彼女が彼女であってもなくても
ずいぶん昔に書いた作品の、裏側のお話になります。
そちらを知っていると二度おいしいですが、このお話だけでも全然おいしい、といいな。
(私が私になりうるまでに)
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これは呪われたある男の話。
魔女は戯れに、道を歩く男に呪いをかけた。
道を歩いていた男が突然したくしゃみに、驚いて眠りを妨げられたからだ。
「せっかく気持ちよく寝ていたのに無粋な輩だ。お前にはお前の愛する者を呪う力を授けてやる」
男は何を言っているのかと思ったが、命が奪われないことに安堵していそいそとその場から逃げた。
男には妻がいた。ごくごく普通に近所に住み、ごくごく普通に恋をして、ごくごく普通に結婚した妻だ。
男は妻に不満などはなく、かといって自分にはもったいないと思うほど愛しているわけでもなかった。
ただ、ちょうどいい。
そんな女が男の妻だった。
ある日、男は妻と喧嘩をした。
他愛ない、どうってことのない喧嘩だ。
ただ、あまりにもネチネチと男がしたことを言ってくる妻に、忌々しいと言わんばかりに男は叫んだ。
「いちいち昔のことをほじくり返すな! そんなこと忘れることもできないのか、お前は! いい加減全部忘れろ!」
別に男は、妻に忘れてほしいと思ったわけではない。
ただ、うるさいと思って、それでそう言っただけだった。
しかしその瞬間、
何かが起きた。
妻は雷に撃たれたかのようにビリビリと震えると、そのままぼんやりとした顔で男を見る。
「おい、どうした?」
男が問いかける。
妻は男を見ると、不思議そうに小首を傾げた。
「おい?」
「あなた、誰ですか……?」
妻は怯えるように男を見た。
「何を馬鹿なことを言ってるんだ」
男は妻がこんな時なのに冗談を言ったのだと思い、苛立ちながら妻の肩に手をおいた。その瞬間、
「いやっ!」
妻が男の手を弾いて、後ろへと下がる。
「何をするんだ!」
男が怒鳴ると妻は怯えた顔で男を見た。
まるで初めてこちらを見るような顔だったと、思い出して気づいたのは随分後のことだ。
その時は、悪ふざけを続ける妻に腹立たしさばかりが募り、男は怒鳴る。
「いい加減にしないか!」
妻は激昂する男に小さな声をあげて身を竦めると、そのまま逃げるように家から飛び出した。
「何なんだ、くそっ」
男は妻の後を追わなかった。
時間が経てば帰ってくるだろうと思ったからだ。
しかし、男の元に妻が帰ってきたのは、それから3日後のことで、妻は物言わぬ痛々しい遺体となって帰ってきた。
「あなたの奥方は、顔見知りの村人たちにも怯えた様子で森の中に駆け込んで、どうやらそこで崖から落ちてしまったようです」
妻が見つかったのはたまたま旅の商人が崖下を通ったから見つかったもので、その遺体は3日の経過で済んだ分、まだ綺麗なものではあったが、決して男が望んでいた妻の帰還ではなかった。
「どうして……どうして崖から落ちたんだ……」
男は妻が死んでしまった理由が分からず、長い時間をかけてその理由を追求した。
しかし、それは同時に悲劇の始まりでもあった。
随分年老いてから彼は自分が魔女に魔法をかけられていると、とある占い師に言われた。
「なんて業の深い……」
占い師は男をひどく哀れんだ。
男にかけられた魔法は、『愛する者を呪う』ことができる魔法だったからだ。
そしてそのとき初めて、自分が妻に呪いをかけたのだと知った。
男が妻にかけた呪いは
『全部忘れろ』
というものだった。
彼女は夫を忘れ、故郷を忘れ、自分が何者かも忘れて、怯えながら死んでいったのだと知った。
男は真実を知ったとき、ひどく狼狽し、泣き叫んだが、死んだ妻が生き返るはずもなく。
