アウイラ
「おかあさん!」
色とりどりの花が咲き乱れる見事な庭園。花を摘んでいるわたしの耳に、鳥の声に乗って遠くから呼び声が届けられる。
声変わりを迎え始めたのか。少しだけ低くなった愛し子の呼び声に振り向くと、わたしの身長を追い越さん勢いで成長を続けるベリルが水色の瞳を輝かせ走り寄って来た。
「ベリルったらまた護衛を撒いて来たのね。カイエラ殿が頭を抱えるわよ」
「カイエラに何を言われたって構うもんか。僕はこれからもお父さんの為に護衛を撒き続けるよ!」
「まぁベリルったら………」
近衛たちが耳にしたなら青ざめそうな言葉を無邪気な笑顔で堂々と言ってのける。わたしはそれを仕方のない子だと思いながら、十歳になったベリルを見つめた。
四年前にエジワルド殿下として本来の姿に戻ったベリルだったが、今もわたしと二人の時は昔に戻りその当時のままで呼び合っている。
王の側妃として城に上がって四年になる。わたしはマリアベル様に望まれて側妃としての地位に就いた。あの頃のわたしは目まぐるしく変化する日常についていけず、ジェードへの想いを抱え揺れ動く危なげな気持ちのまま登城したのだ。
わたしを欲したマリアベル様は邪な感情など一切持たず、ベリルの為だけを考え行動していた。
お腹を痛めた子が産みの母に一線を引き、『母上様』と呼びながらも見知らぬ他人のように接して来る。教育係の女官とも上手くいっていない様子が手に取るように窺い知れるのに、自分を押し込め必死に頑張ろうとしているベリルの将来を案じたマリアベル様は、それに気付くと直ぐに行動を起こしてくれた。
セザール侯爵家の使いと称して押しかけて来たネイトさんを、ベリルと目通りさせる許可を出すのに王に進言し手を尽くして下さったのもマリアベル様だったそうだ。そのネイトさんと年相応に戯れるベリルを見て、わたしの側妃入りを拒絶していた王もマリアベル様の意向に従い許可して下さったのだという。
『今更捨てた子の母になれるとは思っていない。けれど生んだ以上は持てる愛情の全てを注いでやりたいの。あなただって同じでしょう?』
側妃として城に上がった時にマリアベル様が悲しそうに、けれどしっかりした口調でわたしに告げた言葉。
手放さなければならなかった我が子と新たな絆を築く時間はあまりない。それなら出来る全てで守ってやりたいと語ったマリアベル様は、それから半年もせずに天に召された。
マリアベル様を失った王の落ち込みようはそれは酷いものだった。マリアベル様の亡きがらに縋りつき、葬儀をせねばならないというのに、棺に入れてしまうのさえ拒絶してマリアベル様と二人だけで部屋に閉じ籠ってしまったのだ。
冷たくなったマリアベル様から王を引き離すのに丸三日かかった。『エジワルド殿下にもお別れの挨拶をする時間をお与えください』。
手打ち覚悟で入室して言葉をかけたのは、マリアベル様のご遺体が傷んでしまう前にベリルにも会わせてあげたかったからだし、マリアベル様もベリルを待っていると思ったからだ。
憔悴した王は怒りでわたしを切り捨てるような愚行はならさず、しばらく黙ってわたしを見上げていた。それから両手で顔を覆って声もなく涙を流し、ひとしきり泣いた後でベリルを呼ぶと腕に抱き、二人でマリアベル様にお別れをお済ませになられた。
マリアベル様が亡くなってから一時経つと、養父となったコール伯爵から幾度となく王を寝所に招くようにと注意を受けた。今までマリアベル様一筋だった王の寵愛を別の側妃に向けられるのを恐れていたのだ。
ベリルの母代りとなったわたしのもとへ王が訪れるのは日中、ベリルと一緒にいる時だけと決まっていた。
しかしそれすらもマリアベル様を亡くしてからは遠のいていたので、コール伯爵としては心配でならなかったのかもしれない。
ベリルにはネイトさんのお陰でセザール侯爵家も後見に就いているが、侯爵よりも更に位の高い公爵家縁の側妃も城にはいるのだ。
