アウイラ1
ベリルは不安そうにしながらも何故こうなったのか一言さえ聞いて来なかった。ただ時折「お父さんはどうしたの?」と、心配そうに答えを求めない不安を呟く。
貴族の令息が身に纏う、過去に一度も袖を通した事のない上等な衣服に身を包んだベリルは、その辺りを走りまわっているような子供ではなく、何処からどう見ても王子様だった。
わたしも庶民の衣服から、手触りの良い子爵令嬢に相応しいドレスに着替えさせられた。身なりだけ言えば今も親子として見えただろうが、わたし達を王都に運ぶ騎士や侍女たちはベリルをエジワルド殿下と呼び、既に親子の縁を切らされたのだと身に染みて感じた。
ジェードの行方は誰に質問しても教えてはもらえなかった。
父母としてベリルの側にいたわたし達の存在は微妙なものだろう。王やマリアベル様との関係に溝を作りかねない危うい存在は引き離されて当然なのだ。
もしかしたらとの負の感情を押しやり蓋をした。恐ろしい不安に苛まれる毎日だったので、ジェードの生を信じていなければ恐怖で気が狂いかねなかった。
一生引き離されたままでも構わない、ちゃんと生きていてくれればと願いながら、毎夜ベリルを抱き寄せ眠りに就く。
そうして明日にも王都入りという晩に、二人きりになってからベリルに最初からの全てを話して聞かせた。
実の親子ではない、お腹を痛めたのはわたしではないと言葉にするのはとても辛く悲しい。けれどそれを実の母と信じたわたしの口から聞かされるベリルの方がずっとずっと心に傷を負うに違いなく。
血の繋がりのある王とマリアベル様が愛を持ってベリルをわたしとジェードに預けたのだと、それがどれ程辛い決断だったのかを、ベリルがお二人を恨まぬように、もし恨むのならその怒りをわたしへ向けるように時間をかけ話して聞かせる。
「本当は知ってたよ。でも王子だなんて思わなかった」
子供なのに落ち着き過ぎた口調。こうなるのにどれ程の葛藤があったのか、小さな体を抱き寄せ頬を寄せた。
「僕は受け入れるよ。だってそうしないとお父さんとお母さんを失う事になるかもしれないって、ネイトおじさんが教えてくれたんだ。だから僕はこれから会う父上と母上に失礼な事は言わない」
「ベリルあなた……」
「エジワルドなんて名前、変だよ。僕はベリルだ。お父さんとお母さんの子でいてもいいでしょう?」
顔を上げたベリルは水色の瞳いっぱいに涙を湛えてわたしを見上げる。愛おしくて可愛くて、そうして失いたくなくて。
あの日この愛しい天使を手放さなければならなかったマリアベル様を思いながらも、ベリルはこれからもずっと永遠にわたしとジェードの大事な子供だと伝え、その柔かな頬にジェードの分もキスを押し付けた。
そして翌日、王城に入ったわたしとベリルは引き離される不安に終始手を繋いで行動した。
そんなわたし達の不安を余所に無理に引き離される事はなく、到着早々にマリアベル様のもとを訪問する許しを得る。
再会したマリアベル様はお窶れになり、別れた当初の美貌を損なっておられた。
美しかった髪に艶はなく肌もかさついて土気色だ。顔や覗く手にあばたが見られ毒にやられたのだと気付かされる。
長椅子に腰を下ろすマリアベル様の側にはお父君のコール伯爵が、マリアベル様を守る様に寄り添っていた。
これまでの働きに労いを述べられる伯爵の隣で、今にも涙を零しそうなマリアベル様がベリルを凝視している。
「母君様よ」
聞いた面差しとは程遠い姿のマリアベル様を前に硬直するベリルと同じ目線になるように屈んで、安心させるように微笑みそっと背中を押す。ベリルが一歩踏み出すとマリアベル様が腕を一杯に伸ばして倒れ込むように駆け寄るとベリルを抱き寄せた。
「よくぞ無事で。ああ愛しいエジワルド、わたくしが貴方の母ですよ。本当によく無事に生きていてくれました。この日を幾度夢に見たことか。ありがとうアウイラっ!」
ベリルを抱きしめ涙を流すマリアベル様の様子に、わたしはベリルを自分の手元に置きたい気持ちでいっぱいだったあさましさに後ろめたさを覚えた。
それでもベリルの側にいたい、母親としての役目は終わったのだとしても、離れないと望む気持ちが強くて、マリアベル様が「ありがとう」と感謝の言葉を零す度に後ろめたさでいっぱいになる。
再会を果たした親子を残し、わたしはコール伯爵に伴われ別室へと異動させられた。ベリルが不安そうに目で追って来たので大丈夫と微笑んで別れる。
コール伯爵はさらりと礼を述べられると、マリアベル様に起きた惨状を教えて下さった。
わたしとジェードがベリルを連れて逃げた後、マリアベル様は大変落ち込まれそのまま床に伏せってしまったそうだ。けれどそれも王の励ましで何とか立ち直って来た頃、マリアベル様は次のお子を身籠られた。
身の危険を伴う為その懐妊は極秘にされたが、何処から漏れたのかまたもや毒が盛られ、しかもその毒をマリアベル様が口にされてしまい命の危険を伴ったのだという。
一命を取り留めはしたけれど子は流れ、毒の後遺症によりマリアベル様は酷い皮膚疾患を伴ってしまった。その美貌で名を馳せたマリアベル様だったので王の心も遠のくだろうと噂されたけれど、毒にやられ姿を変えたマリアベル様に王は変わらぬ愛を貫き、そしてわたし達に託した生き別れの子の存在がマリアベル様の生きる糧となっていた。
煽った毒のせいでそう長い人生は望めない。それが分かると王はベリルを戻すために自ら行動を起こされた。
