第四十九話 大好き・警察
「調子はどうだい?」
昨日から再び熱を出して寝込んでしまった真希菜に穂澄は付きっきりで看病をしていた。最近は睡眠もろくにとっておらず、眼の下には大きな隈も出来てしまっている。正直言って今の状態は、誰が見ても悪循環だった。
「うん、だいぶ良くなってきたよ」
少し汗ばんでいる真希菜のおでこを優しく撫でてやると、少しの間だけ微笑んで、手を握ってきた。
ただ、熱があるはずのその手は、ひんやりとして冷たかった。穂澄の顔が不安に歪む。
「大丈夫か? 真希菜。寒くないか」
「うん、兄様がいてくれるから平気だよ」
灯真からもらっている薬も少しずつではあるが、効いてきている。前の様に穂澄に抱きついたり、庭を駆け回ったりは出来ないが、手を貸せば起き上がれるし、食事も前よりは喉を通るようになってきていた。
「穂澄、ちょっと……」
後ろから声を掛けられて振り向くと、障子を少しあけて覗き込んでいる凛の姿があった。
「ちょっと、出てくるね。真希菜」
真希菜は小さく頷いた事を確認すると、握っていた手を優しく布団の中にしまって、障子の外に出る。
凛は相変らず、ぴっしりとしたレディーススーツを着て、髪を後ろに結んでいた。表情は前とは違い。今は少し余裕が出てきた様だ。
「仕事は良いの? 姉さん」
凛は、大手企業の出世頭だ。だからこそ、穂澄の借金を工面する為に大金も用意できたのだが、出世頭で期待が大きい分、仕事の量も他の人よりは多い。
「切り上げてきたから大丈夫よ。それより、本当に良いの?」
「……何が?」
凛が言いたい事はわかっていたが、それでも肯定する事は無く。話をはぐらかす。
そんな穂澄に凛は眉を顰めるが、小さく溜息を吐くと、言葉を続ける。
「……真希菜は良くなってきてる。決して軽い病気ではないけど、薬による症状の遅延は見えれているわ。まだまだお金は必要だけど、私も稼いでるし、癪だけどあの人に工面を頼む事も出来るわ。最近繁盛しているみたいだし……」
親指の爪を軽く噛む凛。
あの人とは、架捺の事だろう。下校の時以来会っていないが、灯真が時々、繁盛していると、報告をしてくれているので、状況はわかっている。
凛は、架捺が穂澄に借金を押し付けてからと言うもの、凛が架捺の事を父と言う事は無くなった。それは、穂澄の事を思っているためであり、自分が穂澄を助けられなかった事を悔やんでの事であろう。
「どういうこと?」
「だから、櫻坂の所に戻っても良いのよ? 私も、有給が余ってるし、それでも足りなければ、あの人にも頼むし……」
「姉さんは、櫻坂が嫌いじゃなかった?」
穂澄は相変らず、無表情である。
「……確かに、嫌いよ? 今でも大嫌い。それもで、穂澄の悲しい顔を見ている方が――そんな穂澄の顔を見て、知らない顔をしている自分の方が大嫌いよ」
凛は穂澄の胸倉を掴む。
「何で、執事服を着ているの? 穂澄が着ていた私服は私が渡したはずよね? 何着もある服から何で毎日朝着て、夜洗ってを繰り返してるの?」
「……それは?」
真っ直ぐ穂澄を見つめる凛に対して、穂澄は思わず目を逸らしてしまう。
「目を逸らさないで、今の穂澄。私は嫌いよ。そんなんじゃ、真希菜を看病させるわけにはいかない」
凛は乱暴に穂澄の胸倉から手を離すと、突き飛ばす。
もちろん、そんな事は予想をしていない穂澄は、大きくバランスを崩す。
「ね、姉さん!?」
「自分で考えて動きなさい。たまには、自己中心的に動いて、そして、決めなさい」
凛は、穂澄の目を見ること無く。そのまま障子を閉じてしまった……
「そんなこと言ってもね、私としても余裕はないのですよ」
「しかし……竣夜君。これは……」
「言わなくてもわかっています。ただ、私は誠意を見せて欲しいだけです。私を選ぶか? 成松を選ぶか?」
