プロローグ
多くの人間は他人が自分と同じものを見ていると思っている。
傍観者と魔女
人間は価値を決めるとき、どのようにして秤を決めるのだろうか。
例えば殺人事件で、それをマイナスに見るのかプラスに見るのかすらも己のフィルターを通してみると大きく変わってくる。
身内ならば多くの場合、大いなる悲劇でありマイナスだ。
しかし近所の主婦になると、むしろ井田端会議に花が咲くプラス要因かもしれない。
そうでなくてもたまたま通りかかった通行人、被害者家族の職場仲間からクラスメイトまでどこを見渡してみても悲劇にはならないだろう。
三日もたてば過去に変わるその程度のことを悲劇とは言わないからだ。
むしろ殺人に慣れている警察官、救急隊員、の方がよっぽど悲劇的だ。
理由は簡単で、仕事が増えるからだ。
せっかくの休みを、潰されるのは存外尾を引く。
僕がそんな目にあったのなら最低一ヶ月は覚えている自身がある。
このように、あらゆる視点によってその秤は大きく変わる。
殺人事件よりも友達と仲たがいをした方重要度が高いように。
……もしも、他人の死も、身内の死も、己の死さえも同じ価値観で見ることができるとするならば。
それは、社会的常識も自分の常識も他人の視線も自分の視点すらも俯瞰的に見つめる存在。
生きているのに周りから影響を受けない『傍観者』だろう。
同じ視点を持つ人間は一人もいない。
それは自分を持っているからだ。
同じ視点を持つ人間は一人もいない。
それは自分を持っていない人間すらも例外ではない。