アウイラ
国王主催の御前試合が開催されるこの日、城は朝から大忙しだった。
王は勿論、公表されてはいないが世継ぎとして認められているベリルも観覧に出席する。
年齢のせいで王太子の冠は戴いてはいないが、たったひとりの男子であるベリルが世継ぎであるのは誰の目にも明らかで。命の危険を避ける為に幼少の時期を市井で過ごしたという事実も何処からとなく漏れてしまい、しかしそれが幸いし、民も庶民の生活を経験しているベリルが次代の王位を受けるのをとても歓迎してくれていた。
ベリルの後見にはセザール侯爵も名乗りを上げていたし、公爵家出身の王妃様はご実家のお力を弱くされてしまい、今は離宮に篭って公務すら拒否されている。そんな訳でこのまま行けば次期国王はベリルで間違いなかった。
王妃不在の報を聞き、ご側室さま方は王女を連れてのご観覧をお決めになられた。王からはわたしにも出席してはどうかとお声をかけて頂いたが、側室の身分を頂いてはいるがその役目自体を果たせていない身で、他のご側室と並ぶのは心理的に憚られたのでお断り申し上げる。王も「そうか」と何時もと変わりなくお返事下さったので気を悪くしてはおられないようだ。
実の所、公の場でベリルの隣に立つのはマリアベル様に申し訳ないという気持ちがあった。王はそれを汲んで下さっているのかもしれない。
ベリルはというと、どういう訳か落ち着きがなかった。
元気なのは喜ばしいのだけれど、常ににこやかな笑顔で、堅苦しい帝王学の授業も真面目にこなすだけではなく、心の底から楽しいという感情が湧き上がっているのだ。
とても珍しい事だったが、男の子は剣術が好きで憧れるものだというし、そうでなくとも王との外出に心が躍っているのかもしれないと、わたしは笑顔でベリルを送りだした。
そうして静かになってしまったベリルの部屋で、その日のわたしはベリルの衣服に付けるレースを編んで過ごした。
夕刻になり上機嫌で戻ったベリルに優勝者を聞くと「内緒」と笑顔で答えれらる。勝者に対して特に知りたかった訳ではないが、どうしてだろうと周囲に目を向けると女官らが一斉に視線を逸らした。
どうしたのだろうと疑問に感じていると年功の女官が「決勝でチェイス様がお負けになったのですよ」と教えてくれたのだが、そのせいで益々分からなくなってしまった。
王の近衛であるチェイス殿とベリルは特別仲がいい訳ではないし、彼が負けたのが理由で上機嫌になる程嫌っている訳でもない。ああ、もしかして……
「その方を殿下の近衛に望まれるのですか?」
周囲の目があるので距離を置いた話し方になったが、ベリルはご機嫌なまま大きく頷いた。
「出仕してきたら紹介するから、アウイラにはまだ内緒。誰にも聞かないでね?」
「分かりました。楽しみにしておりますわね」
ベリルが喜ぶ。それだけが今のわたしの幸せだった。
*****
「子爵家の娘の一生を奪ったのだ、いつかは償いをとマリアベルが望んでおった。それにな、余自身もそなたがいてくれたお陰でエジワルドとの仲が良きものになったと感謝しておる。その礼といっては何だが、余の口添えでそなた達の婚姻を認めようと思うのだが。アウイラ、そなたの心内はどうであろう?」
王が目の前に現れた時、わたしは動揺して身も心も震えていた。忍んで来たジェードを救いたくて、けれど王の側に立つベリルがいつ『お父さん!』と声を上げ走り寄って来ないかと冷や冷やし、緊張は極限に達していた。
王はお怒りになるだろう。わたしの命程度では許して下さらないかもしれない。王のつま先が視界に入り全身の血が引いた。
罰を覚悟したわたしの震える手を王が取ったのはそんな時だ。
そうして告げられた言葉が理解できなくて、全身から血が引いたような感覚に陥っていたわたしは、微笑まれる王とにこやかなベリル、そして後ろを振り返ると静かに頷いたジェードの姿を最後に一気に緊張の糸が解れ、そのまま不敬にも王の胸に倒れ込むようにして意識を失いかけてしまう。
それでも何とか気をたしかにと必死になるわたしを、払い除けずに受け止めて下さった王が労うように背を撫でてくれた。
「側室に上げた筈であるのに、そなたを腕に抱いたのはこれが初めてであるな」
側室なんて言葉はわたしをベリルの側に置くための理由でしかないし、王が誰を愛しておられるかは十分に理解している。冗談めかす王を見上げるとその視線はわたしの後方、ジェードへと向けられていた。
わたしではなく、ジェードに向けた言葉だと理解したわたしはひゅっと息を飲んだ。
ベリルが貫き続けた態度が身を効したのか。王と共に築いた親子関係が揺るがない物との信頼を得るに至ったのか。
まさかという思いで王から身を離しベリルへ視線を向けると空色の瞳がきらきらと嬉しそうに輝いていた。ジェードを振り返れば、表情を消してはいるが緊迫した感覚はない。そして王を見上げると、王は優しく穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「御前試合の勝者を讃え、寵妃であるそなたを下げ渡す事にした。事前に了承を得ずに悪かったと思うが、許してくれるな?」
王が側妃を下げ渡すのには二つの理由がある。
一つは王の不興を買った側妃への罰として。もう一つは臣下が己の功績として王に進言し、王がそれを許した場合。王がわたしを寵妃と表現した限り、これは後者だ。
王の大切にする特別な妃を下げ渡すに値する相手。ジェードを認めると公言したも等しい栄誉。
けれど本当にそんな事が?
