アウイラ2
数年振りに子爵家に足を踏み入れたのは夜も遅く、もう間もなく明け方にもなろうかという時分。にも拘わらず妹二人は寝ずに帰りを迎えてくれた。
酷い姉に違いないのに「お姉さま!」と声をあげて駆け寄り泣き笑いを見せてくれる上の妹にもう一人が続く。遅れて弟が眠い目をこすりながら侍女に手を引かれて階段を下りて来たかと思うと、わたしを見るなり目を見開いて立ち止った。
侍女に姉が戻ったら起こして欲しいとでも頼んでおいたのか。思わぬ歓迎に頑張って微笑むと、弟は「姉上様ですか?」と首を捻った。弟が四つの時に城に女官として上がってから会っていない。今は十歳になった弟に懐かしい面影を見るが、彼はわたしをおぼろげにしか覚えていないのだろう。
拒絶されなくても嫌な顔はされるだろうと思っていたのに。わたしは順番に妹弟を抱きしめ、これまでの謝罪を述べる。最後に弟から「母上様は気にしないで下さいね」との気遣いの言葉をもらい、あぁ母は役目だとしてもふしだらな娘を許しはしないのだなと知った。
けれど母の許しが欲しい訳ではない。実際にジェードと夫婦になったのはわたし自身の意志であったし、これからも夫婦のつもりでいる。
それをふしだらだと言われるなら言葉を受け入れるだけだ。いや違う、わたし自身は母のような態度を取られた方がきっと心が軽いに違いない。わたしはこれからも受け入れてくれる家族に嫌な思いをさせるのだろうから、嫌われる事で心を軽くしたいのだ。
今までどうして暮していたのかとか、誰も問わなかった経緯を妹二人が興味深そうに聞いて来る。
そう言えばこれまで誰からも細かな事情を聞かれなかったのを思い出し、もしかしたら国への報告はジェードが済ませていたのではないかと思い至る。
もしそうならジェードは無事でいてくれるという事だ。連絡が取れなくても何処かで無事に生きてくれている。そう思うとじんわりと安堵が滲んだ。
私達が知ってよい事ではないのだと父が妹らに諭し、わたしは一般市民に紛れて生活をしていたけれど何も危険な事はなかったと大まかに話して聞かせた。
ベリルの事は実の息子のようだと、これからもベリルに仕えたいのだと意見を口に乗せると父の表情が曇る。やはり側に寄り添う事は叶わないのだろうか。
ベリルを育てたのはわたしだ。まだ幼いベリルには母親……母親的な存在が必要な筈だ。これまでの生活が一転したベリルの心の支えにと、何とかしてこの声を城に届けて欲しかった。
夜が明けた頃、疲れただろうとわたしは部屋に戻される。出て行った時の状態で保たれた私の部屋は懐かしくもあり、そしてなんだか違和感も感じた。
わたしの眠る場所はここではない。ジェードとベリル、二人がいない今後をどうやって生きて行けばいいのか。不安に涙が零れたが体は疲れていたのだろう。わたしは何時の間にか深い眠りについていた。
昼過ぎに起床し簡単な食事をとってから母の部屋を訪れる。厳しい表情の母は開口一番、「自分が何をしたのか分かっているの」と叱咤した。
母の問いは子爵令嬢としてのわたしに、己の立場を弁えているのかと問うているのだ。
王家に仕える女官としてではなく、貴族の娘が取るべき行動だったのかと、重すぎる責務を相談もなくどうして受け入れたのか、それに対する責任を持てるのかと問われる。
最初に話を貰った状態で断る選択肢は与えられなかった。けれどそれでも震えて使い物にならなければ不要と判断されたに違いない。その場合は他の誰かが選ばれ最悪ジェード一人がベリルを連れて逃げる事になったのだろう。そしてわたしは秘密を知る者として処分されるか、良くて幽閉であったのではないだろうか。もしかしたらコール伯爵に都合の良い貴族へと嫁がされたかもしれない。
でもあの時はそんな事を考えている時間なんてなかった。着の身着のままベリルを抱いてジェードの後を追うのが精一杯で、それがわたしの全てだったのだ。だけど何一つ後悔していない。それだけははっきりと言えた。
自分が何をしたのか全て分かっていると頷いた。すると母は頭痛を覚えたかに頭を押さえて盛大な溜息を落とす。
「分かってなどいない。あなたは自分の人生を棒に振ったのよ」
城になど上げなければよかったと嘆く母の姿に、長い時間をそうやって過ごして来た影を垣間見る。
「あなたに与えられる道は一つだけ。本当なら修道院に閉じ込めておきたい所だけど、コール伯家よりエヴァル伯爵との縁談を頂いていているの」
「いいえ、わたしは――」
「断る選択肢などありません」
