ふたつの物からなる作品
第Ⅰ部 前半部分を占めるおしゃべり
そもそも、私のなろう作品は2016年6月に書いた『駄作論』と言う作品の主題に基づかれた作品になっております。それは「駄作もときにはよいものだ。同じ作家を励ます作用ぐらいはあるだろう」と言うテーマです。それは私の文章が(作品が)稚拙なものばかりなので、駄作を肯定する論をこしらえたら、すべての作品が救われることになるだろうと言う、そう言う狙いから書かれたものです。
それと、(私は用心深いんですね)、明らかに駄作としかおもえない作品『人間魚雷』を仕掛けておきました。『人間魚雷』は「自殺」がテーマの作品ですが、結局、なにが言いたかったのか分からない極度に下手な作品です。しかし、この作品があることによって、私の作品たちは駄作であると言うイメージが付くはずです。仮に付かなくとも、『駄作論』と言う作品のフォロー作品の一つにはなっているはずです。いや、そもそも私にはよい作品を書く才能が欠けています。そういう人間もいるのです。大勢おられます。
第Ⅱ部 後半部分を占めるおしゃべり
よって、私の作品は他人から見て到底、感心できるシロモノではないが、僕にとっては集大成的作品群である。僕はもう人生でやり残したことはないと言っても過言ではないのだ。ネタが尽きているのだ。尽きていると言うことは文学を書く必要もないのである。むなしいですが、仕方のないことかも知れません。僕の文学のネタは有限であり、決して無限ではないのです。はじめはずっと書いて行ける、自分の作品はもっともっと続いてゆくだろうと思っていました。ところが、現実はそう甘くないんですね。(それでも、こうやってそのことを報告する作品を一つこしらえていることは確かではあるのですが)。
私は四十歳手前にして、なろうを終えようとしています。もちろん、個人的に作品は残したいという希望はありますが、さて、ネット小説というものがどこまで私の作品を残してくださるか、この『小説家になろう』というサイトが消滅しないように祈るか何かするだけでしょう。プロの文学者はなぜあれだけたくさん書けるのでしょうか。それはたぶん相当な鍛錬をしたでしょうし、志の度合いも違うでしょうし、考える時間もたっぷりとあるからかも知れませんが、私は死ぬことは絶対に致しません。文章が書けなくなることが、人生のピリオドになることはありません。もっとゆっくり時間を掛けて、また何か書く可能性もないことはないですし、文章を書くことだけが文学活動ではないという考えももっています。
まぁ、とりあえずこの作品を締めたいと思います。この度、初めてこの作品を読んで下さった方、ビックリさせてしまい、すみません。そして、二度目、三度目、それ以上読んで下さっている方々、いつもありがとうございます。夜雨は今日も希望にあふれて生きております。また、必ず何か書いてみせますので、そのときはまたよろしくお願いします。それでは。