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その1

「この間のMRIの結果ですが、問題なしでした。よかったですね」

 七月の初夏の晴れた日、品川区の脳神経クリニックの診察室にて、ヨシヒロは医者から通告された。眼鏡をかけた女性医師は、安堵の表情で静かにパソコンに何かを打ち込んでいた。


 よかったですねだと、何もよくない。僕の頭の中には腫瘍があるはずなのだから。そうでなければ、この頭の痛みも感情の昂りも説明がつかない。大きな総合病院ではなくて地元の脳神経クリニックを選んだ自分がいけなかったのだろうかと、ヨシヒロは激しく後悔した。


「今回撮ったMRIは十五分間ぐらいの簡易なものでしたが、もっと詳しく細部まで映るものを再度受けた方がいいとか、そういうことはありませんか。もしかしたらちゃんと映るべきモノが映っていないのかもしれないので、大事をとって」

 ヨシヒロは、デスクの上のパソコンに映る自分の頭のMRI画像を見た。映し出される白い影がヨシヒロの脳味噌だとは思えなかった。しかしヨシヒロがそれをどう必死に眺めても、何も分からなかった。

「今回のもので十分写っています。何も問題はなさそうですよ。本当によかったです。頭痛があるようであれば一般的な頭痛薬は処方できますが、どうしますか」

 女医の先生は椅子をヨシヒロの方へ向けると、優しい声で尋ねた。


「そんな、どうしたらいいんですか」


ヨシヒロは診察室の椅子に座りながら、自分の首に重くのしかかる頭を抱えた。


****


「この間撮ったMRIの結果なのですが、実は小さめの腫瘍が見つかりまして。今後の治療方針はまた改めて時間を取ってお話しましょう。でも念のためにMRIを撮っておいて、早期発見が出来て、本当によかったです」

 七月の初夏の晴れた日、品川総合病院耳鼻科の三十番号室の部屋にて、エイコはそう通告された。眼鏡をかけた若い女性医師は、必死に明るい励ましの言葉をかけていたが、エイコの耳には届かなかった。


 脳腫瘍、そんなはずがない。撮っておいてよかっただって、何がだ、何もよくない。私は単純に耳鳴りがするだけで、そんな私の頭の中に腫瘍があるだなんて、理由が全くつかない。

「あのこれって、これからどうしたらいいんでしょうか」

エイコは診察室の椅子に深く腰掛けながら、涙を堪えた。右手はエイコの細い首をさすっていた。こういうときどこに手を置けばいいのか、分からなかった。

「当分は薬を飲みながら、もう少し小さくなるか経過をみてみましょう。まずは脳神経科の先生や外科の先生とも相談してみます。予約は改めてご連絡差し上げますが、とりあえず一週間後にいらっしゃることは出来ますか」


「そんな、どうしたらいいんですか」


 エイコは診察室の椅子に座りながら、その恨めしい自分の頭をそっと撫でた。


****


 クリニックからの帰り道、ヨシヒロは初夏の風を浴びていた。緑色のポロシャツには汗が染み込んでいた。こんなに汗をかく時期でも気温でもないが、不思議なほどに汗をかいていた。風が当たるとひんやりと寒気がした。手元には診療明細書と薬局で処方してもらった頭痛薬、そして品川総合病院への紹介状があった。

 脳神経クリニックの女性医師は、無言でこの紹介状を書き上げ、電話はあとでしておくから外来受付に近いうちに行くように、とだけ言った。品川総合病院は、ヨシヒロの家から電車で十五分ほどの大きな総合病院だった。


 紹介状の入った封筒を眺めていると、ヨシヒロの携帯電話が鳴った。ポケットから携帯電話を取り出し、電話に出た。


「結果どうだったの、脳腫瘍の」

 携帯電話の向こうから、アンナの声がした。

「悪化して大きくなっていたよ。悪性かもしれない」

「え、そうなの。お腹の子も心配してるよ。ヨシ、この子に会えるのかな」

「会えないかもしれないと思うと、今は会いたくないんだよ、分かるだろう」

「そうよね、悲しくなるだけだものね。ねえ一昨日、定期検診に行ったの。この子のエコー写真送ろうか。顔は足で隠しちゃってて見えないけど、結構可愛いよ。少し元気が出るんじゃない」

