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「はぁーー……………………」
「……あれ? お姉は?」
「休んだよ」
「…………あいつマジ?」
早朝、既に明るい午前六時。
一応は初めての旅行だし行ってらっしゃいの一言でも掛けるかとリビングに降りてみれば、件のアイツは学校や玄関どころか部屋に居るらしい。
頭を抱えて溜め息を吐く彼女のすぐ側にあるのは茶色い封筒。見覚えは無い、なんだそれ?
「連日徹夜してたのは知ってるけど、それで体調でも崩したの?」
「崩すために徹夜してたみたいだよ」
「えぇー……」
「毎日帰ってきては次の日までずーっとあのゲームして氷風呂入りながらスケブやってたらそりゃ壊れるよ」
「スケブ?」
「ひーちゃん。この封筒、なんだと思う?」
ひらひらと振られるそれからチラっと覗くのは、それなりに厚みのある紙幣の束……待って、それ万札?
「自分都合でぶっちした修学旅行の費用全額。なーちゃん、ゲームしながら毎日イラストの依頼こなして律儀にもこれ渡してきたよ」
「…………は?」
「私には想像つかないけど、元々なーちゃんの口座にあった分を含めても相当無茶して描いてないと無理だよコレ」
「馬鹿じゃない!? 修学旅行めちゃくちゃ楽しみにしてたのに、そこまでして休む理由がアイツにあるの!?」
「そこまでして休む理由が出来たんだよ。だから流石に私もお手上げでねぇ……当然高熱も出てたし学校には休みの連絡入れておいたよ」
「休んだとしてアイツが寝ると思ってるの!?」
「まさか。今頃ゲームで戦ってる頃じゃないかな?」
病院で無理矢理寝かせでもしない限り、あの女は執念で動き続ける。
それが分かっていながらまるで放任するみたいにアイツを自由にした彼女は、頬杖を着いて目を閉じた。
ほっといたら死んでる女を監督不行きとどきしといて呑気過ぎるでしょ……! と、思わずアイツの部屋へ行こうとした私を、やんわりと止めるように背中越しに声が掛けられた。
「……人生でも凄く大事で特別な日を最悪な一日にして、その一日を迎えるために全力で努力して、例え誰一人としてその価値を理解されなくても……そんなもの全てを差し置いて会いに行くくらい、その子との約束の方がなーちゃんにとって大事なんだろうね」
「……意味分かんない」
「そう? 馬鹿をするのが青春だって言うのなら、なーちゃんらしい青春の選び方だと思うな」
「言葉選びが痛い」
「あぁー、じゃあひーちゃんは私が担任の先生に言ったこと聞いたら卒倒するかもね?」
「はぁ?」
思わず振り返った私の視界に映ったのは、困ったようなドヤ顔。
「『一人ぼっちの女の子を救うのが忙しいので休みます』って言っといたよ」
「……つーちゃん、もし私が体調不良で学校休んでも絶対電話しないでね」
「なんでぇ!?」
******
体が思うように動かない。
脳味噌が湯だってて思考すらままならない。
力が抜けきったみたいに軽いのに、身動きが泥沼を搔いているように重い。
体が、熱い。
酷い酩酊状態に加えて、鼻水に溺れていた。
視界なんてぶれぶれで、焦点以外霞んでいる。
匂いも感じないし、温度も触感も分からない。雨が当たってるはずなのに感覚は無いし、通ってるのは第六感の電気信号を受け取ってる脳感だけ。
バチバチ弾ける脳内の物質は、とっくに限界を超えて死滅を始めていた。
ああ、からだが死んでいく。
それまでの一瞬の間の……極限状態に私は居る!
「でも……別に、たったそれだけだよなああああああああ!!!」
「ッ……!?」
開戦の火蓋を切ったのは私。
我武者羅に焦点に向けて突っ込んで、なにやら惚けていた怨敵に斬撃を叩き付ける。
ミシリ、と軋む腕を全身を使って振り切って、余りに重い質量をなんとか吹き飛ばす!
