花嫁の大息
時は西暦1532年。ある街にひとりの女性がいた。名はネーサといった。この話はその女性の物語である。
今宵空に浮かぶのは、消えるように細い三日月。眺めながら私はため息をつく。母には幸せが逃げるからため息なんて止めなさいと何度も言われるけれど、私からすれば、出てくるものを溜めておく方がどうかしている。そうは言うものの、結局人前では本心は飲み込んでしまって、後に口から出てくるモノはため息だけ。は~あ。
私はあの月が満月になる頃、結婚することになっている。相手はこの街で有名なハリス家の次男、イレガノさん。一人娘に幸せになってもらいたいのも分かるわ。けれども親が決めてくれた相手と、言われるがままに結婚するのは気が進まない。
イレガノさんの事は愛している。確かに、自然と感じてしまう良い家の育ちというところは苦手だ。でも、それを必死に隠そうとしている事や私のことを一番に考えてくれる優しさは大好きだ。要するに、いい人ではあるの。ただ、強く惹かれる何かがある訳じゃないのがどうもね。
今更ぼやいても、もう遅い。こんな家柄の人と結婚できるなんてそうそう無いんだし、私は一生イレガノさんに付き添う覚悟はしたはず。
はぁ。明日は母に買い物を頼まれてたし、そろそろ眠りましょうかね。この部屋で寝られるのもあと両手とちょっとの間だけ。せっかくなら気持ち良く過ごしたいじゃない。
そうして、ネーサは眠りにつくのだった。
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次の日、自分の心のように微妙に晴れない空の下、市場に出かけた。イレガノさんが似合うと言ってくれたので、高めのヒールを履いてみた。石畳の道に、聞き慣れないカツカツという音が響く。
「ねえちゃん、野菜安いよ、買ってかない?」
なんて売り子が呼び込むが、いつも買う店は決まっている。愛想笑いでかわして通りをはずれ、路地を歩く。この道から行った方が近いのだ。
その時、バランスをくずしてしまいつんのめってしまった。倒れそうになり慌てて手をつこうとすると、どこからか手が伸びてきて、私を支えてくれた。
「お嬢さん、大丈夫かね?足下には気をつけるべきだ」
顔をあげると、マントを着て帽子を目元まで被った、黒ずくめの男がいた。顔はよく見えない。
「あの、ありがとうございます」
そう言うと、男は歯を見せて笑った。素敵な笑顔だったが、犬歯がやけに長いのが気になった。
「礼には及ばん。無事なら良かった。では、我輩は行かねばならぬので」
マントを翻すと、男は何処かへ立ち去ってしまった。恥ずかしさゆえか、少し顔が熱くなっていた。
路地を抜けるとまた人通りが多くなる。行きつけの店で野菜と薬を買って真っ直ぐ帰る。
「ただいま」
「おかえり、ネーサ。ありがとね、いつも」
母だ。最近風邪をひいていて、顔色が良くない。
「いいの。何かあったら言ってね」
「こんな優しい子に育ってくれて母さん嬉しいわ」
「そんなこと言わないでよ。ハリス家に行っても会えなくなる訳じゃ無いし。野菜しまっとくね」
「コホン、お願い」
この家を出るまでに、母には病気を治してもらわないと。心配でしょうがない。ここのところずっと咳がでている。父は単身で国のはずれの街に勤務していてこの家にはいない。
買ってきたものを片付け、部屋の荷物を整理する。着れなくなった服。というかこれは子供の時に着ていたものじゃない!懐かしい。私こんなものまで取ってたんだ。やっぱり捨てるの勿体無い。…私こういう貧乏性がいけないのよね。ハリス家に行く前に直さなきゃ。みっともない。
日が沈む頃には、部屋はすっかり片付いていてネーサはいくらか物足りなさを感じていた。自分の部屋でないようにすら思えた。
三日後にはハリス家の夕食に誘われている。ハリス家で私は居場所を見つけることができると良いけれど。
今日の夕食はシチューにしようかな。料理も上手くなきゃ、お義母様になんと思われてしまうか。それとも、今更花嫁修行なんてやっても間に合わないかしら。はぁ~。
実は、心のどこかではどうしても、非日常的なあの男のことが気になっていた。
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三日後の夕方