 ヨシヒロは、背中から汗がつたるのを感じた。

「いや大丈夫だよ。それよりも、どうしたらいいんだろう。仕事も家族も。どうやって生きていけばいいのか、分からないよ」

「そうよね。うーん、仕事はしばらく休んだらどうかな。入院することになるのかな。私も東京まで行きたいけど、この子がお腹にいるから動けなくて」

「そうだよね」

「あとごめんね、こんなこと言いたくないんだけど、一つだけ。定期検診の費用とか、やっぱりちょっとずつだけど、なんだかんだかかっていて。でもやっぱりヨシも腫瘍の手術とかでお金もかかるし、手伝ってもらうのはちょっと難しいかな」

 ヨシヒロは手を震わせながら、ゆっくりと答えた。

「そうだね、また病院と相談してから連絡するよ」

「分かった、大丈夫。またね」

 ヨシヒロの手は、携帯電話を耳から離した。


 アンナは香川に住んでいる。ヨシヒロは東京に住んでいる。

なぜヨシヒロが半年前に香川に行ったのかは、自分でもよく思い出せなかった。きっとアンナに会いに行きたかったのだろう。勤めていた職場を退職して、飛行機で高松に向かった。アンナと彼女の父親が高松空港まで車で迎えに来てくれたことを、今でもはっきり覚えていた。

 香川での二ヶ月間はとても幸せだった。彼女の家族は、ヨシヒロを本当の息子のように受け入れてくれた。彼女の友達にも会った。ただひたすら楽しかった。


 ヨシヒロが東京に戻って二週間後、アンナが妊娠したことを聞いた。



「ただいま」

 ヨシヒロは実家の勝手口の扉を開け、リビングへ向かった。

「おかえり」

 妹のミチコが振り向いた。ソファーに座りながら漫画を読んでいた。初夏なのにタンクトップとショートパンツを履いていた。こんなにも風が冷たいのによくここまで肌が出せるなと、思わず感心してしまった。

「お父さん、今応接間で商談してるから入らないでってさ。あと表の門も、来客が帰るまでは使わないでって」

「分かった。もう今日は外出しないから大丈夫だよ」


 ヨシヒロは、家の二階にある自分の寝室へ向かった。階段を上がるとき、一歩一歩思いっきり力強く踏ん張った。自分の足音を家中に響かせてやりたかった。


***


 病院からの帰り道、エイコはただひたすら家に向かって歩くことしか出来なかった。初夏の気持ちの良い風も、紫色の夕焼けも、今のエイコには何の意味も持っていなかった。携帯電話が数コール鳴ったが、出る気力はなかった。

 この事実を誰に言えばいいのか、エイコには分からなかった。脳に腫瘍だなんて、みんな心配するに違いない。親にはきっと泣かれるだろう。職場には憐れまれて、即効クビになるだろう。


 エイコは歩きながら、今までの人生を振り返った。ああ走馬灯とはこういうことを言うんだと、一人で勝手に納得した。泣きながら必死でやった受験勉強、合格した一流の私立大学、真夏に走り回った就職活動、そしてやっと受かった就職先。

 エイコは鞄に入れていた領収書と診療明細書を取り出した。これからかかる医療費と貯金のことを考えた。親から借りればいいのか、でも父親だってもうあと一年で定年だ。これまで私立高校、私立大学まで行かせてもらって、なんの不自由もなく生きさせてもらって、人生これから、恩返しするなら今から、その矢先の出来事だった。一体今までの人生は何だったのだろうか。何のために辛いを思いをして、必死に生きてきたのだろうか。エイコは領収書を破り捨ててやりたくなったが、確定申告のために残しておかなければと思うと、綺麗に三つ折りにして、鞄にしまった。


 エイコは、なぜこんなことになってしまったのか、理由を必死に思い浮かべた。理由がないのにこんなことになるほど、人生理不尽ではないと信じたかった。今までずっと健康に気をつけて生きてきた。食事だってたまにお菓子を食べる程度だったし、運動だって日常的にしていた。何よりも、今までずっと「いい子」に生きてきた。こんな罰を受けるようなことはしていない。必死に勉強して、部活も頑張って、人付き合いだって頑張って、一部上場企業に入った。人生これからだった。


