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遊々楼閣  作者: 虹雪
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後編

 一面白い壁に見覚えのあるカウンターと、見覚えのある面子が呉を出迎えた。


「ようこそ。遊々楼閣へ……っ呉様?」


 出迎えた美音はあきらかに驚愕した。呉とまた会うと思っていなかったという表情に呉は、血管が一本、輪ゴムが伸び切れた時みたいな音をたてた。


「入っていいですか」


「えっと……」


 苦い顔をし、眉間にシワを寄せた美音。あきらかに何かを隠しているのだと思った呉は、問いつめるように中に入る。


「呉様、いけません。もう来てはいけません」


「何でですか」


「……一度出てしまったからです」


 理解に苦しむ一言に呉はすたすたと歩いて行く。


「駄目です。呉様。今入ってしまうとご家族には二度と会えません」


「えっ」


 歩みを止めた呉の腕を引っ張り出て、トイレの扉を閉めた。


「呉様、良くお聞き下さい。この楼閣は人々の夢を糧に運営される処なのです。夢は人に売れるのです。良い夢や悪い夢を見る人がいなければここは成り立たないのです。ここを一度出て行ってしまったものは必ずここに帰って来るか、ここのことを喋って……」


 美音はそこまで言うと口を片手で押さえて下を向く。静寂が辺りを包む。

 それを破ったのはトイレに入って来た中年の男性だった。男性は二人を見るとバツが悪そうにそそくさと出て行った。


「……どうなるんですか」


「それは……楼閣の中で一生カプセルの中に入れられて、悪夢を見させられる実験台になります」


「実験台?悪夢を見ることが」


「えぇ。それによって人間にどのような作用を働かすものかの実験です。やりようによれば夢は必要としている機関に売ることが出来ますから」


 美音が口にしたそれは、表だってはあかされないことだった。良き夢は情緒不安定な人に薬として渡され、悪夢は罪を犯した人に渡される。

 使い方は様々あり、用途によって異なる。それゆえに実験台になる人間と夢を見る人間が必要だと美音は語る。

 一度外に出たいと言った人にはあらかじめ仕込んだ薬が働く。これは夢を見て一時は夢の作用があるが、それが切れると同時に強い反発心が生まれ、言ってはいけないと言われたことを言いたくなってしまったり、してはいけないと言われたことをしてしまう。

 そんな強い作用が薬の中に入っている。

 

「どうしたらいいんですか、こんなんじゃまともな生活なんて送れないじゃないですか」


「……薬が、あるんです。それは先ほど言ったものを抑える薬です。でも、それは……」


「何なんです、教えてください」


「支配室の部屋にあるのですが、その部屋に入れるものは支配人と番台だけです。専用の鍵を持っていますの。それにセキュリティも万全ですし」


「何とかならないんですか、あの番台さんに言ってみるとか」


「……とても規則に厳しい方ですから無理かもしれませんが。休憩時間なら鍵を金庫室に置いていくんですけれどもそこなら何とかなるかもしれませんわ」


「本当ですか。ありがとうございます」


 呉のさっきまで鬱積していた気持ちが少し晴れる。美音は苦い顔をしたものの、最後には決心を固めたようで、トイレの戸を開けて美音は呉の腕をひっぱり入っていった。

 中には、前にもまして高級そうな骨董品や、初めて見た金箔をあしらった料理などが運ばれていく。


「なんか凄いですね」


「えぇ、最近支配人が変わりまして勧誘も大規模なものになってきたんです。ここを大きくして自分だけが欲をかきたいのです。私はそんなことをするものは大嫌いなのです。だからとゆうのもありますし、懺悔の気持ちもあって呉様をお救いしたいと思っています。初代の支配人は違いました。夢の中に閉じ込めておくなんてことはしませんでしたわ」