嫁げる身ではないとの言葉をぴしゃりと跳ねのけられる。母にはわたしが紡ぐ言葉の先が分かっていたし、わたしも口ごたえが許されないことを承知していた。それでも今ここで訴えなければ全てが母の言いなりに動いてしまう。そんな気持ちで母を睨めば、母は難しい顔を緩め柔和な微笑みを覗かせた。
「偽りでも何処の馬の骨とも知れない男と何年も過ごしたのは事実。そんなあなたに伯爵家の正式な妻だなんて、願っても絶対に有り得ない良縁よ」
微笑んだ母はエヴァル伯爵がどれ程有り難い御方であるかを説明しだした。
歳はわたしよりも十歳年上の三十二歳で、最初の奥様を結婚間もなく病で亡くされている。
コール伯爵家とは何代も前から良好な関係を保ち、広大な領地と財産に恵まれ多くのご令嬢がエヴァル伯爵の後妻として名乗りを上げているらしいが、病で亡くされた奥様を愛しておいでで、これまで再婚はなさらずにおられたらしい。
けれど伯爵家の当主として後継ぎを残すのは重要な役目の一つだ。伯爵家当主としていずれは後妻をしかるべき貴族のご令嬢から選ばなければならない立場は、ジェードへの思いを抱くわたしにも苦しい決断なのだろうと予想が付いた。
コール伯爵の頼みで仕方なくわたしを迎え入れるのを決めたのだろうか。傷物で他に貰い手のないわたしになら愛を与える必要も気遣いもいらないと考えたのかもしれない。
受け入れる代わりに後継ぎを産む契約のようなもの。もしかしたら世継ぎの王子となるかもしれないベリルとの繋がりを求める野心からだろうか。わたしを使ってベリルに近付く。それはわたしにとっても利益に繋がるのではと考えて慌てて否定した。
いつか必ずジェードと一緒にベリルを抱きしめる、それがわたしの望みだと、その日までは何があっても全力で進むのだと決意して、目の前の母をしっかりと見据えた。
「陛下より与えられた恩賞の権利は何一つ求めません。その代わり不肖な娘と勘当なさってください」
「お前は何を言い出すのっ!」
音を立て椅子から立ち上がる母の顔は怒りに燃えていた。
「親が簡単に子を捨てられるものですかっ。お前が殿下を想うように、わたしとてお前を想っているの。お前を犠牲に恩賞など貰いたくはなかったけれど、うちには他に三人も子がいるのよ。ハヴェス家を立て直すのに必要な物をちらつかされて拒否できると思っていて? お前のせいで嫁ぎ先がないと嘆いていた妹達に子爵家にはあり得ない程の良縁が幾つも寄せられて、あの子たちがどれ程喜んでいるか。お前を女官として城に上げてしまったのをわたしがどれ程後悔しているか。お前は後ろ指を指されない為にもエヴァル伯爵に嫁ぐのです!」
一気にまくし立てた母はふらりと後ろに倒れ椅子に沈み込むと、顔を手で覆って泣き出してしまった。
貴族の娘として母の言い分も理解できる。ただそれだけに固執しているのではなくわたしを想ってくれていたのだとも今の言葉から理解できたし、妹達の笑顔の下にあったわたしへの感情も知る由となった。
それを良縁一つで許してくれるのだ、とんでもない事をしでかしたわたしには勿体ない。
わたし達を迎えに来たカイエラという近衛騎士によると、子爵家は多大な恩恵を受けるらしいから、家族にはそれを最大限に生かし、わたしのせいで地に落ちた信用や無くした居場所を取り戻してくれたならと願う。
わたしは顔を伏せ咽び泣く母に歩み寄る事はせず、その場で首を垂れる。母への裏切りを謝罪し、やるべき事を最優先させるべく部屋に戻ってマリアベル様に手紙をしたためた。
エヴァル伯爵が乗り気なら格下である子爵家側からこの縁談を破談に持ち込むのは不可能だ。目上の方の力を借りるにしてもコール伯爵では駄目だろう。わたしを手の内に置いておきたくてコール伯と親交のあるエヴァル伯を選んだに違いないのだから。
そうとなれば頼れるお方は一人だけ。マリアベル様にわたしのジェードに対する思いを知って頂き、コール伯爵に縁談の白紙を申し出て頂くしか道はない。手紙にはあえてベリルの事は書かずにおいた。
本来なら執事を通して城に運ばせるのが筋だったが、現状を考えると手紙が無事に届くとは到底思えなかった。
わたしはクローゼットを開いてなるべく目立たないドレスを選ぶと幾つかの飾りを外し、人目を忍んで屋敷を抜け出した。
子爵家の令嬢として育ったけれど、ジェードと城を出てからは身分も何もないただの庶民として生活して来た。都を出る時は全てジェードに従うしかなかった頼りないわたしも、今では一人で外に出て乗合馬車を探すことだってできたし、長い時間を歩くのだって平気でやってのけられる。