 そんなことを考えながら歩いていると、エイコの左側からクラクションの音が鳴り響いた。水色のトヨタのアクアが、エイコまであと二歩先ぐらいのところにいた。アクアの運転席に座った茶髪のショートカットの若い女性は、エイコのことを軽蔑した表情で睨んでいた。

「なんだいあの車、ちゃんと道路見てんのか」

 少しふっくらとしたサラリーマンの男性が、横でぶつぶつと文句を言っていた。

 このまま交通事故で死んだって同じなのだから、いっそのこと今轢かれてしまえばよかった、とエイコは思った。



 エイコは、実家の玄関扉の鍵を開け、黒いピンヒールの靴を脱いだ。珍しくストッキングが電線していた。どこでどうやって電線させたのか、全く思い出せなかった。

 エイコは、これから家族にどんな顔をして、どう話せばいいのか、全く分からなかった。玄関先で立ちすくんでいると、大きなゴミ袋を持った母親がちょうど玄関先まで出てきた。


「おかえりなさい、エイコ。今日は仕事終わるの、ちょっと早いのね」

「ちょっと体調が悪くて病院に行ってたの。何回か通えば治るから、心配しないで」

「まあ気をつけて。まあでもエイコのことだし、きっと大丈夫でしょ」

 母親は、ゴミ袋を玄関外のゴミ置き場に置いた。


 そう、エイコはいつも大丈夫。

 いつも必死だから。いつも絶対大丈夫なようにしてきたから。私がエイコだから大丈夫なんじゃない、私が大丈夫にしているから大丈夫なんだ。


「うん、大丈夫だから、気にしないで」


 エイコは自分の寝室に向かうべく、階段を上がった。自分のすすり泣く声が聞こえないようにいつもよりも足音を大きくたてながら、力強く階段を踏み上がった。


****


 ヨシヒロは自分の部屋のベッドに寝転びながら、星柄の青いカーテンの隙間から外を眺めると、雨が降ればいいのにと願った。


 ヨシヒロは雨が好きだった。雨が降れば外に出なくていい。雨が降れば頭痛がすると言って、仕事を休んでいい。雨は、あらゆることの言い訳にちょうどよかった。

 しかし雨は願っても願っても、降ってはくれなかった。こればかりは自分の思い通りにならなかった。その一方で自分については、いくらでも思い通りに出来た。自分の考え、思い、嘘や妄想。こればかりは誰の思い通りにもならない、全て自分のものだった。


「どうぞご検討のほど、よろしくお願いいたします」

 窓の外からヨシヒロの父親の声が聞こえた。

「こちらこそ、どうもありがとうございました」

 黒塗りの車が玄関先に停まっていた。黒いスーツを着た男性が三人、車に乗り込んだ。一番若そうな男性が運転席に乗りこんだ。運転手付きではない車がやってくること自体がなかなかに珍しかった。


 ヨシヒロはアンナのことを思い浮かべた。彼女といるときは幸せだった。彼女の声をもう一度聞きたくなった。香川に行きたいわけではなく、アンナといたかった。不安なときでもアンナさえいれば、不思議と不安が消えた。


 ヨシヒロは携帯電話を手にすると、アンナに電話をかけた。ヨシヒロはいつもアンナに電話をかける度に、お願いだからいつも通り出てくれと、心の中で必死に祈る癖があった。


「もしもし。どうしたの」

「急に不安になったんだ。なぜこんなに不安なんだろう」

「そんなに不安で仕事もどうせクビになるのなら、こっちに来ればいいよ。私の家族も歓迎してくれるよ。田舎で休んだら、意外とケロっと治っちゃうかもしれないしね。ねえ、来なよ」

「もう次の大きな病院の予約もしてあるから、今は行けそうにないんだ」

これは真実だ、紹介状だって持っている、とヨシヒロは自分に言い聞かせた。ヨシヒロはベッドの上からもらった紹介状を探した。茶色い封筒を見つけ出すと、手の中に握りしめた。