やがて年老いて死ぬまで、男は自分の放った言葉を後悔した。
理不尽な二人の関係はその時から始まった。
男は老いて死んだ後、また自分が生を受けたことを悟った。
転生、といえば良いのか。
姿形は代われど、男の魂は形を変えることもせず、男が男であることを思い出させた。
それは魔女のかけた呪いの副作用だったのか。
それとも戯れに更に重ねがけでもされていた非情な呪いだったのか。
男には何一つ分からなかったが、自分が以前、誰であり、どれだけ愚かなことで妻を殺したかを覚えていた。
そして、今、自分の妻もまた生まれ変わったことを知る。
幸いなことに、妻はすくすくと普通に成長してくれていたらしい。
しかし、『全部忘れろ』という呪いは引き継いだらしく、妻は男のことを全く覚えていなかった。
しかも皮肉なことに、己は庭師。妻は王女という、身分違いも甚だしい関係で生まれ変わっていた。
すべての記憶を背負うのは男だけ。
妻は何一つ覚えていない。
妻とは違う人間だと思えたらどれほど良かっただろうか。
しかし、王女はその魂が妻だった。
男の愛した、あの妻だった。
二人はやがて、身分さえも越えて愛し合い、そして不幸になった。
バレてしまった二人の恋の行く末は、王女は他国へ嫁ぎ、王女を汚したとして庭師だった男は死刑となった。
「王女は高貴な生まれなどに生まれなければいい!」
男は死の直前、そう言って王女を呪った。
呪うことしか出来なかった男には、そうやって王女の生まれを貶める『呪い』しか放つことが出来なかったのだ。
(王女という高貴な身分の君は、とても幸せだったろうに……)
男はまた生まれ変わった。
今度はキャラバンの踊り子と楽士という、似たような身分に生まれたことに安堵した。
しかし、踊り子は妻だったときとも王女だったときとも違う美しい容姿の持ち主だった。
男も見惚れるほどの美しさではあったが、男が見るのは彼女の魂の形で、それは何度生まれ変わろうが妻のものだった。
男が男であったように。
妻は妻だった。
そして、男は庭師であった記憶も覚えて生まれ変わったが、踊り子はやはり何も覚えていなかった。
男にまつわる全てを忘れていた。
身分差のない二人は、ごくごく自然に恋人となったが、やがてとある国を訪れたとき、悲劇がまたも二人を引き裂いた。
その国の国王が、踊り子の美貌の虜となり、踊り子を愛妾として召し上げると言ったのだ。
踊り子は楽士がいるからとそれを断ったが、そのために男が殺されることになってしまった。
「美しい美貌などなくていい!」
男は踊り子に呪いをかけた。
(踊り子でもあった美しい君は、とても綺麗で幸せだったろうに……)
男の魂は何度生まれ変わっても男で、妻の魂もまた、何度生まれ変わっても妻だった。
それは例え世界を変えても変わることはなく。
学生になった男は、同級生となったごくごく普通の彼女に安堵した。
彼女はやはり男のことは何一つ覚えていなかった。
それでも彼女の魂は妻のものだった。
日本という国で、争いも何もなく、穏やかに暮らす日々はとても幸せで。
だから今度こそ、彼女と幸せになれると思ったのに……
彼女は病魔に侵されていた。
あんなに医学の発達した世界だったというのに、彼女の病は治すことが出来なかった。
「私、死にたくないなあ……」
彼女の言葉に、男は胸が張り裂けそうになった。苦しくて何度も泣いた。
誰かに助けてもらいたかったし、代われることなら自分が代わりたかった。
「俺が何をしたんだ……!?」
何故自分には彼女を救える力がないのか。
何故最愛の人を呪うことしかできないのか。
日に日にやせ細り、身体の自由を失っていく彼女に、男は呪いをかける。
「病魔さえ恐れをなして逃げていく身体になればいい」
そうなってくれ、と切に願った。