革の椅子にどっかりと座っている竣夜。その顔はいつもと違い厳しい。
「そ、それは――」
竣夜と向き合っているのは一見気の強そうな髭を蓄えている男。ただ、今は汗を額に滲ませ、弱っているように見える。
「……あなたには、二択しかありません。私をとって、時間を稼ぐか? 成松をとって、終わらせるか?」
竣夜は、そう言うと座っていた椅子から立ち上がり、上から見下すように、もう一度言う。
「忘れないでおいてください。私はもう覚悟は決まっています。ゆらぐ事はないので、悪しからず」
そう言うと、竣夜は二人しかいなかった部屋を後にした。
「灯真の動向は?」
「無シデス。マッタク、動キマセン」
ネクタイを素早く外して投げつける様にドナルドへ放ると、竣夜はうつ伏せの状態で倒れこむ様に椅子にもたれ掛かる。疲労が溜まっているのだろう。頭をボリボリと掻いて、いつもの余裕と品のある仕草は微塵も感じられない。
――あいつが気付いてないわけないし、俺が仕上げに入るのを待っているのか、それとも成功しない自身があるのか? ……だめだ、眠い。頭が回らん。栞と尊に何か励まされたい……それで俺は24時間働ける……
のっそりと身体を起こして、デスクの上に置いてあるリストの一つに斜線を引く。
「これで、下準備は終わったな。あとはどうなるかは運次第だ――あ~、俺だけど、栞と尊いる?」
デスクの電話で誰かに連絡を取る。
『はい、応接室で待たせていただいております』
「んじゃ、連れて来て。それで俺を癒してくれ……」
『? わかりました。とり合えず行きます』
電話を切ってすぐ後、三人の少女が入ってきた。
入ってきたのは、栞、尊。そして水穂である。
「……死ね」
「いきなり酷くない!?」
入ってきて第一声が、竣夜の心に突き刺さり涙目になってしまう竣夜。実際目を向けるとそこには敵意むき出しの栞と困惑している尊と水穂がいた。
「……何したの? 穂澄はどうしたの?」
「いや、多分あと少しで終わるから……いろいろ」
「いろいろって何なの? 竣夜兄様……なんで私たちに何も話してくれないの?」
竣夜とは違った意味で涙目になっている尊は、竣夜を問い詰めようとするが、竣夜は溜息を付くだけで何も言わない。言ってくれない。
「俺は、栞も尊も大好きだ」
「……きもい」
「…………いや、そこはちゃんと聞いてくれると嬉しいんだけどな?」
栞の一言で話の腰が折れるが、構わず話を続ける竣夜。
「大好きだから、何でも出来る。俺はね」
「だから! それは、どう言う――」
「――失礼シマス竣夜様」
三人が入ってきたときに入れ替わりに出て行ったドナルドが話を遮り入ってきた。額には汗が滲み、息も切れている。それだけで、何か重大な事が起きたことがわかった。
「何?」
しかし、竣夜に慌てた様子はない。
「『相手』側ノ社長全員ガ、辞職シマシタ」
「……」
しかし、竣夜は何も言わない。
「ソレト、下ニ警察ガ来テマス」
「……警察?」
栞が、明らかにわかる様に、大きく眉を顰める。尊も水穂も同様だ。何が起きているかわからなかった。
ただ、整然としている竣夜の姿を見て、明らかに自体を把握しているのは竣夜だという事は誰もがわかった。
「何をしたの? 竣夜兄様」
訝しげな顔を向ける尊。ただ、竣夜は笑っているだけ……
「さーね? んじゃ、ばいばい」
「え?」
竣夜は背広を脱ぐと、部屋を後にしようとする。
「……ちょっと待て!」
栞が竣夜の手を掴もうとするが、竣夜はそれを難無くかわし、栞の手は宙を切る。
その栞を竣夜は一瞥するが、すぐにドアに手を掛けて出て行く。
「……ちょっと…………待ちなさいよ!」
だが、ドアは開かれる事はない。
竣夜は、そのまま出て行った…………