「分かった。じゃあ、出産後に私が東京に行くっていうのはどうかな」

「子供と一緒に、ってことだよね」

「もちろん、置いていくわけにはいかないからね」

「こっちの病気もあることだし、もう少し落ち着いてから考えようよ」

 ヨシヒロは紹介状の封筒を眺めた。開封できないように糊付けされ、クリニックの印鑑が押されていた。なんて書かれているのだろうかと思うと、開けたくて仕方なくなった。

「そうだよね、ごめんね」


 そう言うと、アンナは電話を切った。

 アンナが電話を切る瞬間、ヨシヒロはいつも世界で一人ぼっちに孤立したような気分になった。それと同時に頭の奥が、不思議とスッキリするのだった。


****


 エイコは自分の部屋の畳に寝転びながら、障子の隙間からベランダの外を眺めた。雨が降ればいいのにと願ったが、降ることはなかった。


 エイコは、自分の人生がこんなにもどん底に落ち込んでいるのに、嫌味のように世界がカラリと晴れていること、公園で遊ぶ子供や顔のシミに悩む主婦で溢れていることに、怒りで吐き気がした。

 エイコは、なぜ自分なのか、世界中のみんなが全員自分と同じくらい悩んでくれればいいのに、世の中全員が腎臓ガンとかになってくれればいいのに、と願った。なぜ自分なのか誰か答えてくれないか、完治なんてするのだろうか、もう元には戻らないのだろうか。エイコは、腹の底から湧き出る吐き気が、自分の感情から来るのか、それとも脳腫瘍の症状の一環なのか、よく分からなかった。


 エイコは今まで完璧に人生をこなしてきた。少なくとも、完璧に一番近いようにこなしてきたと思っていた。頑張れば将来幸せになれる、努力は報われる、誰かはきっと見ている。エイコは大丈夫、だってエイコだから。だってそうでしょう、エイコは今までなんでも出来たもの。なんでも出来るように、何が起こっても大丈夫なように、頑張ってきたもの。なのに、なぜだ。私の人生はこれからではないのか。これから出世して、素敵な人と出会って、結婚して子供を産んで、幸せな家庭を築き上げる。なぜそれがここで奪われなければいけないのか。

 エイコは、自分の頭に出てくる言い訳を一つ一つ処理しようとしたが、どうも脳の中の腫瘍が邪魔をするようだった。


「お父さん、お母さん、ごめんなさい。今まで苦労して育ててくれたのに、今までたくさんのお金と苦労をかけて育ててくれたのに、こんな風になってしまってごめんなさい。全部神様が悪いんだよ。私は、そんな罰当たりなことしていないもの」


 エイコは、ベランダに向かう障子と窓をゆっくりと開けた。夏の湿気の籠った空気がクーラーで冷えた部屋の中へ入っていくのが分かった。電線したストッキングを脱ぎ、ゴミ箱へ入れると、裸足でベランダの床のセメントに触れた。裸足でベランダに立つのは、生まれて初めてだった。こんなにも冷たく硬いものだとは、想像してもいなかった。裸足に付く黒い埃でさえも愛おしく感じた。土とも岩ともフローリングとも違う、新たな感触だった。ベランダはうっすらとコンクリートの匂いがした。夏の夜の風がエイコの長い黒髪をなびかせた。


「エイコ、ごめんね」

 エイコはベランダの縁の手すりにつかまると、しゃがみこんだ。

「自分に謝るなんて、あまりにもおかしい話だけど、ごめんね、エイコ。今まで幸せにしてあげられなくてごめんね。ずっと無理させてばかりだったよね。神様はひどいよね、こんなに頑張ってきた人にこんなにひどい目に合わせてさ。ごめんねエイコ、でも私はね、死んでしまいたいの。全部無駄だったんだもの」


 エイコはゆっくり立ち上がると、ベランダから下を見下ろした。家族兼用の自転車が二台と家の郵便ポストが見えた。帰宅したときにポストの中を確認したかどうか、思い出せなかった。同時に、部屋のクーラーのスイッチを切ったかどうか、急に不安になった。死んでしまおうと思う瞬間でさえもこんなことを考えている自分に対して、涙が出てきた。

 エイコは涙をこらえながら、黒い埃だらけの裸足で畳の部屋の中へ踏み入った。引き出しからハンカチ取り出し、足の裏を綺麗に拭き、畳の上についた黒い埃をふき取った。クーラーが点いていないか確認すると、しっかりと消してあった。

 エイコは押し入れから古い学生鞄を取り出すと、鞄に顔を押し付け、声を押し殺しながら、わんわんと泣きじゃくった。


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