ジェード その2
点々と居場所を変え辿り着いたのは国境近くにあるケランという街で、現国王の叔母君が嫁いだセザール侯爵が統治する領地にある大きな街だ。余所者が隠れ住むにはちょうど良く、王家の情報も手に入るのではないかと踏んでこの地を選んだ。
ここで俺は警備隊の仕事を得る。最初のテストで相手をした隊長はそれ程の腕があるなら領主が持つ騎士隊を受けてみればと勧めてくれたが、さすがにそこまで入り込むのは危険を孕むので遠慮した。
一つ驚いたのは警備隊にセザール侯爵の三男が在籍していた事だ。貴族社会に反発し勝手に親子の縁を切って好き放題やっているらしい。それなら領地から出て他の土地に行かないのかと疑問に感じたが、そうすると多くの人間が自分を捜して苦労をするのだと分かっているらしく、侯爵の目の届く範囲で好き勝手しているのだそうだ。なにかやらかしそうだったら止めてくれと隊長から指示を受けた。面倒だな。
侯爵の三男とは特に親しくならぬよう努めた。時折組まされる事があり、勤務中にもかかわらず女性に声をかける軽さに眉を顰めながらも無視して放っておいたらそのうち勝手に追いついてくる。彼……ネイトも俺とはウマが合わないと感じたのか、奴の方からも俺に絡んでくる事は一度もなかった。
ある日ネイトが一人で警邏に出たが、それ程時間をかけずに舞い戻って来た。何処か放心状態で詰所の長椅子にだるそうに腰を下ろすと頭を抱えている。俺は面倒なので相手にしないでいたが、気のいい奴がどうしたと声をかけているのに耳を傾けた。
「天使に会ったんだ。なんて言うか、俺なんかが触れちゃいけないって感じの? 身なりは普通なんだけどさ、所作ってのが洗練されてて。何よりも俺を見上げるあの瞳に打ち抜かれたよ。この俺が言葉を無くして口説けなくなるなんて初めてだ。あ~、どっかのお嬢さんがお忍びでやって来たのかな。また会えるかな、どう思う?」
どうでもいい話だったので俺は詰め所を出た。気の毒に、奴の相手をした同僚はその後夕方まで話に付き合わされたらしい。どの世界にも真面目に仕事をしない奴はいるが、その筆頭がネイトのようにも思えた。
その日帰宅しアウイラが出してくれた食事をとっていた時、彼女が「ネイトと言う人に会った」と話しかけてきた。
彼女の青い瞳をじっと見つめ暫く考えて「君の事か」と結論が出た。
天使の様だと騒いでいたが、俺からすると違う気がする。切れ長で意志の強い瞳はけして慈悲深さを思わせるものではないし、愛らしいというよりも彼女は年齢の割にひどく大人びた雰囲気を纏う美人だ。一つだけ納得したのは、ネイトが彼女の所作を見てただの庶民の娘ではないと感じた所だった。
「どうやらネイトは君に一目惚れしたらしい」
ネイトのことを説明すると首を傾けて「天使?」聞き返す。その様が愛らしくて視線を合わせられなくなり、素っ気なく答え平静を保った。気を抜くと彼女に対する独占欲が出てそれを押し付けてしまいそうだったからだ。
これ程側にいるのに俺たちの立ち位置は決められている。
ベリルの命を守るために夫婦のふりをして共に生活して生きている。衣食住を共にし、ベリルを中心に同じ寝台で眠っても警戒されないのは単にそれが義務だからだ。
少なくとも信頼されているのは分かる。だが男として、彼女への秘めたる思いを抱く俺としてはこの思いを押し留めるのに必死だった。
気を緩め言葉や態度に一瞬でも出せば取り返しがつかなくなりそうで、彼女の前で俺は自分をひた隠しにするしかないのだ。
そんな俺に彼女は驚きの言葉を口にした。
「あなたは妻としてのわたしを愛してくれてる?」
思考が止まり、唖然と彼女を見据える。
彼女は「冗談よ」と笑ってベリルを抱きあげると、振り返りもせずに二階へあがって行き、俺はその場から動けなかった。
言葉の意味を探して胸が早鐘を打つ。冗談など一度も言ったためしのないアウイラの言葉に、自分に都合のいい解釈を導きだしては首を振り否定した。俺もそうだがアウイラも表情に乏しい。そんな彼女の笑顔は寂しさを孕んでいた。
ベリルのぐずる声が二階から漏れて来る。それを耳にしながら残った食事を口に押し込んだ。味を失っていたが彼女の残した冗談に支配されていた俺にはどうでもよかった。ベリルの声が聞こえなくなっても降りてこない彼女に不安を覚えつつ、食器を片付けると躊躇しながら明かりを手に二階に上がった。
*****
寝室の扉を押し開くと暗い部屋の寝台に横たわる二人を認め、台に明かりを置いて歩み寄る。ベリルは寝息を立てていたがアウイラが眠っていないのは息使いで直ぐに分かった。二人を囲い込むように手を突いてベリルの様子を窺う。