わたしはコール伯爵の命令に従うつもりはなかった。何よりも王がそれを望んでいないのは誰の目にも明らかだったからだ。
ジェードへの想いは捨てきれないが、側妃として城に上がった以上は王の訪れを拒否できるわけがないのは承知している。けれど全てを覚悟して城に上がってみれば、王がどれ程マリアベル様を愛してるかを見せつけられ、側妃としての立場があるからなどいらぬ心配と早々に分かってしまった。
王がわたしに求めるのはベリルの心の安寧であり、側妃という位はその為に必要だったから提供してくれたようなもの。マリアベル様の最後の願いを聞き入れた、ただそれだけだともいえる一つの居場所でしかないのだ。
マリアベル様を失って酷い状態だった王も、ベリルと一緒に時間を過ごすにつれ、表向きはすっかり元通りになられた。けれど時折ベリルを見る王の目がベリルを通してマリアベル様を見ているのだと気付く瞬間がある。その証拠ともとれるのが、ベリルが城を出て市井散策に出るのを許可した事だ。
たった一人の後継ぎとなるベリルを危険の伴う城下に出すなど以ての外だ。周囲は反対したが喜ぶベリルの姿をマリアベル様と重ねてしまった王は許可を撤回しない。それは我が子を溺愛する父親の姿でもあり、否と答え縮めた距離を広げるのを恐れている節も窺い知れるものだった。
変装して城下に降りたベリルは大勢の護衛を引き連れ行動していたが、後をついて回る近衛らにうんざりし、これじゃあ何もできないと早々に撒いてしまう。
初めての散策は近衛たちにとってとんでもない結果を招いた。一方のベリルは城下を思う存分楽しみ一人で城に戻って来た所、余りにも一般人に馴染んだ形をしていたせいで入城を許されず門前払いされ、最後には王子の名を騙る不届き者とお仕置きの意味で投獄されてしまった。
我儘を通したにも関わらず、つけられた護衛を撒いて多くの人に迷惑をかけたベリルには本当に良いお仕置きだったけれど、忠実に役目を遂行したに過ぎない門番には可哀想な事になったと今でも申し訳なく思うばかりだ。
多くの人に迷惑をかける結果を招いたが、現在は紆余曲折を得てベリルが城下に降りる時はネイトさんが同行するというので常になっている。
貴族出身の近衛がどんなに変装して周囲に溶け込もうとしても、立ち居振る舞いが上品な彼らが一緒では、良家の子息がお忍びで街に出ていると見えてしまうからだ。
こう言ってはなんだが、ネイトさんとベリル二人なら治安の悪い通りを歩いても場に馴染み危険を回避できた。けれど近衛が付き従っている場合は必ず絡まれ騒ぎになってしまうのだ。
それにベリルも幼い頃より慣れ親しんだネイトさんの言う事はきちんと聞いて、城下に降りても自ら危険な事に首を突っ込んだりはしない。自分に何かあればネイトさんにも咎が及ぶというのは理解しているようである。
けれどネイトさんの腕ではベリルを守るのには不安があるので、当然近衛の人たちも離れた場所から尾行しているのだが、ベリルに言わせると『お父さんが僕の近衛になれば一石二鳥』なのらしい。
確かにジェードなら周囲に溶け込むのは当然だったし、どんな危険が立ち塞がっても絶対にベリルを守ってくれるのはわたしだって信じて疑わない。
ベリルだけではなくわたしも、そしてネイトさんもそうだと頷く。
けれど血を分けた父親であり最高権力者でもある王の前では、それだけは決して口にしてはいけない願いだ。ベリルも分かっているらしくジェードの事を王に強請ったりはしなかった。
ベリルが城の内外に関わらず護衛を撒き続けるのは、ベリルなりの抵抗と意思表示なのだ。
いつか必ず会えると信じているジェードの居場所をベリルなりに確保しようとしている。
そのいじらしさが可愛らしくも切なくて、わたしは危険だと分かっていても強く叱れないでいた。
今目の前にいるベリルも贅を尽くした城に似合わぬ、粗末で着古し汚れた麻の服を着ている。体型に合わない少し大きめな服を着ている所が芸が細かいと誰かが言っていたか。
「今日はネイトさんと約束していたかしら?」
