吟遊詩人グラスの優雅な旅路(1)
グラヴィンデルス・コリド・シン・プクルスは、吟遊詩人です。でも、グラス自身は、自分のことを吟遊詩人とは思っていません。放浪する旅人だと、グラスは思っています。グラスというのは、グラヴィンデルスの通称です。
親しい人からは、コリド・シンと呼ばれています。
「グラスが来た!」と声が上がれば、町中、村中の子供たちが浮き足だって広場に駆け出します。
うまく走れないような小さい子は、年長の兄弟たちが背負ったり、近くで遊んでいた子供たちの中でも、大きい子が背負ったり抱っこしたりして、とにかく、声のするほうの広場に急ぎます。
男の子も女の子も、中には14歳を過ぎて、すでに大人の仲間入りをした者までもが集まってきます。
この時分の男たちは、いろいろな部分で、他人と競いあうようになっています。なにかと諍いごとを起こしやすい年頃です。
でも、折り悪くケンカをしていた者たちがいても、一時中断です。
「グラスが来た!」という声は、まさしく魔法使いの操る呪文のようです。誰もが振り返り、手元を見直して、いましていることが、急ぎの用事なのか、そうでないかを思案します。
もちろん、グラスの来訪をもっとも喜ぶのは子供たちです。けれども、大人たちだって、もともとは子供でした。「グラスが来た!」と聞こえると、みんなが子供の頃に味わった、スゥーと背筋から喉の奥を抜けるような、なんともいえない清涼な感覚を思い出すのです。
なぜ、これほどまでにグラスに惹かれるのかというと、グラスだからとしか形容できないのです。
彼の語る物語の面白さはもちろんのこと、子供たちに好かれる太陽のような明るい笑みをつねに湛え、星を宿したような眼差し、それでいて、深い知恵を思わせる表情や仕草は、色恋を抜きにしても町娘や村娘たちを魅了して止みません。
さらに、グラスには物語を語るときの声音こそまさに最大の魅力です。
訛りのない、きれいな共通語は当然ですが、グラスは様々な種族の言語にも精通していて、しかも、まるで彼らの土地で、彼らがしゃべっているかのように語るのです。
グラスが物語を語るとき、彼自身はいつも同じように笑顔で語っていても、見る側からは、勇ましい勇者にも、塔に囚われた悲運の姫君にも、さらには心臓を鷲掴みするような恐ろしい怪物にもなってしまうのです。グラスはひとりしかいないのに、観客の眼前には、王子と姫が甘く語らうバルコニーも、数万の大軍勢が大戦を繰り広げられる城塞都市もはっきりと見られるのです。
けっして、グラスは魔法も手品さえ使ってはいません。彼の姿が、声色が、佇まいが、かれを取り巻くすべての魅力が、観客たちにそのような光景をみせてしまいのでしょう。
ツバ広でてっぺんがとんがった三角形の帽子を被り、実用性の高いポケットがたくさん付いたシャツに、星や魚が刺繍されたカラフルなジャケットを羽織り、その細身な足にピッタリとしたズボンに、吟遊詩人独特の爪先が尖った灰色のブーツを履いています。
どこから見ても吟遊詩人そのものの姿ですが、グラスは自分をそうだとは思ってないわけです。彼がこの姿をしている理由は、ただ便利だからに過ぎないのです。
彼は、自分のことを"旅人"だと考えています。旅をすると、さまざまな国をわたることになります。人間の国、妖精の国、巨人の国などさまざまです。もちろん、自由に行き来できるところがおおいわけですが、なかには余所者を快く思わない国もあります。そんな国でも吟遊詩人だけは大歓迎してくれます。
吟遊詩人は、娯楽を提供してくれるだけではなく、各地を渡り歩くなかで、いろいろな情報を集めているのです。
為政者たちも、吟遊詩人が領内に入ると、わざわざ使いを出して屋敷に招くことも珍しくないのです。グラスぐらいの高名な吟遊詩人ともなると尚更です。グラスは当代随一の吟遊詩人ですし、しかも、かつては勇者とともに魔王と戦ったことがあると、まことしやかに言われているからです。このことについては、グラスも明確に否定しませんから、たぶん真実なんでしょう。
ただ、グラスは歓待を受けるのが苦手なので、できるだけ断っています。
