アウイラ3
マリアベル様への手紙を託してから幾日か過ぎたある日。何の前触れもなく余所行きに着替えさせられ連れて行かれたのはエヴァル伯爵家の別邸。
婚姻に向けての顔見せの席に座らされたわたしは、慌てず冷静な判断を下せるよう肩の力を抜いて目の前に座るエヴァル伯爵を見据えた。
伯爵は三十二という歳の割に随分と若く見え、穏やかな表情を浮かべた美丈夫だった。内面は知れないが、物腰も柔らかく見た目だけでさぞやもてるだろうと推察される。
こんな方がわたしに婚姻を申し込んで来るなんて有り得ない。やはり後継者問題にかこつけて押し付けられたに違いないと確信した。
話はもっぱら母と伯爵が交わしている。わたしは少しでも嫌われようと、大変失礼なことだが話を振られても気のない返事をし、興味のない素振りで終始無表情に徹した。
「あなたは私に興味がない?」
母との会話を取りやめ唐突に話を振られる。驚いたがそれは表に出さずただ冷静に「はい」と頷くと、母からは叱咤の悲鳴が、そしてエヴァル伯爵からは笑いが漏れた。
「それは奇遇ですね、実は私もですよ」
穏やかに笑う伯爵はこの中の誰よりも落ち着いていた。エヴァル伯は少し二人で歩きましょうとわたしを促し、目を丸くする母を残して整えられた庭園へと出ていく。少し悩んだがわたしも素直に席を立って後を追った。
興味がないと言った彼の言葉に光明が射したかと思われたがそうではなかった。
前を行く伯爵に黙ってついて歩いてると不意に彼が足を止めゆっくりと振り返り、「先程の続きですが」と、微笑んだままわたしを見下ろす。
「陛下のご側妃より私的な手紙を頂きました。しかし拘束力はない」
「ええ、そうですね」
怖い、捕われそうだと感じてエヴァル伯の視線から逃れるように視線を外した。
カイエラ殿に託した手紙は無事マリアベル様へ辿り着いたようだ。マリアベル様も応えて下さりエヴァル伯爵に手紙を送ってくださったのだろう。
けれどマリアベル様の身分は陛下のご側室。後ろ盾は父君のコール伯爵で、同じ爵位をもつエヴァル伯爵に対して何ら拘束力はないのだ。
それでもベリルの生母として見られるなら、その意を酌みたいと思う輩も多いのではないか。残念ながら目の前の伯爵には無駄な足搔きに終わってしまったようで背中に嫌な汗が伝った。もしかしたら裏目に出たのかもしれない。
「ご存じかも知れませんが私も色々と面倒でしてね、流石に疲れました。それならもうこちらに興味のないあなたで手を打つのが得策なのではと思った次第です」
周りをうろつくのは見た目や財産に惹かれて来る煩い蝿ばかりだと比喩する伯爵は腕を伸ばし、わたしの頤を掴んで上を向かせると検分するかに目を細めた。
「私はあなたを妻とします。男子を産むまでは貞淑な妻でいて頂きますが、その後は好きにしてかまいません」
「わたしは六年も子が出来なかった石女ですのに?」
「命懸けの密命を受けての立場では、子を成す余裕などなかったでしょう。まぁそうですね。六年経ってあなたと私の間にも子が出来なければ諦めて蝿の中から妾を迎えますよ」
「お断りいたしますわ!」
余りの不快さに相手の手を払いのけていた。しかしエヴァル伯は余裕の笑みを消さない。
「本気で断ると?」
「勿論です」
「それはそれは。あなたには本気で子爵家を捨てる覚悟があるのですね」
覚悟を問われ怯んだ。エヴァル伯爵が望むのであればこの婚姻を子爵家が断るなんてのは絶対に無理だ。そんな事をすれば貴族社会でやっていけなくなる。地に落ちた名誉を回復させたばかりなのにまたもや不名誉を押し付けるのか。父と母、そして良縁に喜んでいた妹達と爵位を継ぐ弟の姿がちらついた。
どうする? どうすればいいと必死で考えを巡らす。少しでも子爵家の名を思うなら今すぐにでも親子の縁を切ってもらうしかないが、母はそれを許してくれないだろう。それに今わたしにある力は子爵家の令嬢としての名だけだ。それを失っては二度とベリルには会えなくなってしまう。
返す言葉がなく、悔しくてぐっと手を握り締めた。伸ばし始めた爪が掌に食い込んで血が滲んだのか、ぬるりとした感触に指先が滑る。
その手に振り解いたばかりの伯爵の手が再度重ねられた。
「申し訳ない。意地悪が過ぎたようです」
伸ばされたエヴァル伯の指がわたしの拳を解くと、爪が食い込み皮が剥げて血が滲んでいた。それを見たエヴァル伯は白いハンカチを取り出してそっと握りこませてくれる。その優しい手つきに驚いて瞬きをすれば、知らぬ間に溜まっていた涙が零れ落ちた。
「安心なさい。ご側妃には望みのままにと返事を致しました」
「エヴァル伯?」
見上げると眉尻を下げたエヴァル伯爵が困ったような顔でわたしを見下ろしていた。
「私に靡かない女性が久し振りでね、亡き妻以来で懐かしくつい意地悪をしてしまった。あなたに傷をつけてしまう結果を招いてしまい本当に申し訳ない」
「いえ、そんな………でも、あの?」
戸惑うわたしにエヴァル伯は大丈夫だとでもいうように深く頷く。
「会ってみると意外にも素敵なお嬢さんなので、いったいどのように断りを入れようかと思案していましたが。言い訳に先程のあなたの言葉をお借りしても怒りませんか?」
「石女……ですか?」
少し考えて答えるとエヴァル伯はそうですと微笑んだ。
「子を望む伯爵家の断り文句としてはうってつけです。ただそれを言われるあなたには大変な侮辱となりますが」
「いいえ、侮辱だなんて少しも思ったり致しません」
夫婦のふりをしていただけの男との婚前交渉を指摘される。王の子を守る役目を担っていただけに、そこを突かれ決定しかけている婚約が白紙に戻されるのは貴族女性にとって大変な冒涜だ。
けれど婚姻で得る繋がりよりも後継ぎの男子を望むエヴァル伯側の理由として、これほどうってつけの文句はないだろう。断りを入れられた時の母の怒りが予想できる。
「ですがコール伯爵との件もあります。エヴァル伯は宜しいのですか?」
マリアベル様からの手紙一つでそれを覆しても問題はないのだろうか。
「私個人としては少々残念ですが、コール伯との事は何も問題ありませんのでご安心を。ただ……」
「ただ?」
「あなたを得られないのは惜しい気もします」
「え……? あの?」
やはりわたしの立場はエヴァル伯に利益を齎すのだろうか。それを惜しいと思っている?