彼女は死に、男は絶望しながらそれからの長い人生を生きた。
たった独りで。
何度も生まれ変わる。
何度も出会う。
そのたびに男と妻は引き離される。
男はそのすべての人生を忘れられないのに、妻は自分のことを何一つ覚えていない。
いっそのこと彼女が違う人間だと割り切れたら良かったのに。
彼女は彼女だった。
(もう許してください。許してください。気が狂いそうです)
何度も何度も呪いをかけた末に、男と妻だった女は、身分差もなく、障害もない二人として生まれた。
靴屋の娘と、そこの徒弟。
ゆくゆくは婿入りする形で彼女と結婚することになっていたが、男の心は不安と恐れで揺れ動いていた。
今度こそ大丈夫なのか。
今度こそもう何も彼女を呪わなくて良いのか。
しかし、運命は再度二人を翻弄する。
たまたま街の靴屋に立ち寄った王子が、娘を見初めたのだ。
巷では玉の輿だとはしゃいだが、恋仲だった二人には、それは悲劇にしかならず。
靴屋の娘は泣きながら男に言う。
「私はあなたと結婚したい……」
その瞬間、男は気づいた。
自分という存在がいなければ、彼女は幸せになったのではないか、と。
王女は庭師と恋をしなくとも、他国に嫁いで裕福なまま幸せになれたはずだ。
踊り子だって、見初められてその衰えぬ美貌のまま、幸せに愛されたはずだ。
少女は少年と会ったところで運命は変えられなかった。むしろ生きることに未練ばかり増やしてしまったのではないか。
靴屋の娘だって、王子に見初められて結婚するのならそれは幸せだろうに。
全部、全部、男がいたから。
男のせいで、
最初の妻だったときさえも、
彼女は不幸になってしまった。
王子に召し上げられるというその日、靴屋の徒弟は靴屋の娘に告げる。
「次に生まれるときは、あなたのそばに俺はいなくていいから、あなたは幸せになってくれ」
それは初めて告げた訣別の言葉だった。
呪いにもなりやしない未熟な何か。
たった一つの願い。
その瞬間、靴屋の娘はハッとした顔になり、彼女は涙を流しながら、叫んだ。
「生まれ変わりなんて信じない! 私は私でしかないのにそんなこと言わないで!!!
私は、『今』、あなたと幸せになりたいの!!!」
娘の言葉は強く男の胸に響いた。
響いたのだが、靴屋の娘と徒弟は駆け落ちしようとしたと疑われ、徒弟は王族によって秘密裏に殺された。
「娘を見初める王子たちなどいなくなればいい」
と最後に男は靴屋の娘を呪いながら死んだ。
そして、子爵家の嫡男として生まれた。
クライディップという意味の分からぬ変な名前をつけられ、何事もなく暮らしていたある日、
「お前の婚約者だよ」
と一人の娘を紹介された。
釣り合いのとれた家格の、ごくごく普通の容貌の、風邪一つひかない頑丈な身体で、王子におよそ見初められそうにもない、平凡な令嬢。
だが、彼女こそが、彼のたった1人の最愛。
そして、彼のたくさんの『呪い』で雁字搦めになってしまったルネ。
クライディップがいなければ、もっと綺麗に生まれたかもしれない。もっと高貴な身分でいたかもしれない。
王族に見初められ、国で一番幸せになっていたかもしれない。
けれど、それらいくつもの無数の可能性は、クライディップの『呪い』で、すべて消されていた。
「ふん、お前と俺なんぞ、男爵と子爵の身分の釣り合いで婚約したからに過ぎないからな」
(だからいつでも俺から離れていっていいから)
もうクライディップは、ルネを呪いたくなかった。
いつも何かに怯えながら、それでも彼女がただ幸せであるようにと思っていたある日、彼女を乗せた馬車が転落事故を起こした。
クライディップは己を呪った。
また今生でも、自分は彼女を失うのかと思った。
(今度は馬車や乗り物に乗れないように呪えばいいのか?)
