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例えば、速すぎる動体に人間は残光を見てしまう。
まんまるなボールは投げられている瞬間は丸を辞めて、尾を長く引く不細工な楕円として空を飛ぶ。
電車でも、飛行機でも、極め付けは流星のように、人間の動体視力で視るそれらは物体じゃなく線として映る。
日常で分かりやすいのはきっと雨。
透明で丸い水滴──雨粒は、重力に従って幾億の団体で世界へ降る。
風で方向は歪まれど、白い線として私達がいつも認識している……雨という名の残光。
──"違う"。
雨音を奏でていた背景がそれを視認して、瞬間的にまるで巻き戻し再生をされているような錯覚に陥った。
残光としか認識出来ていないラインが、急激な減速で脳を刹那に歪ませる。
環境音が消えていた。奏者の雨音が新たに生まれないからこそ、いつまでたっても曲は空気を伝って耳に届かない。
静寂。
そう、音が生まれない。雨が物を叩かないから……私の認識速度の中で雨といつも定義していた現象が存在しないから、音はいつまでたっても届かない。
視界はこれまでの人生で一番汚れている。
余りにも膨大な障害物が邪魔過ぎて、その小さくも無数にある透明なレンズを通してしかその光景を捉えられない。
雨なんて、私の世界には降っていなかった。
雨だと認識していたそれまでの定義なら、雨はたった今止んでいた。
残光なんて何処にも無い。
時間が止まった世界の中で、私は雨の粒を認識していた。
初めて知った、雨のカタチ。
まんまるな雨粒を幾万と捉える景色のカーテン、その先にいる人物によって。
──私の時は止められていた。
「……遅かったねぇ?」
何秒かけて私の意識は、その言葉を聞き取ったんだろう。
似ていて……でもどこまでも決定的に、違う。
脳に覚えているサラサラで雪のように綺麗な短い髪と違い、それはボサボサで長いくすんだ白。
目元には深い隈があって、半開きの瞼から見えるのは瞳孔が朧気な、充血して煌々と輝いてる紅の宝石。
病的に白かったすべすべの肌は、生気を欠くことで更なる蒼白を極めていて、人外じみた美と形容するには、人形より幽霊の方が遥かに近い。
豪華絢爛なかっこいい装備とは真反対なボロボロの黒い襤褸と、みすぼらしい双剣を腰に提げた少女は、私を見て薄ら寒い笑みを浮かべている。
──"違う"
明らかに、違う。
居るはずが無いという困惑じゃない。刺激されたのは危機感、ともすれば人としての生存本能。
見えない筈の狂気の圧が、或いはその人のカタチでそこに居るような。
見て抱く印象が記憶と乖離して、絶望的なまでにねじ曲がっている。
本能で理解した。コレはあの人であってあの人じゃないって。
"どろり"、としたその印象を言語化するのなら……
「場所の指定をしなかったのは失敗だねぇ、お陰でここで待つしかなくてさぁ…………あは。ね、起きてる?」
根源。
ふわふわしていて蕩けた声で聞いてくる霖さんに、意識が現実へと引き戻される。
止まっていた雨雫が線へと変わり、叩き付けられる濁音が耳に届いて、私の世界に止んでいた雨が降る。
ザーッ……と奏でられる環境音の中、"ふらり"、と立ち上がった目の前の少女は、まるで今すぐにでも羽を生やして飛んでいきそうな程、軽い。
「た、体調は……!?」
「……ああ、これ? 大丈夫だよ、態とぶっ壊してきたからさぁ!」
見るからに死にかけの身体を引き摺って無理矢理ここに来ている少女は、一瞬遅れて反応を返す。
漸く等速で聞き取った声は掠れていて、語尾が甘えるように伸びていた。
「崩……した……?」
「連日連夜の氷風呂とデメントモリの拷問週間に、三徹目を今日に合わせてきた私のコンディションは絶賛38.7℃の高熱で過去最低! あっはははははははは! これで君がどれだけ調子が悪いって言ったところで、私に負けても体調を言い訳に逃げれねぇよなぁ!?」
──狂っている。
幽鬼と呼んだら生温い。化け物としか形容出来ない少女は、やがて嗤いながら語り始めた。
「……私、考えたんだよ。ただ勝つだけじゃ駄目、本気を出しててもそれは相手には分からないから本気を出していなかったとか言い訳出来る。強いだけじゃ駄目、負けて当然だと思わせる勝負じゃ相手に絶望を刻めない。シーソーゲームじゃ駄目、何度か戦えば勝てるかもしれないと思わせたら勝敗の価値が軽くなる。本気を出させるだけじゃ駄目、それで敗北を刻んでも折るに足りる重さには届かない。……だからね、君にちゃんと現実を受刑させるには、負けたら死んじゃいたくなるような重さが必要だったんだぁ」