この日のために買ったワンピースとエプロン、イレガノさんに貰った頭巾を被り、約束の広場まで行く。本当は家まで迎えに行くと言っていたのだが、母の体調がまだ優れないので断った。食事自体を断ることも考えたのだけれど、母は「私は大丈夫だから行きなさい」と強く言った。
夕暮れ時の少し前に広場まで着くと、馬車の前で待つイレガノさんの姿が見えた。ふと、群衆のなかに気になる人影を見つけた。先日の黒ずくめの男だ。イレガノさんはまだこちらに気づいていない。改めてお礼をしてもいいだろうと、ネーサはその男の方へ行く。
「おや、先日のお嬢さんではないか。我輩になにか用かね?」
「あの時はありがとうございました。お見かけしたので、もう一度お礼だけしたくて」
「要らぬと言ったはずだ、お嬢さん。……うん?どうしたのかね、顔が赤いですぞ。熱でもあるのでは?」
男がそう言うと、いつの間にか私の額に手が置かれていた。とても冷たく、無機質で、それでいて大きな手だ。触れられるとは思ってもなく、とたんに怖くなって震えながら後退りする。
「熱では無いな」
手を額から離し、不意ににやりと笑うと、その場を去ろうとする私の右腕をつかんで男は続けた。
「……気が変わった。ちょっと我輩についてきてくれぬか?なに、すぐ終わる」
私は得体の知れない恐怖で声が出ず、気づいたら引かれる方へ歩いていた。もしかしたら、恐怖よりも、興味の方が勝っていたのかもしれなかった。
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イレガノはネーサをただ待っていた。あれほど美しい女性と結婚できるなんて私は幸せだ。整った顔立ち、風になびくブラウンの髪、丁寧な話し方、時折見せる物憂げな表情、溢れ出す優しさ。もう私だけのモノだ。
「今何時でしょうか?」
御者に尋ねる。ずっとこの家の送迎を任せていて、私もたいそう信頼をおいている。
「あと馬車で広場を数周するほどで、ネーサ様との約束の夕暮れ時になる頃でございます」
「そうですか、ありがとう」
ネーサは家の場所を教えてくれなかったので、どの方向から来るのか分からない。そろそろ来ていてもいい頃ではと辺りを一周見回してみると、あの愛おしいブラウンの髪が見えた。ところが、私の知らない全身黒い男と話している。
「迎えに行かなければ」
そこまで人で溢れているわけではないし、私に気づかなかったわけでは無いだろう。友人なのかな?だがその時、ネーサの背中が震えだした。そして、黒い男に腕を引かれ、何処かへと連れ去られそうになっていた。慌てて駆け寄る。
「待ちなさい、私の花嫁に何をする気だ」
相手はネーサの腕を掴んだまま歩調を早めて歩きだし、路地に入ったところで足を止めた。
「お嬢さんは"自分の意思"で我輩の方に来たようだが?」
「な、何を言っている?!そもそもネーサとどういう関係なんだ?」
「昨日偶然お会いしただけだ。勘違いしないでくれたまえ。我輩は嘘はつかぬ。まあ、少しばかりお嬢さんの気持ちに手助けしてやったのは認めるが」
「私のネーサに何をしたんだ?」
怒りで言葉に熱がこもってしまう。
「ほう、お嬢さんの名はネーサと言うのか。今はほとんど何もしてはない」
「今は、ということは今後何かする気なのでしょう?そうはさせない」
ネーサはこの男に騙されてしまったのだ。こんな男信用ならない。誠実なネーサに限って、私との約束をふいにする筈が無い。ならば私がネーサを護らねば。
飾りとして持ってきたレイピアを構える。鑑賞用だが本物の剣を使っていて、軽い護身用としてでも十分使える物だ。
「我輩と決闘しようというわけか。この状態ではお嬢さんが傷付くかもしれんのに」
そう言うと、男はネーサを路地のわきに座らせ、帽子を被り直してからマントの中からレイピアを取り出した。向こうのレイピアも細部の装飾が凝っている。戦闘用では無いのかもしれない。
「お嬢さんにもしもの事があったら互いによくない」
「お前には関係ないだろう」
「…まあ置いておこう。ともかく、我輩と決闘しようとしたその男らしさは認めるが、軽率であったと自覚すべきだな」
言い終わるや否や、私の服すれすれに、突きが放たれた。すかさず応戦する。剣術には多少自信があったのだが、男の剣はこれまで見たこともないほどの速さで動いている。