もう呪うつもりなどないのに、そんなことを思いながら、彼女の無事を願った。
幸いにも、ルネは大怪我をすることはなく、気を失っただけだった。
目が覚めた彼女は、クライディップが顔をぐしゃぐしゃにして泣いているのを見ると、やんわりとほほえんだ。
クライディップは恥ずかしさのあまり
「ふ、ふん、どんだけお前は頑丈な身体なんだ!」
と吐き捨ててしまったが、本当はルネが生きていたことが何よりも嬉しかった。
それから先も、不思議なことにルネだけは何の不幸にも見舞われることはなかった。
やがて、二人は結婚した。
時折不安に苛むこともあったが、ルネが子を宿し、どの人生よりも穏やかに、そして幸せに過ぎていったとき、ルネがポツリとクライディップに言った。
「ねえ、生まれ変わりなんてあるのかしら?」
今までのすべての人生を覚えているクライディップは、何も答えなかった。
ルネも答えを求めているわけではなかったようで、そのまま勝手に話し始める。
「まあ、あってもなくても、私は私以外の何かになることは決してないから、私は私のままできっと終わるわね……」
何も覚えていない、いかにも彼女らしい言い方だった。
「けど、私はクライディップと今、一緒にいられて幸せよ」
何百年と生きてきた。繰り返される生の先で、かつて妻だった、王女だった、踊り子だった、少女だった、靴屋の娘だった、けれどその誰でもないルネが、クライディップにそう言った。
「ああ」
(私もとても幸せだ)
その瞬間、魔女のかけた悪質な魔法は、キラキラと砂のようにほどけていったのを見た者は誰もいなかった。
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「!!!」
誰かのくしゃみの音で突然、目覚めさせられた不機嫌な魔女は、自分を起こした男に目を向けた。
どこの時代の、誰かは分からない。ただ、現世界とは交わりを絶っていた空間だったその場所に、何故か男は干渉したようだった。
「せっかく気持ちよく寝ていたのに無粋な輩だ。お前にはお前の愛する者を呪う力を授けてやる」
たちの悪い話ではあったが、魔女は同時に別の魔法もかける
「だがもし万が一、お前とおまえの愛する者が数多の呪いを超えてなお結ばれたなら、未来永劫、お前たちは結ばれるよう祝福を授けよう」
なぜ、たかがくしゃみをした相手にそんなことをしたのか、魔女には自分のことなのに分からなかった。
それでも気が済むと、魔女は干渉してきた男の世界との歪みを閉じる。すると、
「ルネ、何をしているのですか」
時の狭間の屋敷を任せているクライディップがそう言った。
彼は魔女であるルネの番だ。
いつの間にか彼女の屋敷にやってきた彼は、いつの間にか屋敷のすべてを担う存在になっていた。
クライディップなんて変な名前だと思ったが、どこか懐かしいと感じてそのまま屋敷においている。
そして、名前もなかった『時の魔女』を、ルネと勝手に呼ぶのだが、それもよしとしている。
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男は何度か生まれ変わり、そして最期に時の魔女と会い、自分が何故呪いをかけられたのかを見た。
(なんて理不尽な呪いなんだ)
それを見た瞬間、どうして自分がここにたどり着いたのか理解した。
相変わらず自分のことは何一つ覚えてない彼女は、それでも変わらず自分を愛し続けてくれる。
卵が先か、鶏が先かなど、クライディップにはどうでも良かった。
例えこの生が終わろうとも、また自分はルネに会える。
彼女が彼女であってもなくても、もう二度と離れることはない。
それだけ分かれば、クライディップには十分だった。
(もう私は、彼女と結ばれないと恐れることがないのであれば、彼女が彼女であってもなくても、私は構わない)