あはっ、やっばいなこれ! 出来る限り装備とスキル組んできたけどクッッッソ弱ぇ! 筋力も敏捷力も足りて無さすぎるし、体の操作も覚束ねぇ! いつもの二割も出てたらいい方じゃないのこのパフォーマンス? あはははは! 本当に今の私、クソザコにも程があるや!
「あなたは……どれだけ私のことが嫌いなんですか!?」
「あははははは!!! まだ切らないの第四仮説? まさか……今の私なら使わなくても勝てるとでも思ってる!? 不遜じゃないかなぁそれはさぁ!」
反射で受けた直剣の袈裟斬り。音速に鳴らしてきた動体視力にとっちゃ遅過ぎるそれは、体重も筋力も速度も乗ってない粗雑な一撃。
あはっ、ゴブリンよりかはマシじゃんか! 双剣の私に片手で止められるなんて……昔の私を見てるみたいだ!
「……もう使わないって、決めてるんです……!」
鍔迫り合いを弾き飛ばし、感情任せの乱撃を二刀流で叩き落とす。泣きそうな顔の少女はまだこの期に及んで女々しい悩みがあるらしい。ああもうしつこい! 本当にうざってえなぁお前!?
「あんなこと出来ちゃいけないから……出来るはずが無い私だけ使える卑怯なんて、あっちゃいけな……」
「──君の才能を、平凡に奪わせるな!」
私みてぇな才能の無かったカスを置いといてさぁ! ある側のお前がそんな態度だからこそ私はお前が嫌いなんだよクソがァ……!
「才能があるだけマシに思え! 凡人の僻みなんざ無視しろ馬鹿が! 出来ちゃいけないだぁ!? でもお前にとってそれが出来て当然なんだからどうしようもねぇだろうが! いいか!? 才能を持つ奴より一人一人が持つ個性を否定する奴らの方がクソに決まってるし、そんなクソ共の言葉を真に受けて折角持ってた才能を平凡に迎合させる必要なんて何処にもねぇんだよ気付けやバァァァァカ!!!」
「なっ……!?」
「第一! テメェがあの加速を使ったところで私が圧勝するし、ここにお前の才能の有無を気にする奴なんて誰もいねぇわ! 遊ぼって誘ってんのに真面目にやらねぇとか白ちゃんは本当に空気が読めませんわねぇ〜!? 会話塾にでも行ってコミュニケーションの取り方学んでこいカス!!!」
「………………くせに」
「あぁ!?」
「……霖だって、空気読めない引き籠もりのコミュ障のくせに!!!」
私への罵倒の直後、突如として急加速する白の体。適当に捌いていただけの剣戟は遂に終わり、凄まじい威力の初撃を殺し切れなかった私の体が、不本意ながら宙を舞う。
おいおい振り切るのが早すぎるだろうが、情緒不安定にも程があるわ!
「ごちゃごちゃ考えてる時ばっか現れて! 何度も更に頭んなかぐちゃぐちゃにされて! どれだけ邪魔で嫌いで酷いと思っても構ってきて! 鬱陶しいんだよこのくそ女!」
「あっは! あっれぇ? 使わないんじゃなかったのそれぇ!? 十秒前に言ったこと忘れるなんてニワトリじゃあん!」
「一々煽らないと死んじゃうのお前!?」
たたらを踏んで着地した私に、容赦なく加速して攻撃を仕掛けてくる白ちゃん。
まるで一人だけ倍速再生されてるような奇妙な変速は、かつて私をボロ雑巾みたいに蹂躙した神速の第四仮説だ。
あはっ、あはははははははは! やっぱえっぐいよなぁこれ。
音速まで加速している人体の生む爆発的な運動エネルギーが火力となって、人間には対処不能な速度で私にまたもや迫り……
「十倍、でしょ?」
「…………は?」
今度は硬質な音を立てて、お互いの剣がぶつかりあい弾かれる!
