第一話 隔離
先日、親に連れられ、病院へ行った。
17歳にもなって親に同伴される気分はあまり良いものではなかったが、母の不審な挙動を見るに俺はもうこの家に居られないのかもしれないな、と直感し、遠ざかる豪邸をタクシーの後部座席から見ていた。
待ち受けにある椅子で聞いたのは、母のヒステリックな声だった。
どうやら話によると、俺を精神病棟へ容れたいらしい。
「この子、話しかけても無視をするのです。これまで、このようなことは無かったのです。多分頭がどうにかなってるんじゃないかと思いまして……」
まさか、無視をするだけで精神科へ連れていかれるとは。
やはりこちらにも非があったかもしれない。なにしろ、俺は人生で初めて親を無視したのだ。
俺の母はなんというか、中世の貴族のような価値観をお持ちで、何事にも完璧を求める性質だった。
口を開けば「完璧であれ」。
それは当然、息子である俺にも容赦なく向けられた。
物心つく前から完璧を求められたワケで。俺はそのことについて疑問すら持ってはいなかった。
母の言う事には何一つ逆らったことがなかったし、褒められることもなかったが、文句を言われることもなかった。
母の言う事をこなしていれば、自分は母の言う「完璧である」人間だと思い込むことができた。
それに疑問を持ったのは昨日の事だった。
保険体育の教科書に綴られた、ヒトの精神的な成長過程に興味を惹かれた。
「思春期」。
思春期というのはなんとなく理解できる。
身体や心が成長し、性欲が芽生え、世間に対して幾らか客観的になる。
それは解る。朝起きると俺の身体の一部が激しく主張していた、今の俺の状態の事だろう。
いやしかし、「反抗期」とはどういうことなのか。
どうやら全ての人間は反抗期を通して精神的に成長するらしい。
信じられない。なぜ親や教師に反抗するのだろうか?メリットが感じられない。
そういった感情は個人に依るのではないか?とも考えたが、やはり国が発行する教科書に曖昧な記述をするはずが無いし、反抗期は“有るもの”として載っている。
……つまり、親に反抗をしなかった俺は、人間として、ヒトとして、「完璧でない」。
父はあまり話す人ではなかったが、妹と違って俺を育てることに苦労は無かったといっていた。生まれてすぐ、雇った乳母の世話になっていたらしい。
もしかしたら俺は、2歳で発現する「イヤイヤ期」も無かったのではないか。
ひどい焦燥感に駆られた。
――自分は、クラスの馬鹿どもよりも人間として劣っていたのか――。
そうして俺は、その日のうちに疑似的な反抗期を始めた。
親に暴言を吐くなんていくらなんでも突然すぎるので、まず初めに無視をしようと考えた。
無視くらいであれば、問い詰められても「聞こえなかった」と言えば済むし、反抗期の第一歩としては十分だろう。
さあ、思春期メソッド・反抗期編だ。まともな人間になるぞ!
……と覚悟を新たにしたが矢先、あれよあれよと車に乗せられ、精神科医の診断を受けているこの状況。
どうしてこうなった?
