし、何度も何度も嫌なことを言われてきたのに……それでも嫌いになり切れないのは、底を彷徨うだけだった日常に変化が起きたからだ。
何一つ変化の無い停滞から抜けた先にあったのは、また別の地獄ではあったよ!
でも、こっちの方がまだマシだと思えるのは……目の前に分かりやすい諸悪の根源が居てくれるから!
倒せば、晴れる。
そう思い込んだ私の視界は真っ白な白夜を捉え、脳にフラッシュバックする彼女との走馬灯は、再度私の時間を止めた。
何倍かなんて分からない過去最高の加速世界で、全身に力を込める。
力のパルスが身体中に張り巡らされて、等速で動けるこの世界で、最高速度で飛ぶための溜めを作る。
微動ですら、全身が軋む。
きっとこれが、私の頭の異常性なんだろう。
1+1は2であると強制してくる物理法則が風圧という壁で私を押さえ付け、1+1は3であると叫ぶ私の脳が肉体だけを等速で動かすことで起きるズレ。
捨ててやるよ、こんなイカれた考えなんて!
おかしくて、気持ち悪くて、でも出来てしまうからとやったら泣いちゃうほど否定される、誰も、自分も、望んでも求めてもいない才能なんか!
だから……だから……っ!
「この一瞬だけでも、風圧すら起こらないと錯覚しろよ私の脳!」
全力で地面を蹴り飛ばす。
鎧を無理矢理頭に振りほどかせて飛んだ私の肉体が、宙に止まっている雨粒を轢き潰して前へと駆けた。
私の史上最高速度──それを望んだ馬鹿へと向けて、誰も辿り着けない場所に一人だけで私は飛んだ。
速度の圧倒的暴力を成して、出会った感情の名は──孤独。
これで終わりだ、終わりの筈だった。
こんなつまらない能力を、誰も着いて来れない世界に独りだけでいるくらないなら、1+1は2でいいと認めてやると決めてやった、最初で最後の『最終神速』
風圧すら感じない肉体による、世界最速の突きを放つ私は──
──光を、見た。
──もしも第四仮説『神速』中に、『脳火事場』で『縮地』が出来たのなら。
『神速』のロジックは『ゲームシステムが誤認するほど似通った脳波』『不純物無く1+1=3を信じられる状況』『出来るという確信』を掛け合わせた末の化学反応だ。
だから、まずは脳の思考能力を破壊した。
おかしなことに疑問を抱けないほどの極限状態に脳と体を追い込んで、ショートする直前を用意した。
次に、自分が一番追い込まれて主人公だと信じられる状況を、そのショート寸前に合わせるために調整した。
命、名前、人間性、シチュエーション。
ありとあらゆるものを自分が主人公なら勝つだろうと賭けに賭けて、最後の一閃にボルテージが爆発するよう調整した。
脳波なんざ簡単だ、現実の体を動かすための指令じゃなく、ゲーム側の電子言語を動かすため専用の指令の形を作って出してやればいい。
偶に来る電子言語の逆流、それを辿るように脳波そのものを自力で動かしちまえばいい。
不可能に近かろうが、私の脳はVRで体の動かし方を学んで現実で骨折させるほどの、VRだけで育ったポンコツだ。
電子に浸り過ぎた脳が電子言語に触れる感覚を、共感覚で起動しろ。
この結末は奇跡なんかじゃない。
それに足りうる努力をした。
起こりうる理論を持ってきた。
だから、起こしたこれは必然だ。
最初っから最後まで、君の才能を才能が無い奴でも再現性のあった凡人の戯言であったと堕とすため。
世界に独りだけだって幻想を破壊するために、さあ雨宮霖──
「──奇跡を嫌い、奇跡を殺せ」
肉体が加速した。
色の無い白夜の中で、やがて私は紅い残光を世界に描く。
神速を塗り潰すは雨の名を持つ、瞳の色が描いた光の軌跡。
その白夜を、私という赫星が切り裂いた。