わたしは伯爵の話を聞けば聞くほど、自分の心が黒いのだと思い知る。
マリアベル様からベリルを取り上げたままでいたい自分。そして、世継ぎの王子になるかもしれないベリルを、単なる子爵の娘でしかないわたしが独占したい身勝手な思い。
それが儚い夢でしかないのは十分に分かっていても願わずにはいられない、欲に塗れた自分に恐れすら抱く。
引き離されなかっただけでも喜ぶべきなのに、ベリルから「お母さん」と呼ばれ不安そうに向けられる眼差しを受け止めるたびに、まだここに自分の居場所があるのだと他者に知らしめているようでほっとしてしまうのだ。
でもそんな感情は単なる自己満足に過ぎない。
この日からわたしはベリルと共に食事をするのも眠るのも禁じられた。誰かにそうするように言われた訳ではなく、王子として城に戻ったベリルの生活がそうなっただけだ。
共に食事の準備を楽しむことはなくなり、目の前に運ばれた豪華で食べきれない種類のそれに、子供のベリルですら異常さを感じて眉を顰めた後で、まるで癖のようにわたしを窺う。
孤児たちと関わりをもって成長したベリルは、自分に用意された一食で孤児院の子供たち全員分の一食が賄えると気付いた。
庶民に交じり生活して来たわたし達は、当然それに見合った質素を心がけながらも十分満足していたのだ。目の前の贅沢に素直に驚き異質だと感じたベリルを周囲が変えてしまわない事を願う。
お風呂にも毎日入れた訳ではない。湯の準備をするのはとても大変でベリルだってそれを知っている。なのに大きなバスタブに当然の様に準備され、数人の女官に囲まれ裸にむかれそうになった時には流石に悲鳴を上げた。
子供だって知らない人たちに服を剥がれ裸にされるのは恐怖に感じるものだ。そんな習慣のないベリルには我慢ならないだろう。
助けに入ったわたしは黙って様子を窺っていた年功の女官に蔑みの視線を向けられた。
王子なら当然、なぜそれをきちんと教育できていないのかと冷たい目が語っている。
これまで黙って従っていたベリルが「絶対に嫌だ!」と癇癪を起し、今回だけはと呆れられながらわたしに入浴介助が許された。
「高貴な方は食事の準備も着替えも、寝具の整えや洗濯、そして部屋の掃除も全て自分ではやらないものなのよ」
「高貴な人って何もできないんだね。じゃあ何をやるの。威張ってるだけじゃないよね?」
「そうね。威張っているだけの人もいるけれど、あなたは民を想い守っていく力を身につける為に沢山の勉強をするのよ」
「勉強は好きだけど……ぼくは沢山の人よりもお父さんとお母さんを守りたい」
湯に浸かるベリルの髪を洗ってやりながらわたし達はとても悲しい気持ちで話をし、湯からあがると体を綺麗に拭いて柔らかで薄い夜着に袖を通させる。それからベリルを大きな寝台に上らせた。するとベリルは「お母さんは一緒じゃないんだね」と寂しそうに呟く。
状況を飲み込んで諦めの表情を浮かべたベリルにわたしは微笑んで上掛けをかけてやってから、ベリルが眠りに就くまで柔らかな金の髪を優しく撫で続けた。
眠る部屋が別なのは当然だ、それに逆らうつもりはない。部屋を出ると先程の女官が立っていて「こちらへ」と声をかけられ別室へと案内される。
かなり歩いて居住棟を出た辺りで嫌な予感がした。一つの扉の前で女官が立ち止りノックをしてから扉を開くと、その向こうには久し振りに見る父の姿があった。
怒っているような、そして悲しんでもいるような面持ちをした父を前に一歩も動けなかった。
男と逃げたハヴェス家の面汚し。
どのように繕ってもジェードと逃げたのは事実である。
長い沈黙が続いた後、わたしは父に向かって深く頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
頭を下げたままのわたしに父が歩み寄って来るのがわかる。長い時間この部屋で待っていたのか、薄暗い足元に父の影が伸びた。
父は頭を下げたままのわたしの手を取り、感慨深そうに無言で撫でつける。その間もわたしは頭を下げたまま、父が撫でる自分の手を静かに眺めていた。
「柔らかく小さな白手だったものを。このように酷く荒れさせて。辛い務めであっただろうによく無事で帰ってきてくれた」
「辛くなど。殿下を交え、わたし達はとても幸せな時間を過ごさせて頂きました」
辛くなんてない、家族として幸せだったのだと訴える。けれどそれが終わったのだと知り、悲しさと空しさが同時に押し寄せ一気に涙が込み上げてきた。
「お父様っ」
抱きついて久し振りに父を呼ぶと、父は抱き返して背中を叩いて労ってくれた。
父だって真相を知らされたのは最近だろう。それまでは平民と駆け落ちした娘を持つ父として肩身の狭い思いをして来たに違いないのだ。
下の妹達二人もちょうど社交界に出る時期。けれどわたしのせいで後ろ指を指され嫌な思いをしたに違いない。弟はまだ分からないかもしれないが、口さがない大人達から色々言われたのではないだろうか。そして父と母は今日までをどのような思いで過ごしたのか。
申し訳なさでいっぱいになる。帰りたくはない、ベリルの側に居たいけれど、来た道が閉ざされた今はどうする事も出来なかった。
お別れすらさせてもらえない。
明日の朝目覚めた時ベリルはどれ程不安に思い寂しがるだろう。
ごめんなさい、ジェード。ずっとあの子の側にいてあげたいのに今のわたしでは何の力もない。
ベリルとジェード、そして幸せだった日々を想い、わたしの目からは止め処なく涙があふれ続けた。