わたしが問う視線を向けると、エヴァル伯は微笑んで「いいえなんでも」と、首を振って言葉を止めた。
わたしはそれを気にしながらも、エヴァル伯爵との結婚が白紙に戻される安心からほっと胸を撫で下ろす。
後日改めてエヴァル伯より婚約の断りを入れられた母は、まさかそんな事になるとは思っていなかったらしく大変な怒りで手がつけられなかった。
貞操を問われるだけでなく子の出来ない女の烙印まで押され、やはり最初から修道院に入れておくのだったと怒鳴りちらしていた。
父はわたしに可哀想な物を見る目を向け同情し、弟と妹達は母の怒りに震えていた。
母はわたしを本気で修道院に押し込めようとしていたけれど、それはあんまりだと父が反対してくれ、わたしは暫く自室で幽閉同然の生活を送っていた。
朝起きて食事の支度をし掃除に洗濯、そして孤児たちに勉強を教える生活をしていたわたしは退屈でしかたのない時間となった。
そうなると考えるのはベリルとジェードの事。
ベリルは今頃何をしているだろうかと、寂しがってはいないだろうかと、考えれば考えるほど孤独感に苛まれる。
時間が出来てしまったせいで心に開いた穴がどんどん大きくなり、冷たい風が吹き抜ける感覚に苛まれ、食事も喉を通らず、ついには起き上がるのさえ億劫になってしまい横になって一日を終える日々が続いた。
暗くなっても眠れず、窓から外を覗いてはベリルのいる方角を、ただじっと見つめるだけの日々が永遠に続くのだと感じていたある日。
コール伯爵よりわたしを側妃として城に上げたいとの誘いが齎された。
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わたしを王の側妃に望んだのはマリアベル様ご自身らしい。
毒を盛られた後遺症で王に仕える事も出来ず、やっと再会できた我が子と親身になって接する時間もままならない毎日に苦悶しているそうだ。
どうやらベリルは城で上手くやっていけてはいるようだが、子供らしさがまるでなく、周囲に気を遣い、常に優等生であろうとしているらしい。
何れ王となるなら自分を殺す事も学ばなければならないが、教育係らの示す方角に己の意志も見せずに黙って従う人形のようだと。
そんな無表情の中にも時折滲む寂しそうで不安げな様子に、マリアベル様は心を痛められてるそうだ。
本来なら側でベリルを守ってやりたいが体が言う事を聞いてくれない。
わたしのジェードに対する思いは知っているが、ベリルの為に側妃として城に上がり、母親代わりを務めて欲しいというのがマリアベル様とコール伯爵の意見だった。
王子の教育係としての任には身分が足りないため、側妃という立場を示されたのだ。
望んでも手に出来ない場所が得られる、けれど全てではない。
身分的に心許無いわたしはコール伯爵家の養女として城に上がり王の側妃となるのだ。そうなってしまうとジェードとの未来は閉ざされる。
恐れ多いけれど望まぬ相手に添う結果はエヴァル伯爵との縁談と少しも変わらない。けれどベリルの側にいてあの子の為に人生を尽くす事は叶う。
わたしは今後の身の振り方に真剣に挑まなければならなくなった。二者を得ようと考えを巡らせるのは狡猾だろうか?
両親の心中ではコール伯爵の意を受け入れる事が決定していたが、わたしは部屋に篭って考えあぐねる日々が続いた。
このままジェードへの想いを捨て去ってしまえるのか。ベリルの側にいたいのはもちろんだが、王の側妃という状態で再会するわたしをベリルは許してくれるのか。ベリルの事だから仕方がないと無理矢理納得してしまう可能性の方が大きい。ベリルの心を傷つけてしまう恐れが心を迷わせた。
コール伯爵の訪問後間もなく、またもやわたしに来客が告げられる。既にわたしを王の側妃として城に上げると決めている母は、突然現れた男性とわたしを会わせたくなどない様子が見え見えだったが、相手がセザール侯爵家の三男だと知って追い返せず面会を許した。
身分制度には嫌気がさしていたが、今回ばかりはネイトさんが侯爵家の出身で良かったと思った瞬間でもあった。