「──前々から思ってたんだ。君の仮説って認識速度に肉体を同期させるっていう法外なものだけど…………逆に言えば君の最高速度は、スキルの倍率に縛られてるんじゃないかって!」
有り得ない物を見たような顔をする白に起きた現象は、何も難しいことなんてない、ただの火力衝突による攻撃の相殺だ。
彼女の加速は他の仮説と違って、無条件で使用可能な技術じゃない。
加速するための前提条件……認識速度の加速は、それを成すスキルが無ければ達成出来ない。
「『思考加速』……二分間、体感速度を十倍まで引き伸ばせるようになるスキルでしょ? 丁度私も昨日生えたんだぁ、それ」
だって、既に検証結果ならあのイベントで出てるでしょ?
加速によって齎される物理エネルギーによる結果。それを私が大差を付けて捩じ伏せることが出来たんだから……単純火力勝負に持ち込めば、白の倍速化よりも私の仮説擬きの方が上だ。
それに、今さっき等速で打ち合って分かったでしょ? この子の体の使い方はズブの素人だってこと。
君が私の十倍速いだけってんならさぁ……!
「──私が人の十倍の火力を出せば、別に君と打ち合えるでしょ?」
"人間って普段は体ぶっ壊れるから最大筋力の10%くらい? しか使ってないらしいけど、じゃあ仮に頑丈なゲーム内アバターで100%発揮させられたらどうなるの?"
あるサイトの掲示板に投稿されたその質問の答えこそが仮想世界仮説第二であり、かつて一ヶ月にも渡る拷問の末に私が至った結晶だ。
ゲーム世界にいながら現実での死を錯覚させ、脳に筋力のリミッターを強制的に外させる……『脳火事場』と名付けたPSを切った私の剣は、白の神速を筋力でもって相殺する!
そして……
「別に第四仮説が出来なくても、私だって思考加速くらい出来るんだよ!!!」
──あるプレイヤーは問うた、『STRが筋力なら、AGIという速度に干渉しないのはおかしくないか?』と。
STR使用で出力された物理エネルギーを踏み込み時のAGIの初速に上乗せする、"縮地"と呼ばれるVRゲームのテクニックがあった。
普通に使ったとて白の速度には到底及ばないそれは然し……筋力依存の加速技であるが故に、今の私が使った場合はその限りでは無い!
足裏を軽く浮かし、力のパルスを股関節から足へと意識しブチ通す。
体重と筋力を十全に乗せたアバターのモーションを作り出し、STRにより出力されたパワーが大地を砕く。
入力した行動は踏み込みに過ぎない。
然しそれは意図して、意識してアバターを操作したことで、殺人的な加速を齎した!
スキル『思考加速』を発動し、世界が一気に遅くなる。
唯一この世界の中で等速で動いている白は、きっと初めての侵略者を見ることになるのだろう。
ビビって後退した白を等速で認識して、私の肉体は距離を詰める。
そう……私の肉体は、距離を詰めていた!
「はぁ!?」
それは時間軸に適応した訳でも、スキルの発動を無効化にした訳でも無い。
スローモーションの世界にまた一人、等速時間軸と同じように走れる者が現れた。
全てがゆっくりと動く時間の中でそれに逆らうように、普段と変わらない全力疾走と同じ速度で、その人間は動き出す。
これはあくまで直線速度に過ぎない。小回りも効かなければ、走行速度でしか白に並ぶことなんて出来やしない。
でも別に、こんな雑魚を仕留めるのにはそれだけで十分だろ?
「お前が十倍速で動くんなら……普段の十倍の速度で動けば追い付ける話だろうがぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「暴論にもっ……程が無いっ……!?」
打ち合いも出来るし、これで速度だって直線なら追い付ける!
さあ白ちゃん? こっから先は純粋なプレイヤースキルの勝負といこうじゃねぇか!!!
Q.敵が十倍速で動いてきます!
A.ならいつもより十倍の速度をなんとか肉体で出しゃいい話だろうがバァカ!
脳筋……ッ!