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新章開幕
それに伴いこの一話の場所を移動させました
例えば本当に無知な子供、或いは教育を受けたことがない人間に、『1+1=3』であると教えたとしよう。
通常、人間はそのような解を持つことは無く、自分で辿り着くことは無いのだろう。
然し、絶対に信用している存在から思考という行為に慣れていないまっさらな状態で、仮にそんな解を植え付けられたら……はたしてその対象はいつ、どのような理由で、その理論が破綻していると気付くのだろうか?
──そう、この思考実験において、理論の破綻は最初から確定している。
誤解は何れ解へと訂正される。
だってそれは正しくないから、間違っているから、証明なんてとうの昔にされているのだから。
誤って覚えた計算式は間違いであるとペケを打たれ、仮にそうでなかったとして……無知である者が知識を取り込んでいけば、勝手に自分で気付くのだ。
常に変わらず純粋であり、知識を得ることの無い無知であり、そして世間で認定された誤解を解として認識し、疑問を持つことが無く、そしてそれを誰からも否定された事がない。
それがこの『1+1=3』という公式を解であると覚えていられる条件であり、正常な人間なら誰だろうと不可能と分かりきっている非現実的な前提だ。
──ここで一つ、才能の話をしよう。
天才などその世界で上を目指せば有り触れていて……その有り触れている理由というのは単純で、それである必要性の無い才能で戦う人間が有り余るほど居るからだ。
例えば漫画を描く天才の条件とは何だろうか?
仮に上手い絵を描く能力と、コマ割り等の漫画という媒体を上手く描くのに必要な構成力(定義するなら漫画力)と、面白い話を創る発想力を持ち合わせた者を漫画の天才と置くならば……そこに感情の必要性は無い。
当たり前の話だが、出来ることと、やりたいことと、他人に望まれることは、必ずしも一致しない。
漫画の天才の条件を満たしている人間がいたとして、そんな当人がイラストレーターになりたいと願ったら……絵が描ける才能があるが故に、そして気持ちが方向と一致しているが故に、その界隈でも戦えてしまうものだ。
他所から見れば、その才能の活かし方に必要性は無い。
例えば彼が持つ才能ならば小説家にでもなれるし、或いは漫画家になればより大成出来るのだろう。
この話が残酷なのは、これが余りにも有り触れた事例であることだ。
持つ才能から態々それを選ぶ必要性は無い、でもやりたいから才能を加速装置にして努力する。
それだけでその界隈で言うところの天才達の戦場に届く理不尽というのは、ことVRゲームにおいても変わりない。
第二仮説である力羅でさえその才能を使うのはVRゲームである必要は無く……それは例え彁であったとしても同じことだ。
彼らはVRゲームにおける天才では無い。
ここで戦わせる必要性の無い才能、努力、執念、狂気を、必要性のあるこれがやりたいという感情の元に磨いて戦っているだけで……VRゲームだけに作用する、必然性のある才能は足りていない。
VRゲーム固有の才能は、脳波の形と認識にある。
替えが効かず、必然性のある、VRの才能のその極限。
それを持つ前提とした、然しながら材料が足りず検証が出来ない、実現可能か不可能か以前に論外であると匙を投げられた一つの理論があった。
──"仮説"とされる技術は畢竟、そんな理論が実現してしまった例外の集まりだ。
やがで第四仮説と呼ばれることになる少女は気付く。
VRゲームの黎明期に、第何番仮説という言葉すら生まれてない時期に。
これは平凡に否定される物語だ。
異物であると世間から認識され、否定され、それでも体現してしまうから妬まれ、嫌悪される。
そんなクソみたいな全世界の平凡に殺される、ちっぽけな一つの才能を持つ少女は、彼女だけの失楽園でこう叫ぶ。
だって自分にはそうなんだからとどうしようもない事実を引っ提げて、誰だろうと気味悪がられて否定される個性を、しまいには捨てそうになりながらも──
『1+1は3である』
──と。