幼すぎる寝顔は無条件で可愛らしい。俺とアウイラを繋ぐ絆であり、息子として深い愛情を注ぐと決めてもいたが、そんな取り決めはいらない程にこの一年で俺はベリルを大事に思うようになっていた。
起こさないようベリルの頭を撫でつけた後で、その手をアウイラへと持って行く。彼女の頬が濡れていてはっとした。
彼女が涙を流したのは過去に一度だけ。男に凌辱されかかったあの時だけだった。それ以外はどんな状況にあっても泣き言一つ洩らさないアウイラが今ここで涙を流したのはなぜなのか。俺は自惚れてもいいのだろうか。
腕に力を込めそっとアウイラをこちらに向かせる。
「君は、いつの間にか十七になっていたのか」
ベリルが一つ年をとれば彼女も一つ大人になる。見た目の雰囲気で錯覚しがちだが、十六は俺から見るとまだまだ幼い少女だった。しかし知らぬ間に彼女にも時が訪れていたのだと気付く。
俺は暫くアウイラの濡れた頬に手を添えたままでいた。既に涙は止まっているが、彼女の流した涙が俺を想ってのものだと物語っているようで心が熱くなる。
「君が思いを寄せてくれていると自惚れてもいいのか?」
「あなたは違うの?」
自分はそうだと暗に語られるが、それでも確認せずにはいられない。そうだとしても特殊な状況下にある彼女がそのせいで抱く錯覚に惑わされている場合、目覚めた後に辛いのは彼女の方だから。
一過性の思いだと言うのかと、傷付いたように眉を寄せたアウイラに、俺は彼女や世間にとっての現実を諭すように思い出させた。
「君はハヴェス子爵家のご令嬢で、俺は何の身分もない男だと分かっているのか」
俺達の身分差はあまりにも大きい。貴族の男が平民の女を妾にするのはよくあるが、貴族の娘が平民の男と結ばれる話など聞いた例がない。
彼女は本来子爵家の令嬢として、親の取り決めた相手と結婚するのが当たり前なのだ。女官として城に上がっていたのも良き伴侶に巡り合う為なのだろう。
「いくらご令嬢でも駆け落ちした娘に齎される縁談は後妻がいいとこよ。その申し出も無ければ子爵家にとってわたしは面汚で邪魔な存在にしかならない」
アウイラの置かれた状況は彼女にとって何の得にもならない。それなのに難問を引き受けこうして俺に見下ろされている彼女は、己の立場を彼女自身が理解したうえでの行動だった。
アウイラはすべてを捨て去ってこの場にいるのだ。
俺は王への忠誠から、彼女はご側室のマリアベル様への忠誠からだろう。だが今俺を見上げる彼女はただのアウイラという一人の女性だった。
「それに身分なんてどうでもいい。今のわたしが子爵家の令嬢に見えて?」
自分を子爵家の人間ではなく一人の意志のある人間だと主張する、彼女の瞳に涙が浮かびあがっていた。
泣かないアウイラの瞳に浮かぶそれが俺を想ってのものだと知ると、さすがにもう自分を止める事が出来なかった。
アウイラが失うものは俺では想像できないほど大きなものだろう。既に何もかも失っていると自覚していても、いずれ貴族社会に戻るかもしれないアウイラにとって、これ以上の傷は受けるべきではない。こうして俺に触れられるだけでも価値が下がって行くに違いないのに。
俺はアウイラに触れるべきではないと分かっていた。だが止められなかった。
俺はアウイラを抱え上げると隣の寝台へと横たえた。そうして先程と同じように彼女を俺の下に囲い込み鼻と鼻を突き合わせる。アウイラは驚いたような顔をしたが俺を恐れてはいなかった。
「君は覚えていないだろうが、俺達は君が城に上がって間もない頃に一度だけ出会った。俺はその時からずっと君に惹かれていたんだ」
秘めて来た心の内を吐露すると、彼女の瞳が疑問に見開かれる。しかし俺は「途中で止めないからな」と勝手な忠告を残し、彼女の唇を塞いで返事を掻き消した。
*****
白く華奢な剥き出しの肩にそっと上掛けを被せる。アウイラの瞼は硬く閉じられたままだ。彼女は情事の後に意識を失うように眠りに就いたままの姿勢で身動き一つしていなかった。
酷くしたつもりはなかったがやはり辛いのだろう。眠る彼女の髪をとかすように撫でつけていていると、ベリルが目を覚ましむくりと起き上がって、いつも側にいる筈のアウイラを捜してきょろきょろと薄暗い部屋を見回していた。
泣きだされる前にベリルを抱きあげ階下へ向かう。アウイラは暫く目覚めそうにないし、ゆっくりと眠らせてやりたかった。
竈に火を入れいつもアウイラがしているように朝食の準備にかかる。騒がずに大人しくしているベリルにスープに浸したパンを食べさせてから再び寝室に向かった。
「静かにな?」