 人の出入りの少ない廊下を選び、なるべく音を立てずに早足で行く。

 途中、美音を呼ぶ声がし、呉はここに隠れるように言われ、その場所に身を潜める。

 入った部屋は暗く、目がなれるのに時間がかかる。しばらくしても美音は帰っては来なかったため、呉は辺りを見渡し、なれてきた目を凝らして周りを見渡す。

 暗がりに寝台らしきものが一台ある。人が寝るのにはぴったりの大きさで、近くに行くと人らしき物体があることに呉は気付く。

 それほど目の悪くない呉だが、人には見えない異様な感覚と人であって欲しいと思う願望が心の中を混ぜていた。

 足を一歩踏み出すたびに近くなるそれは、次第に色が人の皮膚の色ではなく、深くて暗いコケがはった水海の奥底の色のような、とてもグロテスクな色をしている。


「うわっ……」


 鼻をつく異臭と皮膚がぶくぶくと心音にあわせて中で空気を入れたり出したりしているようだった。吐き気をもよおした呉はしゃがみ込んだ。

 するといきなり明るくなる室内、とっさに呉は寝台の下に隠れる。光に満ちた室内は、真っ白になる。呉は眩しさに目を閉じた。

 そして呉の耳に聞こえた声――。


「確かにここか?」


「えぇ。私は確かにこの部屋に入るように促しましたし、入るのも見かけましたわ」


「居なければ意味がない。探し出せ」


 そんな声が部屋中から響く、少し声が割れていて、どこからか通して聞こえているみたいだと思った呉は薄めを開く。

 声の主は上からだった。天井はガラス張りで、二人の男女が下を眺めている。一方は白髭を顎から鎖骨の辺りまでたらし、上唇の上には八の字に髭が伸び、先端はくるりと丸くなっている。そしていかにも強欲な目つきをしている男。もう一方は、呉自身もよく知っている人物、美音だった。

 先ほどまで呉と一緒にいた。案内して、助けてくれると言った美音は、白髭の男と今、呉を探している。

 舌を唇に這わせ、下唇をかみ締める。助けてくれると信じていた人物に裏切られ、悔しくて怒りが喉の奥から込み上げてくる。

 しばらくして、二人は奥に引っ込んで行った。

 呉は、四つんばいになり這いながら出口を探す。すると小さなボタンを見つける。それを軽く押して見ると機械的な音が、小鳥がなく程度の小さな音で開く。人、一人が四つんばいの状態で通れそうな四角い通路みたいだった。

 そこを通り、進んでいく。途中、先ほどの寝台に寝かされていた人の形をしたものを見ると、肩と思われるところから糸とざくっと何かが切り落とされたような音がしたと思えば、そこから下が床に転げ落ちていた。

 呉は息を呑み、手に汗がじんわりとにじんだ、だが止まったままでいると追いつかれて食われそうな気がした。

 早く、早く。そう思いながら呉はどこに行くかもわからず前進し続けた。

 音も人の気配もしなくなってから、ずいぶんたち、やっと出口が見つかった。

 格子を外すと、シックな深い赤と黒で統一された部屋に行き当たった。


「どこだ」


 シンプルに配置された家具は無駄がなく、生活感もない。

 机や椅子、机の後ろに置かれた戸棚に書棚は横に長くて縦は天井と同じ高さだった。そしてダブルベッド大きさの白くシンプルなベッド。そして、ここでは初めて目にする窓。

 呉はここが支配人室かもしれない、そう思い机や戸棚を調べる。だが、全てを見ても薬の影ひとつなかった。

 もう探すところが無くなった呉はベッドを探し出す。

 何もないかと諦めかけたときに枕の下にあるものを発見する。

 それは、透明のカプセルに入っている錠剤だった。

 これが例の美音の言っていたものなのか、分からなかった。美音は裏切りもので、所詮は歯止めになるような薬なんてないのかもしれないのだと呉は思ったが、ここに来て何も持ち帰らないのも癪にさわり、それをポケットに入れる。

 すると、よく聞きなれた金属が重なり回す音が聞こえ、呉は反射的にベッドの下へ潜り込んだ。

 

「君はよくやってくれているが、一度ここに入ってきたものは二度と外には出してはいけないだろう。わたしが開発した薬をカプセルに混入させておいて正解だったな。まだ試作品の段階だが、効き目はある。そう分かったからな、お前のお陰でな」