外に出る気満々のベリルがバツが悪そうに肩をすぼめた。
そんな予定がないのはわたしだって知っている。綺麗な服を脱いで着替えた所で護衛に見つかって逃げて来たのだろう。
「双子が生まれてから付き合い悪過ぎるよ」
「ネイトさんにもお仕事や家族があるんだから、何時もって訳にはいかないって分かっているでしょう?」
ネイトさんは母君であるセザール侯爵夫人の勧めで昨年結婚した。政略結婚で決して仲のいい夫婦とはいえなかったけれど、結婚して間もなく奥方は懐妊され二月程前に双子の男子を出産されたのだ。ネイトさんは子供達をそれはそれは可愛がっているようで、子の誕生を機に奥方とも歩み寄りをみせているらしい。
喜ばしい事だけど、ベリルにとっては何時も側で支えてくれているネイトさんの訪れが減って寂しい様子だ。
花を抱えたまま僅かに腰を屈めベリルを覗き込むと、頬を膨らませたベリルがわたしの抱える花の束から一輪抜き去る。
「たまにはさ、僕の方から会いに行ってみようかと思って」
「それなら抜け出す必要なんてないでしょう。ちゃんとお願いすればいくらでもついてきてくれる人はいるのよ」
「僕から頼るとお父さんが遠くなりそうで嫌なんだよ。お母さんだってお父さんに会いたいでしょう?」
「ベリル……そうね、会いたいわ」
ベリルからすると他人を認めるのはジェードを否定するような気持ちになってしまうのだろう。抜いた一輪に視線を落としたベリルにわたしは頷いた。
「わかったわ。ネイトさんの所にはお母さんからカイエラ殿にお願いしてあげる。その代わりちゃんと母君にご挨拶してからよ?」
ベリルを誘うと少し考えるように黙り込んでいたが、やがて素直に頷き、目的の場所へと並んで歩きだした。
マリアベル様の墓標は城の中にある。当然ながら前例のない特別な計らいで、何時までも共にありたいと願う王が無理を押してこの庭園の一角にマリアベル様を埋葬させた。王が亡き後はマリアベル様の墓標も王の側に移されるので一時的なものだ。わたしは毎日墓標を訪れマリアベル様に花を手向けていて、時折ベリルもこうして一緒に花を供えた。
ベリルと肩を並べ向かった墓標には先客があった。邪魔してはいけないと踵を返そうとした時には既に遅く、振り向かれた王にわたしは腰を折って深くお辞儀をした。
王はわたしとベリルが手にした花を見ると優しい笑みを浮かべて頷く。王が墓標に立つ際には誰も立ち寄らず邪魔をしてはいけないというのが暗黙の決まりごとであったが、ベリルを招く王の表情からすると何かを一つ乗り越えたのだろう。ベリルだけを行かせてわたしはその場に控えた。
墓標の前で王と共に膝をついたベリルは花と祈りを捧げて立ち上がる。その場で何やら王と話していたが、話すにつれベリルの緊張が解け、表情が太陽の様に輝くのがわたしの立つ場所からも見て取れた。
よほど嬉しい事があったのか、ベリルは王に一礼してこちらへと駆け寄って来る。
「お母さんすごいよ、すごいっ!」
喜びを露わにするベリルはわたしの腕を取って振りまわす。その拍子に抱えていた花が地面に散らばったが目に入っていないようだ。
「落ち着いてベリル。いったい何があったの、王の御前よ?」
王の様子を気にしながら小声で囁くと、ベリルは満面の笑みのまま王を振り返ってまたこちらを向いた。王ははしゃぐベリルを満足そうに見守っておられ、常に大人の対応を求められる王子がみせた、子供のような、年相応の態度を諌める様子はない。
「まだ秘密。陛下との約束なんだ」
「約束?」
王に視線を移すと数人の近衛に囲まれ、こちらに背中を向けた王が庭園に消えていく所だった。
秘密の約束が何なのかは想像できなかったが、ベリルがこれ程喜んでいるのだ。王がベリルの心をくすぐる何かを約束したに違いない。
父と子の意志疎通が上手くいっているのを感じたわたしはほっとした。けれどその半面、心に抱く人の面影がちくりと胸を刺し、時の流れを感じてほんの少しの寂しさが心を掠めたのだった。