ドービニーの庭(1)
「好きだよ。ユキ」
そっと囁くように。君に一番届けたかった言葉を。
「君の全てが好き」
肌から伝わる君の熱も、愛くるしい小さな君の手も、妖美に輝く君の瞳も、全てが。
「大好き」
悪い夢を見た今日は、いつもより君を強く抱きしめて、君の命を味わった。
温もりが幸せで。君がそばにいるだけで幸せで。君に恋をしている時間が幸せだった。
きっと。
きっと君で全てが満たされている自分のことも少しだけ好きでいられた。
だから今日も溢れんばかりの感謝と愛を注いだ。
それが俺のできる全てだった。
それでも君はナアナアと鳴くばかりで。
そんな君が愛おしかった。
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みのるの朝は顔をくすぶられるような感触から始まる。
頬に当たる柔らかい毛並み。パジャマ越しにまで伝わる儚い熱。
小さな鈴の音に導かれて、瞼をあげると視界を覆い尽くす大きな猫の顔があった。
俺を起こした正体。猫のユキだ。
おはよう、と一声かけ、お望み通りひとしきり撫で終えてから布団を出る。
ユキはみのるの猫だ。紫の上のように小さい頃から沢山の愛を注いで育てたのだから、その表現に間違いはないだろう。故に白猫でなくてもユキと名付けてもなんら問題はない。
ユキは黒の縞が入った灰色の猫。ごくごく一般サイズのごくごく普通の猫。ただし22歳の引きこもり、紅野みのるにとってかけがえのない存在であった。
「ニャアー」
と、湯を沸かすみのるにユキはすり寄ってきた。ユキがお腹をすかせている証拠だ。
ユキがお腹を空かせているということは、つまるところ俺も腹を空かせているということで、特に迷う事なく朝ごはんの準備をする。
本当は伊勢海老だろうが鯛だろうが黒毛和牛だろうがなんだって君に捧げたいが、ユキは粗食が好きだから、今日もありふれたカリカリを用意。俺も合わせて茶碗半分の白飯とインスタントの味噌汁を用意して、ちゃぶ台に置いた。
ついでにテレビをつける。くだらない政治の話や面白くないバラエティ番組をユキはいつも神妙な顔つきで見るから。あとユキは古びたインクのにおいが好きだから、新聞を居間に持ってくるのも忘れたりしない。
朝すべきことは大抵ユキを眺めていれば自ずと決まってくる。
当たり前の日常を作り出しているのは全部ユキだった。
「美味しいか?」
気まぐれに少し尋ねる。
「美味しいよ」
とは返ってこない。
いくら人間の日常を作り出せるといえども、ユキは猫であった。
テレビだって最近のトレンドとか、政治の難しいこととか、ましてや星占いだってきっとちっとも分かっちゃいない。ただ目を爛々と光らせて、たまに出てくる同類をじっと見つめて、それだけ。
「楽しいか?」
とたまに尋ねても
「ニャア」
と一声返ってくるだけ。
そもそもユキには言葉を求めてないのだからそれでいい。
しばらくしてテレビに飽きるとユキは首を差し出してくる。
お望み通り撫でてあげると、ゴロゴロ唸りながら目を細めて、笑う。
ユキは体で幸せを伝える。それがいい。どんな一言よりもみのるの心を満たしてくれる。故にその時ばかりは俺も微笑む。
そのままユキがうっとりしながらみのるの中でうずくまっていって、ユキが幸せそうな顔を見て、俺も安堵して。
ユキの熱を感じながら、体の重みを感じながら、ゆっくりと眠りに落ちる。
テレビつけっぱなし、茶碗置きっ放し。
意味不明な政治家の罵声が飛び交う古びた家の一室にて、一匹と一人は静かになっていく。午前9時。
多分そんな瞬間に生の喜びを噛み締めている。
そしてこの喜びは今日のものであり、昨日のものであり、明日のものであった。
穏やかで何もないその朝。その日常。
あえてそれを記したのは何故だっただろうか。
それはきっと、寒気を感じた午前10時。ユキが腕の中からいなくなっていたことが発端だっただろう。