許可のないわたしでは城門を潜る事は出来ないので、唯一伝手となりそうな騎士棟に続く門へと向かった。
やっと辿り着いた時には辺りは薄暗く、わたしのような女が一人で外を出歩くには危険な時間になっていたが、そんな事は気にしていられなかった。
当然騎士棟への門も潜らせてはもらえない。身分を悟られたくないわたしは家名を伏せ、わたしを見知る近衛騎士らの名前を思い浮かべてその中の誰でも良いからと面会をと申し出た。
近衛は王族の警護で忙しい。特に名を上げた彼らとは簡単に目通りできないから明日改めてと断られるが、無理を言って門の側で待たせて貰った。
このまま帰れば明日は屋敷を出してはもらえないだろう。門番に手紙を預けて人目に触れるのも怖かったし、何より名をあげた近衛はわたしとベリルを迎えに来た騎士だ。連れ戻しに来た彼らに対してわたしは良い印象を与えていない。きちんと詫びて頭を下げなければマリアベル様への手紙を届けてくれないかもしれない。そうなれば八方塞だ。わたしは不安にかられながら夜空の星を眺め待ち続けた。
夜も更けた頃に声をかけられ振り返ると、壮年の騎士が呆れたように目を丸くしてわたしを見下ろしていた。
カイエラ=グスタと名乗った近衛騎士副団長だ。
確かに彼の名前も出したけれど、副団長の肩書を持つ彼が足を運んでくるとは思っていなかったので驚かされる。それでも直ぐに身を正して先日の非礼を詫びると、彼が溜息を落とした。
「昨夜城を出た筈の貴方が何故このような場所に?」
呆れた物言いだけれど、ケランで出会った時のような嫌な印象が全くない彼の姿に意を突かれる。あの時は任務についていたせいで厳しく厭味だったのだろうか。
「マリアベル様に渡して頂きたいのです」
そう言って手紙を差し出すと「中を改めさせて頂いても?」と返され、勿論と頷いた。
王の側室であるマリアベル様への手紙を託される側としては当然の事だ。特に親しくもないわたしから手紙を託されるのであれば、その内容が自分を貶めるものでないかを確認する。そう見越して始めから封をしていなかった手紙をカイエラ殿がさらりと目を通してから封筒に戻した。
「エヴァル伯爵家との縁はハヴェス子爵家にとっても良縁でしょうに」
「貴方も事情は御存じなのですね。やはりわたしは駒にされるのですか」
ハヴェス子爵家にとっても。それはエヴァル伯爵家にとっても有意義な縁となるのだといわれたも同然。傷物で格下のわたしを受け入れるのはやはりそう言う事なのだと溜息が漏れた。
「あなたとてご理解しているのでしょう」
「ええ、貴族の娘として逆らってはいけないと十分に理解しております」
「しかし抗おうとしている。険しいですよ?」
「覚悟しておりますわ」
「そうですか」
ふっと笑ってカイエラ殿は手にした手紙を懐にしまいこんだ。
「貴方の様な女性は嫌いではありません。分かりました、お受けいたしましょう。しかし私から直接手渡しは叶いませんので信頼できる女官に託し、必ず手元に届くようにさせて頂きます」
「感謝いたします」
しぶしぶ了解はしても快諾してもらえるとは思っていなかっただけに、驚いたわたしは頭を深く下げ心から感謝した。
結果がどう出るか分からないが希望はこの手紙だけ。マリアベル様が動いて下さるかどうか、動いて下さったとしても輿入れの方が早ければどうにもならない。
それでも見えた希望と意外にも好意的に振る舞ってくれたカイエラ殿にベリルの様子を聞いてみたが、彼は今日のベリルを垣間見てすらいないらしくわたしは肩を落とした。
「そうですか。あの……それともう一つ。やはりジェードの事は、お訊ねしてもお聞かせいただけないのでしょうか?」
忘れる方が貴方の為だと口にした彼にもう一度聞いてみると、あの日の彼とは打って変わって困ったように視線を逸らした。
「申し訳ないが詳しくは話せません。しかし私はあの日、貴方に勘違いさせる物言いをしてしまったのでお詫びしなければなりませんね。彼は新たな任務に就いている、とだけ申し上げておきましょう」
本当に!?
ざわりと全身が泡立ち頭がふらつく。驚きと喜びで声も出せず両手で口を覆って倒れないよう地面をしっかりと踏みしめるが感覚がなかった。
良かった、本当によかったと息が詰まりそうになる程に安堵で胸が締め付けられる。万一を考えなかった訳ではないので、頭が真っ白になりその場にしゃがみ込んでしまった。
慌てたカイエラ殿が支えてくれるが言葉が出ない。心配する彼に大丈夫だと首を振るしかできず、これまでの緊張が一気に緩んだわたしはその場で長いこと安堵の涙を流し、なかなか止める事が出来なかった。