「……何を、言って」
「──だからまずは、データを消した」
その一言で思考が止まる。
「一年っていう時間の差で勝つのはだって卑怯じゃん? だから消してきたよ、それ。別アカだと軽いし覚悟が足りねぇ。あは、結構大変なんだねレベリングって? 40まで上げるのに四日もかかっちゃった。……だからこれで格上だったって言い訳も殺した」
フレンド欄の『霖』は点灯しない。
だというのに目の前にいる霖さんは、本当に別人としてここに居た。
或いは『霖』こそが別人だったと言うように、その名前と佇まいはこの人の根源を表すものだ。
「理不尽? 卑怯者? 絶対に勝てない怪物? ……あはっ、仮説なんざ高々才能の一種に過ぎないだろ。白ちゃんの存在が自分が最強になれない理由にもならなければ、不貞腐れて罵倒する理由にもなり得ない! 私が君を嫌いなのは才能があるからじゃねぇ、ただ純粋に一人の人間として性格が嫌いだからだぜぇ!?」
……罵倒なんて星の数程されてきた。
何も悪いことなんてしてないのに、ただ居ただけで私は否定されてきた。
目の前の人が私を嫌いと言うのだって、それらと何一つ変わらないと思っていた。
──"違う!"
「天才だって言われて思い上がった? 自分が最強だって思い込んじゃった? ……何にも持ってない君の唯一見つけた持ち物がVRでの強さってんなら、対等な位置まで降りて私が殺してあげる。徹底的に、完膚なきまでに、全身全霊全力で叩き潰して理解らせてあげる!」
少女は最初っから徹頭徹尾、私しか見ていなかった。
「最悪の体調で、その上で圧勝してやる! そうすりゃどれだけお前がコンディションを上げたたらればの話をしようが、体調最悪の時に惨敗した力関係の上で、体調による上がり幅が私の方が遥かに高いって現実に絶望出来るだろ!? あはっ、あっははははははははははははははははははは!!!!!」
憎悪なんて微塵も無い、純粋な嫌悪から来た動機。
私の知る世界で唯一、気分だけで私を嫌いだと判断して、私と真剣に向き合って殺す方法を考えていた。
誰一人として勝ち方なんて考えてくれなかった私に、彼女だけが匙を投げずに見ていた。
才能というフィルターを通した私じゃなく、私という人間だけを見てくれていた。
「──お前が例えどれだけ化け物だろうと、私の方がより化け物だって証明して……お前をただの引き籠もりの凡人まで私が堕としてやるっつってんだよ!」
何も無い私に唯一あったVRの才能は、不幸に耐えるために握りしめることが出来る最後の支え。
これがあるからこんな目に遭ってるんだって言い聞かせてきた大義名分を、自分を特別な人間だって思い込むための持ち物を、目の前の少女は命を懸けて否定しようとしていた。
「今まで一度も遠出したことなくてクソ楽しみにしてた修学旅行を蹴って! 一年間頑張って育てたキャラデータを削除して! 死にそうなくらいだるくさせた体を引き摺って! ……君を否定しにきたよ白ちゃん!」
──いつか、自分をこの暗い停滞から助けてくれる救世主を夢見ていた。
下らない妄想を捨てられない私の目の前に現れたのは、そんな生易しいものじゃない。
王子様でもお姫様でもなかった少女は、心から笑いながら私に手を差し伸べる。
剣を握ったその手でもって、切っ先を私に向けて、捻れて歪みきっていて、それでいてどこまでも純粋で一途な想いのままに。
「──さあ、受け止めてやるから全力をぶつけておいで」
何年振りに言われたんだろう?
何年振りに肯定してくれたんだろう?
誰よりも私が嫌いで、誰よりも私の尊厳を否定したい少女はゆっくりと、さっきまでの激しさが嘘のように私に言い放つ。
「だから、おねえさんと殺し合おう?」
夜明けはまだ遠く視界は暗い。
降り頻る雨の森で、修学旅行を蹴ってゲームをしている不良少女が二人居る。
どこまでもどこまでも、どれだけ私が突き放しても、どれだけ私が面倒臭いことを宣っても、ストーカーみたいに追ってきて……どこまでも私と一緒の所まで堕ちてきてくれる少女が居た。
夜を塗り潰すかのような、暗い世界を自らで引き裂くような、救世主でも王子様でもお姫様でもない、それはまるでお星様のような──
──『雨宮霖』と表示されている少女が居た。