母は忙しい人間なので、俺を診断室へ連れて行ったあと、どこかへ行ってしまった。
恐らく家に帰ったのだろう。俺も待合室で息子を待つ母なんて想像できない。完璧じゃない。
俺は母の目を気にすることも無くなったので、精神科医の先生にこれまでの事を話した。
自分には反抗期が訪れなかったので、完璧な人間ではない。反抗期を創る為に親を無視しただけであって、精神を病んでいる訳ではない。と。
眼鏡を掛けた中肉中背の先生は眼を細めて、笑顔でうんうんと頷いた。
親身に話を聞いてもらえる先生で良かった。これならすぐにでも家に帰してくれそうだ。
「では、雅人くんは、これから何がしたい?」
俺の話を一通り聞いた後、先生はそう訊き返した。
「そうですね。無視を貫いて、暴言を吐いて、最終的に……暴力ですかね?」
「うん、なるほど。わかった。少し君の母さんと電話してくるから、待ってなさい」
「はい!」
20分ほど経っただろうか。診察室の扉が開いた。
先程の先生が、車で俺の家まで送ってくれるそうだ。申し訳ない。
少し疲れたので、車内でうとうとしてしまった。
反抗とは、疲れるものなんだな……。
やはり、理解できない……。
―
――
ガタンと車が揺れブレーキ音がして、俺はハッとして目覚めた。
「ほら、着いたよ、雅人くん」
「あ、ああ。申し訳ないです。どうやら寝てしまって、いた……みた、いで……」
車を降りた途端、何か違和感を感じた。
その違和感は考える間もなく、確信に変わる。
いつものコンクリートの駐車場ではない。
俺が踏んでいるのは、土だ。湿った土だ。今にもミミズが這い出してきそうだ。
ぴちゃ。俺の髪に水滴が染み込んだ。
恐る恐る上を見上げると、木漏れ日と共に朝露が葉の間を抜けて顔に落ちてきた。
水滴に濡れた顔を拭くついでに、目蓋もごしごしと腕で擦る。
どうか、車の中で見た、夢の続きでありますように。
うっすらと眼を開ける。
そうして目の前に広がるのは、森林と、その真ん中に悠然と佇む、白い巨塔だ。
緑一色のキャンバスの真ん中に、白い絵の具をポタと一滴垂らしたような。
どこか神秘的で、――それにしてはあまりに人工的だ。
まったく現実感が感じられない。
「なんですあれ」
「隔離病棟だよ。精神病の人をここで療養させるワケだ」
「ワケだ。じゃないですよ。家に帰してもらえるんじゃ……」
「ええ?誰がそんなこと言ったの……?君はしばらく此処で暮らしてもらうよ」
「なぜです。俺は何も、変なことは言っていなかった筈ですが……?」
「くぅ~!そこに気づけないから此処に入れられちゃうんだよねぇ、ハハハ」
どこでどう間違ったのか。
先生は有無を言わせず、ニコニコと俺の手を引っ張り白い病棟へ連れて行った。
この様子では親にも連絡が行っているのだろう。
それではどうしようもない。俺はまだ、親に文句を言えるほど反抗期を進めていない。
正直、少し怖い。
俺は精神病ではないが、この棟に住む住人は精神をどこかおかしくしているのだろう。
俺はそんな人たちと生活できるのか。
「ここが君の部屋だよ。長い間使っていなかったけれど、掃除されている筈だよ」
二階に俺の部屋はあるようだ。ここまで歩いたが、この病棟はとても綺麗だった。
よく掃除されていて、廊下や階段の手すりにはチリ一つない。
白い壁が続くのは仕様がないが、窓から見る外の世界が空の青と森の緑なので、飽きることは無かった。
所々に誰が置いたのか、花瓶に美しい花が刺してあったので、女性の患者でも居るのだろうか。
先生がドアノブを回して押すと、明るいブラウンの扉が開いた。
「きゃ、先生!」
「おや、まだ掃除中だったようだね。ちょっと下で時間潰そうか?」
「いえ、ちょうどお掃除が終わったところですから、問題ありません。……それで、その、男の人が」
綺麗だ。
この病棟も廊下にあった花も綺麗だったが、この少女はそれを一段飛ばして綺麗だ。
顔立ちが整っているのもある。白いワンピースが身体のラインを際立たせているのもある。
肩にかかるくらいのさらさらとしたストレート……ショートボブというのだったか――の茶髪で、日本人であればなんら珍しくもなんともないのだが、彼女の恥ずかしそうな表情と相まっていっそう儚げな雰囲気を醸し出している。
そうだ。
この女の子は、一言でいうなら。
俺の求めていた、“完璧”だ。
「東久寺雅人くん。今日から此処に越してくる雅人くんだよ」
「マサト、くん。マサトくん。マサトくん!」
そう女の子は俺の名を連呼すると、
近い、俺に近づいて、
顔が近い、俺の手を両手で包み込むように、
唇があかくて、つかんで、息があたって、ぶんぶんと腕を振って――。
「私の名前はマチ!これからよろしくね!」
「よ、よよよろしく」
参った。両手は拘束されているが降参の万歳をしたいくらいだ。
俺は反抗期ではないが、思春期なのだ。
もしかして、このどきどきは、俺の精神病が影響しているのだろうか。
……治せる気がしないぞ。