旅に必用な物資が欲しいときは、その範疇ではありませんが。
そんなグラスが、必ず立ち寄る領主館があります。
島の妖精王が住まうエフィーネ島の王館です。今のエフィーネ妖精王ファラは、じつはグラスの古い友人なのです。ファラは王になる前は、勇者とともに旅をしていた時期があり、その頃グラスと出会っていたのです。
「今年も島東では五色草の花が見事に咲いたと聞いた頃から、そなたの来訪を待ちわびていたよ、コリド・シン、春を告げる者。でも、相変わらず哀しげな眼をしてるね。」
ふたりが顔を合わせると、必ず駆け寄り抱擁した後は、互いの肩を掴んで語り合うのです。そこだけは、まるで時が逆戻りしたかのような空間が存在していて、王の広間に控えた由緒あるお歴々さえ眼に入らないようです。
「あの時からどのくらい月日を数えたか知っているだろう、時を越える者。どれほど悔いても、既に結果となっているんだよ。」
妖精王は心配でたまらないといった表情を浮かべてグラスに語りかけます。
妖精の言葉は、精霊のそれに近しいもので、普通は人間には発音できません。だから、妖精族が人間と話すときは、共通語を使います。訓練した精霊術士ならば、多少は話せますが、それでも妖精たちからすると、共通語で話した方が会話が成立しやすいわけです。もちろん、ファラというのも、共通語風にした仮の名前で、本当の名前は、もっと長くて美しい名前なのです。
ファラは、妖精族のなかでもとりわけ美しい一族の出で、歴代妖精王のなかでも名君の誉れの高い王です。美しいといっても、彼女の美しさは高名な絵師さえ筆が震えるほどで、美しい種族といわれる妖精族でも群を抜く美しさです。
ただ、美し過ぎるためか、その長い生涯のなかで、多くの夫を持つといわれる妖精王としては不思議なことに、いまだに夫を持ったことがないのです。
もちろん、夫がいないままでは、いずれ国が成り立たなくなってしまいますので、いつまでも独り身とはならないでしょうが。くちさがない宮廷雀たちが、王とグラスの度を越えた仲の良さを怪しんだり、期待したりするのは責められませんが、当人たちは周りのそんな眼差しを知ってか、知らずか、すでに長い時を友人同志として振る舞ってきました。
「時を司る精霊呪文でも、過去を変えることは不可能だといわれているのだ。むろん、君が無理と言われることにこそ、異様な対抗心を持つのは知っているよ。私も常々、我が国に伝わる古書を紐解き、村々の古老に話を聞き、時には精霊たちの囁きに耳をすませてきたのだよ。」
妖精王ファラは、名うての精霊呪文の使い手で、しかも、精霊と近しい関係にある妖精族なので、彼らの話を理解することができるのです。
「それでもやはり、起こってしまった悲劇をなかったことにはできない。 たとえ、伝説の精霊王でさえね。」
もちろん、グラスもじゅうじゅう承知なのですが、心に残る大きすぎる傷跡は、いくら年月を経ようとも、けっして癒されることはないのです。そして、グラスが吟遊詩人のように旅に旅を重ねる理由も、まさにここにあるのです。
彼は彼なりに各地を巡り、かつて愛した人を過去の悲劇から救うための、何らかの方法を探索しているのです。
その長い、本当に長い旅の中で見聞きした、さまざまな物語を、訪れる町や村などで披露しているのです。
まるで、語ることによって、何かが起こるのではという、淡い期待を懐いていることも否めません。
グラスが、こうして妖精王のもとを訪ねるのも、旧交を温め安らぎを得るためでもあり、同時に心を強く縛りつける痛みを忘れないようにするためでもあるのです。
そして、今日もまた、グラスは遍歴の旅のなかにいます。何度も訪問した町があれば、初めて来訪する村もあります。どこへ行っても、グラスを待っている人びとがいてくれるからです。
「さあさあ、グラスが来たよ! 今日は、どんな話をしようかな。さあさあ、どんな話が聞きたいのかな。」
村の広場の真ん中で、取り囲むようにした人びとを前に、グラスの声が響き渡ります。
「そうだね、こんな話はどうかな。
これは、とある町に伝わるとても不思議な物語…」