「ぁーう」
片腕に抱いて人差し指を口に添えると嬉しそうに噛みついてそのまま遊び始める。アウイラはまだ眠っていたので、起こさないようにそっと寝台に上がった。
暫くすると彼女の青い瞳が瞼から覗く。彼女はぼんやりと俺を見上げていたが、はっとして突然起き上がった。
「ごめんなさいわたしっ――あっ!」
自分が何も身に付けていないのに驚いたようで、アウイラは再度寝台に転がると慌てて上掛けで身を隠す。初々しく可愛らしい行動に思わず笑みが漏れた。
「あんま、あんま」とベリルがアウイラに腕を伸ばし、アウイラは上掛けで前を隠したまま起き上がって俺からベリルを受け取る。
「ごめんなさい、寝過してしまって」
アウイラは恥ずかしそうに頬を染め視線を合わせようとはしなかった。
体調を問えば「大丈夫」と、消え入りそうな声で答えながらベリルで顔を隠してしまった。そんなアウイラからベリルを奪い彼女の頬にキスをすると、「あんま――!」とベリルから抗議の声が上がった。
「愛している」
「え?」
「昨夜の答え。俺は妻として君を、アウイラを愛している」
信じられないといった表情で動きを止め、驚き見開かれた目からぽろぽろと涙を零すアウイラ。俺はその姿に幸せを噛み締めた。
同居人でも恋人でもない、妻として有れる事が嬉しいのだと涙を零して喜びを表現するアウイラに、俺は今まで何をしていたんだと深く後悔して、俺とアウイラを目を丸くして見上げるベリルごとアウイラを抱きしめた。
*****
思いを遂げると止められなくなるのだな。それを実感しながらアウイラとベリルに見送られ家を出る。
寝過し朝の食事の用意をできなかったと恐縮する彼女は、俺に持たせる昼食の弁当作りへと台所へ入って行った。俺はそれを連れ戻し、一緒に食事を摂ろうと持ちかける。昼は外で食べてもかまわなかったが、ふとある事を思いついて弁当の配達を頼むと、彼女はほっとしたように微笑んで席に着いてくれた。
別の思惑があるだけに心苦しく感じたが、君を想うゆえの嫉妬だから許してくれと心の内で呟く。
午前の警邏に出た俺は特に大きな問題には当たらず、予定通りの時刻に詰所へと戻った。詰所の前でベリルを抱いたアウイラを見つけて、彼女の側に警戒すべき影を認め足を速める。そして彼女に辿り着くと今朝まで抱いていたその細い腰に腕を回して引き寄せた。
俺を見つけたベリルが彼女の腕の中で嬉しそうに声を上げたので頭を一撫でしてやると、アウイラもこちらに顔を向け目を瞬かせた。
「ジェード」
「予定より早かったな」
彼女を引き寄せ頭にキスを落とす。ネイトが唖然としてこちらを窺っていた。
「え、なに? どう言う事!?」
「妻のアウイラと息子のベリルだ。よろしく頼むよ」
目を瞬かせるネイトにアウイラとベリルを紹介してやる。子供もいるんだ、手を出すなよと意味を込め彼女を更に引き寄せた。
ネイトはアウイラの挨拶にもまともに答えられない。
少々可哀想な事をしたかとも思ったが、傷は浅い方がいいにきまっているのだ。こいつの事は良くは知らないが悪い奴でもなさそうだ。だからと言って放っておけばどうなるか分からないのが人の感情。害になるものは早めに摘み取っておきたかった。
アウイラから荷物を受け取ると今度は彼女のこめかみにキスを落とす。ネイトへのとどめのつもりだったが、彼女が来た道を戻ろうとした所でネイトがお茶でもと声をかけた。
旦那を前によくもと呆れたが、どうやら立ち直った訳ではないようで動揺している様子。アウイラはそれ程までにネイトの心を射止めていたのかと複雑な心境になったが、アウイラは丁寧に断りを入れ帰って行った。
彼女の後ろ姿を茫然と見送るネイトを見て、午後は孤児院に顔を出すのだろうと簡単に予想できた。
このあと詰め所でネイトから質問詰めに合うが、適当にあしらって次の仕事へ出る。孤児院の方角は俺の担当ではないが、一応様子を見に行くべきだろうと足を延ばし、気付かれないように遠くから二人の様子を窺っていた。
この日からネイトは俺に絡むようになり、やがて二人で組む機会が増えた。
貴族のくせに庶民を馬鹿にするでもなく、それが真実である証拠にアウイラが孤児院に赴く以前からネイトはそこの常連で、孤児たちを可愛がり懐かれているらしい。見ているとかなりの子供好きのようだ。親のコネを勝手に使い、孤児たちに質のいい就職先も紹介しているらしく、俺はネイトを見直した。
この地で親しい人間を持つつもりはなかったが、何かの時の為にも信頼できる人間は得ていたい。アウイラを切っ掛けに良くも悪くも絡んで来たネイトを、俺は秘密を抱えたまま受け入れた。