不安に揺れる気持ちが伝わったのだろう。王はもう一度マリアベル様の想いを口に乗せた。
「マリアベルは償いをと申したがこれは余の願いだ。それは近衛となって王子を守り、そしてそなたは新たな地位を得て王子に仕える。頷いてくれるなら余がマリアベルとした約束が果たせるのだが?」
ジェードは近衛に。そしてわたしは下げ渡されベリルから退けられる訳ではなく、今後も側にある事が許される。
本当に?
夢ではないのかとの錯覚が起るが、王の手の中にいるわたしは大きな温もりを感じて、これが夢ではないのだと知る。驚きに唖然としたまま王の手から退き、膝をついたまま後ずさって首を垂れた。
「陛下のご意向のままに」
わたしにとっての王は終始国王だった。
側妃として城に上がってもそれはベリルの為であって、側妃としての本来の仕事は何一つ出来ていないし、王もそれを望んではいなかった。
ただベリルを我が子同然に育てる場所をお与え下さった王とは、少なからず信頼関係を築けていると思っている。
けれどやはり何処からどう見ても王は国王以外の誰でもなかった。ただ時折、マリアベル様への愛を貫かれる王に人間らしさを垣間見る程度で、それ以外では威厳ある恐れの対象でもあったのだ。
だからこんな風に気遣われ優しく穏やかな表情を向けられると戸惑ってしまう。真意は測れない。言葉のままだというのならあまりにもわたし達にとって都合の良い結末だ。だからご意向のままにと頭を下げた。何もかもが突然すぎて分からなかったのだ。
王が去った後に残ったのはわたしとジェード、そしてベリルの三人だけで、辺りを見渡しても近衛の姿は見当たらない。何処かに隠れて見ているのかもしれないが、それが配慮による物だと考えるなら王の言葉が全て事実であると教えてくれているようで。
辺りを見回すわたしの前にベリルが笑顔で立ち塞がった。
「お父さん以上の護衛なんていないよ!」
ね、お父さんと仰ぎ見るベリルの頭を、ジェードが高い位置から手を伸ばしてぽんぽんと穏やかに撫でつける。そこには別れていた時間の隔たりなど微塵も感じられなくて、わたし達の中に流れる時間が再び重なったのだと実感した。
ジェードは片膝をつくとベリルを抱き寄せ、もう片方の腕をわたしに回してぎゅっと抱き寄せた。
「やっとここへ帰って来る事が出来たよ」
わたしたちが築いた家族という絆。誰一人として血の繋がりはないけれど、心の繋がりはけして途切れることはなかった。
「ベリル、ジェード。二人とも愛しているわ」
離れない為に全てを隠して逃げる選択肢もあったけれど、そうしようなんて微塵も思わなかった。こうして今があるのならそれを選ばなかったのは正しいのだろうし、また別の未来があったとしても後悔はしない。
離れている時間が辛くなかったなんて事は絶対にないけれど、それを乗り越え、そして今を叶える為に生きて来たのだ。
腕を伸ばして愛しい二人を抱きしめる。
互いの体温を感じながら笑顔の愛し子をみて、なんて幸運な力を持っているのだろうと出会いに感謝し、心の内でマリアベル様に新たな決意を呟いた。
*****
その後まもなく城を出たわたしは、王から賜った屋敷に居を移した。
王の寵妃から庶民上がりの近衛に下げ渡されたと悪意を持って囁く人たちは多かったが、蔑みの言葉で傷付くようなわたしじゃない。
養父となったコール伯爵を始め、父と母が陰口を囁かれるのには申し訳ない思いしかなかったが、臣下に妾を下げ渡した王のわたしに対する態度がわざとらしい程に気遣いに溢れていて、そして丁寧過ぎて。やがて敵に回すより味方につけるべきと判断した彼らから蔑みの言葉は失われて行った。
ジェードは望み通りエジワルド王子付き近衛としての職を得て、休む日もなく毎日登城している。
近衛騎士の仕事は貴族社会の一部でもある。そんな慣れない世界ながらも、ベリルの側にいる為ならなんて事ないと上手い具合にこなしている様子だ。
それからわたしはというと最近になって登城を控えるようになっていた。するとベリルがジェードを伴いお忍びで屋敷にやって来るようになってしまったのだ。
臣下の家に王子が遊びに行くなんてとベリルの教育係からは苦情が激しいが、王がそれをお許しになっているようで誰も文句は言えず、それがベリルを調子付かせてしまいお忍びに拍車をかけていた。
「あまり迷惑をかけてはだめよ」
「大丈夫、お父さんがいるから心配ないよ」
「心配ないでしょうけれど、ここにばかり来て勉強が疎かになるのは感心できないわ」
「弟か妹が生まれるのに勉強してろなんて酷いよ!」
生まれたら産婆の次に抱き上げるんだと譲らないベリルは、わたしが産み月に入ってからはほとんど毎日やって来るのだ。
そんなベリルの想いを無下にも出来ず、正直嬉しい事もありついつい容認してしまう。つくづく親馬鹿だと、ジェードと二人で笑ってしまうくらいにわたし達は幸せだった。
わたし達の中にもう間もなく新たな家族が加わる。弟にしろ妹にしろ、ベリルは生まれた子をわたし達以上に可愛がってくれるだろう。
その日を待ちわびながらこうしてわたし達の日常は過ぎていくのだ。何ものにも代えられない宝物に囲まれた今のわたしは、世界中の誰よりも幸せだった。
おしまい。
最後まで読んで下さった皆様、本当にありがとうございました。
お話を書き始めた当初はベリルをつれて一家逃亡の予定で、三人には辛い結末が用意されていたのですが、それはちょっとと思いなおして今回の結末となりました。悲劇も良いのですが、やはりハッピーエンドの方が書き終わって穏やかでいられますね。
ここまで読んで頂きありがとうございました。