 白髭の男、支配人は椅子に乱暴に腰掛け、満足げに葉巻を口にくわえて煙を吐いた。


「すみません。なんとか止めようとしたのですけれども……。でも流石支配人ですわ。そんな薬を混入させておくなんて」


「だろう、ちゃんとそれを止める薬も作ってある。ここを出たいと思った人間には、別の人間を提供してもらわねばならないからな」


 そう言って支配人はベッドに行き、枕の下に手を入れる。最小限に息をしながら身を潜めていた。


「ない。ここに置いてあった薬がない。先ほどの侵入者の仕業か、まだ捕まえていなかったのか美音」


「はい。すみません。ですが、ここに入るのには鍵がいります。でもそれは支配人と番台がちゃんと持っているではありませんか。どうやってここへ来ると言うのです」


「どうせ、お前が手引きしたのだろう」


 怒りを込めて、美音のところに歩いてきた支配人は、右手を天に上げ、そのまま美音のほほに振り下ろした。

 部屋中に、張り詰めた音が響き、美音は床に倒れこむ。


「役立たずで、裏切りものが。わたしの実験の邪魔をするなぁ」


 そう言うと今度は、足を上げ、振り落とそうとしていた。

 呉は見かねて、ベッドの下からはい出て、支配人の脇に突っ込んだ。体制を崩した支配人は尻餅をついた。


「き、お前……、侵入者だな。やはり美音がやったのだな」


「呉様、何故出てこられたのです」


 美音は片眉をつり上げ、呉を見上げた。呉の顔には光が乏しく無表情で、口を真一文字に引き締め、強張っているようにも見えた。


「お前だろう、薬を盗んだのは」


「えぇ、そうですよ。わざと楼閣のことを喋らせて金儲けや、実験台に出来る人を探していたなんて思ってもみなかった。あなた達は人間をどうしたいのですか」


「どうしたい?そんなの決まっておるだろうが、人間の夢でこの城が動くこと、それだけでは飽たのだよ。もっと有効に合理的にもの事は運んでいける。わたしの学者としての研究の成功に金、それを手に入れようとしているだけだ」


 たっぷりとした自信満々な態度。悪びれることはない。

 呉は薬をポケットから取り出した。


「あなた、もしかしてご自分でも試されたのではないですか、薬の入ったカプセルで夢を」


「五月蝿い、薬を返せ」


「取り引きしませんか」


 薬を持った手が熱を奪われ、全身が糸で引っ張られているみたいに、自分の意志とは別の行動をとりたがる。


「震えながら偉そうな事を言うな。早く返した方が利口だぞ」


「嫌です。条件を飲んでいただけないならこの薬は俺がいただきます」


「馬鹿を言うな、その薬はこの世にはまだ三粒しかないんだぞ。たった一回分しかないのに何故お前に渡さなければいけない、ふざけるな」


「だったら条件を飲んでいただけますね」


 支配人は白髭を摘むようにさすりながら、渋った顔付きをしたが承諾した。


「俺と美音の二人をここから出してくれ、そして二度と関わらないでくれ。俺の家族にもだ」


「いいだろう。承諾した」


 支配人は青白くなっていく顔をひきつらせ、机の引き出しを開けた。そこから白いリモコンのような物を取り出し、並べられた数字を両方の親指で押すと、敷き詰められた本棚が開く。

 暗い通路は三秒ほど経つと一斉に白光した明かりがつき、通路の中を照らす。天井や壁、床は白いタイルで出来ており、触ると無機質でひんやりとしたタイルの冷たさが呉の指から伝わる。