隙が無い。いや、避けつつ剣先を観察していると、星を描くように動いているのが分かった。どうにか真ん中を突ければいいのだが。
「怖じ気づいたか?防戦一方ではないか」
一向にスピードを落とさず攻めてくる。このままでは、私の体力が持たない。やるなら今の内だ。神経を研ぎ澄ませて次の一撃に全力をかける。
「えぃ!」
金属がぶつかり合うカキンという音が鳴り響くが、しかし私の一撃は寸でのところで止められ、脇を掠めただけだった。
「我輩としたことが、傷をつけられるとは」
互いに剣を構え直し、間合いをとる。
「護るべき人がいればどんなヤツにだって私は勝つ」
牽制の為、剣を空振る。広場の賑やかな音が聞こえてくるなか、鈍いヒュッという音が空を切る。
「ふん、いつまでそんなことを言ってられるかな」
突如耳元で風切り音が鳴り、次の瞬間私の首には剣が突き付けられていた。
「所詮愛の力とやらもその程度の物なのか」
そして私は深い闇へと落ちていった。
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目が覚めると私は路地に座っていた。あれ?なんでこんなところに。イレガノさんが待っているはず。もう辺りは暗さを増し、約束の夕暮れ時も終わりに近づいていた。
「思い出したかね?ネーサ殿」
上から声が降ってきた。どこかで聞いたことある気がする。顔をあげると、いつかの黒ずくめの男がニッコリと笑っていた。やはり鋭く尖った犬歯が目につく。その位置に居られると私が立ち上がれない。
「また助けてくださったのですか?すみせん、記憶が無くて」
「どちらかというと助けたわけではないが」
「そうなんですか?あの、私待たせている人がいるので行きますね」
言ったものの、男は私の前から退きそうにない。そういえば、この男に私の名前言ったっけ?
「男との約束の事なら心配はいらん。そして時間はたっぷりある。もし今すぐにでもというなら、我輩も準備はできているが」
「何の事だか分かりませんが、私は急いでいるんです。すみません」
埒が明かないので無理にでも立ち上がろうとした。けれども、足に力が入らなく、背筋がのびただけだった。私どうなってるの?
「焦らなくて構わんのに。そんなに待てないのなら我輩がいますぐ楽にしてあげよう」
「待ってください。人違いではありませんか?私には何の事だかさっぱり……」
「ネーサ殿、我輩は貴方を選んだのだ。そして貴方も我輩に心のどこかで何か起きないかと期待していた。違うかね?」
そうか、あの時私は怖いながらもこの得体の知れない男についていこうとしたんだ。本当は真っ先にイレガノさんに会わなければならなったのに。結婚までに誰かに拐われてしまいたいと思ったことも、無いと言ったら嘘になる。
男は私と同じ高さまで腰をおとすと、帽子を取り私の目を見た。男は青白い顔をしており、充血した目が不気味に強調されていた。それでもオールバックの金髪がよく似合う端正な顔立ちだった。
「少し痛いかもしれんが、我慢していなさい。大声を出されると困る。じき痛みも消えよう」
男の息がだんだんと近づいてくるのが分かる。そして、私の首筋に固く尖ったものが当たる。一瞬の事だったのかもしれないけれど、何故か頭の中はこれまでの人生がスローモーションのように流れていた。
母、こんな形で少し早めに一人にさせてしまい、すみません。今まで私を育ててくれてありがとう。
イレガノさん。私はあなたのことを愛していました。今となっては嘘に聞こえるかもしれません。色々思うことはありましたが、それでも愛していました。いや、今でも愛しています。あなたを悲しませることになってしまって、どれほど謝ればよいか分かりません。
いつの間にか頬を熱いものが伝っていた。そして、ついに歯が突き立てられた。
「あああああぁぁぁぁ…」
そう叫び、全てを吸い尽くすようなおぞましい音が消える頃、ネーサは冷たくなっていて、心に溜まった言葉の数々は、二度とその口から発せられることは無くなった。
人通りの少ない路地に残ったものは、最愛の人との全ての記憶を失った男が倒れているのみであった。
この小説のイメージの曲をオルゴール音にしてみました。よければBGMとして聴きながら読んでみてください。