「ここを真っ直ぐに行き、突き当りを左に行け、そうすると右手に一枚の扉に突き当たる。その扉を開ければもといた場所に戻れる。さあーー、薬を寄こせ」


 美音を側に着かせ、支配人の手のひらに持った薬を渡そうとして開いたと同時に、美音は薬を奪い取り、支配人を押し倒し、再び呉の手に握らせた。

 困惑する両者をよそにリモコンを奪い取り、閉と印字されている文字を押す。


「何をしているんですか、早くーーっ」


 呉が言いかけたと同時に、部屋に響くけたたましい音と共に美音は閉まりかけた扉に手をつき、呉に微笑む。


「早く行って下さい。私はここの住人です。ここ以外では暮らせません。分かって下さいまし。薬は必ずここを出たら飲んで下さいね」


 無情にも扉は閉まった。呉は扉に手をつき、膝から崩れ落ちるように座り込む。

 腹部に痛みを感じた。手で腹部を押さえると、硬い無機質の物体の感触がした。


「っつ、血?」


 腹部にのめり込むように、弾丸がはまってあり、そこからじんわりと赤く水彩で描いた花のように外へと広がる。

 美音は銃で撃たれ、そのまま貫通して呉の腹部に当たったのだった。

 呉は腹部からかすかに出ている弾を取り出す。呉の手にはきのこのように変形した弾がある。それを軽く握りしめた。


「美音を助けなきゃ」


 扉の向こう側にいる美音。もう生き絶えているかもしれない。だが諦めきれなかった。

 呉は手に力を入れ、扉を開けようとするが開くことはない。ただの壁のようにも思えはじめた。

 がむしゃらに何度も何度も試みたものの、ただ手のつま先が赤く腫れただけだった。


「クソっ。開けろよ」


 今までの呉らしくない下品な言葉遣いで。

 すると、今まで明るかった通路は耳に聞こえた小さな音とともに一瞬で暗くなった。


「何だ……」


 暗闇に慣れていない目のせいで何も見えずにいた。すると、縦に一筋の光が見え、それはだんだんと長方形へと扉がゆっくりと開いたのだった。

 強い光に目がくらむ呉。鼻をつく異臭。鉄が錆びて朽ちかけた時のようなそんな匂い。

 視界がクリアになると、そこに立っていたのは顔から足先までを血に染めた美音の姿だった。

 赤い血が水溜りのように広がっており、その上に転がる物体。体が銃で撃ち抜かれただけと言うようなものではなく、体の表面があの寝台で横たわっていた深いコケの色と似ていた。

 流れ出すのは同じ赤い血。匂いも部屋中に籠もって濃厚だが鉄臭いのに、皮膚だけが人とは別の生き物のように思えた。


「何故、まだここに居るのですか。呉様」


 眉一つ動かさない表情のまま、美音の言葉には微かな棘と呆れが含まれていた。


「何をしたんですか。その人に……。それに美音は撃たれて」


「えぇ。撃たれましたわ」


 そう言うと服を巻くし上げ、傷口を見せた。美音の左腹部には弾が貫通した後があり、それは後ろの情景をクリアに映していた。

 美音は軽く咳をする。それは乾いた消化器官が圧迫されて、聞くだけで苦しそうだった。

 呉を見下ろしていた姿勢から、目線を同じ高さになるようにしゃがんだ。

 

「呉様にこんな姿など見せたくありませんでしたわ。こんな姿など……」


「何があったんです」


 扉をかきむしり赤く腫れた手で美音に触れようとするが、美音は首を横に振り拒否した。


「触らないで下さい。私は、私たちは人ではないのです。それにもう私も病原菌に侵されていますわ。数ヶ月前にカプセルに混入した病原菌は、人間のあなたにも移るのです。ただ触れるだけで。細胞を侵食していく。あの寝台にいた人間は支配人を巧みな話術でそそのかしたのです。旨い儲け話があると。でもそれは違った。ここに帰ってくるようにと強い作用の薬に、夢を永遠に見たいと思う副作用を。夢を見続けた者はあのようになるのです」


「寝台で寝ていた者は何故自らカプセルに入って夢を見たのですか、何故わざわざそんなことをする必要が」


「眠り薬を使ってカプセルの中に入れたのですわ。呉様、私たちもあのカプセルで眠るのです。夢は私たちにとっても栄養源なのです。それにあの者はあらかじめ薬を入れておいたのです。それが広まり、支配人は逆手にとろうとした。抵抗できる薬さえあれば、そんなものなど怖くはないのだと」


 美音は言い終わると床に崩れるように膝をついた。息が苦しさに乱れている。

 

「それで人を集めて夢を見させていたのか。夢に縛り付けにして、現実の世界に帰ってこられないものがいるけれど、その人たち、今はどこにいるんです」


 呉の言葉に美音は口を真一文字に閉じる。


「もういませんわ。感染して死んでしまったから」


 重力がいきなり傾き、呉は右手を壁についた。美音も左手を床につき踏ん張る。机や棚に置かれた本も音を立てて床に落ちて行った。

 地震のような揺れもくわわり、いっそう床の上はひどくなり、天井からぶら下がっているシャンデリアは繋いでいた鎖が引きちぎれ割れた破片が美音に降りかかる。


「美音っ」

 

 呉は美音の腕を掴み通路に引き寄せた。美音の腹部から生温かい血が溢れる。

 息を詰まらせ、呉を見上げた。鋭く、射るように。

 眼光から何を言いたいかを察した呉だが、分からないふりをした。そうして、通路を美音を抱えながら渡る。


「止めてくださいまし。薬を飲んでも私は助かりませんわ。自己満足でこんなことをするのは止めてくださいまし」


 美音が激怒することは承知でしていた。でも、呉は呉が美音に対する想いがあってそうしたのだと、気づいてほしかった。美音の唇をそっと塞ぐ。


「ちょっと黙ってて下さい。誰が駄目だなんて決めたんですか。薬なんて物は作ればいいし、美音が人じゃないってゆうんなら、それなりの医者に見せることにするよ。一人知ってるからさ」


 上下に揺れ、通路の明かりも点滅をし始めた。この建物内で崩壊が始まり、遠くでは悲鳴のような音が聞こえたが、それは美音の耳にだてけしか入らなかった。

 呉の真横の壁が、大きな傷口のように音をたてて開く。

 砕けた破片が床に散らばり足の裏を刺激する。

 五分か十分か、時間の経過があいまいな次元にいる呉の目に通路は突き当りになっているのを見て、到達するとそこを言われたとおりに左に曲がる。

 するとそこには、あるはずの扉は存在しなかった。


「どういうことだ……。扉がない」


 通路は五メートルほどしかなく、右手にあるはずの扉はただの壁で手で押しても叩いても何の変化ももたらさなかった。


「呉様降ろしてくださいまし」


 そう言い、降りた美音は壁に手を置き力いっぱい押すと、壁は向こうに手のひら分位の長さに押された。小さくカチッと乾いた音が鳴ると壁が一瞬にして扉に変わる。

 呉はその扉のノブに触れると、今曲がってきた所の壁が地響きと共に血管みたく亀裂が入る。そしてそれは扉のすぐ横にまで入っていた。

 呉はすぐ様ノブを引き開けると、そこは入ってきたときと同じトイレの中だった。外に出た呉は振り返り美音の手を掴もうとしたが、すり抜け空を切った。


「行けません。どうかお許し下さい。私は、私自身を許せません。人間を巻き込んだ罪は重いのです」


「美音……待っ」


 口を真一文字に結び、頬にひと筋の涙が流れていた。美音を見たのはその時が最後だった。扉は閉められ開ける事は出来ない。ただの、何の変哲も無い壁だったのだから。

 呉は叱咤して壁を思い切り叩いた。トイレ中に響き渡る。悔しさに扉にもたれ掛かり瞼を閉じた。


ーーあれから数ヶ月が過ぎていた。呉が戻ってきたあの日からぱたっと神隠しの事件は無くなっていたが、帰ってきたものは一人もいないと言う。

 あの出来事を言いたいという欲求も今は無く。生涯何があってもこの出来事だけは心の内に秘めておこうと呉は決めていた。どんなに弟に問いただされたとしても。

 例え現実で起こった事ではなく夢だったとしても、他の人に話してしまうと本当に淡い夢の様になってしまいそうだったからだ。

 ただ、今でも高所恐怖症は治ってはおらず、いつも家に変える時には苦労していた。


「兄ちゃんお帰り。大丈夫?」


「あぁ。大丈夫だよ」


 呉は弟の頭を軽く撫でた。にこにこと満面の笑みで部屋の中に入って行く。

 夜、床に着くと夜な夜な夢を見る。それは、叶う事の無い夢だった。


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